喜びに溢れた山の暮らし  

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山鳥がやってきて、一声歌って飛び去って行く。山猿がやってきて、飛び跳ねながらすばらしい技を見せてくれる。春や秋の花が、わたしに笑いかけ、夜明けの月や朝の風が、わたしの心を洗ってくれる。(『山中有何楽』)

 

一条真也です。
空海は、日本宗教史上最大の超天才です。
「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっています。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」の異名が示すように、空海は宗教家や能書家にとどまらず、教育・医学・薬学・鉱業・土木・建築・天文学・地質学の知識から書や詩などの文芸に至るまで、実に多才な人物でした。このことも、数多くの伝説を残した一因でしょう。

 
超訳空海の言葉

超訳空海の言葉

 

 

「一言で言いえないくらい非常に豊かな才能を持っており、才能の現れ方が非常に多面的。10人分の一生をまとめて生きた人のような天才である」
これは、ノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した湯川秀樹博士の言葉ですが、空海のマルチ人間ぶりを実に見事に表現しています。わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監訳しました。現代人の心にも響く珠玉の言葉を超訳で紹介します。

 

2020年3月24日 一条真也

『シュートマッチ』

シュートマッチ プロレス「因縁」対談 10番勝負

 

一条真也です。
22日、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて各種イベントが自粛される中、さいたまスーパーアリーナで「K-1 WORLD GP 2020」が開催されたのには驚きました。さらなる感染拡大につながらないことを祈るばかりですが、格闘技界が日本政府にシュートマッチを仕掛けましたね。
『シュートマッチ』アントニオ猪木長州力前田日明天龍源一郎ほか著(宝島社)を読みました。「プロレス『因縁』対談10番勝負」というサブタイトルがついています。伝説のレスラーや業界関係者たちが、異色の組み合わせで行った対談が収録されています。K-1創始者石井和義氏も登場しています。

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、アントニオ猪木長州力前田日明の3人の顔写真が使われ、帯には「予測不能」と大書され、以下の10組の対談リストが並んでいます。

アントニオ猪木バル石井和義
藤波辰爾×長州力
天龍源一郎×川田利明
大仁田厚×武藤敬司
安生洋二×坂田亘
谷津嘉章×越中詩郎
安田忠夫×草間政一
大谷晋二郎×橋本大地
藤原喜明×キラー・カーン
前田日明×ジョージ高野

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本書の帯の裏

 

 

カバー裏表紙には猪木の顔写真が使われ、帯の裏には猪木&石井、前田&高野のツーショット写真とともに、「業界騒然のマッチアップ」「アングルなしの『ガチ対談』」「エンディングは、神のみぞ知る!?」と書かれています。

 

「もう、さすがに昭和プロレス本を振り返る本はいいかな?」と思いましたが、宝島社から新刊が出ると条件反射でアマゾンに注文してしまう自分がいます(笑)。「嗚呼、哀しき昭和プロレスファン世代かな」といったところですが、サブタイトルに「因縁」と謳っている割には、お互いが褒め合う「和気あいあい対談」「ほのぼの対談」ばかりでした。まあ、対談というのはプロレスと一緒で息の合う者同士がスイングしたほうがいいのでしょう。ただし、番外編として最後に収められた「『週刊プロレス』取材拒否の真相」と題するターザン山本×永島勝司の対談だけはまったく馴れ合いがないというか、相手の存在を消し合う殺気に満ちたシュート対談でした(苦笑)。

 

「はじめに」で、ターザン山本は、「プロレスファンはもともと『いざこざ』『揉め事』『犬猿の仲』というのが好きだ。好奇心をそそられる。根が野次馬根性なので仕方がない。対談をセッティングする編集者の立場からすると冷や冷やものだ。腫れ物に触る思い。誰と誰の企画がボツになったのか。無理だったのか。それを想像してみるのも楽しい。『あれとあれ?』。そのクイズに正答できる人はファンとして相当なマニアだ。『遺恨』『憎しみ』『怒り』で今も妥協しないレスラーは誰なの? そんなこんながあってここに登場した20人のメンバー」と書いています。
その20人に番外編の2人を加えたメンバーをシャッフルして組み合わせ直すことができるなら、わたしは、長州力×キラー・カーン前田日明×安生洋二天龍源一郎×ターザン山本の対談を読みたかったです。もちろん無理とは承知していますが、ターザン風に言えば、それでこそガチの「因縁」対談ですよぉぉぉぉぉぉぉ!!



アントニオ猪木×石井和義の対談では、2002年8月28日に国立競技場で開催された伝説の格闘技イベント「Dynamite!」の思い出話がなつかしかったです。人気絶頂のK-1とPRIDEが合体したもので、入場者数9万1107人という超スケールの大会でした。わたしも行きましたが、ものすごい熱気に圧倒されました。このとき、猪木は3000メートル上空からパラシュートで国立競技場に舞い降りるという前代未聞のパフォーマンスを見せました。まさに、00年代格闘技ブームを象徴する超弩級の名シーン!



この「Dynamite!」を振り返って、2人は以下のような会話を交わします。

猪木 あれだけの仕事ができたんだけど、残念ながらお互いの参謀がその先のことが考えられない。あの国立競技場以上の何をやればいいの? となったら、藤さんから下りるしかないんだけど(笑)。あの時がピークでしょ。
石井 ピークがひとつ来ましたよね。だからあそこまでいっちゃったら、その次は何をやるかというと、競技化。僕らが目指すものは世界中にアマチュアの組織をつくって、その上にプロがあって、サッカーのワールドカップみたいなものに向かって行かなくちゃいけないのに、そのあともみんなやっぱりイベント、イベントと、これまでと同じようなものの作り方。でも、「Dynamite!」を観ちゃったら、あとはもうないじゃないですか。 
猪木 テレビの視聴率も獲れたことで、欲がでてきちゃったのかな。結局なんだかわからないうちにみんな分かれてしまってね。



前田日明×ジョージ高野新日本プロレス元エース候補同士の対談は、お互いをリスペクトし合っているのがよく伝わってきました。ジョージのほうが入門は1年先輩でしたが、2人は同期ようにともに切磋琢磨する関係でした。のちに前田は「新日本プロレス史上、最も素材がよく、最も素質があったのは間違いなくジョージ高野」と語っていますが、ジョージのほうも前田の強さに憧れていたそうで、以下のように語っています。「UWFに誘われてたら行ってたと思う。だって新日本のエリート集団だから。前田日明、髙田(延彦)ってね。UWFっていうのはマーシャルアーツができる唯一の集団でしょ。新日本の隠し玉。彼らがいなくなって他に誰がマーシャルアーツをするんですか? 武藤(敬司)とかしてないじゃないですか。そんな人間が天才ですか? 前田氏と武藤どっちが天才ですか?って」



また、最近の猪木が「俺の後継者は前田だと思っていた」と言っていることについて、前田は「『嘘つけ!』みたいなさ(笑)。そんなの全然思ってなかったのにさ、あと出しジャンケンで言われたところで全然うれしくないよって」と毒づくのですが、ジョージは「前田日明しかいないんですよ。長州さん、藤波さんっていうのはまた違う形なんですよね。選手にメシを食わせるために先輩として頑張ってるんであって、でも伝承者っていうのは、時代を知ってて魂を注入できる人じゃなきゃダメで、今の誰でもできるプロレスを破壊しなきゃいかん。もう一度バック・トゥ・ザ・ベーシックで、プロレスを本当のプロスポーツにしないと。それには前田氏しかもういないと思うんだよ」と語るのでした。

 

藤原喜明×キラー・カーン対談もなかなか面白く、執拗に坂口征二木村健吾の悪口を繰り返すカーンに対して、「人の悪口はやめなさい」と諫める藤原のやりとりが最高でした(笑)。でも、本書で一番面白かった対談は、安生洋二×坂田亘でした。前田日明高田延彦が今のような犬猿の仲になった経緯が詳しく語られていて、貴重な情報に溢れています。前田は、PRIDE-1の髙田vsヒクソン戦の前、髙田に連絡してリングスの道場で極秘に指導を行っていた話など初めて知りましたし、安生による前田殴打事件の真相なども興味深く読みました。反対に、一番ショッパかった対談は、安田忠夫×草間政一。選手と社長の立場こそ違えど、ともに新日本プロレスから追われた2人ですが、とにかくカネにまつわる恨み言、愚痴ばかりで、読んでいて虚しくなりました。

 

ただ、猪木の金銭感覚についてのエピソードは面白かったです。猪木が側近の人々にポンと30万円ぐらいのお金を渡していたという話に続いて、以下の会話が交わされます。

安田 猪木さんは人は悪くないですよね。俺も世話になりました。だって空港に迎えに行くたびに小遣いをもらってましたよ。最初5万円とかだったのが、最終的には10万円とかになって。俺がタダで迎えに行くわけねぇじゃん(笑)。
草間 猪木さんって昔からお金には無頓着なところがある。ホテルに一緒にいる時、『草間さん、悪いけどちょっとタバコを買ってきて』って1万円札を渡されて。買ってきてお釣りを渡したらさ、『俺、小銭はいらねえんだよ』って全部くれるんだよ(笑)。だからどこへ行っても人が寄ってくる。一度、昼メシを食いに行って『いくら払ったんですか?』って聞いたら、540万円。
安田 すごいな(笑)。
草間 高いワインとか飲んでたけどね。あの人はカネがないって言ってたけど、毎日六本木とかで食べたり飲んだりしてたでしょ。日本にいるときはオークラに毎日泊まっていたし、ニューヨークと日本の往復でもファーストクラスだからさ。片道100万円だよ。そんなんだから『無駄なお金を使うな』ってことで前の奥さんにハサミでカードを全部切られちゃったんだよ。『新しくカードを作らなきゃいけない』って焦ってた(笑)。



どうしようもなく救いのない安田×草間対談でしたが、最後に猪木の金銭エピソードが出て、なんだか救われたような気分になりました。猪木といえば、最近、喜寿を迎えました。77歳の誕生日となる2月20日、「アントニオ猪木喜寿を祝う会」が都内のホテルで行われました。プロレス関係者や芸能人をはじめ、約300人が集まったそうですが、テレビ朝日ワールドプロレスリング」の中継で名をはせた古舘伊知郎さんのアナウンス、テーマ曲「炎のファイター」が響く中、猪木が登場したそうです。猪木は、おなじみの「元気ですか!」のあいさつからスタート。



紫色の蝶タイとマフラーを身につけた猪木は「77歳と紹介されましたが、そんなになっていたかな。きょうからまた新しいスタート」と健在ぶりを示しました。祝福に訪れたプロレス界の後輩、藤波辰爾長州力天龍源一郎と壇上に上がった猪木は4人で「1、2、3、ダー!」を披露。最後は長州に「闘魂ビンタ」をくらわし、会場を大いに沸かせました。それにしても、猪木の前ではしゃぐ長州を誰か想像したでしょうか。みんなトシを取りましたが、こんな姿を見たら昔の「因縁」など忘れてしまいます。前田や髙田も、いつの日か笑い合えたらいいですね。



2月28日には、武藤敬司が主催する「プロレスリング・マスターズ」後楽園大会が、猪木のデビュー60周年記念大会として開催されました。試合後に猪木がリングに上がり、さらに武藤、蝶野正洋越中詩郎藤原喜明藤波辰爾木村健悟前田日明木戸修長州力と猪木の弟子にあたるレジェンドらが集結し、師匠をぐるっと囲みました。マイクを持った猪木は「熱い声援をもらったら、人前に出ることは素晴らしいこと」と喜びを語りました。 さらには、武藤、蝶野、長州、そしてなんと前田にビンタで闘魂注入。「がんばっていこうよ。これからのプロレスが世界に向けて勇気と希望を発信できるように」と述べ、「1、2、3、ダー!」のかけ声で大会を締めました。新日本プロレスの黄金時代を知っている者には涙なくして見れない感動シーンの連続でした。

 

 

 2020年3月23日 一条真也

グリーフケア論文

一条真也です。
23日、東京に向かいます。
全互協のグリーフケアPT会議に出席するためです。
今回の会議は新型コロナウイルス感染拡大を受けて上智大学側からの出席者はありませんが、Skypeで参加していただく予定です。グリーフケアといえば、上智大学グリーフケア研究所が発行する『グリーフケア』第8号が届きました。

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グリーフケア』第8号の表紙(左)と裏表紙(右) 

 

今回も非常に興味深い論考やデータが満載ですが、わたしの初論文となる「グリーフケアにおける葬送儀礼の意義――儀式従事者からみた実践例報告のための視点――」が、P.43からP.65まで23ページにわたって掲載されています。わたしは本名の佐久間庸和で、上智大学グリーフケア研究所客員教授・株式会社サンレー代表取締役社長として登場しています。苦労して書いた論文ですので、ようやく日の目を見ることができて安心するとともに嬉しく思います。

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グリーフケア』第8号の「目次 」

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わたしの論文が掲載されました

 

ここでその全文を紹介するわけにはいきませんが、「要旨」と「キーワード」は以下の通りです。

要旨:本稿では、葬儀に実際に携わる儀式従事者の立場から実践例を報告する前段階として、グリーフケアに関する先行研究と、葬儀等の儀式の役割を確認した。
結果、葬儀等にはグリーフケアを助ける機能があるため、葬祭業者はこれを明確に意識した事業の展開が必要であると指摘した。一方で葬祭事業者自身によるグリーフケアの体系的な論理構築は進んでいないが、遺族会の運営等を通じた実践経験の蓄積は行われている点を概観し、葬祭事業者はグリーフケアの機能を拡充させるため、消費者ニーズのみに沿うのではない葬儀のあり方を確立させるとともに、グリーフケアにおけるネットワークの構築・儀式従事者の知識の涵養を行うべきであるとの結論を得た。

キーワード:儀式、遺族ケア、家族ケア、
      自助グループ、実践例

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23ページにわたって掲載されています 

 

「要旨」と「キーワード」の英文表記は以下の通りです。

[Abstract ]

In this paper, we confirmed the role of rituals such as funerals and reviewed previous res earch on grief care as a preliminary step to reporting practical examples from the position of funeral companies actually engaged in funerals.

The results showed that funerals have a function to help grief care, so the undertakers pointed out that they should develop an awareness of this. On the other hand, although the systematic logic of grief care offered by the funeral service providers itself is not progressing, the overview of the fact that practical experience is accumulated through the management of bereaved members of society, etc., and funeral service companies expands the function of the their work of grief care.

In order to make this happen, the business should not only provide funerals that meet consumer needs , but should establish grief care networks and cultivate the knowledge of funeral workers.

Key word: ceremony, bereavement care, family care,
                 selfhelp group, practice examples

f:id:shins2m:20200321140807j:plainサンレーの実践例も紹介しました

 

わたしは、これまで100冊近くの著書を含む大量の文章を書いてきましたが、いわゆる論文スタイルの文章というのは書いたことがありません。それで『グリーフケア』のバックナンバーを熟読し、論文スタイルを学んだのですが、けっこう苦労しました。それでも、この論文を読まれた、「京都の美学者」こと秋丸知貴氏から感想メールが届きました。グリーフケアとアートの問題を専攻している滋賀医科大学非常勤講師の秋丸氏は、「前半部分のオーソドックスな研究史的記述は学術論文として非の打ちどころのない完璧な構成で、後半部分は正に一条先生だからこそ書ける実感的・実践的な具体的解説だと思いました。髙木慶子先生、島薗進先生、鎌田東二先生を始めとする上智大学グリーフケア研究所の重要な研究を網羅された上で、他にも細かい文献まで目配り良く詳細かつ的確に引用されているところに極めて強い感銘を受けました」との過分な評価を寄せて下さいました。恐縮です!

 

2020年3月23日 一条真也拝 

「カノン」

一条真也です。
3月22日は長女の誕生日です。おめでとう!
すっかり大人の女性に成長した彼女ですが、小さい頃にはピアノを習っていました。発表会にも行きましたが、自分の娘がピアノを弾く順番が近づくとドキドキしたことを思い出します。そんな思い出が甦る日本映画をDVDで観ました。
ブログ「映画監督、来る!」で紹介した雑賀俊朗監督の「カノン」(2016年)です。中国のアカデミー賞とされる金鶏百花映画祭の国際映画部門において、 最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀女優賞の三冠を達成した作品です。



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「東京と石川県・富山県など北陸を舞台にしたヒューマンドラマ。祖母の葬式で集まった、東京、金沢、富山それぞれに暮らしていた3姉妹が、死んだと聞かされていた母親の存在を知ることで自身を見つめ直していく姿を追い掛ける。メガホンを取るのは、『リトル・マエストラ』などの雑賀俊朗。『飛べ!ダコタ』などの比嘉愛未、『落語娘』などのミムラ、『呪怨 ―終わりの始まりー』などの佐々木希が3姉妹役で共演する。彼女らが織り成す温かな物語に加え、ロケが敢行された北陸の美しい風景も見もの」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「東京で生活している専業主婦の長女・宮沢紫(ミムラ)、富山県黒部市に暮らす小学校教師の次女・岸本藍(比嘉愛未)、金沢の老舗料亭でおかみとして働く三女・岸本茜(佐々木希)。祖母の葬儀で久々に顔を合わせた3姉妹は、遺書に死んだと聞かされていた母・美津子(鈴木保奈美)が生きていると記されていて驚く。父の死を機に酒に溺れ、火事で重傷を負い、自分たちから離れていった美津子の軌跡を知った三人は、彼女のいる富山の介護施設へと向かう。だが、彼女はアルコール性認知症が原因で娘たちのことを認識できず・・・・・・」


「カノン」を観終わって、わたしは「自分のために作られた映画だ!」と思いました。なにしろ、この映画は葬儀のシーンから始まって、結婚式のシーンで終わるのです。見事な冠婚葬祭映画なのですが、冒頭の佐々木希の喪服姿があまりにも美しく、見とれてしまいました。佐々木希といえば、ブログ「縁 The Bride of Izumo」で紹介した日本映画で白無垢を着た美しい花嫁を演じましたが、「カノン」での喪服も似合っていました。「縁 The Bride of Izumo」は2016年1月16日公開、「カノン」は2016年10月1日公開ですから、彼女のファンは同じ年に彼女の白無垢姿と喪服姿を拝めたことになりますね。



三女・茜を演じた佐々木希だけでなく、長女・紫を演じたミムラも、次女・藍を演じた比嘉愛未も美しいです。ブログ「海街diary」で紹介した映画に登場する綾瀬はるか長澤まさみ夏帆広瀬すずの四姉妹に勝るとも劣らない美人三姉妹であります。というのも、海街四姉妹の身長はバラバラですが、カノン三姉妹の身長はほぼ同じなのです。これは斜めのアングルで3人を一緒に撮るシーンのために、雑賀監督が同身長の女優さんを揃えたのだそうです。さすが!

 

「カノン」には三姉妹を演じた3人の美女の他にも、古村比呂島田陽子、多岐川裕美、鈴木保奈美といった女優陣が脇を固めています。中でも、アルコール性認知症の母親を演じた鈴木保奈美の熱演がすごくて、もはや怪演レベルでした。悪魔が乗り移ったような恐ろしい形相でベッドに縛り付けられて暴れるシーンなど、「エクソシスト」を連想してしまったほどです。しかし、それだけ彼女の演技力が卓越しているということです。それにしても、ドラマ「東京ラブストーリー」の赤名リカ役で「カンチ、セックスしよ!」とか言ってた彼女がこんな凄い演技をする女優になっていたとは!

 

しかし、この映画、ただの美女を楽しむお花畑映画ではありません。アルコール依存症モラルハラスメント、不倫、自死など、多くの深刻な問題がテーマとして扱われているのです。連続TVドラマではなく、2時間の映画ですので、ちょっと詰め込み過ぎではないかとも思いますが、脚本的には厳しかったのではないでしょうか。三姉妹が「カノン」を連弾するラストシーンも容易に予想がつき、「3人が並んでピアノを弾くだけで感動を呼ぶのは難しいだろうなあ」と思いながら観ていました。ところが、その通りの展開になったにも関わらず、わたしは非常に感動しました。なぜなら、三姉妹が「カノン」を弾いた舞台が結婚式だったからです。結婚式ほどハッピーエンドの場は他にありません。

 

「カノン」の曲そのものにも静かな感動をおぼえました。正式名は「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーニ長調」といい、ドイツの作曲家ヨハン・パッヘルベルが1680年頃に作曲した室内楽曲です。特に第1曲の「カノン」は一般に「パッヘルベルのカノン」の名で広く親しまれています。しばしばクラシック音楽の入門曲として取り上げられ、また、ポピュラー音楽において引用されることも多いそうです。そういえば、わたしが冬にカラオケでよく歌う山下達郎の「クリスマス・イブ」には、間奏に達郎自身の多重コーラスによる「パッヘルベルのカノン」が引用されています。ラストシーンはバレバレでしたが、結婚式という場と「カノン」の音楽の力で感動させてくれました。



さて、映画「カノン」はテーマを盛り込み過ぎではないかと述べましたが、その中で、アルコール依存症モラルハラスメントの描写はよく描けていたと思います。鈴木保奈美演じる母親の美津子が1年間の禁酒を誓って、何度も直前で挫折したりするシーンはとてもリアルでした。彼女の更生を支える職場の女経営者を島田陽子が演じましたが、従業員の幸せを願って親身に世話をする姿勢には泣けてきます。
それから、モラハラの方ですが、ネタバレ覚悟でいくと、長女・紫の旦那がすごく嫌な野郎です。紫は最後に旦那の精神的暴力と闘うのですが、ゴルフクラブで旦那のスマホを破壊します。でも、旦那の部屋に大事に飾ってある蝶の標本箱を叩き壊してやったほうが、より相手にダメージが与えられたと考えるのはわたしだけでしょうか?



あと、もう少し深く描いてほしかったのは死者の視線です。比嘉愛未が演じる次女・藍が恋人の実家を初めて訪れたとき、リビングルームには彼の父親と妹の遺影が置かれていました。彼から「妹は陸上の選手だったが、スパルタ教師の行き過ぎた指導で熱中症で帰らぬ人となった」という話を聞きます。その後、古村比呂演じる彼の母親と3人で食卓を囲んでいるとき、母親が「やっぱり女の子はいいねえ。おるだけで、桃の花が咲いたようだ」と言うシーンがあります。明らかに彼女は、亡くなった娘と藍を重ね合わせて、再び娘を持つことができるという期待を抱いています。その亡き女の子の視線をもっと描いてほしかった。たとえば、フォトスタンドに入れられた遺影だけでなく、仏壇を登場させてほしかった。だって、そこは富山なのですから。

f:id:shins2m:20200322103505j:plainサンデー毎日」2018年2月25号

 

サンデー毎日」にも書きましたが、わたしは北陸の地でも冠婚葬祭事業を営んでいる関係で、ひんぱんに金沢を中心とする北陸を訪れます。本願寺第八世の蓮如が加賀との境に位置する越前・吉崎に御坊を構えた中世、北陸は浄土真宗の教えに染め上げられていきました。そんな信心深い土壌ゆえ、現代でも北陸の人々の心に真宗の根が張っていて、北陸は「真宗王国」と呼ばれています。厚い信仰心と情熱は仏壇づくりにも向かい、数々の優れた技と美を生み出しました。北陸の人々は仏壇をこよなく大切にします。いまでも富山県の普通の農家などにも、ちょっと不釣り合いなほど大きな仏壇が飾られていて驚くことがあります。藍の恋人とその母は、2人の死者のまなざしを感じながら暮らしているわけですから、そこに仏壇があれば、もっと彼らの悲しみに深みが出たような気がします。


死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

ところで、雑賀監督に以前お会いしたときに拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)をお渡ししていたのですが、ようやく読んでいただいたようで、昨日、感想メールが届きました。それには「素晴らしかったです!!佐久間社長の『死と愛』から映画を見つめる視点。死に関わっているから出来る発想や斬り方。斬新で、思慮深く、それでいて映画愛や人間愛に溢れている。社長の知識や知見の広さ、人間哲学や人生哲学にがにじみ出ていていて、驚きました。雑賀も見ていない作品が半分ほどあり、解説を読んでいると見たくなります。また、知っている作品も、改めて目線を変えてみてみようかなと思いました。ありがとうございます」と書かれていました。プロの映画人に認めていただき、嬉しい限りです。雑賀監督、こちらこそ、ありがとうございます!



雑賀監督はまた、同書の中で、わたしが小津安二郎へのリスペクトを綴っていたことに言及され、「雑賀の前作『カノン』ですが、金鶏百花賞の授賞式に、審査員からこのような事を言われました。『SFはハリウッド、アクション(カンフー含め)は中国、家族映画は、小津監督から伝統的に日本が上手い』と言われました。佐久間社長の愛してやまない小津監督のお名前を引き合いに出していただき、本当に光栄に思いました」と述べておられました。そう、わたしは、小津安二郎の映画が昔から大好きで、代表作の「東京物語」をはじめ、ほぼ全作品を観ています。黒澤明と並んで「日本映画最大の巨匠」であった彼の作品には、必ずと言ってよいほど結婚式か葬儀のシーンが出てきました。小津ほど「家族」のあるべき姿を描き続けた監督はいないと世界中から評価されていますが、彼はきっと、冠婚葬祭こそが「家族」の姿をくっきりと浮かび上がらせる最高の舞台であることを知っていたのでしょう。



葬儀に始まり、結婚式に終わる「カノン」はまさに小津映画の現代版であると思います。そこで、もし小津安二郎が「カノン」の監督だったら、どんなキャストを考えるでしょうか? 小津映画に出演経験のある女優でリストアップしてみました。なお、( )内は生年です。祖母・辰子は杉村春子(1906年)あるいは田中絹代(1909年)、母・美津子は原節子(1920年)、長女・紫は新珠三千代(1930年)、次女・藍は超激戦で、有馬稲子(1932年)、岸惠子(1932年)、岡田茉莉子(1933年)、若尾文子(1933年)、司葉子(1934年)の中から1人。それにしても、これだけの美人女優がほぼ同世代とは・・・どれだけ充実してたんだ、日本映画の黄金時代!(笑)。
最後に、三女・茜は小津映画の主演女優では最年少といえる岩下志麻(1941年)で決まり。これが小津版「カノン」の私的キャスト案ですが、雑賀監督いかがですかね? 
身長的には新珠三千代岸惠子岩下志麻の三姉妹が良いのではないかと思うのですが・・・・・・今度、お酒でも飲みながら、ゆっくり話し合いましょうよ!

 

カノン [DVD]

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  • 発売日: 2017/07/28
  • メディア: DVD
 

 

2020年3月22日 一条真也拝 

人生を修める「修活」を!

一条真也です。
九州を代表する経済誌「財界九州」の4月号が送られてきました。「OPINION-私の視点ー」のコーナーで、わたしの発言が紹介されています。

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「財界九州」2020年4月号

 

「人生を終える『終活』ではなく、人生を修める『修活』を!」のタイトルで以下のように書かれています。
わが社が本社を置き、わたしが住んでいる北九州市は、現在、政令指定都市の中で最も65歳以上の高齢者が多いことで知られる。そんな街に住みつつ、わたしはいつも「豊かな老い」について考えている。わが社は冠婚葬祭業である。そこで長寿祝いや葬儀のお世話をさせていただき、さらには高齢者介護施設なども運営させていただきながら、人生を輝かせる方策について考え、具体的な提案を行ってきた。
現在、世の中には「終活ブーム」の風が吹いている。多数の犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず「生が永遠ではないこと」、そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことが原因とされる。
いま、多くの高齢者の方々が、生前から葬儀やお墓の準備をされている。このほか「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただいた。いつの間にか、わたしは「終活」の専門家のように見られるようになり、『決定版 終活入門――あなたの残りの人生を輝かせるための方策』(実業之日本社)という著書も上梓した。そこでも書いたのだが、ブームの中で、気になることもある。それは、「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことだ。特に「終」の字が気に入らないという方に幾人もお会いした。
もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされている。正直に言って、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚える。そこで、「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案し、『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)、『修活読本』(現代書林)といった著書を出版して世に問うた。
よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」であるという見方ができる。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活だからだ。そしてその先に、人生の集大成としての「修生活動」がある。かつての日本人は、「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」ということを深く意識していた。これは一種の覚悟である。その半面、いま、多くの日本人はこの「修める」覚悟を忘れてしまったように思えてならない。そもそも、老いない人間、死なない人間はいない。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかならない。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないだろうか。
わたしは、以前に『老福論――人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)という本を書いたのだが、そこでは拙いながら「老いの豊かさ」について紙幅の許す限り論じ、「老い」は人類にとって新しい価値であることを指摘した。
自然的事実としての「老い」は昔からあったし、社会的事実としての「老い」も、それぞれの時代、それぞれの社会にあった。しかし、「老い」の持つ意味、そして価値は、これまでとは格段に違ってきている。
これまで「老い」は否定的にとらえられがちだった。仏教では、生まれること、老いること、病むこと、そして死ぬこと、すなわち「生老病死」を人間にとっての苦悩とみなしている。現在では、一般的には生まれることが苦悩とは考えられなくなってきたにせよ、まだ老病死の苦悩が残る。
しかし、わたしたちが一個の生物である以上、老病死は避けることのできない現実である。それならば、いっそ老病死を苦悩ととらえない方が精神衛生上もよいだろうし、人生を前向きに歩めるのではないだろうか。すべては、気の持ちようである。世界各国で高齢者が増え、ずいぶん以前から「高齢化社会」という語が生み出されている。各国政府の対策の遅れもあって、人類そのものが「老い」を持て余している印象を受ける。さらにその中で、現在の日本は、未知の超高齢社会に突入している。それは、そのまま多死社会でもある。
日本の歴史の中で、今ほど「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が求められる時代は他にない。特に「死」は、人間にとって最大の問題だ。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきた。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようと努力してきた。それでも、今でも人間は死に続けている。死の正体もよくわかっていない。実際に死を体験することは一度しかできないわけだから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然だと言える。まさに死こそは、人類最大のミステリーなのである。
なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け入れがたい話はない。その不条理と相対するために、わたしたちは死生観というものを持つべきだ。高齢者の中には「死ぬのが怖い」という人がいるが、死への不安を抱えて生きることこそ一番の不幸だろう。まさに死生観は究極の教養であると考える。自らの人生を修めるための活動、すなわち「修活」において、最も重要なことは死生観を持つことではないだろうか。わが社は多くの高齢の会員様を抱える互助会として、そのお手伝いをしたいと願っている。

 

2020年3月21日 一条真也

「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」

一条真也です。
19日、新型コロナウイルス対策を話し合う政府の専門家会議が行われましたが、加藤厚生労働大臣は、感染リスクの高い場所での活動の自粛などを引き続き求めてく方針を明らかにしました。イタリアやフランスのように日本もいつ映画館が閉鎖されるかもしれない状況下で、「春分の日」かつ「地下鉄サリン事件」から25年目となる20日、この日公開された日本映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」を観ました。わたしは、「この映画さえ観ることができれば、もう感染しても仕方ない」という覚悟をもって鑑賞を決行。そして、魂が震えるような感動をおぼえました。



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「作家の三島由紀夫が自決する1年半前に行った東大全共闘との討論会に迫ったドキュメンタリー。2019年に発見されたフィルムの原盤を修復したことにより、多くの学生が集まった討論会の様子が鮮明に映し出され、当時の関係者や現代の文学者、ジャーナリストなどの証言を交えて全貌が明らかになる。監督はドラマシリーズ『マジすか学園』などの豊島圭介

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ヤフー映画の「あらすじ」は以下の通りです。
「1969年5月13日、三島由紀夫は、大学の不正運営などに反対した学生によって始まった学生運動の中でも武闘派といわれた東大全共闘の討論会に、警視庁からの警護の申し出を断り単身で乗り込んだ。およそ1000人の学生が集まった教室で、2時間半に及ぶ熱い討論を交わす」



わたしが、どんなにこの映画の公開を心待ちにしていたか。みなさんには、おわかりでしょうか。わたしは高校時代に三島の文学と思想に傾倒し、全集も読破した経験を持っています。1969年に新潮社から刊行された『討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争』という本も古書店で求め、何度も繰り返して読みました。そのとき、討論の内容よりも何よりも「敵陣にたった1人で乗り込んだ」三島の勇気とダンディズムに痺れて、「自分もこんな漢になりたい」と思ったものです。それから長い年月を経て、ついに伝説の討論会のドキュメンタリー映画を鑑賞できる機会に恵まれたのでした。



1969年5月13日、東京大学駒場キャンパス900番教室で行われた討論会の映像がスクリーンに映し出された瞬間、わたしは異様な高揚感をおぼえました。そこには1000人を超える学生が集まっています。いま、日本は新型コロナウイルス感染拡大のさ中にあり、各種のイベントが自粛されています。人が集まることは「集合罪」のような状況で、結婚式は延期され、卒業式や送別会などは中止になっています。1000人もの討論会など絶対に開けません。そんな最中にマスク姿で映画館にもぐりこんだわたしの目に映ったのは「人が集まる」ことの圧倒的な迫力と熱気でした。現在のような社会状況が続けば、社会が「個人」に分断され、文化的活力は減退する一方であると、まず思いました。

 

それにしても、なぜ伝説の討論会を半世紀ぶりに蘇らせるドキュメンタリー映画が作れたのか。それは、テレビ局としては唯一取材していTBSが撮影していた討論会の映像(TBS緑山スタジオで新たに発見されたフィルム)を高精細映像として復元することができたからです。そこに当時の関係者や現代の文学者・ジャーナリストなどの識者らの三島に関する証言から、その全貌に迫っています。右翼vs左翼、保守vs革新のシンボルのような存在同士が対峙する姿はそれだけで感動的ではありますが、それゆえ現場は殺気立っており、類を見ない緊迫感が流れています。そこで三島の発する日本語は耳触りの良い江戸弁です。発音は明瞭で、滑舌も良く、声量も十分ありました。そして、何よりも論理的である。日本を代表する作家であった彼は、どんな政治家よりも見事な演説ができる雄弁家でもあったのです。

 

討論会の冒頭、三島由紀夫は約10分間のスピーチを行います。基調講演などという生易しいものではなく、三島の全人生を賭けたような情熱あふれる、それでいて落ち着いていて威厳に満ちたスピーチです。そこで三島は「体制側の連中は諸君(東大全共闘)のことをキチガイだと言うが、キチガイならば看護して精神病院に入れて薬を与えればいいだけのこと。わたしは諸君をキチガイだとは思いません」といきなり言い放ちます。ここで「キチガイ」という放送禁止用語を三島が何度も使うので、(わたしを含む)現在の人権意識の発達した観客は度肝を抜かれます。もちろん、東大全共闘の学生たちは「キチガイ」ごときの言葉には驚かないでしょうが、彼らはじつは他のことに驚いていました。それは、あの三島由紀夫が自分たちに対して丁寧な言葉遣いで語りかけてきたからです。映画の中で、哲学者の内田樹氏が「三島は1000人を相手に全員を説得しようとしているんですよ!」とコメントする場面がありますが、わたしには学生たちに接する三島の目に慈愛を感じました。それから、三島の話にはつねにユーモアがありました。聴衆は何度も爆笑するのですが、こんな緊迫した討論会によって笑いを絶やさない三島のユーモアのセンスには驚きました。

 

かつて三島由紀夫の本を愛読したという元格闘家・プロレスラーの前田日明氏は高校時代は喧嘩に明け暮れていたそうですが、プロレスラーの蝶野正洋選手との対談で、「喧嘩というのは相手を驚かせた方が勝ちなんだよ」と述べています。その意味では、礼儀正しい態度とユーモアによって東大全共闘を驚かせた三島の先制攻撃は功を奏したのでした。ところが、ここでもう1人、当時の討論会の聴衆や現在の映画の観衆を驚かせる人物が登場します。幼い赤ん坊を肩車したキツネ目の男です。彼こそ、「東大全共闘一の論客」と呼ばれた芥正彦(俳優、劇作家、演出家、劇団ホモフィクタス主宰者)でした。1946年、東京都生まれの彼は、埼玉県立浦和高等学校卒業後、1年間の浪人生活を経て東京大学文科Ⅲ類に入学。在学中に全学共闘会議全共闘)のオーガナイザーとして活躍する傍ら、劇団駒場で夏際敏生と共にアングラ演劇運動を指導。また、寺山修司と「地下演劇」誌を発行。在学中、東大美学科4年の女子学生と結婚。そして生まれた女児を連れてこの討論会に乗り込んできたのでした。



芥正彦はかなりの論客で、滔々と自説を展開します。それに対して、三島も誠実に対応していくのですが、「そんな理屈はいいから、三島を殴らせろ!」と野次る学生に対して、「それなら、お前がここに上がれよ、オラ!」と一喝したり、「関係なんか、どうでもいいんだよ!」という野次に対しては「関係を逆転させるのが革命じゃねえのか、馬鹿野郎!」と怒鳴り返したり、なかなかの迫力です。思うに、芥は結果的に三島の身が危険に晒されるのを防いだのでした。そもそも、赤ん坊を抱きながら登壇する行為自体に「ここで暴力沙汰を起こすなよ」というメッセージが込められています。それにしても、あの赤ちゃん、あの後どんな人生を歩んだのか気になりますね。三島と芥の討論は形而上的過ぎるものの(芥がやたらと「事物」という単語を多用するので、「お前は事物主義者か!」と思いましたが)、2人の言葉のボクシングはスリリングで刺激的でした。討論の最中にタバコを口に咥えた三島に芥が火をつけてあげるシーンがあります。三島は火をつけてもらった後、芥に軽く一礼するのですが、この場面は観ていて、ほっこりしました。こんな殺伐とした討論の中で示された「礼」に癒されました。



しかし、三島が自説を述べている最中に芥が「もう俺、帰るわ。退屈だし」と捨て台詞を吐いて、実際に帰ったのは残念でしたね。あの「中二病」とでも呼ぶべき幼稚な一言をもって、わたしは芥正彦という人間を絶対に認めません。だいたい、彼は演劇人というけれども、Wikipedia「芥正彦」によれば、テレビドラマの出演作は3本、映画の出演作は2本だけです。アングラ舞台にはたくさん出演したのかもしれませんが、演劇界に名を轟かせたとは決して言えません。彼は「三島さんは敗退してしまった人」などと言いましたが、彼のほうが全共闘運動での挫折も含めて、どこから見ても敗者ではないですか。現在の彼の発言シーンを見ても、負け惜しみの連続で、わたしの一番嫌いな種類の人間です。



そんな無礼な若者たちの前でも礼儀正しくふるまった三島は「大したもの」です。ブログ「渡部昇一先生と対談しました」にも書きましたが、ある意味で三島なき後の保守論壇を支えた渡部昇一氏から、わたしは「真の教養人は礼儀正しい」ということを学びました。その意味で、三島由紀夫こそは真の教養人でした。それは討論の中にも登場する大正教養主義から脱却できない学者などとは異なる、孔子が説いた「君子」に近い存在です。
討論の最後に、三島は「言霊」について発言します。「天皇」という言葉を発した学生の「われわれと共闘してほしい」という呼びかけに対して、三島は「言葉が翼をもって、今この会場を飛び回っている」「わたしは諸君の熱情だけは信じる」「その言葉を、言霊を残して、わたしは去っていく」と述べます。言葉には霊力とでもいうべき不思議なエネルギーが宿っています。これを「言霊」といいますが、『万葉集』で山上憶良が「言霊の幸はふ国と語り継ぎ言ひ継がひけり」と歌を詠んだように、古来、日本は言霊の霊妙な働きによって幸福がもたらされる国と語り伝えられてきました。その「言霊」の力を信じて、わたしも短歌などを詠んでいるわけですが、この討論会の最後に三島が「言霊」について述べたことが非常に印象的でした。



わたしは、1000人もの東大全共闘のメンバーは、三島由紀夫の言霊を感じたと思います。三島が語る言葉を一言でも聞き漏らすまいと真剣な眼差しで彼を注視していましたが、映画の中で作家の平野啓一郎氏が「言葉の力ですよ。結局、言葉しか社会を変えることができない」とコメントします。考えてみれば、三島由紀夫も東大全共闘もその思想は真逆のようで、「反米愛国」という共通点を持っていました。両者はともに反米主義者であり、愛国主義者だったのです。その意味で、東大全共闘の1000人は三島をリスペクトしていたのかもしれません。この討論会から1年半後の1970年11月25日、三島は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取って籠城しました。そこで、バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説を行いました。東大全共闘の数と同じでした。しかし、自衛隊員らは三島の演説を真面目に聴かず、罵声を浴びせたり、嘲笑するばかりでした。その直後、三島は割腹自決します。いわゆる「三島事件」です。

 

そのときの自衛隊員の数は奇しくも約1000人。1年半前の討論会に参加した東大全共闘の学生数と同じです。同志だと信じていた自衛隊に裏切られ、魂を込めたラスト・メッセージを受け取ってもらえなかった三島の無念、絶望感を想像すると、わたしは今でも泣けてきます。バルコニーの上の三島の目には1000人の自衛隊員の顔が東大全共闘のメンバーの顔に見えたのではないかという気さえします。くだんの芥正彦は映画の中で、「人と人の間の媒体としての言葉が力を持った最後の時代だった」と述べ、さらには「相手のことを否定していたら、話も聞かないし、対話なんか成立しないよ」とも語っています。まさに、三島が東大全共闘と言葉で対決した東京大学駒場キャンパス900番教室は、どんな言葉でも発することができ、あらゆるイデオロギーの主張が許される奇跡の「解放区」であり、そこには「熱」と「敬意」と「言葉」が存在したのです。



さて、作品としては素晴らしい内容であった映画「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」ですが、唯一残念だったのは、ナレーターが東出昌大だったことです。不倫騒動で世間を騒がせた彼ですが、不倫したこと自体をどうこう言いたくありません。そんなことは夫婦間の問題であり、観客には無関係だからです。しかし、この知性の洪水ともいうべきドキュメンタリー映画において、彼のナレーションには知性をまったく感じませんでした。台本を棒読みで、ナレーションそのもののレベルが低いです。なぜ、豊島監督は彼をナレーターに選んだのでしょうか。もしかして、名前の中に「東」と「大」が入っていて「東大」になるとか考えたのではないかと邪推したくなるほどのミスキャストでした。

 

東出は3月17日、この映画のトークイベントに出席しました。集まったマスコミの関心は映画の内容よりも、東出の不倫問題に関心が集中し、まことに不愉快でした。イベントの後、彼は1人で囲み取材に応じ、「妻に謝罪したい」と言いましたが、わたしは「妻よりも三島に謝罪しろ!」と思いました。東出にとって、謝罪の場はこの日しかなかったようですが、言えること、言ってはいけないことなど、想定問答を頭に叩き込んで会見に臨んだのでしょうが、「これ以上、妻を傷つけたくないので、お答えできることには限りがある」と前置きし、慎重に言葉を選びました。


その囲み取材で、東出は時には涙ぐみ、時には声が震え、口を真一文字にし、天を仰ぎ、沈黙し苦悶の表情を浮かべました。何度も沈黙した彼の姿を見て、おそらく妻も愛人も愛想を尽かしたことでしょう。愛人にまだ想いがあるのなら口にすればいいし、妻に想いがあるのならそれを言葉にすればよろしい。言葉ではなく沈黙で答えた、いや逃げた東出は男として最低でした。何よりも、言葉の力を信じることを訴えたこの映画のナレーションを、言葉に見放された東出昌大という最も不適格な人間が担当したという事実に腹が立って仕方がありません。どうして、このようなこの上なく高尚な映画の公開イベントがこれほど下劣な話題で持ち切りになったのか、悔しくて仕方がありません。そして、芸能人の不倫ごときで大騒ぎする平和ボケした日本人が悲しくて仕方がありません。



わたしにとって、東出昌大が最もカッコ悪い男だとしたら、最もカッコ良い男こそ、三島由紀夫その人です。映画で描かれた討論会が開催されたのは1969年ですが、60年代の三島由紀夫とは、いかなる存在だったのか。国際的な評価を得た日本を代表する作家であることにとどまらず、時代を代表するスーパースターでした。当時80万部を発行していた若者向きの雑誌「平凡パンチ」が1967年に「現在の日本でのミスター・ダンディ」は誰かを読者投票で選んだ結果、総投票数11万1192の中で、三島は1万9590票で堂々の1位に輝きました。2位が三船敏郎、3位が伊丹十三、4位が石原慎太郎、5位が加山雄三、6位が石原裕次郎、7位が西郷輝彦、8位が長嶋茂雄、9位が市川染五郎(現・松本幸四郎)、10位が北大路欣也というのですから、凄いではないですか。つまり、当時の青年にとって、三島は映画スターやスポーツ選手よりもずっと人気のあるスーパースターだったのです!

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全葬連青年部講演会のようす

 

東大全共闘1000人という敵陣に単身で乗り込んでいった三島の行動は、わたしの人格に甚大な影響を与えました。わたしの心の中には「単身で敵陣に乗り込んでこそ男である」という信念のようなものが植え付けられたのです。ブログ「青年フューネラル講演」で紹介したように、2010年11月19日、わたしは全葬連青年部が博多で開催した講演会の講師を務めました。専門葬儀社からなる連盟である全葬連はわたしが属する冠婚葬祭互助会と敵対関係に近い状態にあり、反互助会キャンペーンなども展開していました。そこに講師として呼ばれたときは驚きましたが、『葬式は必要!』(双葉新書)を上梓した直後で、同書で述べた考えを伝えたいという想いもあり、わたしは講師をお引き受けしました。会場にはフューネラル業界を担う若き経営者の方々が全国から集まり、わたしの話を熱心に聴いて下さいました。講演後は活発な意見交換も行われました。

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全冠協講演会のようす 

 

また、ブログ「全冠協講演」で紹介したように、2019年7月24日には、冠婚葬祭互助会の業界団体である全日本冠婚葬祭互助支援協会(全冠協)主催の講演会が大塚の「ホテル・ベルクラシック東京」で開かれ、わたしは講師として招かれました。全冠協といえば、わたしが会長を務めた全互連のライバル団体とされています。全互連の会長が全冠協で講演することなど考えられないことでしたが、わたしは慎んで講師をお引き受けし、「葬儀はなぜ必要か」という演題でお話をさせていただきました。いわゆる「アウェイ感」などまったくなく、渡邊理事長をはじめ全冠協の方々には礼を尽くしていただきました。講演後に、有意義な質疑応答が行われたことも嬉しかったです。

f:id:shins2m:20200320204233j:plain島田裕巳氏との対談のようす

 

意見の異なる者同士の対話といえば、ブログ「島田裕巳氏と対談しました」で紹介したように、2016年7月27日、宗教学者島田裕巳氏との対談が忘れられません。わたしは、島田氏のベストセラー『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)に対抗して、『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。また、島田氏の『0葬――あっさり死ぬ』(集英社)に対して、『永遠葬――想いは続く』(現代書林)を書きました。わたしたちは天敵のように見られ、NHKの討論番組でも激論を交わしました。そして2016年、島田氏とわたしの共著である『葬式に迷う日本人』という本が三五館から刊行されることにあり、その巻末企画として対談したのです。


葬式に迷う日本人』(三五館)

 

六本木ヒルズで実現した対談は、島田氏との意見の一致も多々あったこともあり、まことに有意義な時間を過ごすことができました。ヘーゲル弁証法のごとく、「正」と「反」がぶつかって「合」が生まれたような気がします。それも非常に密度の濃いハイレベルな「合」です。その当時、原発や安保の問題などで、意見の違う者同士が対話しても相手の話を聞かずに一方的に自説を押し付けるだけのケースが目立ちました。ひどい場合は、相手に話をさせないように言論封殺するケースもありました。そんな大人たちの姿を子どもたちが見たら、どう思うでしょうか。間違いなく、彼らの未来に悪影響しか与えないはずです。

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対談後、島田裕巳氏と

 

わたしたちは、お互いに相手の話をきちんと静聴し、自分の考えもしっかりと述べました。当事者のわたしが言うのも何ですが、理想的な議論が実現したのではないかと思います。けっして馴れ合いではなく、ときには火花を散らしながら、ある目的地に向かっていく。今後の日本人の葬送儀礼について、じつに意義深い対談となったように思います。考えてみれば、意見の異なる者同士が正々堂々と意見を述べ合うことこそ民主主義の基本ではないでしょうか。現代日本において、民主主義は過去のものとなったのでしょうか?



ネットの世界を見ると、さらに状況は酷いです。自分の顔も名前も隠した連中が意見の違う相手に対して「うざい」「消えろ」「死ね」などの罵詈雑言をぶつけ合っています。そこには相手への敬意など微塵もありません。媒体となる言葉も存在しません。ただ、ひたすら「うざい」「消えろ」「死ね」です。日本人がこんな情けないコミュニケーションを行っていることを霊界の三島が知ったら何と言うでしょうか。1969年5月13日の東京大学駒場キャンパス900番教室に確かに存在した「熱」と「敬意」と「言葉」を、今こそ日本人は取り戻す必要があります。それは、東京五輪の開催よりもずっと大切なことではないでしょうか。

 

2020年3月20日 一条真也

『2000年の桜庭和志』

2000年の桜庭和志

 

一条真也です。
『2000年の桜庭和志柳澤健著(文藝春秋)を読みました。ブログ『1964年のジャイアント馬場』ブログ『完本 1976年のアントニオ猪木』ブログ『1984年のUWF』で紹介した一連のプロレス・ノンフィクションを書いた著者の最新作です。著者は1960年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、メーカー勤務を経て、文藝春秋に入社。編集者として「スポーツ・グラフィックナンバー」などに在籍し、2003年にフリーライターとなりました。 

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本書の帯

 

表紙カバーには桜庭和志の全身イラストが使われ、帯には「『ナンバー』連載時から話題沸騰!」「プロレスラーは本当は強いんです!」「UWFからPRIDEへと駆け抜けUFCの殿堂入りも果たした総合格闘技界のレジェンド桜庭和志。IQレスラー&グレイシーハンターの全貌がついに明らかになる――本人はもちろん、ホイス・ホイラー・ヘンゾの証言も交えた決定版」と書かれています。カバー前そでには、「サクラバは世界一のファイターだ。どんな相手だろうが、みんなをワクワクさせてくれる。すべてがクールなんだよ」というディナ・ホワイトの言葉が紹介されています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には「僕はアスリートであると同時にプロレスラーです」という桜庭和志の言葉に続いて、「UWFインターナショナルで結末の決まった試合を戦っていた若手レスラーがリアルファイトの総合格闘技でプロレスファンの心をわしづかみにした――。107分に及ぶホイス・グレイシーとの死闘を含む桜庭和志の戦いを追いつつ、柔術とヴァーリトゥード、UWFとUFCとMMAのすべての謎を解き明かす」「『1984年のUWF』の続編にして『1976年のアントニオ猪木』の最終章!」と書かれています。

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
タイガーマスクに憧れプロレスを志した少年――。アマレスを学び、プロレスラーになった桜庭和志は、サブミッションレスリングに夢中になり、総合格闘技の世界へ。そしでPRIDEの主役となり、UFCのレジェンドであるホイス・グレイシーと107分の死闘の末、伝説となった。桜庭が、“リアルファイトのタイガーマスク”になったのである。桜庭の生き様を追いながら、グレイシー柔術とは何か、MMAとは何か、格闘技とは何か、UWFとは何か、プロレスとは何かに迫る。取材は、桜庭への幾度にも及ぶインタビューだけでなく、石井和義ホイラー・グレイシーホイス・グレイシーにも行った。著者は、自ら柔術教室にも通い、そのなんたるかを学んだ。まさに体当たりのこの作品は、著者の真骨頂でありひとつのシリーズの大きな締めくくりでもある」

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

序章  ホール・オブ・フェイム

第1章 レスリン

第2章 最強の格闘技

第3章 UFC2

第4章 ヒクソン・グレイシー

第5章 道場破り

第6章 リアルファイト

第7章 PRIDE-1

第8章 キングダム

第9章 UFC JAPAN

第10章 新たなる舞台

第11章 PRIDE.4

第12章 DSE

第13章 悪役登場

第14章 柔術異種格闘技戦

第15章 グレイシー柔術

第16章 ホイラー・グレイシー

第17章 対立する価値観

第18章 107分の死闘①

第19章 107分の死闘②

第20章 107分の死闘③

第21章 ヘンゾ・グレイシー

第22章 PRIDEからの離脱

第23章 HERO’S

第24章 DREAM

終章  クインテット

「あとがき」


 

 

序章「ホール・オブ・フェイム」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「2017年7月6日午後7時30分。桜庭和志はラスベガスのアリーナ『パークシアター』にいた。総合格闘技団体UFCのホール・オブ・フェイム、すなわち殿堂入り表彰を受けるためだ。UFCのホール・オブ・フェイムはモダン部門、パイオニア部門、コントリビューター(裏方)部門、ベストファイト部門の4つに分かれている。桜庭が受賞したのは草創期のMMA(Mixed Martial Arts=総合格闘技)で活躍したファイターを対象とするパイオニア部門だ」



続いて、著者は以下のように述べます。
「桜庭の主戦場は日本のPRIDEであり、のちにHERO’SやDREAMにも出場した。UFCへの出場は一度しかない(1997年12月21日に横浜アリーナで行われたUFC JAPAN)。UFC以外で活躍した選手であっても、圧倒的なパフォーマンスを観客に披露したファイターは顕彰すべきだ、というUFCの姿勢は素晴らしい。ちなみにプロレスのWWEも同じだ。アントニオ猪木藤波辰爾、そして力道山がWWEの殿堂入りを果たしている。私たちの国はアメリカに学ぶ点がまだまだ多い」



1997年12月21日に横浜アリーナで行われたUFC JAPANで、ブラジルの柔術家マーカス・コナンを破り、優勝しました。それはPRIDE-1で髙田延彦がヒクソン・グレイシーに完敗した直後でした。著者は、「プロレスラーは弱く、柔術家は強い。プロレス最強の夢は雲散霧消した、と誰もが思った。ところが、髙田の敗戦からわずか2カ月後、誰もが予想しなかったことが起こる。桜庭和志が、UFCJAPANのヘビー級トーナメントに優勝したのだ。UWFインターナショナルでデビューした若手プロレスラーが、ブラジリアン柔術の黒帯からギブアップを奪い、優勝インタビューでは『プロレスラーは、本当は強いんです!』と発言したのだから、プロレスファンは狂喜乱舞した」と書いています。



1993年、「格闘技元年」と呼ばれ、K-1やパンクラスが生まれたこの年の11月12日、アメリカのコロラド州デンバーのマクニコルス・スポーツ・アリーナで「アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ」が開催されました。UFCです。反則は噛みつき、髪をつかむこと、目つぶし、急所攻撃のみで、あとはすべての攻撃が許される格闘技の大会です。馬乗りになって顔面にパンチを入れても、首を絞めても、後頭部に頭突きをしても、ヒジを落としてもいいという、まさにアルティメット(究極の)戦いでした。これを制したのは、ホイス・グレイシーという名の柔術家でした。ホイスはボクシングのアート・ジマーソン、プロレスのケン・シャムロック、そしてサバットのジェラルド・ゴルドーを次々に撃破し、見事に優勝を飾ったのです。



そのUFCには3つの衝撃があったとして、著者は「ほぼすべての攻撃が許されれば、これほど凄惨な戦いになるのか、という驚き。凄惨な戦いを、無傷で勝ち抜くことができる男がいるのか、という驚き。それを可能にする技術とは、日本から伝わった柔術なのか、という驚きである」と指摘しています。すべての攻撃が許されるヴァーリ・トゥードの技術を持っていたのは当時はブラジルの柔術家だけでしたが、その中でも無敵を誇るグレイシー柔術を代表するホイスの勝利は、多くの観客にとって魔法のように見えました。このUFCを企画したのは、ホイスの兄であるホリオン・グレイシーであり、その目的はグレイシー柔術を世界中に普及させることだったのです。



桜庭和志は、1992年7月、プロレス界に一大ブームを起こした新生UWFが崩壊した後に誕生したUWFインターナショナル(Uインター)へ入団しました。当初桜庭はプロフェッショナルレスリング藤原組の入団試験を受けるつもりだったそうです。髙田延彦をエースにいただくUインターではレスリング技術に加えて、打撃と関節技を習得する。1993年8月13日の日本武道館大会でスティーブ・ネルソンを相手にプロデビューします。Uインターはプロレス団体でしたが、ここで桜庭は先輩レスラーの田村潔司と2回、キックボクサーのレネ・ローゼと1回、リアルファイトを経験しています。



初期のUFCを席巻した柔術家の戦い方は、おおよそ「背筋を伸ばし、アゴを引いて、遠い間合いを保ちつつ、前蹴りを相手のヒザに向けて放つ。相手が足を引くと同時に一気に距離を詰め、そのまま組みついてテイクダウン。上をとると、蛇が獲物にからみつくように相手を制圧して、再度ポジション(横四方)やマウントポジション(馬乗り)の状態から絞め技や関節技で攻める」というものでした。しかし、次第にその戦法は知られるところとなり、柔術家は無敵ではなくなりました。代わりに脚光を浴びたのがレスリング出身の選手です。著者は、「レスラーが得意のテイクダウンで相手の上になり、下からの攻撃(三角絞めや腕十字など)を警戒しつつ殴るか頭突きで倒す。このような攻撃を“グラウンド&パウンド”と呼ぶ。このシンプルだが効果的な攻撃によって、UFCの主役は柔術家からレスラーに交代した。代表的な選手がドン・フライであり、マーク・コールマンであり、マーク・ケアーだ」と書いています。



そして、ドン・フライマーク・コールマンマーク・ケアーと同様に、われらが桜庭和志アマチュアレスリング出身の選手だったのです。しかし、アマレス出身であっても、桜庭の本職はプロレスラーでした。よって、MMA(総合格闘技)の舞台でも、つねに観客を意識しながら戦っていました。本書には、「僕たちの仕事は、お客さんが観に来てくれることで成り立っています。グラウンドでグチャグチャもつれあったまま、長時間膠着した末に引き分け。そんなつまらない試合ばかりを観せられれば、お客さんは二度と会場に足を運んでくれません。初めて格闘技を観る人でも、試合を楽しむことができて、次の試合もまた観にきてもらえる。僕たちはそんな試合をしなくてはいけないんです」という桜庭の言葉が紹介されています。



髙田延彦とヒクソン・グレイシーのリアルファイト実現のために誕生した格闘技イベント「PRIDE」が誕生しましたが、その主役はヒクソンに二度敗れた髙田ではなく、グレイシー一族を次々に撃破した桜庭でした。著者は、「桜庭和志総合格闘技の伝道師だ。UWFのレスラーたちが使っていた関節技が、リアルファイトのMMAでも有効であることを伝え、一度関節技が極まってしまえば、バタバタ暴れてロープに逃げることなど絶対に不可能であることを示し、ストライカーとグラップラー異種格闘技戦のだいご味を教え、打撃だけでも組み技だけでもMMAには勝てないことを明らかにした。かつて、マウントポジションガードポジションの区別さえつかなかった日本の観客たちは、桜庭和志によって、リアルファイトのMMAの魅力を、ひとつひとつ学んでいったのだ」と述べています。



さらに、著者は桜庭について以下のように述べています。
「観客を楽しませつつ、リアルファイトの世界で結果を出す。そんな離れ業を可能とするのは天才だけだ。桜庭和志は、モハメッド・アリのような天才だった。ヴィトー・ベウフォートやエベンゼール・フォンテス・ブラガといった自分よりもはるかに重いクラスの選手と果敢に戦って勝利し、ホイラー、ホイスの両グレイシーをも撃破した桜庭和志を、90kg以下の世界最強ファイターとみなしたのは、日本人だけではなかった」髙田延彦や船木誠勝を破ったヒクソン・グレイシーは日本でビッグマネーを手にしましたが、世界中の格闘技ファンやファイターからの評価は桜庭のほうが比較にならないほど高いそうです。「ヒクソンは弱い相手ばかりを選んでいる」「ヒクソンはサクラバから逃げている」といった批判の声が世界中で上がったのでした。むしろ、ヒクソンよりもホイスのほうが評価されていると言っていいでしょう。ヒクソンのことを「兄は私の10倍強い」と語ったホイスでしたが、勇気は弟のほうにありました。



2000年5月1日、「PRIDE GP2000決勝戦」で、桜庭和志ホイス・グレイシーと107分の激闘を演じ、ついに勝利を手にします。両雄の一戦を、日本の総合格闘技史上最高の試合と考えるファンは多いそうです。その理由は大きく分けて3つあるとして、著者は「ひとつめは、グレイシーサイドの要求を桜庭がすべて受け容れ、その結果、15分×6ラウンドの90分とインターバルを含めてトータル107分にも及ぶ常識を超えた長時間ファイトとなったこと。ふたつめは、その間、立ち技から寝技へ、寝技から立ち技へと何度も移行し、一瞬も目を離せないほどの緊張感に溢れる熱戦であったこと。3つめは、髙田延彦、安生洋二らUWFのプロレスラーが手も足も出なかったグレイシー柔術についにプロレスラーがリベンジを果たしたこと」と指摘しています。



あの伝説的な名勝負から、すでに20年という長い時間が経過しました。本書の最後に、著者は「1990年代末まで、リアルファイトのMMA=総合格闘技は危険で暴力的な上に、膠着ばかりでつまらないというのが日本の格闘技ファンの常識だった。その常識を完全にくつがえし、MMAを美しく芸術的で、意外性に溢れ、ユーモラスですらあるスペクテイタースポーツに変えてしまったのが2020年の桜庭和志だ」と書いています。さらに「あとがき」で、著者は「アントニオ猪木が生み出した『プロレスは最強の格闘技』という思想を、誰よりも真剣に受け止め、現実のものにしようと試みたのは元タイガーマスク佐山聡であった。佐山聡がUWFという潰れかけたマイナープロレス団体でやろうとして失敗したことについては『1984年のUWF』で書いたつもりだ。本書『200年の桜庭和志』は『1984年のUWF』の続編であり、同時に『1976年のアントニオ猪木』の最終章でもある」と書くのでした。

 

1976年のアントニオ猪木

1976年のアントニオ猪木

  • 作者:柳澤 健
  • 発売日: 2007/03/14
  • メディア: 単行本
 

 

本書に書かれていることは、わたしがほとんど知っていることでした。2000年当時、日本における総合格闘技熱は凄まじいもので、TVや雑誌などのメディアも桜庭和志についての情報を常に発信していました。ですから、本書を読んで新たに得た知識はあまりありません。もちろん著者の分析眼は相変わらず鋭いですが、正直言って、『1976年のアントニオ猪木』や『1984年のUWF』のような異様なまでの熱は感じませんでした。おそらく、猪木や佐山ほどには桜庭のことをリスペクトできていないのではないでしょうか。そのため、本書全体が「あっさり」した印象になってしまっています。

 

1984年のUWF

1984年のUWF

  • 作者:健, 柳澤
  • 発売日: 2017/01/27
  • メディア: 単行本
 

 

桜庭がPRIDEを離脱して髙田延彦と絶縁するくだりはもっと踏み込んで書いてほしかったですし、『1984年のUWF』の「キャラメルクラッチ」のように基本的な誤植誤認が本書にも見られたことは残念です。しかしながら、本書を読むことによって、あの頃の日本の総合格闘技の盛り上がりぶりを思い出すことができました。2000年5月1日、わたしは「癒す人」こと「せたがや手技均整院」院長の鈴木登士彦君と一緒に東京ドームに出掛け、桜庭vsホイス戦をリアルタイムで観戦したのです。桜庭の勝利が決まった瞬間の感動は今でもおぼえています。本当に、良い時代でした。

 

2000年の桜庭和志

2000年の桜庭和志

  • 作者:健, 柳澤
  • 発売日: 2020/02/27
  • メディア: 単行本
 

 

2020年3月20日 一条真也