クアラルンプールに到着しました

一条真也です。
2日の朝、宿泊していたホテル日航成田からバスで成田空港へ。そこから、10時20分発のマレーシア航空89便でクアラルンプールに飛びました。全互連の冠婚葬祭事情視察研修に参加するのですが、この海外視察研修制度はわたしが会長時代に始めたにもかかわらず、いろいろ多忙で、ここ数回は参加が叶いませんでした。今回は、久々の参加です。

f:id:shins2m:20191003000903j:plain
早朝の成田空港で

f:id:shins2m:20191002094211j:plain搭乗したマレーシア航空89便

ブッチャーズ・クロッシング

ブッチャーズ・クロッシング

 

 

機内では読書をしようと、楽しみにしていました。しかし日中にも関わらず、機内の照明を完全に暗くされて、しかも読書灯の光が弱く、ほとんど本が読めませんでした。ジョン・ウィリアムズの『ブッチャーズ・クロッシング』を一気に読了したかったのですが、そのような事情で半分ちょっとしか読めませんでした。仕方ないので、iPhoneに録画しておいたグリーフケア・ソングの動画をチェックしました。わたしが自ら歌った動画です。

f:id:shins2m:20191002170813j:plain
飛行機の窓から見たクアラルンプール

f:id:shins2m:20191002184820j:plainバスから見たクアラルンプールのようす

f:id:shins2m:20191002185007j:plain
工事中の大型ビルが多かったです

f:id:shins2m:20191002190841j:plain
日本人が住みたい海外都市のナンバーワン!

f:id:shins2m:20191002190919j:plain
宿泊したフォーシーズンズ・ホテル・クアラルンプール

 

クアラルンプール国際空港には定刻よりも早い16時15分くらいに到着。先に到着していた関西空港組と合流し、わたしたちは宿のフォーシーズンズ・ホテル・クアラルンプールに向かいました。途中、バスの車内からクアラルンプールの街が見えました。建設中の大型ビルも多かったです。クアラルンプールは一流芸能人のGACKTが住んでいることでも有名ですが、ここ数年、「日本人が住んでみたい海外都市」の第1位だそうです。

f:id:shins2m:20191002200411j:plain
華やかな街並み

f:id:shins2m:20191002200921j:plain
夕食会が開かれたWホテル

f:id:shins2m:20191002203922j:plain
Wホテルの中華レストラン

f:id:shins2m:20191002203437j:plain
アワビ・ナマコの入った薬膳スープ

f:id:shins2m:20191002213620j:plain食事のチャーハンが絶品でした

 

ホテルにチェックインすると、再びバスに乗って、Wホテルに向かいました。ここの11階に入っている中華レストランで夕食会が開かれたのです。全互連の前会長として、わたしが乾杯の音頭を取りましたが、今回は「全互連若手の会」が企画しただけのことはあって、フレッシュマンがたくさん参加しています。若い方々と話すのは大変楽しかったです。中華料理もとても美味しかったです。日本人からすると、ちょっと量が多いかなとも思いましたが、特に、アワビやナマコの入った薬膳スープ、エビやホタテの切り身が入ったチャーハンが絶品でした。

f:id:shins2m:20191002214646j:plainWホテル12階のBAR

f:id:shins2m:20191002214414j:plain
Wホテル12階のBARから見た夜景

f:id:shins2m:20191002205657j:plain
ツインタワー

f:id:shins2m:20191002214456j:plain
ツインタワーを背景に

f:id:shins2m:20191002205737j:plain
まるで、宇宙基地か未来都市のようです

f:id:shins2m:20191002210016j:plain昔のSF少年の血が騒ぎました

 

Wホテルの12階には、クラブのようなBARが入っており、ここも見学しましたが、夜景が素晴らしかったです。特に眼前にそびえるツインタワーの威容には息を呑みました。この夜景を見ていると、なんだかクアラルンプールそのものが宇宙基地みたいでもあり、SF少年だった小学生の頃に夢想した未来都市のようでもありました。

f:id:shins2m:20191002230029j:plain二次会でジントニックを飲みました

 

その後、フォーシーズンズ・ホテル・クアラルンプールのBARで二次会が開かれ、わたしは大きなワイングラスに入ったジントニックを飲みながら、同志たちと大いに語り合ったのでした。翌3日は、朝からクアラルンプールのブライダルホテル、および東南アジア最大の葬儀社が運営する巨大セレモニーホールを視察します。

 

2019年10月3日 一条真也

今日からクアラルンプールへ!

一条真也です。
成田空港の近くのホテルに宿泊しています。
2日の午前中、マレーシア航空89便でクアラルンプールに飛びます。全互連の冠婚葬祭事情視察研修に参加するのですが、この視察研修の制度はわたしが会長時代に始めたにもかかわらず、いろいろと多忙で、ここ数回は参加が叶いませんでした。今回は、久々の参加となります。メンバーには若い方が多いので、とても楽しみです!  

f:id:shins2m:20191001125302j:plain
福岡空港にて

f:id:shins2m:20190929170439j:plain
パスポートと視察研修の栞 

 

クアラルンプールは、マレーシアの首都です。わたしは、これまで2回マレーシアに行っていますので、3回目の訪問となります。最初の訪問では、マハティール・ビン・モハマド氏にお会いし、その後も福岡で何度かお会いしました。マハティール氏は現在93歳ですが、昨年5月の総選挙で、15年ぶりに世界でも異例といえる高齢での首相復帰をされたことは世界の注目を集めました。外交面では老練な手腕を見せられており、機会があればまたお会いしたいです。

f:id:shins2m:20191003171116j:plainマレーシアのマハティール首相と

 

今回は毎日が冠婚葬祭視察の視察ですので、おそらく観光や買い物の時間もないと思います。「芸能人格付けチェック!」で一流芸能人に認定されているGACKTも住むクアラルンプールまでは約7時間半の空の旅です。わたしが海外に行くときはいつも本をたくさん持参します。

f:id:shins2m:20190929134119j:plain
今回、持っていく本

 

今回の往路はジョン・ウィリアムズの『ブッチャーズ・クロッシング』、リチャード・パワーズの『舞踏会へ向かう三人の農夫』を読むつもりです。ともに現代アメリカ文学の最重要作家による小説です。マレーシアとは直接関係のない内容ですが、「世界」という視点で、どうしても今、読んでおきたい本です。ページを開くのが、とても楽しみです。
それでは、行ってきます!

 

2019年10月2日 一条真也

グリーフケアの時代

一条真也です。
1日、サンレー本社で10月度総合朝礼と本部会議に参加してから福岡空港へ、そこから成田空港へ。明日2日の早朝から、クアラルンプールへ飛びます。「西日本新聞」に「令和こころ通信 北九州から」の第11回目が掲載されました。月に2回、本名の佐久間庸和として、「天下布礼」のためのコラムをお届けしています。今回のタイトルは「グリーフケアの時代」です。

f:id:shins2m:20191001082138j:plain
西日本新聞」2019年10月1日朝刊

 

グリーフケアの時代』(弘文堂)という本が出版されました。「『喪失の悲しみ』に寄り添う」というサブタイトルが付されています。上智大学グリーフケア研究所所長を務める島薗進氏(東京大学名誉教授)、同研究所副所長で特任教授の鎌田東二氏(京都大学名誉教授)、そして同研究所客員教授であるわたしの3人の共著です。

 

上智大学グリーフケア研究所は、グリーフ(死別による悲嘆)を抱える方のケアについての研究と、グリーフケア、スピリチュアルケアに携わる人材の養成を目的として設立されました。「臨床傾聴士」「スピリチュアルケア師」等の資格取得のための専門課程の他、一般向けの公開講座にも力を入れています。そのテキストである同書は学問としてのグリーフケアの要点を統括した入門書としてはもちろん、大切な人を亡くした本人や、宗教家・支援職の方々にも資する内容です。

 

全3章のうち、島薗氏は第1章「日本人の死生観とグリーフケアの時代」を、鎌田氏は第2章「人は何によって生きるのか」を担当。わたしは第3章「グリーフケア・サポートの実践」を担当し、「ケアとしての葬儀の取り組み」「ケアとして遺族会の役割」「ケアとしての『笑い』」「ケアとしての『読書』」「ケアとしての『映画鑑賞』」について詳しく述べました。

 

例えば、わが社でサポートさせていただいている「月あかりの会」や「うさぎの会」などの自助グループの概要と活動を取り上げ、また、毎月、漫談家を招いて「笑いの会」を開き、半年に1度は落語家を招いて大規模なイベントを開催していることも紹介しました。そして、もちろん本業である葬儀や法事・法要のお手伝いも・・・。思うに、あの手この手で「喪失」の悲しみに寄り添うわが社は、グリーフケア・サポートの実践集団といえるのではないでしょうか。

 

わが社サンレーの本業は、冠婚葬祭互助会です。長年にわたって多くの葬儀をお手伝いしてきましたが、愛する人を亡くしたばかりの方々に接する仕事は、けっしてビジネスライクな感情だけで済まされるものではなく、いつも魂を揺さぶられる思いを味わいます。なぜなら、死による別れは誰にとっても一生に数度のつらい経験だからです。

 

その直後のご遺族をサポートさせていただく中で、わたしは数多くの悲嘆を目撃してきました。冠婚葬祭互助会としてグリーフケアのサポート活動に取り組むことは営利目的だと誤解されることもあります。その難しさは、常々感じるところだが、これからも理論と実践を両立させ、日本一のグリーフケア企業を目指したいと思います。

 

グリーフケアの時代―「喪失の悲しみ」に寄り添う
 

 

2019年10月1日 一条真也

人生を修めるための「修活」のすすめ

一条真也です。
10月になりました。
1日の朝、サンレー本社で行われる月初の総合朝礼と北九州本部会議に参加します。この日は、WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第15回目がアップされます。タイトルは、「人生を修めるための『修活』のすすめ」です。

f:id:shins2m:20190930151325j:plain「人生を修めるための『修活』のすすめ」 

 

わたしが監修した『修活読本』(現代書林)という本が出版されました。「人生のすばらしい修め方のすすめ」というサブタイトルがついています。
人生は100年という時代を迎えています。その流れの中で、「終活」という言葉が今、高齢者にとって大きなテーマになっています。終活とは、「終末活動」を縮めたものです。つまり「人生の最期をいかにしめくくるか」ということであり、実は人生の後半戦の過ごし方を示した言葉ではないことには、注意が必要です。では、「いかに残りの人生を豊かに過ごすか」ということに目を向けたとき、わたしは人生の修め方としての「修活」という言葉をご提案しています。

 

考えてみれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないかと思います。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活なのです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。これが、わたしのご提案する「修活」です。わたしは、かつての日本は美しい国だったように思います。しかし、逆にいまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りにし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてしまうことが多々あります。それは、戦後の日本人が「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。

 

誰にでも「老」の次には「死」がやってきます。死を考えないのではなく、「死の準備」をしなければなりません。そもそも、老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。
究極の「修活」とは何か。それは、自分なりの死生観を確立することではないでしょうか。死は万人に等しく訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。

 

一般の人が、そのような死生観を持てるようにするには、どのようにしたらよいでしょうか。わたしがお勧めしているのは、読書と映画鑑賞です。同書では、死の不安を克服して、死と向き合い、そして死者と対話するためのヒントとなる本や映画も紹介しています。豊かな死生観を持ちながら健康寿命を延ばし、生き生きとした人生の後半戦を過ごすために、「終活」から「修活」への転換が求められます。ぜひ、『修活読本』をご一読、ご活用下さい。

 

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

 

 

2019年10月1日 一条真也

『愛読の方法』

愛読の方法 (ちくま新書)

 

一条真也です。
『愛読の方法』前田英樹著(ちくま新書)を読みました。
著者は1951年大阪生まれ。批評家。中央大学大学院文学研究科修了。立教大学現代心理学部教授などを歴任。主な著書に『剣の法』(筑摩書房)、『日本人の信仰心』(筑摩選書)、『独学の精神』(ちくま新書)、『批評の魂』(新潮社)、『小津安二郎の喜び』『民俗と民藝』(講談社選書メチエ)、『ベルクソン哲学の遺言』(岩波現代全書)、『信徒内村鑑三』(河出ブックス)、『沈黙するソシュール』(講談社学術文庫)、『倫理という力』(講談社現代新書)など多数。

f:id:shins2m:20190614123238j:plain
本書の帯

 

本書のカバー表紙には、「この本は、ごく大まかに言って、ふたつのことを書いている。ひとつは、文字に書かれたものを軽々しく信じるまい、ということであり、もうひとつは、書かれたものへの軽信から私たちが常に免れているための手だては、すぐれた本を愛読するしかない、ということである」と書かれ、帯には「たくさん読んでも無駄である。」と大書されています。

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「本が読まれなくなり、基本的な教養すら欠いた人間が世に溢れるようになった―こう嘆かれるようになって久しい。でも、本を読めば人は賢くなれるものだろうか。もちろん、否である。見栄でするやたらな読書は、人をどこまでも愚かにする。私たちには、文字に書かれたものを軽信してしまう致命的な傾向があるからだ。どうすれば、このような陥穽から逃れられるのか? ショーペンハウエル、アラン、仁斎、宣長など古今にわたる愛読の達人の営みに範をとり、現代人が本によって救われる唯一の道を示す」

f:id:shins2m:20190614123306j:plain
本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

第一章 本とは何であったか

第二章 文字という〈道具〉を考える

第三章 生きる方法としての読書

第四章 愛読に生きよ

「終わりの言葉」

 

第一章「本とは何であったか」では、著者は「話し言葉と書き言葉」として、以下のように述べています。
プラトンは、ソクラテスと違って、たくさんの本を書いた。だからこそ、ソクラテスの考えは、今も私たちの手元に書物としてある。文字には、そういう功徳もあるわけで、これに文句があろうはずもない。しかし、プラトンは信じていたに違いない。ソクラテスの肉声が響かせた言葉が、自分の魂に植えつけた忘れがたい智慧は、その言葉の肉声の響きそのものと、ついに切り離すことができない、自分が書き続ける言葉は、永久にそれに及ばないと。プラトンの著書を不朽のものとするのは、余人が窺い知れぬ、師へのこの尊敬の深さではないか」

 

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

 

 

 また、「文字は、人のなかの何を損なうのか」として、著者は以下のように述べます。「プラトンが言いたい、ほんとうの知恵、ほんとうの知識とは、それを育て上げた人の魂のなかに、またそれを容れた体のなかに在って、そこから離れることのできない智慧である。それは、つまりその人の生きた人格と言っていいものだが、実際、ソクラテスの問答法は、人格から人格に伝わる感化の力によって、対話し合う者の間に智慧を産んだ。この世に、独りの人間として生きるための永遠の智慧を産んだのである」

 

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

 

 

さらに、「文字禍から救われる〈文字の道〉が昔からあった」として、著者は述べます。
プラトンの読者は、今日も到るところにいる。私心を交えない彼の愛読者は、どんな翻訳であろうと我慢して、また研究者の間でどんな議論があろうとお構いなしに、今も繰り返しその全集を読んでいるだろう。つまり、書かれたものには、愛読という行為が成り立つのだ。あるいは、書くという行為は、見知らぬ人の愛読を願って、高まるということが起こり得る。生きた対話者を持たないプラトンの『対話篇』は、愛読を持っている、今も持ち続けていると言っていいだろう。彼がものを書く時の、あの優れた技術は、この願いによって、祈りによって磨かれたのだと思う。その点で、プラトンソクラテスとは違ったのである。その違いが、どれだけ豊かな精神の遺産を人類に与えたか。そういうわけで、私たちが恐るべき『文字禍』から救われる道は、愛読という行為にある」

 

第二章「文字という〈道具〉を考える」では、「なぜ、文字というやっかい極まる道具が生まれたか」として、著者は以下のように述べます。
「文字は、手が扱う物ではなく、精神が扱う一種の記号である。記号だから、それを支える物質は、一応は何であってもいいことになる。粘土板に釘で書こうと、紙にインクを染み込ませようと、電子画面の配列でいこうと、書かれた文字は同じとみなされる。
しかし、手による道具に熟練があるように、こういう文字の精神による使用にも熟練がある。あり得ることを人類の精神の努力は、すでに存分に示してきているではないか。古典とは、そうした努力の消えることなき痕跡を言うのである。その意味で、文字が精神の道具であることは、紛れもない」

 

また、「人間の内に在る言語」として、著者は述べます。
「文字を発明した人間はいる。しかし、一言語をまるごと自分が発明したと主張する人間は、まずいまい。むろん、エスペラントのような人工言語はあるが、そうした種類のものは、元から使われていた自然言語の再整理、再配列でできている。しかも、人工言語が、仮に生活の言葉として、不特定多数の人間に使われ出したとしたら、この言語の変転は、自然言語の運命と変わりない。誰かが定めた人為の約束事は、たちまち変化して、制御不可能になる」

 

沈黙するソシュール (講談社学術文庫)

沈黙するソシュール (講談社学術文庫)

 

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「このことは、何を意味しているか。『ことば(le langage)』というものは、精神の道具どころではない、むしろ、人間精神というものを絶え間なく産み出す、万人にとっての深い神秘の闇であることを意味している。そう言うほかない。もちろん、この事実は、私たちのような日常の言語使用者によっては、ほとんど意識されていない。この事実を徹底して考えてみるのには、ソシュールの天才を要したのである」

 

さらに、著者は「精神の道具」として、こう述べます。
「書かれる言葉が、私たちの生の運動にぴったりと張り付いて運動し、意味を産む時には、それを読む人のなかに必ず精神の、魂の声が響いている。その声は、話される言葉の声に似てはいるが、決して同じではない。2つの声は、どこまでも並行して交わらないだろう。愛読を誘う本が、そのような種類の書物であることは、多くの人が経験で知っている。朗読と呼ばれる技術は、書かれた言葉が秘める魂の声を、ひとつの肉声に現わす独特の技術である。この技術が、書かれた言葉の運動を歪め、とんでもなく調子はずれにすることもある。が、特定の色合いを与えて、思わぬ香りをもたらすこともある」

 

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 

 

 第三章「生きる方法としての読書」では、冒頭にデカルトの『方法序説』が取り上げられ、「デカルトの愛読者アラン」として、著者は以下のように述べています。
デカルトが生きた時代から300年後、20世紀前半のフランスに『アラン』というペンネームで文章を書いた哲学者(1868~1951)がいる。この人は、徹底した読書の達人だった。愛読することを、哲学の最上の手段、生きる上の至高の方法にまで高めたフランス人だと言っていい。彼がいちばん愛読した本は、たぶんデカルトの『方法序説』だろう。デカルトの著作群のなかでも、とりわけこれを好み、どこまでも重視し、感嘆し、死ぬまで読み続けた」

 

デカルト

デカルト

 

 

 続けて、著者は以下のように述べています。
「したがって、デカルトとアランとは、いかに生きるべきか、という問いに回答する『方法』が全く異なったのである。デカルトの『方法序説』は、人間がいかに本なしで思考の極みまで行き、人間に幸福をもたらす仕事ができるかについての『方法』を書いたものだ。アランは、人間がいかに本によって自己自身の思考の極みまで行き、そのことを人間精神の真の幸福とできるかを、愛読の実践そのもので示している。そのために選ばれた最上の一冊が、『方法序説』だったとは面白いことではないか」

 

四季をめぐる51のプロポ (岩波文庫)

四季をめぐる51のプロポ (岩波文庫)

 

 

 また、「死者への礼拝」として、著者はアランが「プロポ」という新聞コラムに書いた以下の文章を紹介します。
「死者への礼拝は、人間が居るところならどこにでもあり、どこにあっても同じだ。それは、ただもう礼拝なのであって、さまざまな神学説は飾りか手段に過ぎない。想像力は、とりわけここに罠を張る。外見を呼び覚まし、本能からくる一種の恐怖を創り出す。そこには、本当の信心など、ほとんど入っていない。この種の迷信が、死者についての考えを歪ませる。よって、それは、最も自然な情愛に背くものとなる。したがって、礼拝の全努力は、ほとんど動物的なこの恐怖を鎮めようとするわけだ。そして、最も素朴な数々の宗教は、姿を取った死者たちの蘇りを、彼らに手向けるべき栄誉が彼らに少しも与えられなかったことの徴だと、いつも感じてきた」

 

アラン 幸福論 (岩波文庫)

アラン 幸福論 (岩波文庫)

 

 

 このアランの文章を受けて、著者は以下のように述べます。
「幽霊を怖いと思うのは、決して覗くことができないはずの冥界の現われを、そこに観るからだろう。宗教を装う詐欺は、この恐怖心を抜け目なく利用し、人々の心にさまざまな形で植え付ける。しかし、死者は恐ろしいものなどではまったくない。『最も自然な情愛』は、いつもそれを教えている。親父の幽霊が出たとしよう。幽霊は、自分のことを、もっとよく思い出してほしいと倅に言っている。ただ、それだけのことだと感じればいい。そう感じれば、幽霊を見ることほど、心に温かいものを送り込む経験はあるまい。しかし、死者をこのように思い出すだけでは、まだ足りない。思い出すだけが、すべてではない。『こうした思い出そのものに関する義務というものが在る』、アランはそう言う。どんな義務か。『死者たちを、彼らが纏う粗雑な外観から浄化し、遂には真の、尊敬に値する現存を手に入れようとする義務』である」

 

著者は、「祈りの起源は、ここに、つまり死者への礼拝にある。それは、『愛に従った瞑想、賢く、正しく、善であったものだけを見つけ直し、その他は忘れるために為される瞑想』である。このような祈りを通して、死せる者は浄化され、私たちのなかに入り込み、蘇って私たちを支えてくれる」として、さらに以下のように述べています。
「そう、私たちの口から出る死者たちへの称賛、愛惜、尊崇の言葉は、いつも私たち自身を、現にある以上の者にする。これは、人間が生きる上で、一番重要な、しかも幸福をもたらす思想ではないか。死者たちへの真面目な、愛ある称賛によって私たちが生きる時、造り出されているものは、愚かな幻影ではない、私たちにはぜひとも必要な『人間のモデル』(アラン)というものなのだ。変身した死者たちは、必ず蘇ってその制作に応え、協力してくれる。その意味で、死者への礼拝は、死や病の最も有効で、力強い否定となることもできる。最後に、アランはこう言っている。『死者は生者のために祈っている、このことを理解しなくてはならない』と」

 

「愛読が死者への礼拝となること」として、著者は以下のように述べています。
「アランがほんとうに愛読した本は、多かれ少なかれ、古典となったもの、遠い死者を書き手とするものである。私たちのなかに古典が生まれ、生き続ける力は、あるいはその理由は、いつも沈黙している。研究者と呼ばれる人たちの学者ぶった口上などとはまったく無関係に、沈黙して在る。『パイドロス』は、『方法序説』は、なぜ古典となったのか、ほんとうは、誰にもその理由を合理的に説明し終えることなどできない。できるならば、古典ではない。アランにはその信念があり、その信念によって、彼は古典を愛する。そういう読者に対してだけ、古典は、その内側からしか開かない扉を開く。愛読者に対してのみ開かれる扉が、開くのだ」

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「そう考えれば、祈りの起源である『死者への礼拝』に日頃から馴染むことは、優れた愛読者となるための、不可欠の基礎訓練だということになろう。智慧ある『死者への礼拝』から、愛読者の道へと進むことは、まったく自然な階梯である。このような場合には、本は『死者への礼拝』を行なうための、これ以上ないありがたい道具になる。なにしろ、相手は遠い死者である。会って話をするというわけには決していかない。このことが、むしろ有利な条件となる。有利な条件となるように生きよ、というのが、アランの説いたところなのだ」

あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)

 

読書には死者と生者との交流という側面があることは、わたしも以前から気づいていました。拙著『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)でも述べましたが、わたしは読書は交霊術であると思っています。わたしは芥川龍之介谷崎潤一郎三島由紀夫などが好きなのですが、既に亡くなっている作家ばかりです。古典というのは、それを書いた人は総て亡くなっている人です。亡くなった人の言葉に触れるというのは、死者と交流しているわけです。読書は交霊術と言っても良いと思うのです。そして、読書でこの世にいない死者の言葉に触れる行為には、自分もいつかあちらの世界に行くのだということを、自然と受け入れていく力があると思います。しかし、愛読という行為が「死者への礼拝」であることまでは気づきませんでした。目から鱗が落ちた思いです。

 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

 

 

たしかに、わが最大の愛読書である『論語』を読むとき、わたしは孔子という死者を礼拝していると言えるでしょう。『論語』といえば、「『最上至極宇宙第一』の本を読む」として、著者は以下のように述べています。
「たとえば、『論語』に勝る智慧は、人間のなかには生まれようがない、とする考え方だってある。そう考える人にとっては、『論語』の訓詁注釈に明け暮れることは、生涯を賭して悔いない叡智の学問だろう。なぜ、そんな考えを持つ人が、次から次へと出て来るのか。『論語』の不思議はそこにあり、その不思議に出会うことができるのは、無私な愛読を行なえる人だけである。また、その不思議が愛読のうちに明視できる人の烈しい喜びを、生きることへの確固とした信念を、どんな理屈も奪い取れはしない。
江戸時代前期に、伊藤仁斎(1627~1705)という、京都の町中で私塾を営んで、独立独歩の道を歩いた儒学者がいた。この人の学問は、『論語』『孟子』の徹底した愛読に尽きると言ってもいい。どれくらい徹底していたかというと、たとえば自著『論語古義』の草稿と見られる文章の冒頭に、『論語』を指して『最上至極宇宙第一』と書いては消し、消しては書くくらい(私はその草稿を見たわけではないが)徹底していた」

 

童子問 (岩波文庫 青 9-1)

童子問 (岩波文庫 青 9-1)

 

 

 著者は、「『古義学』という新しい生き方」として、以下のように述べています。
伊藤仁斎が世間に向けて掲げた『古義学』とは、どんな理論体系でもない、『論語』『孟子』の原文にどこまでも還ろうとする、ひとつの烈しい理想にほかならなかった。その理想を、愛読者の志と言ってもいい。愛読への尽きることのない信だと言ってもいい。それは、学問というよりは、愛読という行為の内で発明された、喜びに溢れる生き方そのものだった」

 

政談 (岩波文庫)

政談 (岩波文庫)

 

 

 第四章「愛読に生きよ」では、「古文辞学」として、荻生徂徠を取り上げた著者は以下のように述べます。
荻生徂徠もまた、江戸期の学問界を支配した宋学朱子学を、原典愛読の道ひと筋によって打ち破ろうとした『豪杰』だった。徂徠が最も重んじた原典は、古代中国の7人の『先王』たち、堯、舜、禹(夏王朝創始者)、湯(殷王朝の創始者)、文王(殷末の周の王。武王の父)、武王(周王朝創始者)、周公が政治に用い、遺した『詩経』『書経』『礼記』『楽経』『易経』『春秋』のいわゆる『六経』であった。これら7人の先王に、徂徠は『聖人』と呼ばれる絶対的な精神の特権を与える。『六経』を選定、編纂し、聖典として広めた孔子は、王ではなかったが、その功績によって特別に8人目の『聖人』とされた」

世界をつくった八大聖人』(PHP新書)

 

「聖人」はわたしの追っているテーマの1つです。すでに『世界をつくった八大聖人』(PHP新書)という著書がありますが、いずれ『聖人論』という大部の書をまとめたいと考えています。著者は荻生徂徠の聖人についての考え方を以下のように紹介します。
「徂徠の信念では、聖人とは言語の働きによって、混沌たるこの世界に始原の秩序を、『道』を敷いた人たちのことである。だから、『道』とは、そのまま聖人の『古文辞』を指すものと考えなくてはならない。聖人の『古文辞』は、『天下国家を修候仕様』を直接に示した『道』なのだ。言語の働きから、このような『道』を作為した人たちこそが聖人なのであって、彼らは、たったの7人しかいない、というわけである」

 

「愛読」という学問の道において、伊藤仁斎荻生徂徠はつながっています。著者は以下のように述べています。
「徂徠が仁斎から受け継いだものは、愛読の方法、いや方法というよりは、愛読によって生きる態勢であろう。彼らは、その態勢を『豪傑』の姿と呼んだ。徂徠は、『語孟字義』を読んで、仁斎の体内を流れるのは、まさしく孔子孟子の人格の血そのもの、と観じたに違いない。言い換えれば、古聖人から真っ直ぐに孔子孟子を通り、ついに仁斎へと流れくるひとつの魂の系譜をつかみ取ったのである。系譜をつかみ取らせたものは、孤独な愛読者の何ものも懼れることのない誠実だったと言っていい」

 

古事記伝 1 (岩波文庫 黄 219-6)

古事記伝 1 (岩波文庫 黄 219-6)

 

 

 また、「道の学問」として、著者はこう述べます。
「『道の学問』とは、何だろう。最も簡単に言えば、人はいかに生きるべきかを知る学問である。諸君が納得しようがしましが、自分は固くそう信じ、生涯かけて『古事記』をただ一心に訓み解いて、『古事記伝』を書き続けた。まったく怠らず、その業に励んできた。そうさせたものは、『道の学問』を『主』として揺るがない、この身ひとつの『志』であった。そう言うしかない」

 

その「道の学問」を志したのが国学者本居宣長でした。
「『道の学問』あるいは『道の事』への宣長の志は、仁斎、徂徠が儒学を通してつかみ直した精神の系譜を、直接に受け継いだものだと言っていい。厄介なのは、国学の対象である神物語も古歌も、『論語』とは違い、『道』には程遠いもの、それとは一向に無関係なものであるかのように見えることだ」

 

「終わりの言葉」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
プラトンから始まって、宣長の話で終わるこの本は、ごく大まかに言って、ふたつのことを書いている。ひとつは、文字に書かれたものを軽々しく信じるまい、ということであり、もうひとつは、書かれたものへの軽信から私たちが常に免れているための手だては、すぐれた本を愛読するしかない、ということである。どちらも当たり前のことのようだが、ふたつが同時にできている人は、なかなかいない」

 

著者によれば、人間種に与えられた言葉という神秘不可思議なものは、死んだ人々との縦のつながりをいつも保証してくれているといいます。死んだお婆さんについての話を母親から聞くとき、聞いた人の心はお婆さんの魂のなかに飛んで行き、そこで対話を始めるというのです。言葉で過去を遡るたびは、こうしてどこまでも伸びていくとして、著者は以下のように述べるのでした。
「書物がこうした伝承を引き受けてくれる時、私たちが持ちうる縦のつながりは、限りなく富んだものになる。私たちひとりひとりの自己発見は、人類に与えられた魂の持続と創造とに、そのまま溶け込んでいけるものになる。この意味で、信じてやまない愛読書を独り持つとは、人類の魂を継ぐ行為なのである」

 

当ブログを読んで下さっている方ならおわかりでしょうが、わたしは「供養」あるいは「読書」という営みに異常なまでの強い関心を抱いています。両者の関連性について深く考えたことはありませんでしたが、本書を読んで、愛読という行為が「死者への礼拝」であり、ひいては「人類の魂の継承」であることを悟りました。いわゆる読書法や読書術の本といえば、「速読」とか「遅読」とか「多読」といった視点から語られることが多いですが、もっと崇高でもっと深い「愛読」という方法があるのです。

 

愛読の方法 (ちくま新書)

愛読の方法 (ちくま新書)

 

 

 2019年9月30日 一条真也

『政治学者が実践する 流されない読書』

政治学者が実践する 流されない読書

 

一条真也です。
政治学者が実践する 流されない読書』岩田温著(育鵬社)を読みました。著者は昭和58年(1983年)生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大学大学院修了。現在、大和大学政治経済学部講師。専攻は政治哲学。著書に『人種差別から読み解く大東亜戦争』『「リベラル」という病』(以上、彩図社)、『逆説の政治哲学』(ベスト新書)、『平和の敵 偽りの立憲主義』(並木書房)などがあります。

f:id:shins2m:20190712162718j:plain
本書の帯

 

本書の帯には著者近影とともに「教養とは「思想的軸」――それは読書でつくられる。」と書かれています。

f:id:shins2m:20190712162814j:plain
本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに――流されないために読書で『思想的軸』を培う」
第一章 読書は「人をして善き方向に向かわしめる」可能性がある
第二章 初めて読む人にとっては古典も最新作
第三章 やってはいけない! ヒトラー流‟自分の世界観を強化する“読書
第四章 「活字の舟」に乗って
第五章 本の世界へ旅をはじめよう
    一 読むべき本との出合い方
    二 本の世界へ舟を漕ぎ出す
    三 面白くて一気に読める長編
    四 作品と出合った縁を大切にする
    五 中国の古典はこんなに面白い!
第六章 不条理なこの世界で私たちは何のために生きるのか「おわりに」
    一 人は何のために生きるのか
    二 不条理なこの世界を生き抜くための哲学
    三 私たちが学び続ける理由
「おわりに」
[本書で紹介した書籍]

 

「はじめに」で、著者は以下のように述べています。
「現代は情報が過剰ともいうべき時代です。マスメディアだけでなく、SNSを通じて、膨大な情報が我々の手に届きます。こうした情報を活用するのは結構ですが、多くの人が情報に踊らされているようにも思えてなりません。容易に流されることなく、自分自身で一つひとつの情報を吟味していくためには、読書によって培われた『思想的軸』が重要となってきます。『思想的軸』とは、必ずしも、思想そのものから導き出されるわけではありません。面白いと思って読み始めた推理小説の登場人物の台詞の中に、驚くべき洞察を見出すことがあるかもしれません」

 

第二章「初めて読む人にとっては古典も最新作」では、「欲望の赴くままに生きるのは『家畜と同じ』」として、著者は一家のように述べています。
「動物と同じような情欲だけで構わない、人間は野獣の一種だと考えるところからは、本当の読書はなされないのではないでしょうか。自分自身が変わる可能性を求めて、人は本を読むのです。今のままで充足している、完全に満足しているという状況では、真剣に本を読もうとは思わない。何か自分自身に欠落しているものがあるはずだ。その欠落を補い、今ある私自身がわずかなりとも変われるはずだ。そういう一種の喪失感というか飢餓感と向上心が、人を本に向わせるのです」

 

ヒトラーの秘密図書館 (文春文庫)

ヒトラーの秘密図書館 (文春文庫)

 

 

 第三章「やってはいけない! ヒトラー流‟自分の世界観を強化する“読書”」では、ブログ『ヒトラーの秘密図書館』で紹介した本を紹介し、著者は以下のように述べています。
ヒトラーの読書法は極めて独善的な読書法です。簡単に言えば、読書している際、ヒトラーは著者から謙虚に何か学ぼうとするのではなく、本の中に『自分の読みたい部分』、『自分が考えていることをさらに納得させてくれる部分』を探し、そうした部分を読んで、自分自身の世界観の正しさを確信しようとしているだけなのです」

 

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

 

 それから、ヒトラーに影響を与えた哲学者ショーペンハウアーの『読書について』を取り上げ、著者はこう述べます。
ショーペンハウアーは『他人の頭で考える』読書の弊害について批判し、自分自身の頭で考える重要性を指摘しました。たしかに一面の真理だと思います。しかし、自分自身の中の極端な世界観を読書によって訂正していくことも重要です。それは決して、他人の頭で考え続けることを意味しません。自分自身の世界観を揺さぶるような経験をしなければ、独善的な世界観を正すことはできません。やはり読書は、自分と著者との「真剣な対話」でなければならないのではないでしょうか。著者の言葉を鵜呑みにするのも危険であれば、同様に自分自身の世界観にまったく疑いを抱かず、その世界観の正しさを補強する部分のみを探すような読書も危険でしょう。読書は極めて知的で素敵な営みですが、その方法、目的を誤れば、破滅的な結果をもたらします。その人の人生を狂わせるぐらい、強い毒素を持っている場合もあるのです」

 

第四章「『活字の舟』に乗って」では、「渡部昇一先生からの返信」として、著者が渡部昇一氏の大段であり、ファンレターを送ったときの思い出が書かれています。
「高校生の頃、渡部先生の本を読んだ私は、感激のあまり拙い感想を書き、先生に送ったことがあります。まったくの素人で縁もゆかりもない高校生がファンレターを書いたといったら分かりやすいでしょうか。すると驚いたことに、田舎の高校生であった私のところに渡部先生からお返事が届いたのです。文面はパソコンで打ってあったので、恐らく秘書の方が打ち込んだと思いますが、先生がしっかりと私の感想をお読みいただいたことが分かる内容でした。その返信の最後に『岩田君の大成を期待しつつ』と書いてありました。たいへん感激したことを覚えています。この渡部先生のお言葉に刺激を受け、私はこれまで一生懸命勉強してきたといっても言い過ぎではないでしょう」

永遠の知的生活』(実業之日本社

 

このときの著者の感激はよく理解できます。なぜなら、わたしもまったく同じ経験をしたことがあるからです。わたしが本を書くようになると、渡部先生に献本し続けました。すると、いつも最後に直筆の署名が入った礼状を頂戴しました。その後、ブログ「渡部昇一先生と対談しました」で紹介したように、2014年8月14日、憧れの渡部先生と対談をさせていただきました。ついに長年の念願が叶った日でした。その対談内容は、『永遠の知的生活』(実業之日本社)として刊行されました。対談は5時間以上にも及びましたが、最後にわたしは書名にもなっている「永遠の知的生活」について語りました。わたしは「結局、人間は何のために、読書をしたり、知的生活を送ろうとするのだろうか?」と考えることがあります。その問いに対する答えはこうです。わたしは、教養こそは、あの世にも持っていける真の富だと確信しています。

 

渡部昇一 青春の読書

渡部昇一 青春の読書

 

 

著者は、ブログ『青春の読書』で紹介した本に言及し、渡部先生が推理小説の大家であった江戸川乱歩の「活字の舟」という言葉を使って読書について説明したとして、以下のように述べています。「この著名な推理小説家は、読書の醍醐味を『活字の舟』と表現したそうです。人間は『活字の舟』に乗って、まったく異なる国、世界を訪問することができるというわけです。この『活字の舟』という表現は、読書の本質を鋭く衝いた卓抜な表現でしょう。恐らく、読書が本当に好きな人であるならば、この『活字の舟』に乗った経験があるはずです。本を読むのが面白くて、面白くてたまらないという経験をしたことがある人ならば、その時間こそが『活字の舟』に乗っている瞬間だと感じたことでしょう」

 

読書法―読書九十年 (講談社学術文庫 534)

読書法―読書九十年 (講談社学術文庫 534)

 

 

 渡部先生は『青春の読書』で、徳富蘇峰は『読書法』という本を紹介します。8歳ですでに『南総里見八犬伝』『絵本三国志』『絵本太閤記』を読み、10代のうちに『四書』『五経』『春秋左氏伝』『資治通鑑』『史記』『唐宋八家文』などを一通り読んだという稀代の読書家であった蘇峰は以下のように述べています。
「昔からいわゆる歴史なるものはただ一種の記録であって、いわば日記帳に少し毛の生えた類にすぎない。しかしてその間に出で来った小説なるものは、むしろその時代の精神、時代の動向、いわばその時代そのものを映し出して、かえって歴史以上の歴史を我らに提供するものがある」

 

この蘇峰の言葉について、著者は「これは非常に納得がいく見解です。歴史小説の類は一切がフィクションで無駄だと考える実証主義的な歴史家が存在するのは確かですが、無味乾燥な事実よりも、躍動する筆致で過去の時代を描いた方が、一般の読者にとっては興味が掻き立てられるでしょう。歴史の細かい資料ばかり見ていても、そこに躍動感はありません」と述べています。そして、蘇峰は自分自身の読書法について「予自身は読書は他人と交際すると同様の気持ちをもって書物に向かおうとする」と述べたことを紹介します。

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「渡部先生の『青春の読書』を読み始めた時、渡部先生の逝去という深い悲しみがありました。しかし、読み進めていくうちにドンドン明るい気分になっていきました。こういう知的に誠実な人生を歩み続けた生涯だったのだな、この精神の在り方は今も変わることなく残っていると実感できました。渡部先生の紹介によって知った徳富蘇峰の著作、そして蘇峰から教わったミルトンの著作、これらを次々に読み進めていくと、これだけ立派な人々が存在したということ自体、実にありがたいことだと思えるし、そういう人々の魂の籠った著作を読める幸せというものをしみじみと感じ入りました」
著者は、大学も学部もわたしにとって後輩に当たりますが、渡部昇一先生に私淑した者として同じ立場にありました。本書には渡部先生に対する深い敬愛の念が溢れており、読んでいて胸が熱くなりました。

 

政治学者が実践する 流されない読書 (扶桑社BOOKS)

政治学者が実践する 流されない読書 (扶桑社BOOKS)

 

 

 2019年9月29日 一条真也

「ホテル・ムンバイ」

一条真也です。
27日から公開された映画「ホテル・ムンバイ」をレイトショーで観ました。実話に基づいた内容で、ホテル関係者は必見という評判です。わたしもホテルを経営していますので、鑑賞を心待ちにしていました。もう腰が抜けるほど感動しました。泣けました。今年の「一条賞」の最有力候補です!

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『LION/ライオン~25年目のただいま~』などのデヴ・パテルを主演に迎え、2008年にインドのムンバイで起きたテロ事件を題材にしたドラマ。高級ホテルに監禁された宿泊客を救おうと奔走した従業員たちの姿を映し出す。本作で長編デビューしたアンソニー・マラスが監督を務め、『君の名前で僕を呼んで』などのアーミー・ハマーアメリカ人旅行者を演じた」

f:id:shins2m:20190926213144j:plain

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「身重の妻と小さい娘がいるアルジュン(デヴ・パテル)は、インド・ムンバイの五つ星ホテル、タージマハルで、厳しいオベロイ料理長(アヌパム・カー)のもと給仕として働いていた。2008年11月26日、ホテルには生後間もない娘とシッターを同伴したアメリカ人建築家デヴィッド(アーミー・ハマー)や、ロシア人実業家のワシリー(ジェイソン・アイザックス)らが宿泊していた」



この映画に描かれた「ムンバイ同時多発テロ」は、2008年11月26日夜から11月29日朝にかけて、インドのムンバイで外国人向けのホテルや鉄道駅など複数の場所が、イスラーム過激派と見られる勢力に銃撃、爆破され多数の人質がとられまた殺害されたテロ事件です。Wikipedia「ムンバイ同時多発テロ」の「概要」に、「2008年11月26日夜、インド最大の都市であり商業の中心地でもあるムンバイ(旧名ボンベイ)で、同時多発的に発生した10件のテロ立てこもり事件は、11月29日朝、陸軍部隊がすべての立てこもり拠点を制圧して終結した。 少なくとも172人ないし174人(うち34人は外国人)が死亡、負傷者は239人にのぼることが確認されている」とあります。



警察の発表によると、逮捕したテロリストのうち1人が、自分たち実行犯はパキスタンに本拠を置くイスラーム主義組織ラシュカレトイバに所属していると供述したとのことでした。このことはインド・パキスタン両国の関係に深刻な影響をもたらす可能性があり、パキスタン政府はテロリスト集団への支援を否定し、「テロリストには宗教など全く関係ない」との考えを明らかにしました。インディアン・ムジャーヒディーンのテロリスト集団は2008年9月にも、ムンバイの市内複数箇所で爆破事件を起こすと犯行予告を出していました。ムンバイ同時多発テロの後、インドとパキスタンの緊張関係は一層悪化し、 インド外務省は、12月1日にパキスタン高等弁務官を呼び、パキスタンの土壌から生まれたテロをパキスタンが抑え込めなかったことについて公式に抗議しています。

 

ムンバイ同時多発テロは、フランスでも「パレス・ダウン」(2015年)というサスペンス映画が作られています。父の転勤でインドにやって来た18歳の少女ルイーズは、新居が決まるまでの間、「タージマハル・ホテル」に両親と一緒に滞在することになります。しかし両親の外出中にホテルがテロリストの襲撃を受けて占拠され、ルイーズはひとり客室に取り残されてしまいます。外の世界との唯一のつながりである携帯電話で父親と連絡を取りながら、ルイーズは生き延びるべく奮闘するのでした。主人公ルイーズ役に「ニンフォマニアック」のステイシー・マーティン。共演に「あの夏の子供たち」のルイ=ド・ドゥ・ランクザン、「ハングリー・ハーツ」のアルバ・ロルバケル。



映画「ホテル・ムンバイ」には、2通りの「神」が登場します。「アラー」と「お客様」です。イスラム教徒にとって「アラー」とは「神」と同義語です。「お客様は神様です」とは三波春夫の有名なセリフですが、映画の中のタージマハル・ホテルの総支配人は従業員たちに同じセリフを吐きます。イスラム原理主義のテロリストたちは「アラー・アクバル」(アラーは偉大なり)、「インシャラ―」(すべてはアラーの思いの通りに)を口にしてホテルの宿泊客たちを処刑しようとしますが、ホテルの従業員たちは自らの生命を賭してそれを防ごうとします。

 

クルアーン:やさしい和訳

クルアーン:やさしい和訳

 

 

また、この映画には2つの「楽園」がテーマになっています。1つめは、テロリストたちが死後に向かうイスラムの天国です。イスラムにおける天国は、信教を貫いた者だけが死後に永生を得る所とされます。イスラム教の聖典コーランクルアーン)』ではイスラムにおける天国の様子が具体的に綴られています。『コーラン』出来事章10節から24節には、「(信仰の)先頭に立つ者は、(楽園においても)先頭に立ち、これらの者(先頭に立つ者)は、(アッラーの)側近にはべり、至福の楽園の中に(住む)。昔からの者が多数で、後世の者は僅かである。(かれらは錦の織物を)敷いた寝床の上に、向い合ってそれに寄り掛かる。永遠の(若さを保つ)少年たちがかれらの間を巡り、(手に手に)高坏や(輝く)水差し、汲立の飲物盃(を捧げる)。かれらは、それで後の障を残さず、泥酔することもない。また果実は、かれらの選ぶに任せ、種々の鳥の肉は、かれらの好みのまま。大きい輝くまなざしの、美しい乙女は、丁度秘蔵の真珠のよう。(これらは)かれらの行いに対する報奨である」と書かれています。


世界の聖典・経典』(光文社知恵の森文庫)

 

さらに、『コーラン』出来事章56章27節から40節には、「右手の仲間、右手の仲間とは何であろう。(かれらは)刺のないスィドラの木、累々と実るタルフ木(の中に住み)、長く伸びる木陰の、絶え間なく流れる水の間で、豊かな果物が絶えることなく、禁じられることもなく(取り放題)。高く上げられた(位階の)臥所に(着く)。本当にわれは、かれら(の配偶として乙女)を特別に創り、かの女らを(永遠に汚れない)処女にした。愛しい、同じ年配の者。(これらは)右手の仲間のためである。昔の者が大勢いるが、後世の者も多い」とあります。ちなみに、「先頭のもの」とは最良のムスリムイスラム教徒)、「右手の者」とは一般のムスリムのことです。このような『コーラン』における天国での物質的快楽の描写がジハード(聖戦)を推し進める原動力となっており、テロのモチベーションになっているという指摘もあります。実際、イスラム過激派組織が自爆テロの人員を募集する際には、このような天国の描写を用いるケースが多いようです。『コーラン』の内容については、拙著『世界の聖典・経典』(光文社知恵の森文庫)を参考にされて下さい。

リゾートの思想』(河出書房新社

 

もう1つの「楽園」とは、タージマハル・ホテルのような高級ホテルです。拙著『リゾートの思想』(河出書房新社)で詳しく述べたように、もともとホテルとはこの世の楽園であり、天国の雛型と言えます。われわれの脳の中には、「理想土(リゾート)」イメージがインプットされているというのが、わたしの考えです。人類は古来から憧れの場所のイメージを抱いてきました。理想郷と呼ばれるものが、それです。天国とか楽園といった理想郷は、人類が古今東西にわたって憧れ続けた幸福の空間そのものであり、それを地上に再現することが高級ホテルの目指すところではないでしょうか。映画では、タージマハル・ホテルに足を踏み入れた瞬間、テロリストたちは呆然として、「まるで楽園だな」と言ったのが印象的でした。



タージマハル・ホテルは、インドの近代工業の父でタタ・グループの創始者でもあるジャムセットジ・タタによって作られました。タタは、ムンバイ(旧ボンベイ)の当時最大のホテルだったワトソンズ・ホテルに入ろうとしたところ、白人専用であることを理由に宿泊を断られ、これに怒ってもっと豪華なホテルをインド人の手で築こうとしたといいます。インド人建築家により西洋の新古典主義建築とインドの伝統の様式を混合した姿で設計されました。1903年12月16日にタージマハル・ホテルは開業し、以来ムンバイ第一のホテルとなりました。インドを訪問する世界の政治家・王侯貴族・有名人らがこのホテルの客となっています。



ムンバイ同時多発テロでは、火災がタージマハル・ホテルの1階で発生し、2階部分からもうもうたる煙が立ち上りました。タージマハル・ホテルの建物への損害はすさまじく、屋根部分のドームを含むパレス棟の一部は破壊されたと伝えられました。ニュー・デリーから駆け付けた軍治安部隊(NSG)によるホテル鎮圧作戦は完了し、その際に実行犯3人が死亡したとされています。タージマハル・ホテルの制圧が完了し同時テロ事件が本当に終結したのは、11月29日朝のことでした。多くの犠牲者が出ましたが、そのほとんどは、ホテルの従業員でした。ホテルを舞台にした映画はこれまでに数多く作られてきましたが、ここまでホテルマンのミッションを見事に描いた作品を他に知りません。



アヌパム・カーが演じたオベロイ料理長のリーダーシップも素晴らしく、まるで戦時の戦艦の艦長のようでした。しかし、艦長ならば乗組員とともに敵を攻撃するのが使命ですが、オベロイ料理長の場合はお客様と従業員の生命を守るという二重の使命を帯びていたのです。ムンバイ同時多発テロでは、ホテルの他にもレストラン、駅などで虐殺が行われました。テロというのはホテルのみならず、結婚式場でも葬祭会館でもレストランでも百貨店でもショッピングセンターでも、どこでも起こりえます。空港や銀行などは常にテロ対策をしているのでしょうが、あらゆるサービス業におけるテロへのリスク・マネジメントして、この映画は最高の教材になるのではないでしょうか。そういえば、日本では「TOKYO2020」でのテロ対策が進んでいます。五輪の開催時に東京でテロでも発生すれば、日本は一気に信用を失います。先日の組閣では、わたしの高校の後輩である武田良太衆院議員が国家公安委員長に就任しました。大いに期待しています。



ブログ「LION/ライオン~25年目のただいま~」で紹介した映画で主演したデヴ・パテルは、オベロイ料理長の下で働く給仕の役でしたが、じつに輝いていました。彼が頭にターバンを巻いていたことから、テロリストと混同して不安になったイギリス人女性がいたのですが、彼は自分はシーク教徒であり、信仰と一族の誇りから幼少の頃より外出時には必ずターバンを巻いていること、しかしながらお客様を不安にさせるのなら外しても構わないことを述べます。彼の誠意に心を打たれたその女性は「いいえ、外さなくていいです」と言うのですが、この場面は泣けました。自身の信仰と信念と顧客へのホスピタリティとをすべて犠牲にしなかった対応に非常に感動しました。事件当時のスタッフたちの大半は、現在もタージマハル・ホテルで働いているそうです。それを知って、わたしはタージマハル・ホテルを訪れて宿泊したくなりました。ホテル業のみならず、冠婚葬祭業や飲食業など、すべてのホスピタリティ・ビジネスに携わる方々に「ホテル・ムンバイ」を観ていただきたいです。

ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)

 

それにしても、「ホテル・ムンバイ」は、宗教、それもイスラム過激派の怖ろしさを思い知らされる映画でした。拙著『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)にも書きましたが、21世紀は、9・11米国同時多発テロから幕を開いたと言えます。あの事件はイスラム教徒によるものとされていますが、この新しい世紀が宗教の存在を抜きには語れないことを思い知った人も多いでしょう。その後の世界各地での戦争や紛争やテロの背後にも必ず宗教の存在があり、宗教に対する関心は日に日に増す一方です。しかし、日本人のなかには宗教を知らない人が実に多いことも事実です。正月には神社に行き、七五三なども神社にお参りする。クリスマスを盛大に祝い、結婚式は教会であげる。そして、葬儀では仏教のお世話になる。ある意味で宗教的に「いいかげん」というか「おおらか」なところが、代表的な日本人の宗教感覚だと言えるかもしれません。


100文字でわかる世界の宗教』(ベスト新書)

 

列島を震撼させたあの「オウム真理教事件」などは例外中の例外として、日本人は一般に「無宗教」だと言われます。自らが信じる神のためには戦争をも辞さないユダヤ教キリスト教イスラム教といった「一神教」の人々には燃えるような宗教心が宿っていますが、日本人の心の底に横たわっているのはむしろゆるやかな宗教心ではないでしょうか。そして、そんな日本人たちは言います。「宗教が違ったって、同じ人間じゃないか。どうして宗教のために人間同士が争わなければならないのか」と。たしかに、その通りです。人間は人間です。しかし、人類という生物としての種は同じでも、つまりハードとしての肉体は同じでも、ソフトとしての精神が違っていれば、果たして同じ人間だと言い切れるでしょうか。

100文字でわかる世界の宗教』(ワニ文庫)

 

人間にとって何よりも大事なのはソフトとしての精神であり、その精神にもっとも影響を与えるものこそが宗教なのです。はっきり言って、宗教が違えば、まったく違う人間になるのです。もちろん平和は大切であり、この世界から戦争を根絶しなければならないと私も痛切に思います。でも、そのためにも、いや、そのためにこそ宗教に対する理解というものが必要なのです。宗教を知らずして、真の国際人には絶対になれません。わたしは『100文字でわかる世界の宗教』(ベスト新書)、『100文字でわかる世界の宗教』(ワニ文庫)を監修しましたが、世界中の宗教について「これ以上は無理」というところまで、徹底的にわかりやすく解説しました。いわば「世界一わかりやすい宗教の本」を目指したのです。


じつは、わたしは10月2日からイスラム教国に行きます。
全互連の海外視察研修でマレーシアのクアラルンプールを訪れるのですが、同国はイスラム教が国教であり、マレー系を中心に広く信仰されています。中国系は仏教、インド系はヒンドゥー教徒が多いです。また、イギリス植民地時代の影響でキリスト教徒もいます。東アジアの非イスラム教国に住むムスリムイスラム教徒)は、一般にマレーシアの見解に従うことが多いそうです。マレーシアを代表するイスラム教の宗教建築であるプトラ・モスクも訪問する予定です。「ホテル・ムンバイ」を観た後だと、ちょっと海外に行くのが怖い部分もありますが、何事もないことを願っています。



最後に、最近わたしはカラオケで中島みゆきの「地上の星」を歌ったのですが、改めて歌詞の内容に感動しました。そして、「ホテル・ムンバイ」を観終わったとき、タージマハル・ホテルのホテルマンたちのような人々こそが「地上の星」と呼ばれるべきであると心の底から思いました。

 

2019年9月28日 一条真也