『からだとこころの健康学』

NHK出版 学びのきほん からだとこころの健康学 (教養・文化シリーズ NHK出版学びのきほん)

 

一条真也です。
『からだとこころの健康学』稲葉俊郎著(NHK出版)を読みました。「NHK出版 学びのきほん」シリーズの1冊で、著者から献本された本です。著者は、わたしが「未来医師イナバ」と呼んでいる方です。1979年熊本生まれの医師で、東京大学医学部付属病院循環器内科助教です。心臓を内科的に治療するカテーテル治療や心不全が専門ですが、西洋医学のみならず伝統医療や代替医療など幅広く医療を修めています。ブログ『いのちを呼び覚ますもの』で紹介した本などの著書があります。 

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本書の帯

 

本書の帯には「健康を再定義せよ!」と大書され、「医学知識ゼロでもわかる『自分の仕組み』とは?」「東大の医師が教える、心身を大切にし続ける術」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「私たちが思い描く『健康』は、間違っている?」「『あたま』『からだ』『こころ』3つのつながりで健康を理解すると、自分だけの生きる基礎ができる! 古今東西の医学を駆使した目からウロコのレッスン!」と書かれています。
本書の「目次」は以下の構成になっています。

 

はじめに――「健康」を再定義してみる

第1章 「健康学」って何?

第2章 「からだ」のきほん

第3章 「からだ」と「こころ」のつながり

第4章 自分にとっての「健康学」

おわりに――「健康学」という学び

健康学を深めるためのブックガイド

 

「はじめに――『健康』を再定義してみる」の冒頭を、著者は「私は現在、大学病院の臨床医として働いています。専門の循環器内科は心臓を治療する部署ですが、私はその中でも血管の中から心臓を治療するカテーテル治療や、生まれつきの心臓の病気を扱う先天性心疾患が専門です。2010年からは週に1回、大学外で在宅医療を行っています。往診では心臓だけを診るわけではなく、からだ全体を診察しています」と書きだしています。

 

また、著者は「病」について以下のように述べています。
「心臓の治療がうまくいき、悪い部分はなくなったはずなのに、数年経つと心臓病が再発してしまうことがあります。心臓が良くなっても、その他の病気が原因で亡くなってしまうこともあります。『病』という敵にそのときは勝利したはずなのに、根本の原因が変化していなければ、『病』は形を変えて何度でも現れてくるのです」

 

続けて、著者は「健康」という言葉に言及します。
「そうかと思えば、医療スタッフも家族も、誰もがもうダメかと諦めかけたとき、驚異的な力で踵をかえして死の淵から生還するケースも多く経験しました。こういった経験や現場での対話の中で、『健康』という言葉の本質について考え直させられることになったのです」

 

さらに、著者は以下のように述べています。
「普段は意識しにくいことですが、私たちの生命は、『からだ』と『こころ』という2つの仕組みがうまく機能することで成り立っています。それらのことを考えたり悩んだりする『あたま』は『からだ』の一部であり、『こころ』の本当の働きを考えるときに重要な場所でもあります」

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「では、そもそもこの『からだ』と『こころ』はどのように働いているのでしょうか。そして、それらを基本としている、人間の生命の全体像とはどういうものなのでしょうか。それらを正面から考えずに、『健康』や『病気』を考えることは難しいのではないかと思います」

 

第1章「『健康学』って何?」では、著者は、わたしたちが「健康学」を考えるとき、はじめに知っておくべきことがあるといいます。それは「あたま・からだ・こころ」という3つの関係についてです。「肥大化した『あたま』」として、著者は以下のように述べています。
「私たちの『あたま』は、情報を伝える役割を担う神経系がどんどん複雑化したことで、虚構、フィクション、バーチャルリアリティを生み出すことができるようになりました。それはまるで『こころ』の働きのようですが、実際は『あたま』が生み出したものです。『こころ』の働きと混同しやすいので、『偽の心』と呼んでみましょう」

 

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福

 
ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

ホモ・デウス 上下合本版 テクノロジーとサピエンスの未来

 

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「これについてはイスラエル歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの著書『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』でも大きな主題の1つとなりました。そこには、人間の『あたま』の過剰な発達による認知革命により、私たちは『フィクション』を生み出して様々なものを共有できるようになったとあります。人間だけが国家、貨幣、言語、宗教などを共有できるようになったからこそ、現在の超高度情報化社会があるとも言えるのです」



また、著者は「あたま・からだ・こころ」について、以下のように述べています。
「『あたま』は、過去を振り返って未来をシミュレーションすることで『○○すべきである』という指令を出します。『私はこうしなければならない』『ここに行かなければならない』『努力しなければならない』と言い続けるのが役割です。それに対して『からだ』や『こころ』の言語は『○○したい』というシンプルなものです。『好き』『心地よい』といった感覚を最優先します。走りたいから思わず走る。声を出したいから出す。それが本当の『からだ』や『こころ』の表現です。両者の違いを簡単に言えば、『あたま』は嘘をつけますが、『からだ・こころ』は嘘をつけないということです。さらに言うと、『からだ・こころ』には嘘という概念はないのです」

 

さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「現代を生きる私たちは、『からだ』と『こころ』の働きよりも『あたま』の働きのほうが高度だと勘違いする傾向にあります。しかし、生命を維持するという究極の目的のためには、『からだ』や『こころ』の瞬時の判断以上に高度なものはないのです。そこには、損得も善悪も勝敗もありません。生命にとっては、生きる、生き続ける、生き延びるというのが至上命題です。そこには生命何十億年の歴史の中でたくましく生き延びてきた智慧も味方しているのです」

 

第2章「『からだ』のきほん」では、「単細胞生物から多細胞生物へ」として、著者は以下のように述べています。
「人間は、約60兆個の細胞からできている多細胞生物です。60兆(60000000000000)と一言で言ってしまいましたが、細胞1つひとつを、人格を持った人間だとイメージしてみてください。地球の人口は約77億人(2019年段階)ですから、地球約8000個分(!)の人たちが、私たちのからだの中で細胞として暮らしているのです」

 

また、「部分と全体の関係性」として、著者は述べます。
「約60兆個の細胞が時にはぶつかり合いながらも全体としては調和し、いくつもの臓器や器官が協力してからだは全体を維持しています。それはまるで、超巨大企業の組織のようなものです。1つの細胞を会社に所属する1人の社員と考えてみてください。あなたは60兆(地球8000個分)の人たちが働く超巨大企業というからだを、どうやって維持していきますか。例えば、臓器という『部署』が働かなくなったら会社は大混乱になるでしょう。それぞれの細胞が好き勝手に動いたら会社の倒産は目に見えています」

 

 

さらに、「複雑さを受け入れる」として、著者は述べます。
「心臓の治療をしていると、いのちが生死をさまよう瀬戸際、極限の領域に接することがあります。そのとき私は、とても深い海に潜っているようなイメージに包まれます。からだの深奥にある、聖域のような場所まで降りていく。そこではあらゆる要素がとても複雑に絡み合っており、ほんの少しのズレが全体を危機的な状況へと追い込んでしまいます。しかも、その複雑さやバランスは1人ひとり違うのです。『健康』にとって大切なことは、まず自分自身の『からだ』のことをしっかり知ることです。そのために、『からだ』のシグナルを感じ、『からだ』との対話の通路を開けておく。そのようなちょっとしたことが『健康』へとつながる道になります」

 

第3章「『からだ』と『こころ』のつながり」では、「こころの構造」として、著者は以下のように述べています。
「実は、『こころ』の捉え方は、西洋と東洋とで異なるようです。日本の臨床心理学の礎を作った河合隼雄(1928~2007)は、西洋と東洋の考え方の違いは、そもそも『わたし』という『こころ』の構造の違いに由来していると指摘しています。西洋では『自我(エゴ)』という意識活動を中心として『わたし』という全体像が作られています。それに対し、東洋では『自己(セルフ)』という意識活動と無意識活動の中心に、『わたし』という全体像が作られているのではないかというのです」

 

また、「まずは『からだ』を動かしてみる」として、著者は以下のように述べています。
「私たちの『健康』にとって重要なことは、短期的な結果を重視する『あたま』の声に押され続けるのではなく、長期的な展望を持つ『からだ』へと判断を委ね、実際に『からだ』を使ってみることです。もしそれで『からだ』や『こころ』が拒否したら無理して続ける必要はありません。無理に継続しようとすること自体が、『あたま』の押し付けになってしまうからです」


第4章「自分にとっての『健康学』」では、「『健康』のためにできること」として、著者は以下のように述べます。
「医療の現場では『生』だけでなく多くの『死』にも遭遇します。私たちは、誰一人として生老病死のプロセスから逃れることはできません。それは、生命という存在の前提であり本質そのものでもあるからです。私は、医師として多くの『死』に遭遇してきました。概念や情報としての『死』ではなく、生きた人間のリアルな『死』です。そんななか、学生時代から強烈に惹きつけられていた『能楽』から、気づかされた瞬間がありました」

 

人間はどこまで動物か――新しい人間像のために (岩波新書)

人間はどこまで動物か――新しい人間像のために (岩波新書)

 

 

「『健康』のための『死』」として、著者は述べます。
「動物学者のポルトマン(1897~1982)は、人間は他の哺乳類に比べて1年早く『生理的早産』で生まれてくると言いました。つまり、人間の生まれたときは『ゼロ歳』ではなく『マイナス1歳』であるということです。本来より1年早いため、運動能力も含めて未熟で自立できない存在として生まれてくるのが人間という種のようなのです」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「人類は、直立二足歩行をしたことで骨盤が矮小化し、発達した大脳のせいで頭蓋骨のサイズが大きくなり、赤ちゃんの頭が母親の骨盤を通過することが困難になりました。そこで、大脳を発達させながらも無事に生まれてくる矛盾を解決する奇策として、本来より1年早く母体から外の世界へ生まれ出て、周りに守られながら外界で脳を発達させる手段をとったのです」

 

さらに「充実した人生の入り口」として、著者は述べます。
「私たちは本来、生まれ、生き、死ぬというプロセスの中で生きています。誰も『死』から逃れられません。この世に生まれ、生きている以上、すべての人は必ず死を迎える。それは誰にも平等に与えられたけじめのようなものです。だからこそ、私たちが『健康』について考える意味があるのではないでしょうか」

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「『あたま』で合理化できる世界をはるかに超えた次元でいのちは活動し続けていて、『からだ』と『こころ』は自然のリズムと分かちがたく存在して生きているということに、時々思いを馳せてみてください。それこそが、私たちが生まれたときに与えられたいのちを、それぞれの寿命まで生き切ることにつながる道だと信じています」

 

「おわりに――『健康学』という学び」では、著者はこう述べています。
「私は現代医療は『病気学』で成り立っており、そこに足りないものは『健康学』だと思います。『病気学』だけではなく『健康学』へと視点を変えてみると、伝統医学やその他の医学も含め、あらゆる領域にそのヒントは散らばっています。さらに医学のフレームを外してみると、芸術や伝統芸能の世界などにも汲みきれないほどの知恵が溢れています」

 

最後に、著者は「健康を『病気を治す』ことに狭く限定して考えるよりも、『人間のからだ・こころ・いのちの知恵』という風に広く考えてみた方が、より自由により深く人間や生命の本質を探究していけるのかもしれません」と述べるのでした。本書は、非常にわかりやすい言葉で書かれた「健康学」入門であり、「幸福学入門」です。

 

何より感心したのは「健康」についての本でありながら、「死」の問題をポジティブに扱っていることです。人の命を救うための存在である医師が「私たちは本来、生まれ、生き、死ぬというプロセスの中で生きています。誰も『死』から逃れられません」と断言するのは爽快でさえあります。そして、「死」の先には「葬」があるのですが、そのことも著者はよく理解しています。

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巻末のブックガイド

 

というのも、本書の巻末には「健康学を深めるためのブックガイド」というページがあり、「『からだ』を深める」「『こころ』を深める」「健康学と東洋思想」「『老い』と『死』を深める」「健康学的『学び』を深める」の5つのテーマで32冊の書籍が紹介されているのですが、「『老い』と『死』を深める」の中に、なんと拙著『唯葬論』(サンガ文庫)が入っているのです!

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

 

 

著者は、『唯葬論』について、「一条さんは、膨大な実務仕事と、読書とブログを続ける超人です。本職である冠婚葬祭業の経験を深めて書いた本書は誰にも真似できない偉業です。『儀式論』(弘文堂)も輪をかけて壮大な座右の書」と書かれています。

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ジュンク堂池袋本店でのブックリストフェア

 

過分な評価に恐縮至極ですが、このブックガイドにはプラトンパイドン』、マルクス・アウレリウス『自省録』、世阿弥風姿花伝』、鈴木大拙『禅と日本文化』、谷崎潤一郎『陰翳礼賛』、神谷恵美子『生きがいについて』、河合隼雄ユング心理学入門』、、湯浅靖雄著『身体論』、岸見一郎『嫌われる勇気』といった古今東西の名著がずらりと並んでいるのですが、その中に『唯葬論』を加えていただきました。現在、ジュンク堂池袋本店で本書のブックリストフェアが開催中で、『唯葬論』も山積みされています。

唯葬論』(サンガ文庫)

 

じつは、『唯葬論』の文庫版の帯には、著者の推薦文が掲載されています。「人類や自然の営みをすべて俯瞰的に包含したとんでもなくすごい本です」「世界広しといえども、一条さんにしか書けません。時代を超えて読み継がれていくものです」という過分なコメントですが、本当に嬉しかったです。じつは著者は、自身のブログに「一条真也『唯葬論』(前編)」、「一条真也『唯葬論』(後編)」という記事を書いて下さいました。一部で「日本一の長文ブロガー」などと言われている(苦笑)わたしでさえ、「うっ、長い!」と思ったほどの力作でした。ブログ「未来医師のお宅訪問」で紹介したように、同書の見本が出た直後に、著者の御自宅を訪問して1冊お渡ししました。すっかり発信者としても有名になられましたが、これからも未来医師の大活躍に期待しています!

 

 

2019年11月7日 一条真也

『なぜ人は騙されるのか』

なぜ人は騙されるのか-詭弁から詐欺までの心理学 (中公新書)

 

一条真也です。
『なぜ人は騙されるのか』岡本真一郎著(中公新書)を読みました。「詭弁から詐欺までの心理学」というサブタイトルがついています。著者は1952年、岐阜県生まれ。1982年京都大学大学院文学研究科博士課程(心理学専攻)満期退学。愛知学院大学文学部講師、助教授、教授等を経て、現在は同大学心身科学部心理学科教授。専攻は社会心理学です。

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本書の帯 

 

本書の帯には「説得のテクニック 信じ込むプロセス」と大書され、帯の裏には「誇大広告や詭弁に騙される前に」として、以下のように書かれています。
「『オレだけど、会社の金を使い込んだんだ・・・・・・』。振り込め詐欺の典型的な手口だが、私たちはなぜ簡単に騙されてしまうのか。詐欺だけではない。店頭や電車内には、効果を誇張した宣伝があふれ、政治家や官僚は都合の悪いことを言い繕い、SNSでは根拠のないフェイクニュースが流布している。騙されないために、どう心構えし、行動すべきか。社会心理学の観点から冷静に分析し、対処法を伝授する」

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本書の帯の裏 

 

アマゾンには以下の「内容紹介」があります。
「対面、電話、メール、SNS・・・・・・私たちは日々、コミュニケーションを取っている。街には広告があふれ、テレビや新聞はニュースを伝える。それら多くの情報をどうやって処理しているのだろうか。中には、購買意欲がわくように効果を誇張した宣伝や、都合の悪いことを言い繕うためのごまかし、根拠のない誤情報も混ざっている。だまされないために、どう心構えし、対処すべきか。言語心理学から冷静に分析する」

 

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第1章 説得する――そのメカニズムを探る

第2章 宣伝する――広告に惑わされる

第3章 騙す――日常生活に潜む危険

第4賞 言い逃れる――詭弁を弄する政治家たち

第5章 信じ込む――フェイクニュースが跋扈する

「おわりに」
「引用・参考文献」
「注」

 

第1章「説得する――そのメカニズムを探る」の1「世の中をどのように判断するか――社会的情報処理」には、「私たちは考える前に行動している――自動的処理と制御的処理」として、著者は以下のように述べています。

「近年の心理学では、人の情報処理には大きく分けて2つのタイプがあると考えられている。その1つが自動的処理、そしてもう1つが制御的処理である。たとえば大人が簡単な文章を読むのであれば、一文字一文字、語句のいちいちにそれほど気を遣わずに全体の意味をどんどんつかんでいける。一方、小さな子供は声に出したり、指でたどったりしながら文字を1つずつ確かめ、それを組み合わせた単語の意味をとらえながら、ゆっくりと文章の意味を理解していく。前者が自動的処理、後者が制御的処理である」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「簡単に言えば、自動的処理とはいろいろ考える前にさっさと行われる効率的な情報処理で、制御的処理とはじっくり考えて行われるが効率的には劣った情報処理である。つまり、自動的処理とは、『非意図的、無意識的、制御不可能、効率的、速い』といったことで特徴づけられる。制御的処理はその逆であり、『意図的、意識的、制御可能、非効率的、遅い』という特徴を有する」

 

2「他者にどのように影響を与えるか――説得の過程」では、「感謝を先に言う」として、著者はこう述べています。
「コンビニのトイレなどで『いつも清潔にご使用いただきありがとうございます』といった張り紙を見かけることがある。ゴミ箱などにも『ゴミの分別にご協力いただき、ありがとうございます』という掲示がある。言うまでもなく、『ありがとう』と言うのは、通常は相手の行動を受けてからのはずだが、ここでは違う。相手に期待する『清潔にする』という行動を先取りした感謝先行メッセージである。もちろんこれは『清潔にすることが社会規範である』という前提があるからなのだが、こうした表現法の効果はどうなのだろうか。日本で行われたある研究では、この感謝先行型の表現の張り紙と『清潔に使用しましょう』といった張り紙の印象を比較すると、先行型のほうが印象がいいし、それに従おうという気持ちも強くなったことが報告されている」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「ある対象に繰り返し接触するだけで、それに対する好意度が増すのではないか、こう考えたのはロバート・ザイアンス(1923~2008)というアメリカの社会心理学者である。彼は、漢字を知らないアメリカ人たちに漢字のような図柄を見せ、それに対する好意を測定した。すると判断する前に見る回数が多かった図柄に対してのほうが、好意度が増していた。また、見知らぬ人の顔写真を呈示してその好意度を調べるという実験でも、その前に何回か見た顔写真に対してのほうが好意度が高くなっていた。このように『接するだけで好きになる』現象を単純接触効果と呼んでいる」

 

本書は全体的に硬い表現も目立ちますが、社会心理学の基本的な知識が紹介されており、わたしたちが日常生活の中で、「騙されない」ための有益な内容が書かれた本であると思います。わたしは、銀行の待ち時間の間に読破しました。

 

なぜ人は騙されるのか-詭弁から詐欺までの心理学 (中公新書)

なぜ人は騙されるのか-詭弁から詐欺までの心理学 (中公新書)

 

 

2019年11月6日 一条真也

月を見上げて、死を想う

一条真也です。
5日、「西日本新聞」に「令和こころ通信 北九州から」の第13回目が掲載されました。月に2回、本名の佐久間庸和として、「天下布礼」のためのコラムをお届けしています。今回のタイトルは、「月を見上げて、死を想う」です。

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西日本新聞」2019年11月5日朝刊

 

秋は月が美しく、各地で月見の会が開かれます。先日、わたしは八幡西区にあるサンレーグランドホテルで開催された「隣人祭り・秋の観月会」に参加したのですが、そこでは恒例の「「月への送魂」も行われました。

 

月への送魂」とは、夜空に浮かぶ月をめがけ、故人の魂をレーザー(霊座)光線に乗せて送るという「月と死のセレモニー」です。その日の夜空は月が厚い雲に隠れてハラハラしましたが、なんとか儀式の時間には姿を見せてくれました。300人を超える人々が夜空のスペクタクルに魅了されました。それにしても、なぜ月に魂を送るのでしょうか。じつは、わたしは月こそは「あの世」ではないかと思っているのです。

 

地球上の全人類の慰霊塔を月面に建てるプランを温めたりもしています。なぜ、月が「あの世」なのか。多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と密接に関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然でしょう。世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きており、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月なのです。

 

「葬式仏教」といわれるほど、日本人の葬儀やお墓、そして死と仏教との関わりは深く、今や切っても切り離せませんが、月と仏教の関係もまた非常に深いです。「お釈迦さま」ことブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったといいます。ミャンマーをはじめとした東南アジアの仏教国では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行います。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるかもしれません。

 

仏教のみならず、神道にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっています。地球人類にとって普遍的な信仰の対象といえば、太陽と月です。つねに不変の太陽は神の生命の象徴であり、満ち欠けによって死と再生を繰り返す月は人間の生命の象徴なのです。

 

「葬」という字には草かんむりがあるように、草の下、つまり地中に死者を埋めるという意味があります。「葬」にはいつでも地獄を連想させる「地下へのまなざし」がまとわりついているのです。一方、「送」は天国に魂を送るという「天上へのまなざし」へと人々を自然に誘います。

 

月への送魂」によって、葬儀は「送儀」となり、お葬式は「お送式」、葬祭は「送祭」となります。そして「死」は「詩」に変わります。秋の夜長、みなさんも、ぜひ月を見上げて、死を想ってみてはいかがでしょうか。



2019年11月5日 一条真也

「最初の晩餐」

一条真也です。
日本映画「最初の晩餐」を観ました。
11月1日から公開されており、気にはなっていたのですが、バタバタしてなかなか映画館に足を運ぶことができませんでした。ネットでも高評価ですが、通夜振る舞いを通して、「家族とは何か」を浮き彫りにする名作でした。



ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
染谷将太戸田恵梨香窪塚洋介斉藤由貴永瀬正敏らが出演したヒューマンドラマ。父の通夜に集まった家族が、父がノートに残した料理を食べながら父との時間を思い返す。メガホンを取るのは、本作が長編デビューとなる常盤司郎。共演は『地獄少女』の森七菜と楽駆をはじめ、山本浩司小野塚勇人、奥野瑛太諏訪太朗ら」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「父・日登志(永瀬正敏)の訃報を受けて帰郷したカメラマンの麟太郎(染谷将太)は、姉の美也子(戸田恵梨香)と葬儀の準備を進めていた。そんな中、母親のアキコ(斉藤由貴)が通夜に出されるはずだった仕出し弁当をキャンセルし、通夜振る舞いの料理を自分で作ると宣言。やがて目玉焼きを筆頭に、日登志とゆかりのある料理が出される。麟太郎はそれを食べながら、父と母の再婚、母の連れ子である兄シュン(窪塚洋介)との日々を思い出す」



この映画、まず、「通夜振る舞い」をテーマにしたことがユニークです。通夜振る舞いとは、通夜が終わった後、弔問客を別室に案内して酒食をふるまうことです。普通は寿司の出前や仕出し屋の料理などが出されますが、この映画では未亡人となったアキコ(斉藤由貴)が自分で料理を作ります。その料理の数々は、いずれも故人や遺族にとって思い出深いものばかりでした。



この映画に出演している俳優陣は実力者揃いでしたが、中でも戸田恵梨香演じる美也子の少女時代を演じた森七菜が良かったですね。ブログ「天気の子」で紹介したアニメ映画でヒロイン・天野陽菜の声を担当した女の子ですが、キラキラ輝く魅力の持ち主です。まだ18歳だそうですが、これからが非常に楽しみな女優さんですね。アニメで声優をやるくらいですから、とにかく彼女は声がいいです。現在、NHKの朝ドラ「スカーレット」で主演を務めている戸田恵梨香は、「最初の晩餐」の公開記念舞台挨拶で、森七菜を「なんてキラキラ輝いているんだろう、私はなんでこんなに声が低いんだろうと思い、うらやましかった」と自虐を交えて絶賛していました。



母親役の斉藤由貴と長女役の戸田恵梨香は、喪服姿が美しかったです。でも、母親は「不倫」の恋に人生を捧げた魔性の女で、なんだか斉藤由貴の実人生とオーバーラップしてしまいました。彼女が故人となった亡父との出会いが許されざるものであったと子どもたちに告白し、「いけないこととはわかっていた。それでも、あの人と会えなくなることは考えられなかった」と言い放つシーンには凄みがありました。あれだけ「不倫」でバッシングされたのに、ここまで「不倫」を前面に出した演技ができるのは、ある意味でたくましいというか、大したものですね。女優魂を感じます。

 

豪華キャストの「最初の晩餐」ですが、主演は染谷将太です。完成披露上映会では、常磐司郎監督から「7年前、たった3人で始めた企画。4人目に来てくれたのが染谷君」と説明された染谷将太は、「やらせてくださいって言ってから3年半は何もなく、音信不通状態になって。きっと飛んだんだろうなあ・・・・・・しょうがないと思っていたら『やります』と聞いて。最初は“自主映画”でしたよね」と笑い、「気づいたらこんな(豪華なキャストで)角川配給。うれしい限りです」とちゃめっ気たっぷりに語っていました。



この映画、登場人物がさまざまな事情を抱えています。母親も長女も長男も次男も、みんな複雑な個人的事情を抱えている・・・・・・それを全部きちんと説明しないのですが、映画を観ているうちに観客は自然に「ああ、多分こういう事情があるんだろうな」と推測し、納得し、あるいは共感していくという構図になっています。そして、それは通夜や告別式という葬送儀礼を描いているがゆえに成功していると言えます。葬儀のシーンを描き続けた映画監督に小津安二郎がいます。黒澤明と並んで「日本映画最大の巨匠」であった彼の作品には、必ずと言ってよいほど結婚式か葬儀のシーンが出てきました。小津ほど「家族」のあるべき姿を描き続けた監督はいないと世界中から評価されていますが、彼はきっと、冠婚葬祭こそが「家族」の姿をくっきりと浮かび上がらせる最高の舞台であることを知っていたのでしょう。その真理が「最初の晩餐」には見事に生かされています。

 

「最初の晩餐」では、染谷将太演じる麟太郎は、何度も「家族って何なの?」と周囲の人々に問いかけます。結婚を意識した恋人のいる彼にとって、それは本当に切実な問題なのですが、彼の問いに母親のアキコも、姉の美也子も答えられません。しかし、この映画の中にすでに「家族とは何か」の答えは出ているのです。すなわち、家族とは、誰かが亡くなったら葬儀を出す人間のことです。哲学者ヘーゲルは、ブログ『精神現象学』で紹介した主著において、「家族の最大の存在意義とは何か」を考察しました。そして、家族の最大の義務とは「埋葬の義務」であると喝破しました。

 

精神現象学

精神現象学

 

 

どんな人間でも必ず死を迎えます。これに抵抗することはできません。死は、自己意識の外側から襲ってくる暴力といえますが、これに精神的な意義を与えて、それを単なる「自己」の喪失や破壊ではないものに変えること。これを行うことこそ、埋葬という行為なのです。家族は、死者を埋葬することによって、彼や彼女を祖先の霊のメンバーの中に加入させるのです。これは「自己」意識としての人間が自分の死を受け入れるためには、ぜひとも必要な行為なのであると、ヘーゲルは訴えました。わたしも同意見です。

唯葬論』(サンガ文庫)

 

ヘーゲルの哲学はこれまでマルクス主義につながる悪しき思想の根源とされてきました。しかし、わたしは、ヘーゲルほど、現代社会が直面する諸問題に対応できる思想家はいないと思っています。『唯葬論』(サンガ文庫)でも、彼の「埋葬の倫理」を詳しく紹介しました。このヘーゲルの「埋葬の倫理」があったからこそ、宗教を否定する共産主義国家でも葬送儀礼は廃止されなかったのだと思います。



わたしは、この映画を観て、いわゆる「家族葬」のことを考えました。「葬儀は近親者のみで行います」として、「葬儀は家族葬で」というのが主流になりかけています。家族葬を選ぶ理由は以下のようなものが代表的です。

(1)高齢者
業者に葬式を依頼するにしても、見送る側の負担を最小限にしたい
(2)長い闘病生活を送った
遺族が長期の看病をした場合など、遺族の健康状態を考慮したい
(3)死の理由を公開したくない
自殺や特別な事故死など、最小限の参列者にとどめたい
(4)人付き合いがなかった
少子化の影響で親類の参列者が少なく、近所や職場での交流が少ない



これらの理由を見ると、「葬儀に来てくれそうな人たちが、みんなあの世に逝ってしまった」「長い間、闘病してきたので、さらに家族へ迷惑はかけたくない」、そんな思いが家族葬を選択させているようです。そして、そこには「ひっそりと葬式を行いたい」という思いが見え隠れしています。家族葬のこうした話を聞くたびに、本音の部分はどうなのか、と思ってしまいます。お世話になった方々、親しく交際してきた方々に見送られたいというのが、本当に気持ちなのではないでしょうか。その気持ちを押し殺して、故人が気を使っている場合はないのでしょうか。

葬式は必要!』(双葉新書

 

こうした理由で家族葬が選択されることに、わたしは不安を感じています。『葬式は必要!』(双葉新書)などでも訴えたように、そもそも、1人の人間は家族の所有物ではありません。社会の中で、さまざまな人々と、さまざまな関係性、すなわち「縁」を得て生きているのです。いま、日本の社会を表現して「無縁社会」などという言い方がされます。血縁、地縁、社縁といったすべての「縁」が絶たれた絶望的な社会だというのです。わたしは無縁社会を解決するひとつの方法は、葬儀について積極的に考えることだと思います。葬儀をイメージし、「自分の葬儀は寂しいものにはしない。お世話になった方々に、わたしの人生の卒業式に立ち会っていただくのだ」と思うだけで、人は前向きに生きていけるのでないでしょうか。葬儀を考えることは、今をいかに生きるかということにつながってくるのです。

葬式に迷う日本人』(三五館)

 

いま、多くの日本人が葬儀のあり方について迷っています。宗教学者島田裕巳氏との共著『葬式に迷う日本人』(三五館)の中で、わたしは「葬儀は最大のグリーフケア文化装置である」と述べました。葬儀には、残された人々の深い悲しみや愛惜の念を、どのように癒していくかという叡智が込められています。仏式の葬儀ならば、通夜、告別式、その後の法要などの一連の行事が、遺族に「あきらめ」と「決別」をもたらしてくれます。愛する人を亡くした人の心は不安定に揺れ動いています。しかし、そこに儀式というしっかりした「かたち」のあるものが押し当てられると、不安が癒されていくのです。



「最初の食卓」での通夜振る舞いのシーンを見ながら、わたしはブログ「四十九日のレシピ」で紹介した日本映画を思い出しました。原作は伊吹有喜原作の小説で、NHKドラマとしても放映されています。それぞれに傷つきながら離れ離れになっていた家族の、亡き母の四十九日までの日々を過ごす間に再生への道を歩む姿が描かれています。熱田良平(石橋蓮司)は、妻の乙美を亡くします。彼は、愛妻の急死で呆然自失としますが、2週間が過ぎた頃、派手な身なりのイモ(二階堂ふみ)という若い女性が熱田家を訪問してきます。突然現われたイモは、亡き乙美から自身の「四十九日」を無事に迎えるためのレシピを預かっているといいます。良平がイモの出現に目を白黒させているとき、夫(原田泰造)の不倫で、離婚届を突き付けてきた娘の百合子(永作博美)が東京から戻って来るのでした。淡々としたストーリーの中に繊細な人間ドラマが描かれており、観る者に静かな感動を与えてくれます。


三萩野紫雲閣の遺族控室のキッチン

 

「最初の食卓」や「四十九日のレシピ」のように、葬送儀礼にともなう食事で、参列者が故人ゆかりの料理を食べたり、飲み物を飲むことは素晴らしいことだと思います。きっと、料理や飲み物を通じて、死者と生者の魂は共鳴し合うのではないでしょうか。その意味で、北九州をはじめとした「通夜振る舞い」の慣習のない地域は残念であると思います。もっとも、現在はわが社の「三萩野紫雲閣」をはじめ、セレモニーホールの中にキッチン付きの控室が増えてきました。このキッチンを使って、故人が好きだった料理を作って遺族のみなさんが召し上がったりしています。わたしは、これが本当の家族葬ではないかと考えています。もしくは、病院などで亡くなられた後、いったん故人を自宅に帰してあげて1日を過ごす。そこで家族や親戚だけのお別れをして、翌日からは縁のあった方々に声をかけて、通常通りの通夜や告別式を行う。これで、初めて故人も浮かばれるのではないかと思います。



繰り返しますが、冠婚葬祭は「家族」の問題と密接に関わっています。「家族」の問題を描き続けて国際的な注目を浴びている日本の映画監督に是枝裕和氏がいます。ブログ「そして父になる」ブログ「海街 diary」ブログ「海よりもまだ深く」で紹介した一連の是枝映画では、現代日本の家族における諸問題を提示しています。不倫や離婚といった悩ましいテーマも正面からとらえ、家族の危機を描きました。



巣鴨子供置き去り事件をモチーフにして、「フランダース国際映画祭」のグランプリに輝いた「誰も知らない」(2004年)などもそうですが、是枝監督の作品にはいつも「家族」さらには「血縁」というテーマがあります。

「血がつながっているのに」が「誰も知らない」
「血はつながっていなくとも」が「そして父になる」。
「血がつながっているのだがら」が「海街diary」。
「血がつながっていても」が「海よりもまだ深く」。

そのように、わたしは思いました。そしてブログ「万引き家族」で紹介した映画は、一見、「誰も知らない」と「そして父になる」の間にあるようにも思えますが、その本質は「やっぱり血がつながっていないから」ということではないでしょうか。



万引き家族」に登場する人々は本物の家族ではありません。いわゆる「疑似家族」です。彼らは情を交わし合っているかのように見えますが、しょせんは他人同士の利益集団です。もちろん、家族などではありません。
家族ならば樹木希林扮する初枝が亡くなったとき、きちんと葬儀をあげるはずです。それを彼らは初枝の遺体を遺棄し、最初からいないことにしてしまいます。わたしは、このシーンを観ながら、巨大な心の闇を感じました。1人の人間が亡くなったのに弔わず、「最初からいないことにする」ことは実存主義的不安にも通じる、本当に怖ろしいことです。初枝亡き後、信代(安藤サクラ)が年金を不正受給して嬉々とするシーンにも恐怖を感じました。



わたしは、これまで是枝監督の映画はすべて観てきましたし、評価もしてきましたが、「万引き家族」を観て一気に気持ちが冷めてしまいました。そして、「ああ、この人は家族を描こうとしているけれど、家族とは何かがわかっていないな」と思いました。先ほども述べたように、「家族とは葬儀をあげる者」です。そんなこともわからない人の映画は観る気がしなくなりました。これまでの是枝映画も、なんだか色褪せて見えてきました。「最初の晩餐」が上映されているシネコンでは是枝監督の最新作「真実」も上映されていましたが、わたしは観る気はありません。「真実」に主演しているカトリーヌ・ドヌーヴは好きな女優でしたが、今回は嫌いになりました。一連の是枝映画よりも、「最初の晩餐」のほうがずっと見事に家族を描いていると思います。

 

2019年11月5日 一条真也

『教養としてのヤクザ』

教養としてのヤクザ (小学館新書)

 

一条真也です。
『教養としてのヤクザ』溝口敦・鈴木智彦著(小学館新書)を読みました。わたしが住む北九州は以前は「ヤクザの街」などと呼ばれましたが、徹底した暴力団追放運動が功を奏したようで、すっかり「ヤクザと無縁の街」になりました。それで、懐かしさもあって本書を読んだ次第です。共著者である溝口氏は1942年、東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業。ノンフィクション作家。『食肉の帝王』で2004年に講談社ノンフィクション賞を受賞。ブログ『暴力団』で紹介した本の著者でもあります。鈴木氏は1966年、北海道生まれ。日本大学芸術学部写真学科除籍。ヤクザ専門誌「実話時代」編集部に入社。「実話時代BULL」編集長を務めた後、フリーに。 

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本書の帯

 

本書の帯には「あの芸人にも読ませたい。」と大書され、「暴力団取材のプロが教える‟反社”会学入門」と書かれています。また帯の裏には、「ヤクザと五輪」「ヤクザと選挙」「ヤクザとテレビ」「ヤクザと大学」「ヤクザと憲法」「ヤクザとLINE」「ヤクザとタピオカ」「私たちの知らないところで、‟彼ら”と社会はつながっている」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「吉本闇営業問題で分かったことは、今の日本人はあまりにも『反社会的勢力』に対する理解が浅いということだ。反社とは何か、暴力団とは何か、ヤクザとは何か。彼らと社会とのさまざまな接点を通じて、『教養としてのヤクザ』を学んでいく。テーマは、『ヤクザとメディア』『ヤクザと食品』『ヤクザと五輪』『ヤクザと選挙』『ヤクザと教育』『ヤクザと法律』など。その中で、『ヤクザと芸能人の写真は、敵対するヤクザが流す』『タピオカドリンクはヤクザの新たな資金源』『歴代の山口組組長は憲法を熟読している』など、知られざる実態が次々明らかになっていく。暴力団取材に精通した二大ヤクザライターによる集中講義である」

 

さらにアマゾンには、 【編集担当からのおすすめ情報】として、以下のように書かれています。
暴力団取材の第一人者である溝口敦氏と、『サカナとヤクザ』がベストセラーになった鈴木智彦氏が、ヤクザと社会の意外な接点を明らかにしていく展開は、目からウロコの連続です。反社について学ぶことは、裏面から日本の社会を学び直すということなのかもしれません」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」(鈴木智彦)

第1章〈ヤクザと食品〉

     新たな資金源はタピオカドリンクだった

第2章〈ヤクザと副業〉

     現代の賭場はLINEのゲームである

第3章〈ヤクザと五輪〉

     東京五輪バブルを最も待ちわびる面々

第4章〈ヤクザと選挙〉

     政治家が頼る禁断の集票マシーン

第5章〈ヤクザと教育〉

     大学教授にはなぜかヤクザマニアが多い

第6章〈ヤクザと法律〉

     山口組組長は憲法を熟読している

第7章〈ヤクザとメディア〉

     闇営業反社側が追及されない理由

第8章〈ヤクザと平成〉

     震災、オウム、北朝鮮とヤクザの関係

終章 〈ヤクザと令和〉

     山口組分裂によって暴力団は絶滅するのか

「おわりに」(溝口敦)



「はじめに」の冒頭を、鈴木氏はこう書きだしています。
「昭和の実話誌を開いてヤクザのインタビューを読むと、かなりの組長・幹部が『いいもんを食って、いい女を抱いて、いい車に乗るためにヤクザになった』と身もふたもない告白をする。貧困や差別のなかを蠢いていた持たざる者たちにとって、ヤクザは体ひとつで成り上がれる最短距離だったのである。
実際、根性と胆力、腕っ節と運さえあれば、出自を問われず、学歴不要で、入社試験もなかった。抗争事件で殺されればおしまいだが、対立相手を殺害して長い刑務所生活を送ることになっても、10~20年後に出所すれば、多額の功労金と大幹部の椅子が約束されていた。駆け出しの若い衆たちは、親分たちの豪華な暮らしと羽振りの良さに憧れ、いつか俺も親分になってやると心に誓った。ヤクザという生き方は、一種、ジャパニーズドリームの体現だった」



続けて、鈴木氏は以下のようにも述べています。
「金ばかりでなく、精神的な充足もヤクザにはあった。男になりたい、男でありたい、男で死にたいと嘯くヤクザたちは、男たちのロマンチシズムをいたく刺激し、ヤクザ映画が量産された。金が儲かるうえ、周囲の羨望を集める。時折訪れる刑務所生活は、理想の生活を送るための、いわば税金のようなもので、それさえ我慢すればなかなかの人生だったろう。太く短く燃え尽きる・・・・・・刹那的かつ享楽的なヤクザの生活は、平成に入って徐々に変わっていった。というより、社会が少しずつ、しかし、確実にヤクザを追い詰めていった。平成4年、暴力団対策法が施行された頃は、まだ右翼と左翼とヤクザがタッグを組む自由闊達さがあり、彼らは連帯してシュプレヒコールをあげた。ばかりか、極道の妻たちが『このままでは生きていけない』とプラカードを掲げ、銀座をデモ行進できる時代だったのだ」



平成7年夏、鈴木氏はヤクザ専門誌の編集部に入社。その後フリーになってからは、ひたすら暴力団への直接取材を行いました。「現実という大きな山を登るため、裏道を選んだはずなのに、この道が社会のあらゆる場所につながっていて驚かされた。各種の犯罪や同和という社会問題はもちろん、ヤクザは政界、財界、芸能界とも直結していた。飲食、興行、土木建築、人材派遣はおろか、食肉や漁業といった一次産業にさえヤクザというドアからつながった」と述べています。



さらに鈴木氏は、以下のように述べるのでした。
暴力団排除条例はヤクザを根本から変えてしまった。銀行口座を持てず、生命保険に入れず、自動車の任意保険にも加入できないのだから、もはやまっとうな社会生活は送れない。就職もできず、起業もできず、あちこちで暴力団という属性が邪魔になる。金を貸した相手からの返済が滞り催促しただけでも、警察に駆け込まれれば暴力団の側が罰せられる。ばかりか暴力団であることを申告せずゴルフ場でプレーしたり、ホテルに泊まったり、クレジットカードを申請すれば詐欺罪で有罪になる。最近、暴力団幹部が検挙された事案はほとんどがこの類型で、データ上、警察の実績をアピールするためのまやかしに過ぎない。もはや、抗争事件が迷宮入りとなる例はめずらしくない。実行犯は今もなに食わぬ顔で寄り合いや義理事に参加し、市民社会のただ中で暮らしている」



第2章「〈ヤクザと副業〉現代の賭場はLINEのゲームである」では、「LINEスタンプを販売」として、以下のような会話が交わされています。
溝口 ヤクザのシノギというと、大雑把に言えば、覚せい剤の密売とノミ行為を含めた賭博、管理売春、みかじめ料の4つがある。
鈴木 この4つをシノギの“本業”とすれば、それら以外は“副業”ですかね。
溝口 ヤクザの本当の本業は“暴力”で、それ以外は全部副業なのかもしれないけど、シノギという範疇のなかではそうなりますか。ヤクザのシノギを見ていくと、まさに今のヤクザが置かれている状況というものが見えてきます。ヤクザが新たなシノギを見つけても、警察はそれをしらみ潰しに潰していく。そのたびに、ヤクザは生計の道が絶たれていくんです。



また、「ヤクザの本業は喧嘩」として、以下のような会話が交わされます。
溝口 ヤクザの本業とは何かというと、喧嘩なんです。喧嘩に勝てば金が湧いてくる。怖いというイメージを植えつけることで、一般人は震え上がってヤクザにみかじめ料を渡すし、怖いイメージを利用して示談交渉や取り立て、地上げをするんですから。それが今はなくなってしまっている。ただ、カタギ相手にしか暴力を行使しないヤクザは、ヤクザの世界では尊敬されませんけどね。
鈴木 カタギをいじめるのはダメ。やっぱりヤクザを相手にして暴力で叩き伏せられるヤクザは尊敬される。



第3章「〈ヤクザと五輪〉東京五輪バブルを最も待ちわびる面々」では、「五輪競技団体とヤクザ」として、溝口氏が次のように述べています。
「愚連隊上がりの大卒ヤクザには、大学でボクシングをはじめ、空手、相撲などの格闘技をやっている者が多かった。ヤクザの基本は、『ステゴロ(素手の喧嘩)でとにかく強くなくてはいけない』ということ。20代までに喧嘩の力をつけておくべきとされているので、格闘技を習うのはちょうど良かったんです。大学で格闘技系の部活をやっていた人から、プロのボクサーや相撲取り、格闘家などになる人もいれば、ヤクザになる人もいて、同じ釜のメシを食った者同士なのでヤクザとの接点が生まれる。この人脈からお互いの世界がつながるんですね。ついでに言うと、格闘系の部活から警察官になる人たちも多い。右翼も多い。だから、武道・格闘技系の競技関係者は、暴力団にも顔が利くし、警察にも顔が利くし、右翼にも顔が利く」



また、「柔道・剣道は警察のシマ」として、以下のような会話が交わされています。
鈴木 五輪競技ではないけども、暴力団と言えば相撲ですね。
溝口 力士上がりのヤクザは多いですからね、昔から。
鈴木 大学の相撲部からヤクザになるケースだけでなく、ヤクザが自分の息子を親方に「面倒見てください」とお願いして相撲部屋に入れるケースもある。電話1本で頼めるラインがある。ところが、息子のほうは辛い稽古に耐えられず、結局ヤクザになってしまうという。
溝口 暴力団がプロレスの興行を打つことがありますが、相撲も江戸時代以来、興行の扱いで、ヤクザが主催して神社の境内で行なわれていた。テキ屋の高街と一緒で、江戸時代からの歴史があるんです。
鈴木 昔は神社の境内で博奕をやっていて、その横で相撲の興行を開いていた。ちょうどラスベガスのカジノの横でボクシングの世界戦やっているのと同じ。賭場の余興だったんです。人足手配の頭が土俵に上がったりするから、刺青の入ってる力士もけっこういたと言われている。こういった賭場の余興だったとか、力士がヤクザだったとかいった部分がいつのまにかすっ飛ばされて、相撲は「神社でやっていたから神聖な神事だ」ってことになり、国技にまでなった。



第5章「〈ヤクザと教育〉大学教授にはなぜかヤクザマニアが多い」では、鈴木氏が以下のように述べています。
「ヤクザが大学関係者と付き合うメリットはほとんどないが、ヤクザはブランド志向だから、大学教授と付き合いがあるというのはステータスにはなる。暴力団ってパッとお金を貸せる人たちだから、相手が大学教授なら貸すでしょう。あと、チンピラレベルで美人局やっているようなヤクザなら、大学教授は地位も名声もあるからカモにしやすい。東京の超有名私立大学の教授が女子大生と関係を持ったら、実はヤクザが絡む美人局だったんじゃないかと疑われる事件も実際にありました」

 

鈴木氏は10年くらいかけて暴力団員を対象にしたアンケートを取ったことがあるそうです。700件ほど集めたところ、大卒のヤクザは7%弱で40人もいました。今でこそ大学進学率は50%くらいになっていますが、数十年前は2~3割程度だったので、鈴木氏は「ヤクザの世界で7%というのはけっこう高いな」と思ったとか。なにしろ暴力団では一般と価値観が逆転していて、学歴はないほうがいいし、刑務所に入った経験はあったほうがいい。少年院に入っていたらなおいい。そういう世界にしては、意外に大卒が多いなと思ったわけです。

 

六法全書 平成31年版

六法全書 平成31年版

 

 

「無罪を勝ち取った組長」として、会話が交わされます。
鈴木 憲法や法律のことを熟知した組長ってけっこう多いですよね。
溝口 そうですね。ヤクザにとっては法律を勉強するのも仕事の一環と言えます。
鈴木 ヤクザが法律に詳しいのは、何をしたら捕まるか捕まらないかというのをはっきり認識しておかないと、「違法だから逮捕する」と警察に言われたときに戦えないからです。サラリーマンが自社の製品や仕事のマニュアルを勉強するのと同じノリで法律を勉強している。法律を勉強していった先に、憲法にも行き着くんだと思います。
溝口 それと、逮捕されて拘置所や刑務所に入っているとヒマなんですよね。弁護を依頼した弁護士の理論構成に満足できないと、ヒマに飽かせて法律書を読みふけり、自分で弁護の理論を組み立てて、裁判を戦おうとする人もいる。

 

こども六法

こども六法

 

 

また、「武器としての法律」として、鈴木氏は以下のように述べています。
「法律とか人権とかそんな高尚な話ではなくて、ヤクザからしたら、『武器としての人権』であり、『武器としての法律』なんですよね。自分たちの都合の良い人生をおくるための武器で、時と場合によっては法律を破っても捕まらないようにするための武器にして使う。今、憲法改正の議論のなかで、『法律は人を縛るもの、憲法は権力を縛るもの』という考え方があるらしいけど、まさにヤクザにとっての憲法は権力と戦うための武器であって、その意味では先進的なのかもしれません」
最近、ブログ『こども六法』で紹介した本がベストセラーになりました。拙著『儀式論』の編集者である外山千尋さんが手掛けられた本ですが、いじめの被害に遭っている小中学生やその親によく読まれているそうです。法律とは、いじめと戦う武器でもあるのです。

 

また、「ヤクザは左翼系弁護士を頼る」として、鈴木氏は以下のように述べています。
「1992年に暴対法ができて、その後、2004年に、広島県広島市公営住宅の入居資格について『本人とその同居親族が暴力団対策法に規定する暴力団員でないこと』と条例で規定し、全国の暴排条例の元になる条例が誕生しました。それで広島市は、市営住宅に入っている暴力団を追い出すことになって、市と組員の間で裁判になった。このときに『暴力団を理由に一定の条件で排除したとしても差別には当たらない』という判例が出て、暴力団排除の法的実績ができた。それが2010年以降に全国の自治体で暴排条例が生まれていく流れにつながっています」



これについて、溝口氏は次のように述べています。
「暴対法と暴排条例は矛盾しているんですよ。暴対法では、『暴力団とは』という定義づけがあって、『指定暴力団』という定義を設けた。指定暴力団は日本の暴力団のほとんどすべてをカバーする概念ですが、指定暴力団に指定されるとどうなるのかというと、たとえば、用心棒代をとったら中止命令を出し、2度目やったらアウトで罰金100万円、懲役1年未満を科すといったことが決められている。どういうことかというと、暴力団を組織することは憲法の『結社の自由』で認められていて、暴対法という法律そのものが、指定暴力団という形で暴力団の存在を認めているということ。多くの人が誤解していますが、暴力団の結社は違法ではない。暴対法は存在を認めたうえで、こうした行為をしたら懲役や罰金などを科すと規定しているわけです。これがイタリアや香港だったら、マフィアは『結社の自由』の除外規定に該当し、存在自体が認められていません。結社を結ぶこと、加入を呼びかけること、メンバーになること、この3つをすべて禁止している。ここの違いが日本の特殊性と言えます」

 

この問題について、さらに以下の会話が交わされます。
鈴木 暴対法という暴力団対策のための法律によって、逆に、暴力団は法で認められた存在になった。
溝口 そうです。ところが、暴対法で暴力団を認めているにもかかわらず、暴排条例や銀行・不動産業などの「暴力団排除要綱」では「利益供与禁止だ!」と言って、暴力団組員とわかっている者を雇用してはいけないとか、事業の契約、金銭の貸し借りを禁じるとか、公営住宅には入居させないとか、賃貸契約の拒否や解除ができるとか、暴力団と関わりのある会社は公共工事には参加させないとか、暴力団組員の生存権に関わるような規定がされています。暴排条例は、実質的に暴力団の存在を否定しているのです。鈴木 だから、暴排条例は、法律より一段低い条例にするしかなかった。法律にはできないんですよね。
溝口 ダブルスタンダードになりますからね。

 

法の下の平等がない」として、溝口氏はこう述べます。
「今ヤクザに対しては『法の下の平等』が全然ないんですよ。彼らが言いたいことはよくわかる。現状はあまりにも酷い。殴られて、殴られっぱなしになっている。情けないのはヤクザの側で、これだけ突っ込みどころのある暴排条例に対して、ちょっと声を上げただけで、すぐに引っ込めて長続きしないことですよ」
「要するに彼らは言い出しっぺだけで、この問題を心得ていない。生存権に関わってくる状況なのに、何もしていないでしょ。もはや末端の組員のセーフティネットは刑務所だけになっている。刑務所に入れば、とりあえず本人の衣食住は保障される。だけど、女房・子供の分までは出ないから、お前らは勝手にやってくれよとなる。だから、離婚するヤクザはすごく多い。上の人間は現状でも食えているが、下の人間は苦しんでいるということです。『法の下の平等』とかもっともらしいことを言うけど、下の人間の生活を見ていないから、生活感がない」



第7章「〈ヤクザとメディア〉闇営業反社側が追及されない理由」の冒頭を、鈴木氏は以下のように述べています。
「今年の6月に、カラテカ・入江慎也の紹介で、宮迫博之田村亮など吉本芸人が特殊詐欺グループの忘年会で闇営業をしていたことがわかり、大問題になりましたが、テレビや新聞におけるヤクザ報道というのが決定的に変わったと思いますね。暴排条例以降のヤクザのニュースって、ヤクザが主役の「抗争」ではなくなってしまったんですよ。ヤクザは表に出てはいけない人たちになって、その裏世界の人間と芸能人やスポーツ選手や政治家が接点を持ってしまったということがニュースになるように変質してしまった。接触した有名人のほうにスポットが当たるようになっている」



もともと、かつてヤクザと芸能界が深い仲であったことは誰でも知っています。「黒い交際なんてみんな知っていた」として、溝口氏は「昔は当たり前でしたからね。ヤクザ映画が華々しかった頃はね、『ヤクザと付き合わずにヤクザ映画に出演できるか』というような気風があったみたいよ。しかしながら、俳優がみなヤクザ映画に出るわけでもないし、自分からわざわざ近づいていったというより、もっと、なんていうかな、盛り場に遊びに行ったら、ヤクザに『ようようよう』と呼ばれて、『お前の今日の勘定持ってやるよ』と言われて、すっかりゴチになったぜ、みたいな、そういう話だと思うんだ、もともとは。要するに、彼らは遊び場が一緒なんです」と述べています。


 

 

鈴木氏も、ヤクザと芸人の関係について述べています。
上岡龍太郎が昔の番組でしゃべっていた内容がネットで話題になっていて、ヤクザと芸人は同種の人間だと。『腕が達者なのがヤクザで、口が達者なのが芸人で、根っ子は目立ちたがりで同じだ』と。けっこう鋭いところを突いている。だから、ヤクザと芸人はすごくつながりやすいし、強い男に対する憧れも同じように持っているということ」
それにしても、「腕が達者なのがヤクザで、口が達者なのが芸人」とは、上岡龍太郎もうまいことを言いますね。さすがです!

 

「おわりに」では、溝口氏が以下のように述べています。
「ヤクザ、暴力団の勢力が全国おしなべて縮小していることに明らかだが、ヤクザは分裂しつつ縮小している。おそらく全国主要都市に勢力を扶植する広域暴力団が時代に合わなくなってきたのではないか。取り締まりと法律でがんじがらめにされ、抗争することがほぼ不可能になった時代に『大』は必ずしも『強』ではなく、他団体を吸引する力にはならない」



令和の時代のヤクザはどうなるのか?
溝口氏は、以下のように述べています。
「これからのヤクザは地域に根ざし、地域に密着した小団体でなければ、生き残りは難しい。ヤクザ、暴力団は地域や警察に対して融和的でなければ生き残れない。他方、ヤクザ、暴力団をしのぐ勢いで半グレ集団の暗躍が目立っている。警察はその勢力や参加メンバーを把握していず、特殊詐欺の被害額などから、わずかに彼らの増殖を推測しているに過ぎない。半グレがヤクザに比べて人数が多いのか少ないのか、その1人当たり稼ぎ額がヤクザより多いのか少ないのか、ほとんど何もわかっていない。単に彼らの犯罪による被害額の一部が統計により明らかにされているだけだ。たとえば2018年、彼らによる特殊詐欺被害額は356億8000万円に及んだ。半グレ集団は特殊詐欺以外にも新しいシノギを創出している。金のインゴット密輸、ビットコインの販売やマイニング(掘削)、少し前には危険ドラッグの製造と販売、そして2003年頃オレオレ詐欺などの特殊詐欺を考案、以後一貫して実行し、太い資金源としてきた」



では、ヤクザと半グレはどう違うのか?
溝口氏は、以下のように述べています。
「ヤクザは暴力的にはともかく、経済的には半グレに押されている。半グレはもともとヤクザの親分―子分関係には従えないとするグループである。ヤクザに接近すると、ヤクザからたかられるだけと警戒する者たちだから、基本的に両者は別立ての犯罪集団である。だが、ヤクザの零細化につれ、ヤクザからさえも脱落する元組員たちを吸収する受け皿にもなる。少数だが、逆に半グレからヤクザに移籍する者もおり、一部で両者の混ざり合いが見られる。ヤクザ、暴力団は犯罪という闇に足を置きつつ、半分だけ社会に認められている存在だった。世間に認められてナンボの『半社会的』存在なのだ。対して半グレは凶悪犯罪をあまり手掛けず、詐欺などの経済犯罪を専門にしながらも、とにかく世間に隠れて犯罪をシノギとする『アングラ』の存在である。半グレはシノギ以外の分野では法的に堅気であり、よって暴対法も暴排条例も適用されない」



そして、溝口氏は以下のように述べるのでした。
「江戸期以来、日本に存在したヤクザは男伊達を売る『半社会的』存在だった。『何某組』と堂々看板を掲げる犯罪組織は他の国にはなかった。その意味でヤクザは特殊日本型の犯罪組織として独自の存在だった。それが今、消滅に近づいている。その後にアングラ化した半死半生の犯罪グループが残る可能性がある。こうした状態は日本の裏社会が特殊日本型の犯罪組織を失い、遅ればせながら諸外国並みになったともいえよう。ヤクザのアングラ化は必ずしも恐るべきことではない」

 

このブログの冒頭に書いたように、わたしが住む北九州市は「ヤクザ」のイメージが強かった時期がありました。田川をはじめとする筑豊も「ヤクザ」のイメージが強いですが、こちらもわが社の営業エリアです。よく、「北九州や筑豊で商売をされていると、因縁をつけられたり、トラブルになったりしませんか?」などと聞かれますが、そんな経験は一度もありません。わたし自身、もう30年以上も小倉の夜の街で飲み歩いていますが、それらしき人に会ったこともほとんどありません。一度だけ、雨がしとしと降る日に、目つきの悪い奴から「どこの組の方ですか?」と言われましたが、わたしは「意味がわからんのお」と言って、そいつを睨みつけてやりました。正直、わたしはたくさん酒を飲むと、気性が荒くなる時があります。もしかすると飲んでいるときの自分はヤクザに近いオーラが出ているのでしょうか。

 

そういえば、最近、小倉の街に増えた半グレ風の呼び込みが執拗に客を勧誘することで問題になっているようですが、わたしはなぜか一度も勧誘されたことはありません。よく彼らと目は合うのですが、なぜか先方が視線を逸らします。そのことを妻に言うと、「きっと、あなたがヤクザに見られてるのよ!」と言うのですが、行きつけの酒場のママさんなどは笑いながら「こんな上品なヤクザがいるもんですか!」と言ってくれます。わたしのことはどうでもいいとして、ただでさえこれまで遭遇しなかったヤクザなのに、これからますます会う機会はなさそうですね。まあ、それに越したことはありませんが・・・・・・。

 

2019年11月4日 一条真也

『ハラスメントの境界線』

ハラスメントの境界線-セクハラ・パワハラに戸惑う男たち (中公新書ラクレ)

 

一条真也です。
11月3日は「文化の日」ですね。
『ハラスメントの境界線』白河桃子著(中公新書ラクレ)を読みました。「セクハラ・パワハラに戸惑う男たち」というサブタイトルがついています。著者は生まれ。慶応義塾大学文学部卒業後、住友商事外資系証券などを経てジャーナリスト、作家に。働き方改革少子化、キャリアデザイン、女性活躍、ダイバーシティジェンダーなどをテーマとし、執筆、講演、テレビ出演多数。数々の提言を政府の委員としても行っているそうです。著書多数。

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本書の帯 

 

本書の帯には「セクハラ」と「パワハラ」のイラストとともに、「何がアウトかわからない」「困惑するすべての働く人に知ってほしい」「これからの会社のあるべき姿とは――今こそ知っておくべきハラスメント最新事情」と書かれています。

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本書の帯の裏 

 

帯の裏には、「以下のうち、当てはまるものはありますか?」として、「容姿をほめたらクビになると思っている」「ハラスメント通報されたら即刻アウトだと思う」「相手が笑顔ならボディータッチもOK」「部下に厳しく当たっても愛があれば大丈夫」「仕事ができれば、プライベートで何をしても仕方ない」という項目が並び、最後に「一つでも当てはまったあなたは、アップデートが必要です」と書かれています。


アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「2018年4月18日、財務省事務次官がセクハラで訴えられ、辞任しました。皆さんの記憶にも残っていることでしょう。その後、霞が関では野田聖子女性活躍担当大臣が『セクハラ緊急対策』をまとめて対処し、まさに今、法改正も視野に入れた労働政策審議会が行われています。既に過去のことのように思われているかもしれませんが、あの事件をきっかけに、セクハラに対する認識が変化し、日本での#MeToo運動にも拍車をかけています。
『でも、自分はすごいエライ人ではないし、遠い世界の話でしょ』 そう思っている方もいらっしゃるかもしれません。しかし、外資系企業をはじめ、日本国内でも、セクハラに対する意識改善の波が押し寄せてきているのです。そんな世の中になれば、企業側も対応せざるを得なくなってきます。『ブラック企業か否か』と同じくらい、人材獲得のための重要なポイントでもあるわけです。
『セクハラは悪いことって知っているし、自分はそんな悪いことはしてないはず』 各個人、特に男女による認識の違いは、明らかです。世代の違いによるムラもありますが、女性が見たら絶対にセクハラだと思うようなことが、男性には全く気付かれていない、それの際たるものが、冒頭に述べた財務次官だとも言えます。言葉遊びの感覚で、他人を卑下していることもあります。
『いつセクハラで訴えられるか分からないから、コミュニケーションは極力避けよう』 これでは、企業として正常な生産をあげることができません。女性の社会進出が促進されるこれからの時代、「コワイから話さない」では済まされません。 これからの社会を生き抜く方法を知れば、会社の中でも、自分の居場所を作ることに繋がります。「何がイエローカードなのか」を知ることが、あなたがこれまで築き上げてきたキャリアを守ることにもなるのです。アウトになってしまう前に、身辺を見直してみませんか?」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

はじめに「日本はハラスメント後進国です」
「日本企業はグローバル・スタンダードから20年遅れ」
第1章 ハラスメントを気にする男たち
第2章 女性から見たハラスメント
    営業女性怒りの覆面座談会
第3章 財務省セクハラ事件とは何だったのか?
第4章 企業の懲戒はどう決まるのか?
    五味祐子弁護士×白河桃子
第5章 #MeToo以降のハラスメント対策最新事情
    組織がハラスメントをアンラーニングするために
第6章 同質性のリスクは組織のリスク
「おわりに」
「主な参考文献」

 

「セクシャル・ハラスメント」という言葉が新語・流行語大賞の新語部門・金賞になったのが1989年。それ以来の大きな分岐点、それが事務次官が辞任表明した日でした。「ハラスメントをしても仕事ができる人」は「仕事はできてもハラスメントで会社にリスクをもたらす人」になったのです。「はじめに」で、著者は以下のように述べています。
「ハラスメントは『人権問題』でもあり、職場の生産性、リスクマネジメント、人材獲得に関わる重大問題です。人権といってもピンとこない男性こそ、もしかしたら『職場で家庭で人間として扱われていない』のかもしれません。でもそんな時代も終わりです。仕事という枠に人間を当てはめる仕事中心のマネジメントから、個々をありのままに大切にする『人間中心』のマネジメントへ。時代は動いていきます。企業はそうしないと生き残れないからです」

 

第2章「女性から見たハラスメント」では、著者は以下のような文章を紹介しています。
イリノイ州立大学の、セクハラ研究のパイオニアといわれるジョン・プライヤー教授は、ワシントンポストの記事の中で、セクハラをする人には3つの共通した特徴があると述べている。3つとは、(1)共感力の欠如、(2)伝統的な性別の役割分担を信じている、(3)優越感・権威主義だ。そのうえで、プライヤー教授は「(セクハラを行う人を)とりまく環境も大きく影響している」と指摘している。そうした傾向のある人を、そういったことが許される環境に置けば、歯止めが利かない。Impunity(免責状態)にあることが、(セクハラを行うか行わないかに)大きく関連する。(岡本純子「エリート官僚がセクハラを否定する思考回路」『東洋経済オンライン』2018年4月24日)」

 

第3章「財務省セクハラ事件とは何だったのか?」では、著者は以下のように述べています。
「スーパースター(とびきり有能な人)が組織にもたらす利益よりも『有害な人材』がもたらすデメリットのほうが大きい。これは『マイナスの影響はプラスよりも大きい』という法則にもあっています。
ではスーパースターがセクハラ人材だった場合はどうなのでしょう? 『有害な人材』は結構仕事ができたりもします。それでもやはり『有害人材』のマイナス面が大きいのです。財務省の事件を見れば一目瞭然ですね。財務省の評判は地に落ち、また適切な対処ができなかったテレビ朝日も傷つきました。被害者はもちろん、関わる組織全体のモチベーションが落ちます。国会は停滞し、大変なリスクです。これも『ハラスメントをする人』を『仕事ができる人』として重用していたからです」

 

第4章「企業の懲戒はどう決まるのか?」では、「企業、キャリアにとってハラスメントはなぜリスクか」として、「♯MeTooからの時代の流れ、そして法改正があり、今後、企業や働く人はどんなことを心得ておくべきでしょう?」という著者の質問に対して、五味祐子弁護士が以下のように答えています。
「まず、時代は変わっていることを認識すること。ハラスメントは企業にとっても、個人にとっても大きなリスクです。まず、企業にとっては、職場環境の悪化、生産性の低下、企業イメージの低下、人材確保への悪影響・・・・・・。企業の不祥事の背景としてパワハラが指摘されています。パワハラは、部下を不正に追いやり、不正の温床にもなります。こうしたリスクを冷静に見極めている会社は変わらなくてはいけないと感じています。旧態依然としていた企業でも、この1、2年でずいぶんと意識が変わっています。自らパワハラ体質と言っていた会社が、『グループ全体でパワハラ研修をやります』と言い、実行しています」

 

第5章「#MeToo以降のハラスメント対策最新事情」では、「求められる管理職の多様性」として、著者は以下のように述べています。
「教育、雇用などの社会的機会の平等が求められる欧米からすれば、『男性だけの同質集団』は時代遅れで「リスクがある」ものに映るでしょう。海外のクライアントが、同じような年齢、性別の集団しか出てこない企業に対して『取引するのをやめておこうか』『投資をやめよう』とためらう可能性は大いにあります。それほどに『同質性』のリスクは『日本型組織』の脆弱性として、看過できないものになっているのです」

 

第6章「同質性のリスクは組織のリスク」では、「日本社会の同質性の高さ」として、著者は以下のように述べています。
「なぜ今、多様性が必要なのでしょう。それは、日本の組織における同質性のリスクが無視できないほど高いものになっているからです。ある組織の管理職層のハラスメント研修の写真を見たら、座席を埋めるのは9割が男性。しかも、彼らは前から年功序列で座っています。こうした景色を見るだけでも、日本の組織内で大事な決定をしている層が、ほとんど「同質な男性」で占められていることがわかります。同質とは『性別、年齢、学歴、社歴(転職経験者があまりいないのも、日本の保守的な組織の特徴です)』などです」


礼を求めて』(三五館)

 

わたしは、ハラスメントの問題とは結局は「礼」の問題であると考えています。「礼」とは平たく言って「人間尊重」ということです。この精神さえあれば、ハラスメントなど起きようがありません。日本では、まだまだ「人生意気に感ずるビジネスマン」が多いとされます。仕事と同時に「あの人の下で仕事をしてみたい」と思うビジネスマンが多く存在します。そして、そう思わせるのは、やはり経営者や上司の人徳であり、人望であり、人間的魅力ではないでしょうか。会社にしろ、学校にしろ、病院にしろ、NPOにしろ、すべての組織とは、結局、人間の集まりにほかなりません。人を動かすことが、経営の本質なのです。つまり、「経営通」になるためには、大いなる「人間通」にならなければならないのです。

孔子とドラッカー新装版』(三五館)

 

今から約2500年前、中国に人類史上最大の人間通が生まれました。言わずと知れた孔子です。ドラッカーが数多くの経営コンセプトを生んだように、孔子は「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」といった人間の心にまつわるコンセプト群の偉大な編集者でした。彼の言行録である『論語』は東洋における最大のロングセラーとして多くの人々に愛読されました。特に、西洋最大のロングセラー『聖書』を欧米のリーダーたちが心の支えとしてきたように、日本をはじめとする東アジア諸国の指導者たちは『論語』を座右の書として繰り返し読み、現実上のさまざまな問題に対処してきたのです。


ハートフル・ソサエティ』(三五館)

 

わたしは、2001年10月に冠婚葬祭会社の社長に就任しましたが、ドラッカーの全著作を精読し、ドラッカー理論を忠実に守って会社を経営していると自負してきました。彼の遺作にして最高傑作である『ネクスト・ソサエティ』を読んで感動し、これをドラッカーから自分自身に対する問題提起ととらえ、『ハートフル・ソサエティ』というアンサー・ブックを上梓したほどです。また、わたしは40歳になるにあたって「不惑」たらんとし、その出典である『論語』を40回読んだ経験を持ちます。古今東西の人物のなかでもっとも尊敬する孔子が開いた儒教の精神を重んじ、「礼経一致」の精神で社長業を営んでいます。

ハートフル・カンパニー』(三五館)

 

わが社は冠婚葬祭業ですが、一般には典型的な労働集約型産業と思われています。これを知識集約型産業とし、さらに「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といったものが集約された精神集約型産業にまで高めたいと願っています。会社というものは社会のためにあります。ハートフル・ソサエティを実現するためには、まずわが社がハートフル・カンパニーとならなければなりません。「ハラスメント」などという単語は最も「ハートフル」に反するものであり、「ハートレス」と同義語と言ってもいいでしょう。

 

 

2019年11月3日 一条真也

平成中村座 小倉城公演

一条真也です。
2日の11時から、妻と一緒に「平成中村座 小倉城公演」を鑑賞しました。小倉城天守閣再建60周年にあたる記念事業にして博多座20周年特別公演です。

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平成中村座 小倉城公演公式サイト」の「はじめに」には、こう書かれています。
「十八世中村勘三郎の思いが詰まった『平成中村座』は‟江戸の芝居小屋”にタイムトリップしたような時空を超えるエンタテインメント。2000年、東京・浅草第一回公演以来、東京のみにとどまらず大阪、名古屋、さらには日本を飛び出し、ニューヨーク(アメリカ)、ベルリン(ドイツ)、シビウ(ルーマニア)などに登場し、各地で人々を沸かせてきました。以降も歌舞伎ファンの観客を惹きつけています。そんな『平成中村座』が2019年11月に博多座テレビ西日本主催で九州(北九州市)に初上陸となりました」

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平成中村座、小倉に来る!

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平成中村座の前で

 

続いて、以下のように書かれています。
勘三郎が立ち上げた平成中村座のコンセプトは、単なる劇場での歌舞伎公演だけでなく、まるで江戸の芝居小屋に見物に来ているような、タイムトリップしたかのような体験が出来る時空を超えたエンタテインメント空間であること。そのため江戸情緒を感じられる地で行われることも多く、名古屋、大阪公演では天守閣をのぞむ城郭での上演を行いました。そこで今回、 福岡で唯一天守閣がある北九州市小倉城天守閣再建60周年にあたる記念事業と博多座20周年特別公演の目玉としてこのプロジェクトが始動。小倉城お膝元の勝山公園で仮設劇場を建設し、『平成中村座』の九州初上陸を北九州市が全面サポートいたします」

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劇場の入口

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会場内のようす

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天井には大提灯が・・・

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劇場内のようす

 

続いて、以下のように書かれています。
博多座で行われた昨年2月の花形歌舞伎でも勘九郎七之助は『自信のある演目(お染の七役・鰯売恋曳網)をお見せします。楽しんで欲しい』と公言。結果、大入りでファンを沸かせ有言実行しました。勘九郎七之助にとっても九州で『平成中村座』を行うことは悲願であり、特に福岡通の七之助は2年前の西日本新聞取材で『福岡でやりたいことはいっぱいある。「平成中村座」も実はここでやりたい。具体的に動こうとして、話もしているがなかなか・・・』とこのプロジェクトを実現する難しさを語っていました。しかしその夢をあきらめずに温め続け、北九州市の後ろ盾を得て、いよいよ九州初の『平成中村座』が開幕に向けて動き始めます。昨年6月には亡き父の夢であった平成中村座スペイン公演を大成功させるなど着実に“夢”を形にし続ける二人の活動には目を見張るばかりです」



この日の昼の部の演目は、「一、神霊矢口渡 一幕」「二、お祭り 清元連中」「三、恋飛脚大和往来 封印切 一幕」の三部構成でした。「一、神霊矢口渡」ですが、「平成中村座 小倉城公演公式サイト」の「演目・配役」には以下のように書かれています。
「 『神霊矢口渡』は、新田義興の謀殺後、一族の苦心談を新田神社縁起に結び付けた芝居で、人形浄瑠璃で上演後、歌舞伎となり十八世紀末、江戸桐座で上演された。作者福内鬼外は異才の発明家平賀源内の筆名。南朝方の義興は足利討伐の途上、武蔵国玉川の矢口渡で忠臣を装う竹沢らの謀略で船が転覆、溺死した。その後日譚で、義興の弟義峯は御台所の台を連れ、渡し守頓兵衛の家に宿を求める。頓兵衛は竹沢の一味で金欲しさに義峯捕縛を図るが、義峯に一目ぼれした頓兵衛の娘お舟が救う。対照的な娘と父だ。お舟はえび反りの美を演じ、囲いを解く合図の太鼓を乱打し、義峯への恋心を見せる。頓兵衛は強欲の塊で、鍔の鳴る刀を持ち、『蜘手蛸足』の誇張味を演じる。江戸の義太夫狂言の名作だ」

 

配役は、中村七之助(娘お舟)、中村橋之助(新田吉峯・新田義興の霊)、中村鶴松(傾城うてな)、坂東彌十郎(渡し守頓兵衛)です。七之助演じるお舟の衣装が綺麗でした。また、七之助の海老反りが見事でしたね。わたしは花道のすぐ横の席だったのですが、花道のせり出しから橋之助演じる新田義興の霊が突如現れたのには驚きました。スペクタクル性満点の歌舞伎で、まさにエンターテインメントでした。



「二、お祭り 清元連中」は、こう書かれています。
「 『お祭り』は1826年初演の舞踊。鳶頭を主人公に、神田祭とともに『天下祭り』と呼ばれた山王神社のお祭りの華やかさを見せる。毎年夏、神田祭と隔年交替で江戸城に招かれ将軍に飾った山車をお見せした。鳶頭が現れると、『待ってました!』と大向うの声がかかり、『待っていたとはありがてえ』と応じる。首抜き、たっつけ袴の粋な鳶頭は、のろけ話や狐拳の遊び、『引けや引け引け』と山車にちなむ‟引き物尽し”を見せる。清元節の代表作で、祭のほろ酔い気分があふれれている」

 

配役は,中村勘九郎(鳶頭)、中村虎之介(若い者)です。
勘九郎が出てきたとき、客席から「いだてん!」のかけ声がかかって笑いました。勘九郎はずっと動いていましたが、最後に花道から退場するときに至近距離で見たら、顔一面にびっしょりと汗をかいていました。やはり彼は華がありますね。演出でバックの壁が倒れて本物の小倉城が出現したときは驚きましたが、わたしは「なんだか結婚式場の演出みたいだな」と思いました。



「三、恋飛脚大和往来 封印切」は、こう書かれています。
「『封印切』は、公金横領で牢死した男の実話を基に近松門左衛門が書いた『冥土の飛脚』の改作で、安永七(1778)年大阪道頓堀で上演された。飛脚屋の養子の亀屋忠兵衛は遊女梅川を愛し、丹波屋八右衛門に五十両借り、身請けの手付金として親方の槌屋治右兵衛に渡したが、残り金ができない。思案に暮れつつ、武家屋敷に届ける三百両を懐に梅川を訪ねる。八衛門が来ていて、梅川を横取りする身請け金を横柄に出し、散々に忠兵衛の悪口を言う。それを聞いて忠兵衛は飛び出し言い争い、男の意地で三百両の封印を切ってしまう。封印を切れば重罪だ。忠兵衛と梅川は死を覚悟する。『梶原源太は俺かしらん』と色男ぶって現れる忠兵衛は上方和事の典型的二枚目で、愛敬と滑稽を見せる。 梅川のやるせなさ、二人に肩入れする井筒屋おえん、治右衛門も気持ちのいい役だ」

 

配役は、中村獅童(亀屋忠兵衛)、中村七之助(傾城梅川)、中村歌女之丞(井筒屋おえん)、片岡亀蔵槌屋治右衛門)、中村勘九郎丹波屋八右衛門)です。これは勘九郎七之助獅童もみんなオールスターで出演するので、ゴージャス感がありました。セリフもわかりやすく、純粋なドラマとして楽しめました。梅川の身請け金である二百五十両をめぐる忠兵衛と八右衛門の生々しいやりとりは、拝金主義に対する痛烈な風刺であると感じました。最後に、花道で繰り広げられる獅童の顔芸が素晴らしかったです。彼を見たのは、2004年公開の映画「いま、会いにゆきます」のスクリーン上でした。あれからもう15年が経ちましたが、良い役者になりましたね。



さて、平成中村座は歌舞伎役者の十八中村勘三郎(初演時は五代目中村勘九郎)と演出家の串田和美らが中心となって、浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、2000年(平成12年)11月に歌舞伎「隅田川続俤 法界坊」を上演したのが始まりです。


翌年の2001年(平成13年)以降も、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われていたが、座主の十八中村勘三郎が2012年12月に亡くなった為、2013年は公演を行わいませんでしたが、勘三郎の遺志を継いだ長男の六代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、2014年に実弟の二代目中村七之助、ニ代目中村獅童と共にアメリカ合衆国・ニューヨークで平成中村座復活公演を行いました。


わたしには息子がいませんが、2人の息子たちが志を継いでくれた十八世中村勘三郎は本当に幸せな人だと思いました。また、2人の息子たちも立派です。見ると、六代目中村勘九郎も二代目中村七之助も亡父によく似ています。日経電子版に掲載された連載コラム「『人は死なない』歌舞伎の襲名披露を見て」にも書きましたが、わたしはもともと歌舞伎とは「孝」の芸術であると思っています。というのも、わたしは、歌舞伎の襲名というのは儒教における「孝」そのものであると思いました。

 

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

 

 

これは中国哲学者で儒教研究の第一人者である加地伸之先生の一連の著書を読んで知った考え方ですが、現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということです。「孝」という死生観は、明らかに生命科学におけるDNAに通じています。

 

沈黙の宗教――儒教 (ちくま学芸文庫)

沈黙の宗教――儒教 (ちくま学芸文庫)

 

 

加地先生によれば、「遺体」とは「死体」という意味ではありません。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺(のこ)した体」というのが、「遺体」の本当の意味です。つまり遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのです。あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのです。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているのです。孔子は「孝」という思想によって「人は死なない」ということを宣言したわけですが、その真髄を歌舞伎に見た思いでした。平成中村座の舞台には、十八世中村勘三郎の遺体が2体並んでいるのです。f:id:shins2m:20191102123449j:plain高齢者の方が多かったです 

 

また、会場を見渡すと、高齢者の方が多かったです。中には杖をついて来られた方も見られました。一般に高齢者の方は時代劇が好きだといわれます。歌舞伎も江戸時代を舞台とした演劇です。お年寄りになればなるほど昔の話を好まれる理由がわかったような気がしました。というのも、江戸時代に生きていた人々というのは、現在はもう生きていません。いわば、死者です。高齢の観客は、舞台の上で生き生きと動いている江戸時代の人々が間もなく死ぬことを知っています。すると、「どんな元気な人間でも、いつかは死ぬ」、ひいては「人間が死ぬことは自然の摂理である」ということを悟り、自身が死ぬことの恐怖が薄らぐのではないでしょうか。

f:id:shins2m:20191102104318j:plain二十軒長屋 

 

天守閣をのぞむ小倉城郭には、平成中村座最大規模数のテナントが出店されている「二十軒長屋」があります。江戸時代の情緒を感じられる商店街に来ているようなエンターテインメント空間が小倉城 勝山公園に出現していました。これは観劇客のみならず、初めて一般客にも開放した形で展開されています。テナントには、平成中村座お馴染みのお店から、小倉織など九州ご当地ならではのお店も多数出店し、公演期間中は、特設劇場と合わせてお祭りのような雰囲気を楽しめます。

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良い思い出となりました 

 

わたしが広告代理店の新入社員だった頃、歌舞伎座100周年記念イベントの仕事をしたことがあります。連日、歌舞伎について勉強し、また鑑賞するうちに、その魅力にすっかり取りつかれたのですが、最近は忙しさにかまけて歌舞伎から遠ざかっていました。久々に夫婦で歌舞伎を堪能し、良い思い出となりました。

 

2019年11月2日 一条真也