『狂天慟地』

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一条真也です。
4日から金沢へ行きます。
同日は手取紫雲閣の新築工事起工式に施主として参加し、翌日からはサンレー北陸の社員旅行で飛騨高山に向かいます。
『狂天慟地』鎌田東二著(土曜美術社出版販売)を読みました。著者から送られた本で、ブログ『常世の時軸』で紹介した著者の第一詩集、ブログ『夢通分娩』で紹介した第二詩集に続く第三詩集です。「神話詩三部作」が完結しましたが、「詩人」としてはしばらく「休火山」とし、溜まっている論文や本の執筆に注力されるそうです。しかし、あくまでも「休火山」であり、「死火山」ではありません。 

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本書の帯

 

本書の表紙カバーには、前作『夢通分娩』に続いて、教育哲学者・教育学博士(京都大学)の門前斐紀氏の素晴らしくシュールなイラストが使われています。帯には「みなさん 天気は死にました」「たとえ何が起こっても めげないでくれ いつしか 夜逃げするほどの重荷を 背負い切れない遺伝子に 残した負債は不渡り」「何が起こるか分からない  たとえそうであっても ゆるがずに往け たおやかに遊べ」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

また帯の裏には、以下のように書かれています。

 

如是我聞

かくの如くわれ聞く

 

狂天慟地

天は狂い 地は慟く

 

如是我聞

かくの如くわれ聞く

 

押入れの花

ちりばめられた夜の蜜柑

とこしえに

 

渚から這い上がって

人間を脱いだ

着脱擬装マン

 

ブッダかと思って近づいて

慇懃無礼な亀の甲羅を踏んづけた

スッタニパータ

やぶれかぶれのあみだくじ

(「如是我聞」より)

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

Ⅰ 狂天

1 みなさん天気は死にました

2 狂天慟地

3 狂

4 熊野小栗判官

5 狂え さだひこさるたひこ

6 あしはらなかくに1

7 あしはらなかくに2

8 みそら

9 いと

10 戸口

Ⅱ 驚天動心

1 かっちょはん

2 噴火

3 デルフォイの夢

4 富士の雷 富士の夢

5 震え

6 ぼくを吹いて!

7 ありがとう さよなら

Ⅲ 慟地

1 預言者

2 オルフェウス

3 オルフェウス

4 オルフェウス

5 友

6 天地動乱

7 歎きの城

8 天地興亡

9 明暗

10 みなさん天気は死にました2

11 蟻・花・人

12 ノア

13 最終の言葉

14 如是我聞

15 メコン

 

グリーフケアの時代―「喪失の悲しみ」に寄り添う
 

 

先月末、わたしは著者とブログ『グリーフケアの時代』で紹介した共著を上梓しました。また、著者とは「ムーンサルトレター」という満月の往復書簡を14年以上もWEB上で交わしています。その著者からのレターによれば、著者は一昨年から、「いよいよ詩集をまとめねば」という気持ちになっていたとか。今から半世紀前、著者が10代後半から20代前半までの数年間、著者は「現代詩手帖」や「ユリイカ」を愛読していたとか。そこに掲載される現代詩人の作品もすべて読んでいたそうですが、20代後半に『水神傳説』という神話小説のような作品をまとめた頃からパッタリと「現代詩手帖」や「ユリイカ」を読まなくなり、次第に学問の方に集中し始めたといいます。

 

常世の時軸

常世の時軸

 

 

 しかし、学問に集中している間も、折に触れて、著者は詩・短歌・俳句は作っていたそうです。時々は歌う歌も作っていました。それが1988年12月12日からは「神道ソングライター」として特化したわけですが、その前兆・伏線は10代後半からあったようです。10代後半には詩を書くとともに、作詞作曲して歌も歌い始めていたのです。ですから、1998年12月にある日突然、歌い始めたというわけではなく、むしろ、何十年かのブランクの後、間歇泉のようにまた噴き上げただけなのかもしれません。

 

夢通分娩

夢通分娩

 

 

学問のみならず、音楽活動に詩作と、著者のマルチな活躍ぶりには目を見張るものがあります。著者は自身の詩のことを「神話詩」と呼んでいますが、本当に古代の神々の世界とつながっているような、また宇宙のかなたに通じているような、不思議な味わいの詩の数々は「神話詩」と呼ぶにふさわしいと思います。本書『狂天慟地』には、「愛隣星雲」とか、「天地交差点」「龍巻御前」「誤界」といった、謎めいていて洒落た造語が次から次に飛び出してきます。前作の2冊にも増して、言葉のリズムが冴えており、詩人としてパワーアップした感あり。ありおりはべりいまそかり! 
まずは、Ⅰ「狂天」の1「みなさん天気は死にました」が、あまりにも素晴らしいので、以下に全文を紹介したいと思います。

 

みなさん天気は死にました

  

「みなさん 天気は死にました」

 

と 高校三年生の田村君は 言った

その田村君は 生きているか?

 

五十年も昔のこと

 

荒れ狂う天地万物

林檎よ

縁は異なもの味なもの

 

そのとおりだが

でもね

死んだ天気も 縁次第

そのようになって そのようにある

あるべくして ある

なるべくして なる

 

世界はそのようにうごいている

縁はそのようにはたらいている

1ミリ1センチたりとて恣意的ではない

成るべくして成る

在るべくして在る

 

ありおりはべりいまそかり

青森カルシウムはどこ行った?

 

臼田甚五郎は飛びのいた

大森から青森まで

その飛躍こそが猿楽芸能

天狗舞

マイトレーヤ

 

そは如是我聞

聴くべき耳を研いた

研磨研耳

いかつこなく

いかしまぐはひのごと

弘前

花折れて立つ

 

やつかみみ

はしぬれど

ねもないど

 

落穂拾いの姉御を拾った

弘前にて

津軽三味線

音律たかあま

ぐひのみこと

 

だがされど

されど木島

みやこじま

いつまで封せど

ねこばばの

影落ち延びて

地に臥せり

 

やつがれは

しとど

ぬれて

大河の一滴まで

のみほした

 

ぬれおちど

ぷちそいど

れおなるど

はれおから

ひとしずく

はれ ほれ

みれ おれ

 

行き場なし

溜り場なし

咲き場なし

馬場愛なし

 

そうだとしても

すべてをいれて

すべてをすてて

本日早々

 

みなさん 天気は 死にました。

 

わたしは九州に住んでいますが、ここ数年、九州を襲う豪雨のニュースには必ず「記録的な大雨」とか「観測史上初」などの形容詞がつきます。まさに異常気象を超えた「狂天」といった印象ですが、「みなさん 天気は死にました」という神の啓示にも似た言葉に今から50年も前に接していたとは驚きです。また、この「みなさん 天気は死にました」という詩を冒頭に置く本書が、ブログ「天気の子」で紹介した大ヒットアニメの上映中に刊行されたというのも奇妙な縁であると思います。

 

「天気の子」は、新海誠監督がブログ「君の名は。」で紹介した作品以来およそ3年ぶりに発表したアニメーションです。天候のバランスが次第に崩れていく、まさに「天気が死につつある」現代を舞台に、自らの生き方を選択する少年と少女を映し出します。ヒロインの陽菜は天気をコントロールする不思議な能力の持ち主でした。「天気の子」と本書『狂天慟地』のメッセージには共通する部分が多いように思います。

 

そのことを著者に申し上げたところ、著者は、わたしへのメールで「『天気の子』とのシンクロニシティは、わたしも感じますが、それだけ自然界の異変メッセージ(狂天警告)が強いということだと思います。この天然自然の中でしか、『人間尊重』は成り立ちませんので。『自然感謝』が根底であり、先にあって、謙虚な人間尊重が成り立つと考えます。人間中心主義の、『人間の、人間による、人間のための人間尊重』であってはならないと思うのです。『自然への畏怖畏敬と感謝に基づく人間尊重』でなければ」と述べています。これは、長年にわたる著者の主張でもあります。著者によれば、本書の根幹メッセージは、自然畏怖と感謝であり、人間の驕りや傲慢への戒め(自戒)であるとのことですが、本書のⅢ「慟地」の10「みなさん天気は死にました 2」も「天気の死」をテーマにしていますが、内容は以下の通りです。

 

みなさん天気は死にました 2 

 

みなさん天気は死にました

こころの準備はいいですか?

からだの準備もできてます?

たましいの準備はいかがです?

 

みなさん天気は死にました

死んだとはいえ天気はあります

狂天慟地の天気ではありますが

前人未到把握不能のお天気ですが

 

みなさん天気は死にました

どうして天気は死んだのか?

だれもほんとうの答えはわかりません

でもだれもがうすうすわかっています

 

みなさん天気は死にました

曇りのち晴れとか晴れのち雨とか

天気予報官も上がったり

天気に振り回されることもなく

 

みなさん天気は死にました

むかしむかしそのむかし

秦の始皇帝の時代に天気予報官が現われて

皇帝様に天の気を伝えました

 

よしよしおまえは愛い奴じゃ

天気の一つも飼ってみろ

俺の意思を天に伝えて天命としろ

そこから天気への脅迫が始まりました

 

みなさん天気は死にました

秦の始皇帝ばかりではありません

あらゆる時代のあらゆる為政者は

天気のこころを気にはしながら天気を憎みました

思い通りにならないもの すごろくの駒 賀茂川の水 僧兵

いや一番思い通りにならないものは 天気のこころでございます

 

みなさん天気は死にました

天気のこころをだれもがわからず

天気のこころにだれもが通ぜず

天気はしだいにくるって孤独死してしまったのでありました

 

みなさん天気は死にました

誰にも何処にもまんべんに

いろいろ気配り天配り

配りすぎて疲れ果て

どうするすべもないままに

みなさん天気は死にました

 

みなさん天気は死にました

葬儀を行なう人はいませんか?

どんな葬式必要ですか?

いのりいのりいのりです

みなさん天気は死にました

 

みなさん天気は死にました

ナポレオンもヒトラーも侵略できなかったもの

それが天気だったのに

どうしたことか

あろうことか

みなさん天気は死にました

 

悲しみに満ちた追悼メッセージ

不安にあふれた警告メッセージ

怖ろしいばかりの脅迫メッセージ

そのどれもがどうすることもできない不可能性のトーン

 

みなさん天気は死にました

天気予報がなつかしい

ああ天気よ天気帰って来ておくれ

みなさん天気は死にました

 

曇りも晴れも雨も雪も台風もない

みなさん天気は死にました

ぼくらもともに死にましょう

ぼくらもすべなく死にましょか

 

みなさん天気は死にました

でも 死んでも終わりではありません

死んで花実が咲くものか

と言いますが

死んで花実も咲きまする

 

みなさん天気は死にました

でも 死んだあとはよみがえるだけ

あとは野となり山と成る

みなさん天気は生まれます

みなさん天気は阿礼まする

みなさん天気に生まれませ


葬式は必要!』(双葉新書) 

 

ここに出てくる「みなさん天気は死にました 葬儀を行なう人はいませんか? どんな葬式必要ですか? いのりいのりいのりです みなさん天気は死にました」という言葉には、驚きました。わたしには、その名も『葬式は必要!』(双葉新書)という著書がありますが、「どんな葬式必要ですか? いのりいのりいのりです」という著者の言葉には、まったく同感です。葬式はどんなに質素であっても、どんなスタイルであっても構いません。何よりも大切なのは死者への「祈り」です。いくら高価な祭壇が飾られ、立派な宗教者が立ち会おうとも、そこに参列者の「祈り」がなければ、何の意味もありません。まさに、「いのりの葬式は必要!」なのであります。

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それから、天気と葬式はじつは深い関係があるのです。「工」という漢字がそれを表現しているのですが、「工」の上の「一」は天のことで、下の「一」は地のことです。それらを繋ぐタテの「Ⅰ」は人のワザであり、ARTを意味します。「雲」という漢字と「霊」という漢字は似ていますが、もともと語源は同じであったと考えられます。そして、天の「雲」を地に降ろす営みが雨乞いであり、地の「霊」を天に上げる営みが葬儀なのです。ちなみに、儒教の発生には雨乞いが深く関わっています。儒教の「儒」という字は「濡」に似ていますが、これも語源は同じです。ともに乾いたものに潤いを与えるという意味があります。すなわち、「濡」とは乾いた土地に水を与えること、「儒」とは乾いた人心に思いやりを与えることなのです。

唯葬論』(サンガ文庫)

 

儒教の開祖である孔子の母親は雨乞いと葬儀を司るシャーマンだったとされています。雨を降らすことも、葬儀をあげることも同じことだったのです。なぜなら、雨乞いとは天の「雲」を地に下ろすこと、葬儀とは地の「霊」を天に上げることだからです。その上下のベクトルが違うだけで、天と地に路をつくる点では同じなのです。母を深く愛していた孔子は、母と同じく「葬礼」というものに最大の価値を置き、自ら儒教を開いて、「人の道」を追求したのです。ですから、拙著『唯葬論』(サンガ文庫)でも強調したように、葬儀は人類にとっての最重要行為なのです。ちなみに、同書の解説は鎌田東二氏が書いて下さっています。

儀式論』(弘文堂)

 

わたしは『唯葬論』に続いて、『儀式論』(弘文堂)を書きました。同書では、「人間が人間であるために儀式はある!」と訴え、儀式が人類存続のための文化装置であることを説きました。そのあたりは鎌田氏も共鳴して下さっていると思うのですが、本書『狂天慟地』には、スリリングな儀式がたくさん登場します。ここでは3つ紹介したいと思います。

 

1つめの儀式は、Ⅱ「驚天動心」の3「デルフォイの夢」に登場します。ここには、この上なく神秘的な儀式が描写されています。1982年8月、著者はデルフォイの神殿に立ちました。著者は地形を見回し、アポロン神殿の脇からパルナッソスの山に登った。山頂で誰もいないのを確認して素裸になりました。小学5年の時、『古事記』を読み、続けざまにすぐギリシャ神話を読んで以来、ギリシャに憧れていました。そしていつしかギリシャに行ったら、その輝くばかりの陽光の下で真裸になってその光を一身に受けたいと思い続けてきました。31歳の夏、その子供の頃からの願望を達成したのです。

 

そのときのことを、著者は以下のように書いています。
「素っ裸で祝詞を奏上し、龍笛を奏でた。その時、ダダンダダンと空が鳴った。ダイナマイトでも仕掛けて山を爆破しているかのような。おそらく観光客相手のリゾートホテルを建てるために山を切り崩しているのだろう。そう思うとむしょうにかなしくなった。たった一人の儀式を終えて、宿の近くのタベルナに入って遅い昼食を摂ろうとした。途端、これまで経験したことのないスコールが襲ってきた。篠突く雨というか、爆弾のような連射砲のような雨雨雨。その時、強烈な閃光が走り、しばらくして物凄い音響がダダンダダンと空が鳴り響いた。それはカミナリだった。身震いするほどそそけだった」

 

続けて、著者は以下のように書いています。
「その夜、夢を見た。泉の前に立っていた。泉から金色の湯煙が立ち上ってくる。そこに近づき、飛び込んでいきたい気持ちがあるのだが、恐れ多いような神々しいような畏怖の念を感じて佇んでいた。その時、金の泉の中から声が聞こえてきた『美しいものを美しいものとして見るのではなく、醜いものを醜いものとして見るのでもなく、ただありのままに見つめよ』そして、予言の言葉が続いた。私は何処から来て何処へ行くのか。その道筋を示す言葉を得て私は慄然とし、ありのままに見つめることを座右の銘とするほかなかった。行き先は不明でもその流れに乗るほかなかった」

 

2つめの儀式は、Ⅱ「驚天動心」の4「富士の雷 富士の虹」に出てきます。1987年3月20日、著者が36歳になる誕生日の夜、七面山に登り始めました。著者は、40日近くも一睡もすることができず、気が狂いそうになっていたそうです。その間、自分を制御することも律することもできず、ただ眠れぬ夜、身を横たえたまま朝を待ち、朝日を拝しつづけました。そして、春分の日、富士山から昇ってくる朝日を拝したいという一念のみで混沌の身を支えました。

 

人生最大の危機、狂天慟心のわが身を持て余し、どうすることのできない著者は、春分の朝を迎えました。そのときのことを以下のように書いています。
「七面山山頂付近に建つ日蓮宗の山岳寺院敬慎院で少し休息した後、外に出て御来光を待った。未だ漆黒の闇の中に富士のシルエットが奥床しくも雄渾にうち沈んでいる。徐々に東の空が明るんできて、富士の山頂に赤みが差してきた。おそらく日蓮宗立正佼成会の人たちだろう。法華経如来寿量品を団体で読誦する声が聴こえ、私の上げる大祓祝詞も掻き消された。だが陶酔的な混声合唱の集団祈祷のひと時。ゆっくりと一条の光が差し込み、富士の真っ芯から朝日が顔を覗かせた。銭湯の書き割りの如きいかにもという笑いたくなるようなそして有難い光景。熱くなるものが込み上げたが、それも集団沸騰の中で溶け入った」

 

続けて、著者は以下のように書いています。
「御来光を拝した後、七面山の山頂に登った。他には誰も山頂まで登る人はいなかった。ずぶりと膝まで入るほど深い残雪があった。深雪に足を取られ、汗びっしょりになりながら小一時間ほど必死で雪道を辿った。周りの風景を見る余裕もなく、足元ばかりに気を取られ、漸く山頂に至り、顔を上げて目の前を見た。いきなり正面にドーンと富士が聳え、右手上空に朝日が輝いていた。雲一つない快晴。その富士と朝日を取囲むかのように大円周の虹が掛かっているのが見えた」

 

そして、著者は以下のように書くのでした。
「嘘だろ! そんなの。ありかよ、こんなの。まったく予期しない光景に、瞬間、気が抜けた。そのとき、怒涛の如く涙があふれた。たすかった、これでぼくはいきられる。瞬時にそんな想いが押し寄せて、有難さの滂沱の涙となった。山頂でリュックから取り出した龍笛で「産霊(むすび)」という曲を吹いた。その日その時から、ほんのわずかずつ眠れるようになった。はち切れそうになった風船頭に小さな穴が開いて、風が通るようになったのだ。ぼくは天然自然に生存を許された。こうして、ふたたび明日を考えることができるようになった」

 

3つめの儀式は、Ⅱ「驚天動心」の6「ぼくを吹いて!」に登場します。1995年8月15日、終戦から50年を迎えた日に、アイルランドアラン群島の中の一番小さな島イニシュア島から広島に祈りをささげた儀式のエピソードが以下のように描かれています。
「広島に原爆が落ちた時間に海岸に出て、難破船が打ち上げられたままになっている波打ち際で、東南の方に向かって祈りを捧げた。大祓詞、祈り言、龍笛、法螺貝、日本から持参した石笛を吹き鳴らし、広島での友人たちの儀式にシンクロしたであろうという想いを抱いてその日の宿のB&Bに帰ろうと海岸線を歩いていたら、突然、『ぼくを吹いて!』と呼びかける声があった。思わず『ハイッ!』とその声の方角を見ると、海岸線の波打ち際に転がっていた石が目に飛び込んできて穴の開いているのが見えた。拾い上げてみると三つ巴のケルト文様にも似た三つの穴が開いていた。すぐさま左下の一番大きな穴にくちびるを当てて息を吹き込んだ。ピーッという空間を切り裂く高音が響き渡った。生まれてきたばかりの始祖鳥が上げるようなこの世のものとは思えぬ純音。その日以来、毎朝イニシュア島の石を吹き続けている。『ぼくを吹いて!』という声にさしつらぬかれたまま」

 

著者の詩を読んでいると、まさに儀式と詩作は通底しているとことがわかりますが、詩人とはシャーマンであると思えてなりません。Ⅲ「慟地」の4「オルフェウス 3」には2人の人物による詩人の定義が紹介されています。1人は預言者トマス・インモース神父で、「詩人の存在意義というのは、太古からの人間の普遍的な体験を言葉で表現するところにある。詩人は彼個人の哀しみや歓びを、それが人間的普遍性をもつような形に凝固させなければならない。詩人の魂には、その民族、その宗教、いえ、全人類の集合的記憶が蓄えられている」というものです。もう1人は屋久島に住む山尾三省で、「詩人というのは、世界への、あるいは世界そのものの希望(ヴィジョン)を見出すことを宿命とする、人間の別名である」というものです。

 

まさに、本書の著者である鎌田東二氏こそは「詩人」の名にふさわしいと言えますが、じつは本書を読んだとき、わたしは非常に神秘的な体験をしました。ここしばらく悩みの種になっていたことがあったのですが、その悩みについての明確な回答が著者の詩の中に書かれていたのです。驚いたわたしが、著者に「この言葉はどういう意味ですか?」とメールで質問したところ、「『詩語』のイメージと解釈は読み手のものです。書き手とも言えるわたしは、蠢いて訪れてくる言葉の依り代であり媒介者にすぎませんので、考えて書いているわけではありません。ですので、説明は不可能です。よろしくお願いします」との返信が届きました。なるほど。しかし、わたしにとっては、まさに神秘的な体験であり、「詩とは凄いものだ」と心底思いました。

f:id:shins2m:20190903202931j:plainここに「神話詩三部作」が完結!

 

Ⅰ「狂天」の7「あしはらなかくに 2」には、「中山みき中島みゆきと同じこと 心の汚れを歌い取る」という言葉が出てきます。天理教の開祖とニューミュージックの女王を並べる著者の卓越したセンスに膝を叩きながらも、著者の詩集もまた「お筆先」なのだと悟りました。Ⅱ「驚天慟地」の1「かっちょはん」に登場する全裸で畑の大根を引き抜き、精神病院で亡くなった女性の姿がありありと目に浮かんできて泣けてきました。詩作によって彼女の供養になったと思います。それにしても、ものすごい三部作が完成したものです。わたしは、とんでもない人と14年以上も文通している事実に改めて驚きました。最後に、休火山が再び活火山となって、詩人・鎌田東二が復活し、その詩魂が噴火する日を心待ちにしています。

 

狂天慟地

狂天慟地

 

 

2019年9月4日 一条真也

結婚式 親子で模擬体験

一条真也です。
3日、「西日本新聞」に「令和こころ通信 北九州から」の第9回目が掲載されました。月に2回、本名の佐久間庸和として、「天下布礼」のためのコラムをお届けしています。今回のタイトルは「結婚式 親子で模擬体験」です。

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西日本新聞」2019年9月3日朝刊

 

小泉進次郎衆院議員とフリーアナウンサー滝川クリステルさんの結婚報道には大変驚きました。お似合いのお二人ですし、心から祝福したいと思います。このビッグカップル誕生をきっかけに、令和の日本に結婚ブームが起こることを願っています。

 

日本は、いま最大の国難に直面しています。それは韓国との関係悪化でも、北朝鮮問題でもありません。より深刻なのが人口減少問題です。最大の解決方法は、言うまでもなく、たくさん子どもを産み育むこと。そのためには、結婚するカップルがたくさん誕生しなければならないのですが、現代日本には「非婚化・晩婚化」という、「少子化」より手前の問題が潜んでいます。

 

日本人が結婚をしなくなった背景には、結婚式への憧れが弱くなったことがあるように思えてなりません。かつて、小学生女子の「将来の夢」の第1位は断トツで花嫁さんでしたが、すでに過去の話です。いま、入籍のみで結婚式はしていない、いわゆる「ナシ婚派」が入籍者の約半数を占めている。その三大理由は「経済的事情」「さずかり婚」「セレモニー行為が嫌」だといいます。

 

「セレモニー行為が嫌」については、感謝の「こころ」を「かたち」にして届ける婚礼本来の意味が伝わっていないからでしょう。そこで、わが社の松柏園ホテルでは、2016年から、婚礼本来の意味を伝えるプロジェクトを推進しています。タイトルは「親子でウエディング体験会」。本年も夏休みの終わりに、小学生とその親を対象に、経験豊かなウエディングプランナーを講師として、結婚式まつわる「あるあるクイズ」、また「チャペルウエディング」や「披露宴」などを通じ、結婚式の模擬体験を行いました。

 

さらにイベントのクライマックスでは、小学生全員に、一緒に参加している親御さんに対して「感謝の手紙」を読んでもらいました。それは感謝の「こころ」を「かたち」にして届けることで、儀式の本質的な意義に、実体験を通じて少しでも触れてほしいと思ったからです。イベント終了時には、参加いただいた感謝の気持ちを込めて、参加者全員に「修了証書」を贈らせていただきました。

 

講師を務めるウエディングプランナーの姿を見て、「この仕事をやってみたい!」というお子さんや、新郎新婦モデルを見て「いつかは、自分も花嫁さんに!」と思ってくれる憧れ派も出てくれたら嬉しいことです。さらにこの機会を通して、「家族や兄弟、友達との絆」を感じてくれる子どもたちも出てくるかもしれません。非日常的な結婚式だからこそ、今後も実体験を通じて「気づく機会」を提供していきたいと思います。

 

2019年9月3日 一条真也拝 

お盆は休みのためにある?

一条真也です。
9月2日の朝、サンレー本社で行われた月初の総合朝礼と北九州本部会議に参加しました。この日、WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第14回目がアップされました。タイトルは、「お盆は休みのためにある?」です。

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「お盆は休みのためにある?」

 

今年のお盆(旧盆)は、超大型の台風10号が日本列島を直撃しました。各地で交通網が混乱し、観光客や帰省客に大きな影響が発生しました。
さて、本来お盆といえば、墓参りです。これは、先祖を偲び供養するために、お盆には欠かせない行事でした。ところがお盆は今、夏季休暇のひとつになってしまっているのではないでしょうか。たしかに「お盆休み」という言い方で、日本人は夏休みを取る習慣があります。

 

「休み」というと、西洋的な考え方ではバカンスというか、リフレッシュするという意味合いが強いわけですが、日本においては「帰省」という言葉に代表されるように、故郷に帰る意味が込められていました。お盆休みとは、まさに、子孫である孫たちを連れて、先祖(祖父母を含む)に会いに夫の故郷へ帰るというものだったのです。

 

じつは、こうした風習も今、不合理ということで変化してきました。同じ時期にみんなで休めば、電車や飛行機といった交通機関は混む上に高い、ということで分散するようになり、家族旅行は夫の故郷への帰省ではなく、国内や海外への家族旅行になっています。おばあちゃんが孫のためにつくった郷土料理は、いつの間にかファミレスのハンバーグになり、回転ずしになってしまいました。こうしたことも、先祖や家族との結びつきを希薄にしているのではないでしょうか。

 

「家」の意識などというと、良いイメージを抱く人は少ないかもしれません。そうした背景もあってか、戦後の日本人は、「家」から「個人」への道程をひたすら歩んできました。冠婚葬祭を業としているわたしたちから見ると、その変化がよくわかります。たとえば結婚式。かつては「○○家・△△家結婚披露宴」として家同士の縁組みが謳われていたものが、今ではすっかり個人同士の結びつきになっています。葬儀も同様です。次第に家が出す葬儀から個人葬の色合いが強まり、中には誰も参列者がいない孤独葬という気の毒なケースも増えてきました。

 

たしかに戦前の家父長制に代表される「家」のシステムは、日本人の自由を著しく拘束してきたと思います。なにしろ「家」の意向に反すれば、好きな職業を選べず、好きな相手と結婚できないという非人間的な側面もあったわけですから。その意味で、戦後の日本人が「自由」化、「個人」化してきたこと自体は悪いことではありません。でも、「個人」化が行き過ぎたあまり、とても大事なものを失ってしまったのではないでしょうか。それは、先祖や子孫への「まなざし」ではないかと思います。

 

ご先祖さまとのつきあい方 (双葉新書(9))

ご先祖さまとのつきあい方 (双葉新書(9))

 

 

2019年9月2日 一条真也

『夢見る帝国図書館』

夢見る帝国図書館

 

一条真也です。
『夢見る帝国図書館中島京子著(文藝春秋)を読みました。著者の小説を読むのは、ブログ『小さいおうち』で紹介した直木賞受賞作を読んで以来です。なんとも不思議で洒落たタイトルですが、「出版寅さん」こと内海準二さんと赤坂見附のホテルのラウンジで打ち合わせをしているとき、紹介してもらいました。内海さんが「今これを読んでいるけど、面白くて」と言って実物を手渡してくれましたが、404ページのハードカバーで、ずっしりとした重さでした。

 

小さいおうち (文春文庫)

小さいおうち (文春文庫)

 

 

著者は1964年、東京都生まれ。東京女子大学卒業。出版社勤務を経て、2003年『FUTON』で小説家デビュー。10年『小さいおうち』で直木賞受賞。14年『妻が椎茸だったころ』で泉鏡花文学賞受賞。15年『かたづの!』で河合隼雄物語賞、歴史時代作家クラブ賞作品賞、柴田錬三郎賞を受賞。同年『長いお別れ』で中央公論文芸賞受賞。16年、同作で日本医療小説大賞受賞。

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本書の帯

 

本書の帯には「本がわれらを自由にする」「明治に出来た日本初の図書館と戦後を生きた喜和子さん。ふたつの物語は平成でひとつに――」とあります。また、黒豹の後ろ姿がイラストで描かれていますが、これは本書にも登場する「上野動物園クロヒョウ脱走事件」(昭和11年)にちなんでいると思われます。

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本書の帯の裏

 

本書の帯の裏には、「『図書館が主人公の小説を書くのは、どう?』作家のわたしに、喜和子さんはそう提案したのだった」「樋口一葉に恋をし、宮沢賢治の友情を見守り、関東大震災を耐え、『かわいそうなぞう』の嘆きを聞いた――」「日本で最初の国立図書館の物語を綴りながらわたしは、涙もろい大学教授や飄々たる元藝大生らと共に思い出をたどり、喜和子さんの人生と幻の絵本『としょかんのこじ』の謎を追う」と書かれています。

 

アマゾンの「内容紹介」は、以下の通りです。
「『図書館が主人公の小説を書いてみるっていうのはどう?』
作家の〈わたし〉は年上の友人・喜和子さんにそう提案され、帝国図書館の歴史をひもとく小説を書き始める。もし、図書館に心があったなら――資金難に悩まされながら必至に蔵書を増やし守ろうとする司書たち(のちに永井荷風の父となる久一郎もその一人)の悪戦苦闘を、読書に通ってくる樋口一葉の可憐な佇まいを、友との決別の場に図書館を選んだ宮沢賢治の哀しみを、関東大震災を、避けがたく迫ってくる戦争の気配を、どう見守ってきたのか。日本で最初の図書館をめぐるエピソードを綴るいっぽう、わたしは、敗戦直後に上野で子供時代を過ごし『図書館に住んでるみたいなもんだったんだから』と言う喜和子さんの人生に隠された秘密をたどってゆくことになる。喜和子さんの『元愛人』だという怒りっぽくて涙もろい大学教授や、下宿人だった元藝大生、行きつけだった古本屋などと共に思い出を語り合い、喜和子さんが少女の頃に一度だけ読んで探していたという幻の絵本『としょかんのこじ』を探すうち、帝国図書館と喜和子さんの物語はわたしの中で分かち難く結びついていく・・・・・・。知的好奇心とユーモアと、何より本への愛情にあふれる、すべての本好きに贈る物語!」

 

帝国図書館」は、第二次世界大戦以前の日本における唯一の国立図書館です。1872年設立の「書籍館」(図書館の古称)を起源として1897年に設置されました。戦後の1947年に国立図書館と改称しましたが、2年後の1949年に「国立国会図書館」に統合されて消滅しました。蔵書は現在の国立国会図書館東京本館に受け継がれています。帝国図書館は上野公園の丘にあることから、「上野図書館」の通称で長く親しまれました。上野図書館に通った経験をもつ文豪、学者は数知れず、近代日本文化の歴史に大きな足跡を残しています。そのあたりは本書『夢見る帝国図書館』にも描かれています。その歴史ある建物は国立国会図書館支部上野図書館を経て、2000年(平成12年)に国立の児童書専門図書館である「国立国会図書館国際子ども図書館」として再生、現在も国立の図書館として現役です。

 

この帝国図書館は、当初計画の3分の1のスケールしかないことを、本書を読んで初めて知りました。海外視察から帰国した福沢諭吉は「西洋の首都にはビブリオテーキがある」と言いました。ビブリオテーキとは文庫であり図書館のことですが、それがないことには日本は近代国家とは言えず、近代国家にならなければ不平等条約が撤廃できないと考えた明治新政府は、上野の森に帝国図書館を作ることを思いつきます。しかし、西郷隆盛の挙兵による西南戦争をはじめ、日清戦争日露戦争・・・・・・帝国図書館の建設中に次々と戦争が勃発し、建設費は縮小され、書籍の購入も思うように進みませんでした。「富国強兵」を掲げた明治国家は「文化向上」よりも「国威発揚」を優先したのです。

 

『夢見る帝国図書館』のメイン・ストーリーは、上野近辺に暮らした喜和子さんの人生を、その友人や家族たちが追って、彼女の真実の姿を知るプロセスにありますが、その結び目に帝国図書館や上野公園周辺の歴史がサイド・ストーリーとして紹介されます。このサイド・ストーリーの部分が非常に面白いのですが、そこには永井荷風の父・永井久一郎、樋口一葉淡島寒月幸田露伴夏目漱石和辻哲郎芥川龍之介菊池寛宮沢賢治谷崎潤一郎宇野浩二吉屋信子宮本百合子山本有三小林多喜二・・・・・・日本文学史を彩る人々が続々と登場します。

 

また、サイド・ストーリーでは、「書籍館」時代の帝国図書館のルーツが昌平坂学問所であったことが明かされます。昌平坂学問所は、1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設です。もともとは1630年(寛永7年)、徳川家康から与えられた上野忍岡の屋敷地で林羅山が営んだ儒学の私塾を起源とします。羅山は、ここに孔子廟を設けてその祭祀を行い、これらの維持運営はその後代々の林家当主(大学頭)が継承しましたが、その後1690年(元禄3年)、将軍徳川綱吉が神田湯島にこの孔子廟を移築することを命じ、この際講堂・学寮が整備され、この地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名されました。1790年(寛政2年)、いわゆる「寛政異学の禁」により幕府の教学政策として朱子学が奨励され、その一環として林家の私塾であった「学問所」を林家から切り離し、「聖堂学規」や職制の制定など、1797年までに制度上の整備を進めて幕府の直轄機関としました。これが幕府教学機関としての昌平坂学問所の成立です。

 

この昌平坂学問所東京大学の前身だと思っている人が多いようです。本書の主人公である「わたし」もそう思っていたのですが、喜和子さんの元愛人で大学教授だった古尾野先生から「ばーか。何言ってんの、違うよ」とあっさり否定されます。そもそも東大の失敗は昌平坂学問所を継承しなかったことにあると訴える古尾野先生は次のように述べます。
「源流の1つとか言って、お茶を濁しているけれどもね、ありゃ、源流じゃない、傍流もいいとこ。東大の源流はね、幕府天文方と種痘所なの。ようするに、理学部と医学部ですよ。困ったことに、人文という発想が、そもそもないんだ。しかも明治という時代は、何がなんでも西洋の学問をしなければならないというのが基本だった。昌平坂学問所が学問としてやっていたのは、哲学だよ。人文学だよ。大学なんてものはねえ、世の東西を問わず、人文学があって始まるのが基本じゃないか。哲学を欠いた理学と医学に、発展があるか」

 

また、古尾野先生は次のようにも述べるのでした。
「ともかく急いで西洋から学べという発想で官立大学を作って、それまでの学問を切り離しちゃったんだよ。近代国家体制を作らなきゃならなかったから、それでも法学は重視した。次に医学。そして富国強兵・殖産興業に資する工学ね。こういう、実学ばっかり重視した大学にしていっちゃった。だけど何度も言うけど、学問の基本は人文学だ。生活に役に立つものを作る学問だって必要だけれども、そのバックボーンには、徹底して人間というものを考え抜く哲学の素養がなければいけないんだ」
わたしは、この古尾野先生の発言に全面的に賛成です。学問の基本は人文学であり、それを軽視する現在の日本の教育行政に対して、わたしは大きな不満と不安を抱いています。

 

銀河鉄道の夜 (岩波少年文庫(012))

銀河鉄道の夜 (岩波少年文庫(012))

 

 

 宮沢賢治のエピソードも興味深かったです。
永遠の名作『銀河鉄道の夜』で、「どこまでも一緒に行こう」と思ったのに、ジョバンニはカンパネルラと別れてしまいます。あの幻想的な童話には、実際にあったことが反映されているという説があると紹介され、カムパネルラは賢治の亡くなった妹の節子だと考えられてきましたが、じつは賢治にはカムパネルラにあたる友人がいたというのです。賢治とその友人は恋人同士であったという説を立てる人もいますが、同性愛というよりも精神的な繋がりであったようです。賢治といえば日本近代文学史上名高い「童貞詩人」ですが、その友人に対する思いの強さは相当なもので、賢治自身ですら「恋愛」と意識するほどでした。そのジョバンニとしての賢治と、カンパネルラである友人が別れたのも帝国図書館でした。

 

 

大正年間に帝国図書館に出入りした人物の1人に、インド人のマティラム・ミスラがいました。ミスラのことを谷崎潤一郎は「ハッサン・カンの妖術」で、芥川龍之介は「魔術」で描きました。名だたる2人の文豪が、ともに自作の中で「実際に出会った人物」と書いているので、おそらくはミスラは実在したのでしょう。芥川は、「ミスラ君は永年印度の独立を図っているカルカッタ生れの愛国者で、同時にまたハッサン・カンという名高い婆羅門の秘法を学んだ、年の若い魔術の大家なのです」と書いています。

 

魔術 (1年生からよめる日本の名作絵どうわ)

魔術 (1年生からよめる日本の名作絵どうわ)

 

 

本書には、「谷崎は、ハッサン・カンの妖術を学んだミスラ氏の神通力によって、古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖山、須弥山に導かれ、亡き母が一羽の美しい鳩になっている姿に出会う。一方、芥川がミスラ氏に見せられるのは、須弥山だの輪廻の世界だのではなくて、若干、手品じみた魔術ではあった。しかし、芥川はすっかりその魔術の虜になってしまい、ミスラ氏に懇願して、その魔術を教えてもらうことになる」
谷崎と芥川の文学をこよなく愛するわたしは、当然のことながら謎のインド人であるマティラム・ミスラに多大な関心を抱いていました。両文豪が共作した架空の人物という可能性もありますが、ぜひ、文学研究者のどなたかにこのミスラ、あるいはミスラのモデルとなった人物について調べていただきたいものです。本書では、ミスラのエピソードが菊池寛の「出世」に繋がっており、これも面白かったですね。

 

関東大震災のくだりも興味深かったです。
いつものように図書館業務を行っていた帝国図書館も揺れましたが、コンクリートで補強した鉄骨煉瓦造の重厚な建物は激震に耐え、屋根や壁に少しの損傷と、書架の倒壊を起こしただけで無事でした。焼失図書は和漢洋合わせて922冊、破損図書が8500冊のみで、帝都の図書館としては奇跡的に少ない被害を記録したのでした。同じ上野公園内にあった、コンドル設計の帝室博物館が大破したのと比べ、帝国図書館の健在ぶりは見事でした。しかし、このとき、図書館周辺では大変な事態が発生していたのです。

 

 日活、帝国博品館松坂屋は一夜にして焼け落ちた。帝都壊滅とまで言われた地震とその後の火災の中を、少しの家財道具を積んだリヤカーとともに、あるいは着の身着のままで、人々は逃げまどい、上野駅前広場に殺到した。群衆は、そのまま、火の手のない上野公園に上って来る。50万人にのぼるひとびとが、上野の山に押し寄せた。
 上野公園の西郷さんがその体と言わず、台座と言わず、人探しの紙を貼りつけた伝言板と化したのは有名な逸話である。
 帝国図書館は、この緊急事態を受けて、ただちに館を開放して被災者を収容し、仮の避難所の役割を担って、救助に努めたのだった。(『夢見る帝国図書館』P.157)

f:id:shins2m:20190605131859j:plain「読売新聞」2019年6月5日朝刊 

 

帝国図書館が緊急避難所になったくだりを読んで、わたしはブログ「北九州市災害時支援協定調印式&記者会見」で紹介した北九州市と株式会社サンレーの間で「災害時における施設の使用に関する協定」を締結したことを連想しました。これは、地震津波・台風・豪雨などの災害時に小倉紫雲閣北九州紫雲閣の2施設を予定避難所として提供させていただく協定です。紫雲閣は全館バリアフリーで駐車場も完備しているため乳幼児や高齢者・身体が不自由な方でも安心して使用できる施設です。これまで避難所に行くことをためらっていた方に大規模な災害時に限らず、毎年起こりうる大雨や台風の際にも予定避難所として避難者を受け入れ安心を提供させていただきたいとの思いで今回の協定締結となりました。この協定により新たなコミュニティセンターとしての大きな役割を果たすことができ、そして地域に無くてはならない施設としてこれからも地域に貢献させていただきたいと願っています。その紫雲閣が果たすべき役割を、かつて上野の帝国図書館が果たしていたことを知り、わたしの胸は熱くなりました。

 

紫雲閣は、いわゆる「セレモニーホール」と呼ばれる施設です。セレモニーとは「儀式」のこと、特にここでは「葬儀」を意味します。本書には葬儀の描写も登場しました。それも、喜和子さんの遺骨を東京湾に散骨するセレモニーです。もともと喜和子さんは死後の海洋散骨を希望していましたが、実の娘である祐子はそれを許さず、家族のみの密葬で済ませました。「家族葬」という名の密葬だけで、本葬は行われませんでした。生前の喜和子さんと交流のあった「わたし」は故人を弔うことができなかったのです。「わたし」は故人を弔う権利があるにもかかわらず、遺族によってそれを拒絶されたのです。

 

 それからしばらくの間、わたしは喜和子さんの不在を受け止めきれないままに過ごした。
 日常的にいっしょにいたわけでも、毎日電話して話していたわけでもなかったから、いなくなってしまったことが、よく呑み込めなかった。通夜や葬式のような儀式は、遺された者たちに、不在の確かさをわからせるためにもあるのだろう。古尾野先生にだけは仔細を知らせたものの、心のどこかではまだ、喜和子さんが逝ってしまったという事実を受け入れることができていなかった。
(『夢見る帝国図書館』P.190)

 

葬式は必要! (双葉新書)

葬式は必要! (双葉新書)

 

 

そもそも「家族葬」などという言葉が誤解を招くもとになっていますが、故人は家族だけの所有物ではありません。友人や知人や周囲の人々との縁や絆があって、はじめて故人は自らの「人生」を送ったのです。そして、拙著『葬式は必要!』(双葉新書)などにも書いたように、葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。残された人の不安定な「こころ」を安定させる葬儀という「かたち」は、人類の滅亡を防ぐ知恵であるとさえ思います。

 

しかしながら、その後、紆余曲折あって喜和子さんの希望通りに海洋散骨は行われました。喜和子さんの孫娘である紗都さんが母である祐子さんを説得して、それは実現したのです。2人は喜和子さんの遺骨が入った指輪も作りました。散骨の当日、船は羽田沖に出て、そこで散骨するというアナウンスが船長からありました。古尾野先生と祐子さんがコートを着て甲板に出て来ました。午後がもう終わろうという時間で、太陽は西に傾いていました。3月の海は暖かくはありませんでしたが、快晴で波もなく、お別れをするにはいい日でした。紺のスーツを着たスタッフの女性が2つの箱を開け、祐子さんと沙都さんはシルバーに小さな石がいくつか埋め込まれたお揃いのゆびわをそれぞれ右手の薬指に嵌めました。

 

 娘と孫は白い袋に納められた遺灰を、紙風船を空に抛り投げるような手つきで海に投げ落とした。わたしたちは花びらを掬っては海に投げ入れ、それから少しだけお酒を撒いた。遺灰は海に呑まれるようにして沈んでいったが、花びらはゆらゆらと水面を漂った。
 静かなお別れで、挨拶も音楽も何もなく、誰も泣かなかった。喜和子さんがどこかで微笑んでいるような気がした。船は羽田沖を旋回して晴海ふ頭へともどりはじめ、陽はゆっくりと西に沈んでいった。
(『夢見る帝国図書館』P.399)

 

永遠葬

永遠葬

 

 

甲板でかろうじて立っていた古尾野先生が、「これは葬式じゃあない。祝祭だね」と言いました。「祝祭?」と問い直すわたしに向かって、先生は「あぁ。喜和ちゃんがこの世に生を受けて、その生を全うしたことを寿ぐ祝祭だよ」と言うのでした。拙著『永遠葬』(現代書林)で述べましたが、わたしは、死者を弔い、供養する気持ちがあれば、葬儀やお墓おスタイルにこだわる必要はないと考えています。たとえば、わたしは月や海にお墓を作ればいいと思っています。正確に記すなら、月や海をお墓そのものに見立てればいいと思っています。月夜に空を見上げれば祈りの場に変わります。海に手を合わせれば、ありし日の故人の面影がよみがえってきます。

 

しかし、新しい葬送といえば、自然葬を思い浮かべる人が多いでしょう。これは、火葬後の遺灰を海や山にまくという散骨のことです。ゆえにこの「葬」はお墓への問題へとつながっていきます。お墓をどうするかは、葬のスタイルの最終形だからです。わたしは遺灰をすべて撒くのではなく、遺灰を数カ所に分けるというのをおすすめしています。たとえば、遺灰の一部を散骨し、残りは納骨堂に安置する、あるいは手元供養としていつも身につけているという方法です。

フューネラル講演で「日本人の他界観」を語る

 

わたしが“4大メモリアル・イノベーション”として進めている「樹木葬」「海洋葬」「月面葬」「宇宙葬」は、じつは葬儀というよりも墓の問題です。日本人の他界観を大きく分類すると、「山」「海」「月」「星」となりますが、それぞれが「樹木葬」「海洋葬」「月面葬」「宇宙葬」に対応しています。これらのイノベーションはそれらの他界観を見事にフォローしているわけです。そして、これらの新しい葬法においては「無縁化」するということが基本的にありません。山、海、月、星に故人の面影を求めるメモリアルは軽やかで自由な供養が可能となります。この四大「永遠葬」は、個性豊かな旅立ちを求める「団塊の世代」の人々にも大いに気に入ってもらえるのではないかと思います。

 

 

 特に、本書の中で喜和子さんの遺骨が海に撒かれた海洋葬には関心が集まっています。わたしは毎年、沖縄での合同海洋散骨に立ち会わせていただいていますが、最後に船上で主催者挨拶をします。そのとき、必ず言うことが2つあります。1つは、海は世界中つながっているということです。わたしは、「どの海を眺めても、懐かしい故人様の顔が浮かんでくるはずです。どこの海から祈っても、この『美ら海』につながっていますので、故人様の供養ができます」と言いました。それを聞かれたご遺族の方々は、涙を流されていました。涙は世界で一番小さな海です。沖縄の大きな海と、涙という小さな海・・・・ふたつの美しい海が見事にシンクロしました。

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海洋散骨の船上にて

 

もう1つは、海に散骨される故人はとても幸せな方であるということです。海洋散骨を希望される方は非常に多いですが、なかなかその想いを果たせることは稀です。あの石原裕次郎さんでさえ、兄の慎太郎さんの懸命の尽力にもかかわらず、願いを叶えることはできませんでした。わたしは、いつも「愛する家族であるみなさんが海に還りたいという自分の夢を現実にしてくれたということで、故人様はどれほど喜んでおられるでしょうか」と述べます。

 

図書館をテーマにした小説である『夢見る帝国図書館』に葬儀のシーンが登場することに、わたしは深い感銘を受けました。そして、図書館もセレモニーホールも、その本質は同じであると思いました。なぜならば、ともに人間の魂を自由にする場所だからです。葬儀がなぜ魂を自由にするのかについて説明します。まず、「芸術とは何か」について考えてみましょう。わたしは、芸術とは、魂を天上に飛ばすことだと思います。人は芸術作品に触れて感動したとき、魂が天上に一瞬だけ飛ぶのではないでしょうか。 絵画、彫刻、文学、映画、演劇、舞踊といった芸術の諸ジャンルは、さまざまな中継点を経て魂を天上に導くという、いわば間接芸術です。楽聖ベートーヴェンは「音楽は直接芸術である」と述べましたが、わたしは葬儀こそは真の直接芸術だと思います。魂を自由にするアートです。本書の帯には「本がわれらを自由にする」とありますが、「儀式もわれらを自由にする」のです。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

 

 

現在、大学においては人文学が軽視され、出版業界や新聞業界が衰退しています。そして、冠婚葬祭に代表される儀式というものも軽視される一方です。わたしは、これらの動きはすべて水面下で通じていると思っています。現在の日本社会における文化力はどんどん低下し、日本人の魂は不自由になっている気がしてなりません。拙著『唯葬論』(サンガ文庫)にも書きましたが、古代の日本では、天皇の葬儀に関わる人々を「遊部(あそびべ)」と呼びました。「遊び」とは魂を自由にすることそのものですが、「葬儀」と同義語だったのです。そもそも、はるか七万年前、ネアンデルタール人が最初 に死者に花を手向けた瞬間から、あらゆる精神的営為は始まりました。今後、葬儀のもとに、「死」を見つめ、魂を純化する営みである哲学・芸術・宗教は統合される のかもしれません。そして、その大いなる精神的営為こそが「リベラル・アーツ」と呼ばれるにふさわしいでしょう。

 

本書のサイド・ストーリーの最後には、山田耕筰が日本に呼んだ世界的ピアニストであるユダヤ系ロシア人のレオ・シロタの娘が登場します。ベアテ・シロタという名の弱冠22歳のその女性は、GHQの現行憲法案作成者の1人でした。彼女は帝国図書館で参考図書を蒐集し、「日本国憲法」を作り上げていきます。彼女は新憲法案作成の人権に関する委員に任命されましたが、同じ委員会のロウスト中佐から、こっそりと耳元で囁くように、「あなたは女性だから、女性の権利を書いたらどうですか?」というアドバイスを受けます。何冊もの原書を抱えながら、帝国図書館の廊下を歩いているとき、ベアテはロウスト中佐の言葉を思い出しました。

 

 わたしはこの国で5歳から15歳まで育ったから、少なくともほかのアメリカ人よりは、この国のことをよく知っている。この国の女の子が10歳にもなるやならずで女郎屋に売られていることも、女たちには財産権もなにもないことも、子どもが生まれないという理由で離婚されてもなにも言えないことも、「女こども」とまとめて呼ばれて成人男子とあきらかに差別されていることも、高等教育など受けなくていい存在だと思われていることも、親が決めた結婚に従い、いつも男たちの後ろをうつむきながら歩いていることも、わたしは知っている。
 ベアテは小さいころから仲良しだった女中の美代ちゃんを思い浮かべながら、わたしは彼女のような、この国の女たちのためにできることをしなければならない。
(『夢見る帝国図書館』P.381)

 

 わたしが憲法草案を書くなら、と、ベアテは考えた。
 この国の女は男とまったく平等だと書く。
 神様がわたしのようなちっぽけな人間に、こんな大きな仕事をさせようとしているなら、間違えちゃいけない。わたしはこのチャンスを、彼女たちのために使わなきゃいけない。西洋のように「個人」という概念のない日本という国では、この千載一遇のチャンスに男女平等を謳っておかなければ、この先、百年だって、いまのままだ。基本的に男尊女卑のこの国では、女性の権利を保障するどんな法律だって、思いつかれることすらもないに違いない。まっさきに、憲法に書いておかなければ。
 胸の前で、ベアテは借り出した本をしっかりと抱え直し、帝国図書館を後にした。

(『夢見る帝国図書館』P.381)

 

このくだりを読んで、わたしは涙しました。
わたしには2人の娘がいますが、彼女たちの未来に想いを馳せて泣きました。そして、ベアテ・シロタが「このチャンスを日本の女性たちのために使う」という使命を確認し、「日本の女性を自由にする」という志を強めた場所が帝国図書館であったことに大きな感動をおぼえました。カール・マルクス大英博物館図書室で、人類史上でも最大級の影響力を持った本である『資本論』を執筆したことは有名ですが、図書館とはM&A(ミッション&アンビション)を確認する場所でもあるのです。

 

最後に、謎に満ちていた喜和子さんの人生の全貌が明らかになります。それはベアテが憂えていたような「不幸な日本の女」の側面もありましたが、人生を卒業するとき、彼女はそれなりに幸せな人生を送ったと自覚していたように思えます。忘れてはならないことは、喜和子さんの真実が明らかになったのは、ネット検索やSNSのおかげなどではなく、日本の地方都市で行われた昔ながらのアナログな葬儀を通してだったということです。そこで、喜和子さんの孫娘は昔の事情を知っている親戚の老人を見つけ、彼から情報を聞き出すことによって、ジグソーパズルのピースを1つづつ嵌めていくように、次第に喜和子さんの人生に輪郭を与えていったのです。葬儀とは、普段なら絶対に集まらない故人にとっての親戚・縁者が集うラスト・チャンスであることを本書は見事に示してくれます。

 

喜和子さんの遺骨を海に撒いたとき、古尾野先生は散骨式のことを「祝祭」と言いました。「喜和ちゃんがこの世に生を受けて、その生を全うしたことを寿ぐ祝祭だよ」と言いました。わたしは、この言葉に非常に感動しました。そして、共感しました。わたしは古尾野先生のいう「祝祭」を「人生の卒業式」と表現しています。「死」とは「人生の卒業」であり、「葬儀」とは「人生の卒業式」であると考えているからです。わたしは、人の死を「不幸」と表現しているうちは、日本人は幸福になれないと思います。なぜなら、「死」とは「人生の卒業」であり、「葬儀」とは「人生の卒業式」であると考えているからです。

f:id:shins2m:20190902082802j:plain「読売新聞」2010年10月4日夕刊

 

わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。どんな素晴らしい生き方をしても、どんなに幸福を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。亡くなった人は「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのでしょうか。そんな馬鹿な話はありません。わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。死は不幸な出来事ではありません。そして、葬儀は人生の卒業式です。

 

これからも、本当の意味で日本人が幸福になれる「人生の卒業式」のお手伝いをさせていただきたいと願っています。わたしには、そんな「使命」と「志」があります。その使命を確認し、その志を果たすためにも、一度、旧帝国図書館を訪れてみたいと考えています。じつは、わたしはまだ一度も上野の図書館に足を踏み入れたことがないのです。今度、本書を紹介してくれた内海さんと一緒に、「国立国会図書館国際子ども図書館」に行ってみたいと思います。

 

夢見る帝国図書館

夢見る帝国図書館

 

 

 2019年9月2日 一条真也

『読書間奏文』

読書間奏文

 

一条真也です。
31日、東京から北九州に戻りました。
新しい月になりましたが、9月1日は1年で最も中高生の自殺が多い日だそうです。人間関係に悩む子どもたちが、新学期を迎える不安で心が壊れることが大きな原因であるといいます。嫌なら学校など行かなくてもいいから、どうか、死に急がないでほしいです。せっかくの命がもったいないですよ。わたしなら、「君たち、読書してる? いろんな本を読んで、視野を広げ、発想を転換しようよ!」と言いたいです。
中高生の頃にいじめに遭いながらも、読書によって生き抜いた人の本を読みました『読書間奏文』藤崎彩織著(文藝春秋)です。「文學界」に連載された読書エッセイを単行本化したものです。著者は、1986年大阪府生まれ。2010年、突如音楽シーンに現れ、圧倒的なポップセンスとキャッチーな存在感で「セカオワ現象」と呼ばれるほどの認知を得た四人組バンド「SEKAI NO OWARI」でピアノ演奏とライブ演出を担当。初小説『ふたご』が直木賞の候補になるなど、その文筆活動も注目されています。

f:id:shins2m:20190807172612j:plain本書の帯

 

本書の帯には「人生が変わる読書体験」「直木賞候補作『ふたご』の著者が、『本』を通して自身のターニングポイントを綴る、初エッセイ」「『文學界』の大好評連載+書き下ろし」と書かれています。

f:id:shins2m:20190807172654j:plain本書の帯の裏

 

帯の裏には、以下のように書かれています。
「ただの壁だった本のページをぽつぽつとめくり始めたのは、自分を守るために演じていた文学少女に本当になれたら良いと思ったからだ。いじめられたくないから愛想笑いをするなんて下らないよと言って、一人で本を読んでいる女の子。誰かの意見に左右されず、自分の大切なものを大切に出来る強い女の子に。演じていたはずのはりぼての文学少女が気付かせてくれたのだ。『あなたにはこんなに素敵な本があるじゃない』と。(本文より)」

 

また、アマゾンには以下の著者の言葉が紹介されています。
「気に入った本のページの端を折り、考えごとをする時間が好きでした。妊娠や出産について、ピアノを続けてきた経緯やレコーディングについて、炎上した日の話や金銭感覚についてなど、本を閉じて巡らせてきた想いにお付き合い頂ければ幸いです。(藤崎彩織)」

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「本について――まえがきに代えて」

犬の散歩

皮膚と心

もし僕らのことばがウィスキーであったなら

パレード

羊と鋼の森

コンビニ人間

妊娠カレンダー

火花

ぼくは勉強ができない

サラバ!

花虫

武道館

詩羽のいる街

悪童日記

空っぽの瓶

フェミニズム批評

「夏の夜」

「ひとりの時間」

「あとがき」

 

この「目次」の中の『犬の散歩』から『フェミニズム』までは実在する本のタイトルです。本書に収められたエッセイは「読書エッセイ」ということになっています。書評というか、特定の本についてのエッセイということなのでしょうが、著者は少ししか本について触れません。少しだけ本の文章を引用して、あとは自分の身辺雑記のようなエッセイを淡々と綴っていきます。それでいて取り上げた本とまったく無縁の内容かというと、そうでもなくて、最後はその本の世界観としっかりリンクしているという不思議なエッセイばかりです。

 

とにかく、著者の文章のうまさに脱帽します。たとえば、「本についてーーまえがきに代えて」では、小学校の頃に図書室に逃げ込んで本を広げていた孤独な自分について、このように書いています。

 

 私は図書館で泣いていた。私にとって本は、泣いている姿を隠す壁だった。
 図書室にいるのは、友だちが出来なくて一人ぼっちでいるのが惨めだからだ。誰にも相手にされない自分が恥ずかしくて、見られたくないからだ。
 私は学校で上手くやれない子供だった。休み時間に校庭へ誘ってくれる友だちもいなかったし、シール帳を見せ合う輪にも入れなかった。でもそんな私のことを本はすっぽりと隠してくれた。 
 古い紙の匂いには、誰かに抱きしめられているような安心感がある。私は本の中でわあっと嗚咽するように泣いたり、ぐずぐずと甘えるように泣いたりした。そうしているうちに、いつも少しづつ深く息が吸えるようになっていく。
 体育のチーム決めで一人あぶれてしまった日も、掃除の時間に自分の机だけ誰も運んでくれなかった日も、溺れそうになっていた呼吸を図書室で取り戻す。
 私は大丈夫。
 そう唱えながらひとしきり泣いた後、私は文学少女の顔をしてまた教室に戻っていくのだ。
「一人でいるのなんて、どうってことないよ。だって私には本があるもの」
 そんな顔をして。(『読書間奏文』P.9~10)

 

自分を守るために演じていた文学少女でしたが、本をめくるページは日に日に増えていきました。著者が泣いていた時も、悩んでいた時も、眠れなかった時も、本はいつもそばにいてくれました。著者の人生は本が守ってくれたのです。

 

 恋人と別れた時には泣きながらページをめくった。自分のピースが幾つか足りないような気分になっても、失った温かさが恋しくて涙が止まらなくなっても、本はゆっくりと考えるだけの時間をくれた。
 友だちとうまくいかなくても、どうしたらいいのか本が教えてくれた。
「あんなやつ、もう口もききたくない」と思っても、「絶対に自分は間違っていない」と思っても、本を読むと波が引いたように落ちついた気分になって、自分のことばを探すことが出来た。
 眠れない夜にも本を読んだ。本の中にも、眠れない人はたくさんいた。わくわくして眠れない人。神経質で眠れない人。同質に住むシェアメイトの寝言がうるさくて眠れない人。
 どんな理由でも、眠れない人の話は好きだった。眠れないのは自分だけじゃ無いと思うと、いつの間にかうとうとと眠気がやってくるのだった。(『読書間奏文』P.11)

 

この文章を読んで、わたしは読書の「恵み」をよく表現しているなと感心しました。そう、本を読めば、この世界には自分だけが孤立しているのではないということがわかるのです。眠れないのは自分だけではないように、失恋するのも自分だけではないし、病気になるのも自分だけではありません。そして、人間にとって最大の不安である「死」についてもそれが言えます。

 

死が怖くなくなる読書:「おそれ」も「かなしみ」も消えていくブックガイド

死が怖くなくなる読書:「おそれ」も「かなしみ」も消えていくブックガイド

 

 

わたしには『死が怖くなくなる読書』(現代書林)という著書があります。「『おそれ』も『かなしみ』も消えていくブックガイド」というサブタイトルの通り、長い人類の歴史の中で死ななかった人間はいませんし、愛する人を亡くした人間も無数にいるという事実を教えてくれる本、「死」があるから「生」があるという真理に気づかせてくれる本を集めました。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようとして努力してきました。まさに死こそは、人類最大のミステリーであり、全人類にとって共通の大問題なのです。

 

なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け容れがたい話はありません。本書には、その不条理を受け容れて、心のバランスを保つための本がたくさん紹介されています。本書の読了後、そのことをよく理解されると思います。本書では、あなた自身が死ぬことの「おそれ」と、あなたの愛する人が亡くなった「かなしみ」が少しずつ溶けて、最後には消えてゆくような本を選びました。

 

人生論としての読書論

人生論としての読書論

 

 

死別の悲しみを癒す行為を「グリーフケア」といいますが、もともと読書という行為そのものにグリーフケアの機能があります。たとえば、わが子を失う悲しみについて、教育思想家の森信三は「地上における最大最深の悲痛事と言ってよいであろう」と述べています。じつは、彼自身も愛する子どもを失った経験があるのですが、その深い悲しみの底から読書によって立ち直ったそうです。本を読めば、この地上には、わが子に先立たれた親がいかに多いかを知ります。また、自分は1人の子どもを亡くしたのであれば、世間には子を失った人が何人もいることも知ります。これまでは自分こそこの世における最大の悲劇の主人公だと考えていても、読書によってそれが誤りであったことを悟るのです。

 

それにしても、古今東西、読書の意義や大切さや魅力を伝えてきた作家や学者は数えきれないほどいますが、本書の著者のように、自分のことだけを語りながら、さりげなく「本があれば大丈夫」「本があれば人生も捨てたもんじゃない」というメッセージを読者に送ることができるのは珍しいと思います。本書によって、読書にめざめる若い人も多いのではないでしょうか。

 

最後に、『読書間奏文』というタイトルが素晴らしい。感想文ではなく、間奏文。ピアニストである著者ならではのタイトルだと言えますが、実際に著者が紡ぎだした言葉の数々を、わたしは音楽を聴くように読みました。そして、紅白歌合戦でちょっとだけしか聴いたことのない「SEKAI NO OWARI」の曲を聴いてみたくなりました。

 

読書間奏文

読書間奏文

 

 

2019年9月1日 一条真也

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」

一条真也です。
東京に来ています。30日の午後、丸の内で、わが社の重要な案件に関わる不動産の打ち合わせをしました。夜は、この日から公開された映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」をレイトショーで観ました。劇場は、TOHOシネマズ日比谷のIMAXです。ストーリーの起伏に乏しい作品で、わたしの隣の席のおばあさんはイビキをかいて寝ていました。でも、タランティーノ監督のハリウッド愛が全篇に溢れた映画であり、わたしは161分の上映時間ずっと退屈しませんでした。けっして上から目線で言うわけではありませんが、この映画はある程度の映画史の知識がなければ楽しめないかもしれませんね。あと、ラストの展開は想定外で呆然としました。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ジャンゴ 繋がれざる者』のレオナルド・ディカプリオ、『イングロリアス・バスターズ』のブラッド・ピットクエンティン・タランティーノ監督が再び組んだ話題作。1969年のロサンゼルスを舞台に、ハリウッド黄金時代をタランティーノ監督の視点で描く。マーゴット・ロビーアル・パチーノダコタ・ファニングらが共演した」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「人気が落ちてきたドラマ俳優、リック・ダルトンレオナルド・ディカプリオ)は、映画俳優への転身に苦心している。彼に雇われた付き人兼スタントマンで親友のクリフ・ブース(ブラッド・ピット)は、そんなリックをサポートしてきた。ある時、映画監督のロマン・ポランスキーとその妻で女優のシャロン・テートマーゴット・ロビー)がリックの家の隣に引っ越してくる」

 

この映画、とにかく贅沢です。ダブル主演のレオナルド・ディカプリオブラッド・ピットに加え、タランティーノ組のマイケル・マドセンカート・ラッセル、さらにはアル・パチーノまでも出演しており、豪華なキャスティングとなっています。1960年代の映画やTVショーに対するタランティーノの溢れんばかりの愛情が詰まった作品ですが、「カリフォルニア・ドリーミング」「ミセス・ロビンソン」などの当時の音楽もガンガン流れ、キャデラック、ポルシェ、VWカルマンギア、マスタング(1968年型)といった当時の名車たちが疾走し、ファッションも当然ながら当時流行したものがスクリーンに映ります。



タランティーノは「人生でいつか、ハリウッドを描く映画を作りたいと思っていました」と語っています。まさに今がその時で、映画という文化が移り変わる「1969年」という記念すべき年が、ちょうど50年後となる2019年に甦りました。タランティーノは、かねてから監督作を10本撮ったら引退すると公言していましたが、本作は通算9作目となります。ところが、一時は「評判が良ければ、もう10本目は撮らないかも知れません。これで終わりかも」とか、「もう映画では全てを出し尽くしました」などと言っていたそうです。その後、やはり10本目は撮ると決意したとか。



いずれにせよ、それほどの覚悟を込めて、鬼才タランティーノが全力で挑んだ映画人生の集大成が、この「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」です。そんな渾身の一作の主演に選ばれたのが、レオナルド・ディカプリオブラッド・ピットの2人でした。彼らは「最後の映画スター」と呼ばれているそうです。この映画がワールド・プレミアを迎えた日、アメリカの「The Hollywood Reporter」は「レオナルド・ディカプリオはいかにしてハリウッド最後の映画スターになったのか」という記事でディカプリオを讃えました。マーティン・スコセッシの「レオは生まれながらの銀幕俳優。無声映画にも出られる。あの表情と、あの目線があれば、何も言わなくても成立する」と評したエピソードなどを紹介するこの記事は、「ハリウッドは人を変えてしまうが、しかしレオのことは変えなかった」と締めています。



じつは、わたし、タランティーノの名前はT.M.Revolutionの「WHITE BREATH」の歌詞で初めて知りました。1997年の歌ですが、「タランティーノぐらいレンタルしとかなきゃなんて、殴られた記憶もロクにないくせに♪」というやつです。「タランティーノって何だ?」と思って調べたところ、当時のアメリカで最もクールとされていた映画監督でした。早速、わたしは「レザボア・ドッグス」(1992年)、「パルプ・フィクション」(94年)、「ジャッキー・ブラウン」(97年)などのビデオソフトを求めて、一晩で一気に観ました。非常に暴力的でありながらも奇抜な娯楽作品という印象でしたね。

 

その後はしばらく作品を発表しませんでしたが、久々の「キル・ビルvol.1」(2003年)、それから「キル・ビルvol.2」(04年)は楽しく観賞しました。寡作な監督ですが、その後も「デス・プルーフ in グラインドハウス」(07年)。そして、「イングロリアス・バスターズ」(09年)に主演したのがブラッド・ピットです。さらに、2012年にブログ「ジャンゴ 繋がれざる者」で紹介した映画が大ヒット。これに出演したのがディカプリオでした。

 

ディカプリオといえば、「映画を愛する美女」こと映画ブロガーのアキさんが大ファンだそうです。彼女の「アキの映画な日々『人生は美しい』」という映画ブログの「人生で初めてファンになったハリウッドスター」という記事には、「洋画をたくさん観るようになって、一番最初に大ファンになった俳優さんは レオナルド・ディカプリオでした」と書かれています。そんな彼女にとって、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」はディカプリオの魅力が炸裂した主演作として、公開を心待ちにしていたことでしょう。タランティーノ監督の作品は暴力の描写が激しいので、これまで敢えて観てこなかった(ホラーやサイコやバイオレンス系が自分の身に降りかかりそうで苦手)というアキさんですが、今回ばかりは少々暴力シーンを我慢して観賞したそうです。彼女の感想が述べられた記事「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」も、ぜひお読み下さい。

 


「日経電子版」2016年5月10日

 

しかしながら、わたしの場合は、もう1人の主演であるブラッド・ピットの存在が大きかったです。というのも、ブログ「誕生日には同級生のことを考える」でも紹介したように、ブラッド・ピットとわたしは同い年なのです。ちなみにジョニー・デップも同い年で、トム・クルーズが1歳上、キアヌ・リーヴスが1歳下です。「だから、どうした?」と言われても困るのですが、なんとなく同年代の彼らには親近感をおぼえ、彼らが出演する映画はなるべく観るようにしています。ディカプリオが現在44歳なので一回り下ですが、彼の出世作となった「ギルバート・グレイプ」(1977年)では、ジョニー・デップと兄弟役を演じています。ちなみに「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」の製作が発表された当初、トム・クルーズも出演交渉に加わっていたそうです。いっそのこと、わたしの同年代4人(ハリウッド四天王?)が勢揃いしていたら素敵でしたね。それにしても、本作で上半身裸になったブラッド・ピットの56歳の肉体美には感服です。わたしも、もっと鍛えなければ!

 

ディカプリオとピットの2人に負けずに輝きを放っているのが、女優シャロン・テートを演じたマーゴット・ロビーです。ミニスカート姿のチャーミングな彼女ですが、じつはタランティーノの大ファンで、監督への手紙を書いていたそうです。「とにかく私がどれだけ彼の映画が大好きか、私の子供時代を占めていたかを伝えたかったんです」と語っていますが、タランティーノが脚本を書き終えた1週間半後に、その手紙は届きました。「是非、いつかお仕事をご一緒させてください」と書かれた手紙を受け取ったタランティーノは、マーゴットとランチを共にすることにしました。そのとき、「シャロン・テートって知ってます?」と尋ねたところ、「はい、知っています」と即答して、マーゴットの出演が決まりました。1通の手紙が本当に出演につながることまでは期待していなかったマーゴットは非常に驚きましたが、実際のシャロンの魅力を見事に表現していました。

 

マーゴット演じるシャロン・テートは、「悲劇の女優」として知られています。1960年代にテレビの人気シリーズに出演し、その後、映画に進出しました。映画「吸血鬼」で共演したのが縁で1968年1月20日に映画監督のロマン・ポランスキーと結婚しましたが、翌1969年8月9日、狂信的カルト指導者チャールズ・マンソンの信奉者達ら3人組によって、ロサンゼルスの自宅で殺害されました。当時シャロンは妊娠8か月で、襲撃を受けた際に「子供だけでも助けて」と哀願したそうです。しかし、それが仇となって、ナイフで計16箇所を刺されて惨殺されたのでした。残された夫のポランスキーは、生まれることなく死んだわが子にテートと自らの父の名を取ってポール・リチャードと名付け、テートとともに埋葬しました。

 

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」と同じ8月30日に公開された「ハリウッド1969 シャロン・テートの亡霊」では、事件が起こる1年前のシャロンの姿が描かれています。「悪魔の棲む家 REBORN」などを手がけたダニエル・ファランズ監督が、事件の1年前となる68年8月にテートが事件を予知するかのような奇妙な夢の話をしていたインタビュー記事に着想を得て、手がけた作品です。シャロン役を人気歌手で女優のヒラリー・ダフが演じています。わたしも、シャロン・テートといえば、惨殺された「悲劇の女優」という負のイメージだけでしたが、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」を観て、存命中は非常に魅力溢れる女優であったことを知りました。彼女を演じたマーゴットは、「あの悲劇を掘り下げる意図はありません。純真さの喪失を描いていて、彼女の素晴らしい一面は台詞なくとも充分に見せることができました」と語っています。タランティーノは、「これが彼女の、マンソン・ファミリーに奪い去られた、与えられなかった日常です」「ただ彼女の生活を見られるだけでも、特別なことじゃないか」と考えたといいます。

 

 

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」では、とにかく、マンソン・ファミリーが不気味な存在感を放っています。アメリカのカルト指導者であり犯罪者であるチャールズ・ミルズ・マンソン(1934年11月12日―2017年11月19日)は、1960年代末から1970年代の初めにかけて、カリフォルニア州にて「ファミリー(マンソン・ファミリー)」の名で知られるコミューンを率いて集団生活をしていました。シャロン・テート、ラビアンカ夫妻ら5人の無差別殺人を、自身の信者に教唆して殺害させたことで、共謀罪を宣告されています。共謀という目的の促進のため、彼の仲間の共謀者たちが犯した犯罪により、メンバーそれぞれが共謀罪として有罪となり、マンソンは連帯責任の規則で殺人罪による有罪判決を受けました。彼は売春婦だった母親が16歳で産んだ私生児で、戸籍もなかったそうです。ブログ「存在のない子供たち」で紹介した映画の主人公と同じく、社会から認められない存在だったわけですが、そのことが社会への憎悪へとつながっていったのだとしたら、これほど悲しい話はありません。

 

そのマンソン・ファミリーを描いた映画「チャーリー・セズ :マンソンの女たち」が9月6日から公開されます。チャールズ・マンソンとそのファミリーを、女性実行犯たちに焦点を当てて描いたドラマです。「アメリカン・サイコ」の監督メアリー・ハロンと脚本家グィネビア・ターナーが再タッグを組み、エド・サンダースによる犯罪ドキュメント「ファミリー シャロン・テート殺人事件」をベースに、女性実行犯レスリー・バン・ホーテンの獄中生活を記録したカーリーン・フェイスの手記も取り入れながら映画化。主要女性メンバー3人のファミリーへの加入から洗脳と狂信の果ての殺人、逮捕・収監まで、いかにして負のスパイラルに堕ちていったのかを描き出すそうです。

 

わたしたちは過去の出来事として、1969年8月9日に起こった悲劇を知っています。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」では、「その時」に向けて刻々とカウントダウンが進み、観客は惨劇を目撃する心の準備をしますが、ここで想定外の事態が起こります。この映画は絶対にネタバレ禁止ですので、詳しくは書けませんが、突如、バイオレンス全開のタランティーノ節が違う形で披露され、観客は呆然とするのでした。これはもう歴史を書き換えたというか、人間の運命を決めることができる映画監督という存在が「神」に等しいことを示したとしか言えません。この展開には、本当に仰天しました。しかし、今は亡きシャロン・テートにとっては最高の供養になったように思います。さらには、シャロンの遺族や友人やファンたちにとっても、半世紀越しのグリーフケアになったのではないでしょうか。

死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)において、わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると述べました。映画と写真という2つのメディアを比較してみると、写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えるでしょう。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながります。さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。映画の「時間を超越する」力は「歴史を変える」力にもなり、「死すべき運命から自由になる」力は「死ぬはずの人間を死ななくする」力ともなるのです。そのことを、わたしはタランティーノに教えられました。まさに、映画の本質とは魔術であると言えるでしょう。

 

他にも、弱冠10歳の子役、ジュリア・バターズがキュートで豊かな才能を見せてくれます。リックに役者としての自信を取り戻させる小さな共演者トルーディを演じていますが、リックに「プロの役者とは」を語ってみたり、「私が人生で見た中でも最高の演技だった」とリックの耳元で囁いたりします。ディカプリオはジュリアのことを「若い頃のメリル・ストリープのようだ」と評したそうですが、10年後が楽しみな人材が現れましたね。

 

あと、スティーブ・マックイーンをはじめ、1969年を彩った人物が多く登場します。当時、TVドラマシリーズ「グリーン・ホーネット」にカトー役で出演していたブルース・リーもその1人です。リーを「神」と崇めるマイク・モーが演じましたが、カシアス・クレイモハメド・アリ)へのリスペクトを語ってみたり、ブラッド・ピット演じるクリフとガチンコで対決してみたりと、奇妙な存在感を示していました。その他にも、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は見どころが豊富で飽きませんでした。タランティーノの次回作、運命の10作目が今から楽しみです!

 

2019年8月31日 一条真也拝 

「ガーンジー島の読書会の秘密」

一条真也です。
東京に来ています。
30日、この日に公開されたばかりの映画「ガーンジー島の読書会の秘密」をTOHOシネマズシャンテで観ました。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「第2次世界大戦中にドイツ占領下にあったガーンジー島で行われた読書会をめぐるミステリー。読書会に魅せられた作家を『シンデレラ』などのリリー・ジェームズが演じるほか、ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』シリーズなどのミキール・ハースマン、『ニューヨーク 冬物語』などのジェシカ・ブラウン・フィンドレイのほか、マシュー・グード、ペネロープ・ウィルトンらが共演。『フォー・ウェディング』などのマイク・ニューウェルが監督を務めた」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「1946年のロンドン。作家のジュリエット(リリー・ジェームズ)は一冊の本をきっかけに、チャンネル諸島ガーンジー島の住民と手紙を交わし始める。ドイツの占領下にあった第2次世界大戦中、島ではエリザベスという女性が発案した読書会がひそかに行われ、島民たちの心を支えていた。本が人と人の心をつないだことに感銘を受けたジュリエットは、取材のため島を訪れる」

 

わたしは「読書」をテーマにした物語に目がなくて、これまでもタイトルに「読書」の単語が入った映画を多く観てきました。それらの作品と同じく、この「ガーンジー島の読書会の秘密」でも、読書の魅力や本の持つ力が描かれています。拙著『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)にも書きましたが、本ほど、すごいものはありません。自分でも本を書くたびに思い知るのは、本というメディアが人間の「こころ」に与える影響の大きさです。

あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)

 

少年時代に読んだ偉人伝の影響で、冒険家や発明家になる人がいます。1冊の本から勇気を与えられ、新しい人生にチャレンジする人がいます。1冊の本を読んで、自死を思いとどまる人もいます。不治の病に苦しみながら、1冊の本で心安らかになる人もいます。そして、愛する人を亡くした深い悲しみを1冊の本が癒やしてくれることもあるでしょう。本ほど、「こころ」に影響を与え、人間を幸福にしてきたメディアは存在しません。わたしは、本を読むという行為そのものが豊かな知識のみならず、思慮深さ、常識、人間関係を良くする知恵、ひいてはそれらの総体としての教養を身につけるための営みであると考えています。わたしが企業経営者として、大学客員教授として、そして作家として、なんとかやっていけるのも、すべて本のおかげです。読書で得た教養は、あの世にも持っていけるようにさえ思っています。

 

この映画の主人公であるジュリエットは作家です。
演じるリリー・ジェームズは知的で美しい女優だなと思ったら、「シンデレラ」(2015年)で主演を務めていたのですね。知りませんでした。古くから人々に親しまれている「シンデレラ」の物語を実写化したラブストーリーで、ブログ「アリス・イン・ワンダーランド」ブログ「マレフィセント」で紹介した映画に続くディズニー・アニメの実写版です。悪役の魔女が半ば善玉化した「マレフィセント」と違い、基本のキャラクターとストーリーはアニメに忠実でした。ケイト・ブランシェット、ヘレナ・ボナム=カーターといった実力派女優が脇を固めたこの映画で主演を務めたのですから、リリー・ジェイムズも大したものですね。まさに、女優としてのシンデレラ・ストーリーそのものです。

 

さて、「ガーンジー島の読書会の秘密」の主役である作家ジュリエットの処女作は『アン・ブロンテの生涯』という本で、世界中で28冊しか売れませんでした。でも、『嵐が丘』のエミリ・ブロンテでも、『ジェーン・エア』のシャーロット・ブロンテでもなく、彼女たちの姉であるアンに注目したのは着眼点が良いと思います。そんなジュリエットは、ガーンジー島の養豚業の青年と文通し、『チャールズ・ラム随筆集』や『シェイクスピア物語』といった本の話題で心を通わせます。

 

映画の中でジュリエットが「出会う前から絆を感じる人がいる」というセリフを言う場面がありますが、まさに文通相手の青年をはじめ、ガーンジー島の人々がそうでした。ジュリエットには陽気なアメリカ人の婚約者がいますが、彼女は彼との未来に対して、どこかしら違和感を感じています。イギリス人とアメリカ人という国民性の違いもあるでしょうが、やはり教養というか価値観の違いが大きいと思います。どんなにお金持ちでも、社会的地位が高くても、教養や価値観の異なる相手と結婚しても幸せにはなれないのでしょう。

 

小型聖書 - 新共同訳

小型聖書 - 新共同訳

 

 

さて、この映画には本の中の本、英語でいう「THE BOOK」も登場します。言うまでもなく『聖書』のことですね。島のような娯楽も刺激も少ない閉鎖された世界では、夜の時間をひたすら『聖書』を読むことに費やした人々は多かったことでしょう。ジュリエットがガーンジー島で宿泊した民宿の女主人も『聖書』をいつも手元に置き、愛読しています。また、宿泊客のベッドの枕元にも『聖書』を置く信心深い人物です。しかしながら、彼女には寛容の精神というものが皆無で、何かあると島の人々を悪く言い、ジュリエットには「『聖書』を読んで祈りなさい。悔い改めなさい」と言います。そんな彼女に向かって、ジュリエットは「『聖書』には愛が説かれているのに、あなたは悪意と懲罰しか読み取ろうとしない」と言い放ちます。そして、彼女は民宿を飛び出してゆくのでした。

 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

 

 

西洋に『聖書』があるように、東洋には『論語』があります。『新約聖書』と『論語』の間には多くの共通点があり、イエス孔子といった「人類の教師」の教えには普遍性があるように思いますが、この映画には『論語』の「託孤寄命章」を彷彿とさせるシーンが登場します。孔子は、君子とは何よりも他人から信用される人であると述べました。信用とは全人格的なものです。『論語』「泰伯」篇には、「曾子曰く、以て六尺(りくせき)の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨みて奪うべからざるや、君子人か、君子人なり」の一文があります。「曾子が言った。孤児を託すことのできる者、百里四方ぐらいの一国の運命を任せうる人、危急存亡のときに心を動かさず節を失わない人、そういう人が君子人であろうか、君子人である」という意味です。ネタバレになるので詳しくは書きませんが、たとえ自分の命が失われるとしても、愛する我が子を託することのできる相手を得たことは幸運なことであると思います。

 

イギリス人が主人公の「読書」や「本」がテーマの映画といえば、ブログ「マイ・ブックショップ」で紹介した作品があります。「ナイト・トーキョー・デイ」などのイザベル・コイシェ監督が、イギリスのブッカー賞受賞作家ペネロピ・フィッツジェラルドの小説を映画化した作品です。田舎町で亡き夫との念願だった書店を開業しようとするヒロインを描いています。1959年、戦争で夫を亡くしたフローレンス(エミリー・モーティマー)は、書店が1軒もないイギリスの田舎町で、夫との夢だった書店を開こうとしますが、保守的な町では女性の開業は珍しく、彼女の行動は住民たちから不評を買います。ある日、彼女は40年以上も自宅に引きこもりひたすら読書していた老紳士(ビル・ナイ)と出会って、大きく物語が動くのでした。

 

わたしは「ガーンジー島の読書会の秘密」を観るまでは「マイ・ブックショップ」みたいな物語を想像していましたが、ちょっと違いました。たしかに「ガーンジー島の読書会の秘密」でも、読書や本の素晴らしさが描かれているのですが、(読書会の描写などは、まさに隣人祭りそのものでした)それよりもタイトルの中の「秘密」のほうに重点が置かれています。読書会を作った張本人であるエリザベスという女性の人生が次第に明らかになっていき、ジュリエットは大きな影響を受けます。この映画はミステリーでもあるので、ネタバレは控えますが、エリザベスの生き様は観客の心も揺り動かします。そして、この映画の真のテーマが「グリーフ」であることが判明するのです。

 

そう、イギリス人がナチス・ドイツという敵と共に暮らしたガーンジー島は大いなる「悲しみの島」でした。そもそも戦争というもの自体が巨大なグリーフの発生装置と言えますが、その中でもガーンジー島では悲劇的な物語が紡がれていきます。ネタバレにならないように注意して書くと、この島は『ロミオとジュリエット』のような悲恋物語の舞台でもあったのでした。主人公の名前がジュリエットであることや、物語の全編にわたって『シェイクスピア物語』が登場することも、この映画の中には入れ子のように『ロミオとジュリエット』が埋め込まれていることを暗示しています。最後に、この映画にはわずか4歳の少女に母親の死を告げるシーンがあります。「4歳の子に理解できるかしら」と心配する人に向かって、1人の老女が「いくつになっても、愛する人の死は理解できないものよ」とつぶやく場面が印象的でした。

 

2019年8月30日 一条真也