『死に逝く人は何を想うのか』

(116)死に逝く人は何を想うのか 遺される家族にできること (ポプラ新書)

 

 一条真也です。
死者を想う季節の中で、『死に逝く人は何を想うのか』佐藤由美子著(ポプラ新書)を読みました。「遺される家族にできること」というサブタイトルがついています。著者はホスピス緩和ケア専門の米国認定音楽療法士アメリカのホスピスで10年、音楽療法を実践。13年に帰国、15年から青森慈恵会病院緩和ケア病棟でセッションを提供。著書に『ラスト・ソング』(ポプラ社)があります。

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本書の帯

 

本書の帯には、病床でギターを奏でる著者の写真とともに、「いつか訪れる大切な人との別れ。その準備はできていますか?」「1200人以上を見届けた音楽療法士が穏やかな『見送り』のあり方を提案」と書かれています。帯の裏には、「何を考えているかわからない」「一緒にいるのがつらい」「途方に暮れる家族に贈る希望の書」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

さらにカバー裏表紙には、「1回しかない『最期のお別れ』を、かけがえのない時間にするために」として、以下のように書かれています。
「大切な人との死別はつらい。あまりのつらさに誰もが打ちひしがれるだろう。そもそも私たちは死に逝く人の気持ちがわからない。何かしたいのに、何をしたらいいかがわからない。どうすれば、末期の患者さんの心に寄り添い、サポートできるのだろう?本書では、1200人以上の人生を見届けたホスピス音楽療法士が、数多くの実話を紹介しながら、穏やかな『見送り』に必要なことを説く」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」 

第一章 死に直面した人の心の変化

一、孤独感(Isolation)
二、ショックと否定(Shock&Denial)
三、怒りと悲しみ(Anger&Sadness)
四、不安と恐怖(Anxiety&Fear)
五、希望(Hope) 

第二章 大切な人のために家族ができること

一、やり残したことを叶えるためのサポート
二、その人の人生の物語を知る(ライフ・レビュー)
三、正直な会話をする――そのための3つのことば
四、象徴的なメッセージを見逃さない
五、音楽で気持ちを伝えるためのヒント

第三章 グリーフについて
   ――悲しいのは、当たり前のこと

一、グリーフを経験している人の心
二、遺される子どものグリーフについて

「おわりに」
「参考資料」

 

「はじめに」では、「患者さんを『癒す』ことができるのは、本人だけ」として、著者は以下のように述べています。
「死に直面したとき、人はさまざまな痛みや苦しみを経験する。病気に伴う体の痛みや不快感の大半は、薬をうまく使うことによって抑えることができるが、スピリチュアルペイン(精神的な痛み)は薬では解決できないため、対応が難しい。もちろん、そのような患者さんと向き合わざるを得ない家族の苦しみも、同様に大きくつらいものとなるだろう。スピリチュアルペインとは、簡単に言えば、自分らしく生きられなくなった悲しいや、人生の意味を見出せない苦しみ、人生を振り返ってやり残したことへの後悔、大切な人との関係を修復できない苦悩などを指す。それらの痛みを『癒す』ことが容易でないことは、想像できると思う」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「本来の意味での『癒し』が実現するためには、その人自身が問題と向き合い、取り組む必要がある。なぜなら、心が回復したり成長したりするために必要な力は、その人の中にしかないからだ。死に直面した人の場合も同じで、彼らを『癒す』ことができるのは、本人だけだ。末期の病気とともに生きる人びとがもともと持っている力を引き出し、彼らが尊厳ある穏やかな最期を迎えることができる『環境』をつくること。それがホスピスケアの目的であり、音楽を通して患者さんや家族に寄り添い、それを実現するのが音楽療法士の役割だと私は思っている。そしてこの過程において、家族は重要な役目を果たす。いや、家族だからこそ果たせる役目があるのだ」

 

「『看取り』から『見送り』へ」として、著者は「人の死に立ち会うことは、赤ちゃんの誕生に立ち会うことに似ている。新しい命をこの世に迎えるように、亡くなる人が次のステージへと向かう手助けをすることが求められるからだ。その感覚は、『看取る』というよりは『見送る』に近い」と述べ、さらに以下のように述べます。
「現在、日本国内では、約8割の人が病院で亡くなる。ホスピスケアや在宅ケアを利用する人はごく一部にすぎない。そして、信じがたいことかもしれないが、病院では日々、苦しみながら亡くなっていく患者さんたちがたくさんいる。自分の意思ではない延命治療を受けている人。治る見込みがないのにいつまでも治療を続けて、その副作用に苦しみ息絶える人。十分な疼痛ケアを受けられず、激しい痛みとともに旅立つ人。彼らの多くは、自分の死と満足に向き合うこともなく、死への準備もできずに亡くなる。それは、とても悲しいことではないだろうか?」

 

また著者は、「ホスピスは『場所』ではなく『ケア』そのもの」として、以下のように述べています。
ホスピスと緩和ケアは、どちらも生命を脅かす病を患った患者さんに苦痛がないよう、医療行為のみならず心のケアを提供することを目的としている。そして、ホスピスケアは末期の患者さんに提供されるものだが、緩和ケアは早期の患者さんにも提供される。これがホスピスと緩和ケアの最も大きな違いだ。どちらも本来、病名を問わず必要な人に提供されるべきケアである」

 

さらに、「死に直面した人の体に起こる変化」として、著者は述べます。
「『死』には絶対に共通の点がひとつだけあり、それは、いくら死期が近いとわかっても、実際にその人がいつ亡くなるかは誰にもわからない、ということだ。衰弱したまま数日間生きる人もいれば、たった数時間で旅立っていく人もいる。このいわゆる『待ち時間』は、家族にとって精神的にも肉体的にも最も疲労が伴う期間となる。

 

そして、「患者さんが最期まで生き抜くための力」として、著者はこう述べるのでした。
「『死』に際したとき、人は、今まで命を維持してきたさまざまなものを必要としなくなる。体のエネルギーもどんどんなくなっていく。見守る家族が無力感を抱くのも無理はない。家族や医療者が何をしようと、失われていくものだ。しかし、それでもなお、患者さんには残されている力がある。それは、スピリチュアル(精神的)なエネルギーだ。本論で詳述するが、それこそが、彼らが最期の瞬間まで生き抜くことを支える力となる。また、多くの人は知らないが、聴覚は最期まで残る感覚だ。反応がなく、目も開けられない患者さんであっても、耳はちゃんと聞こえている」

 

第一章「死に直面した人の心の変化」では、「死に逝く人の気持ちがわからない理由」として、著者は以下のように述べています。
「患者さんと周囲との関係には、すき間ができていくのだ。何より、最も大きな原因は、私たちには『死』について教えてくれる人が誰もいなかった、ということだろう。昔は死がもっと身近にあり、病気の人に接することも頻繁にあった。だが、今やたいていの死が病院で起こるので、医療者でもない限り、一般の人が死を目のあたりにすることは、一生のうちで教えるほどしかない。ほとんどの病院では、死期が近づいた患者さんは個室へと移される。本人とご家族のためという理由もあるが、むしろこれは、他の患者さんを動揺させないための措置だ。このように日本では、多くの人が死を迎える病院においてさえも、死が遠くに追いやられているのである」

 

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

死ぬ瞬間―死とその過程について (中公文庫)

 

 

また、「対応が難しい5つの心の変化」として、著者はエリザベス・キューブラ―・ロスの『死ぬ瞬間――死とその過程について』を取り上げます。精神科医のロスは、同書で、死の受容のプロセスとして5つの段階を提示しました。末期の病気の宣告されたときから死に至るまでに、「否定」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」という段階があるという考えで、非常に有名です。著者の佐藤氏は「この本は医療関係者を含め、多くの人が死について考えるきっかけをつくったという意味で大きな功績を残した。ただ、いくつか問題点も指摘されている。そのひとつとして、死を迎える人の心を『段階』として考えた点が挙げられる。彼女は、患者さんがひとつひとつの段階を通過することで、最終的に死を受け入れる『受容』の段階にたどり着くと言った」

 

続けて、佐藤氏は以下のように述べています。
「しかし、『受容』は何も死という旅の最終地点ではなく、あらゆる段階で見られる現象だ。また、すべての患者さんが5つの段階を通るとは限らない。ひとりひとり道のりが違うため、パターン化するのは非常に難しい。死と向き合ったときに起こる感情やそれへの対応方法は、患者さんがそれまで生きてきた人生や性格、周りのサポートの有無、彼らを取り巻く環境などによっても大きく変化する。患者さんの気持ちというのは波のように絶え間なく変化するし、その変化に特定のパターンがあるわけでもないから、極めてランダムなのだ」

 

二「ショックと否定(Shock&Denial)」では、「『死』はきれいごとではない」として、著者は以下のように述べます。
「死ぬということは、決してきれいごとではない。人生が終わることへのショックや否定の気持ちから、一歩前に進むには時間がかかる。歩むペースがひとりひとり違うように、死への準備にもそれぞれのペースがあるのだ。周りはそれを見守ることしかできないが、患者さんの心の準備ができたときにはしっかりサポートしてほしい。それが重要だ」

 

三「怒りと悲しみ(Anger&Sadness)」では、「怒りの底にある悲しみや苦しみ」として、著者は以下のように述べます。
「死と向き合う人は、今まで大切にしてきたすべてを失うという感覚に襲われている。家族、友人、仕事、趣味、ペット、将来の夢。過去も未来も、文字通りすべてだ。患者さんは、この打ちのめされるような悲しみと向き合っていることを、周りの人には知っておいてほしい。それに気づいて初めて、怒りに囚われた患者さんを励まそうと考えることもできる。しかし、励ますのもまた難しい。なぜなら、その励ましが患者さんから悲しみを表現する機会を奪い、喪失感を一層深くしてしまうこともあるからだ」

 

四「不安と恐怖(Anxiety&Fear)」では、著者は、「死と向き合ったときに人間が感じる「恐怖」は、死そのものへの恐怖というより、死に至るまでの恐怖である場合が多い。祖父のように寝たきりになることを恐れる人もいれば、痛みが増すのではないか、苦しいのではないか、適切なケアが受けられないのではないか、と不安になる人もいる。このような場合、周りの協力で患者さんの不安は軽減される」と述べています。

 

また、「死にまつわる『不確かさ』」として、著者はこう述べます。
「『人間が抱く最も古く強い感情は恐怖であり、その中で最も古く強い恐怖は、不確かさの恐怖である』と語ったのは、ホラー作家のハワード・フィリップス・ラヴクラフトである。彼の言うように、人間にとってわからないことほど恐いものはない。結論を知ってしまえば『そんなものか』ということであっても、その正体がわからないままに予期しているときは恐ろしく思えてしまう。死を迎えるまでの過程は、まさにこの『不確かさ』とともに生きることに等しいため、患者さんの中には恐怖心が募っていくのである」
かつて、俳優の丹波哲郎さんが「死が怖いのはわからないからだ。死後の世界がわかれば、死は怖くなくなる」と言って、映画「大霊界」を作られたことが思い出されます。

 

著者は、「選択肢を増やすことで不安を軽減する」として、こう述べています。
「死と向き合う人には、なるべく『コントロール感』(sense of control)を持たせることが重要だ。コントロール感とは文字通り、本人にコントロールできる『感覚』があるということだ。私たちはコントロール感が少なくなればなるほど不安を感じやすくなる。わかりやすい例をあげると、車よりも飛行機のほうが怖いという人ははるかに多い。統計から見れば、車よりも飛行機のほうがはるかに安全なのに、なぜだろう。車の運転は自分でコントロールできる、もっと正確に言えば、コントロールできる『感覚』がある。一方、飛行機は自分の身を他人に任せなければいけないのでコントロール感が低い。だから恐怖が増すのだ」

 

また、「宗教は恐怖に囚われた心を救えるか?」として、著者は述べます。
「恐怖に関連して、多くの人から聞かれる質問にお答えしたい。それは、『宗教を信じている人は死を恐れないのか?』という問いだ。多くの日本人は特定の宗教を信仰していないから穏やかな死が迎えられないのではないか、欧米人はクリスチャンだから安らかに死を受け入れられるのではないか。このように考える人は驚くほど多い。簡単に答えると、宗教の有無で死への恐怖をはかることはできない。キリスト教徒の場合、天国に行くという希望が死の恐怖を和らげる場合もあるが、その反面、地獄へ行くかもしれないという恐怖とともに亡くなる人もいる。今まで出会った中で最も死を恐れた人は、皮肉にも信仰深い人だった。日本人の患者さんは仏教徒や信仰を持たない人が多いが、『亡くなった人がお迎えに来てくれる』『死んだ人にあの世で会いたい』という希望に支えられている患者さんは多い。死への恐怖は、宗教よりもむしろ『スピリチュアリティー』に関係している」

 

さらに、宗教について、著者は述べます。
「宗教とはある集団の信仰であるのに対して、スピリチュアリティーとは神聖なものと自分、世界と自分との関係性を指す。他人を思いやる気持ち、感謝の気持ち、自分を生き生きとさせるもの、人生に意味を与えるもの。そういったものが、その人のスピリチュアリティーと言える。つまり、すべての人に宗教心があるわけではないが、スピリチュアリティーは誰もが持っているものなのだ」
そして、著者は「私たちは死ぬときに、人生で得たものを持ってはいけない。死んだあとに残るのは、自分が他人に与えたものだけだ。他者といい関係を築き、満足した人生を送った人ほど後悔は少ない。そして、そういう人ほど死を恐れないものだ。だからこそ、『やり残したこと』を解決することが、患者さんの不安や恐怖を軽減する上でとても大切になる」と述べるのでした。

 

五「希望(Hope)」では、「死に逝く患者さんの、未来への希望」として、著者は以下のように述べています。
「希望がなければ人生ははじまらないし、意味あるものとして終わらない。そう語ったのは発達心理学者のエリック・エリクソンだが、事実、治る見込みがなかったとしても、患者さんにはさまざまな希望がある。『お正月を家族と過ごしたい』『家で最期のときを過ごしたい』『孫に会いたい』『旅行したい』『好きなものが食べたい』『好きな音楽が聴きたい』『ペットと生活したい』。まずは、患者さんにどのような希望があるかを知ることが大切だ。そして彼らの希望を叶えることが、心の支えにつながる」

 

第二章「大切な人のために家族ができること」の一「やり残したことを叶えるためのサポート」では、「悲しみは前もってやってくる」として、著者はこう述べています。
「グリーフとは、簡単に言えば大切な人との別れによって起こる深い悲しみのことだ。そして、グリーフは何も死別の後だけに起こるものではない。実際に死が起こる前に経験するグリーフを『アンティシパトリーグリーフ』と呼ぶ。アンティシパトリーとは『予期しての』という意味で、大切な人の死を予期して起こるグリーフのことだ。アンティシパトリーグリーフの症状は、当然だが、グリーフのそれと似ている。ショック、否定、怒り、後悔、深い悲しみ、不安、孤立感など、さまざまな感情が入り交じる。夜眠れない、食欲がない、集中できない、物忘れが激しくなるなど、身体的・認知的な影響が出る場合も多い」

 

二「その人の人生の物語を知る(ライフ・レビュー)では、 人生を振り返り、内省することを「ライフ・レビュー(回想)」ということが説明され、「回想は、死に直面した人に必ず起こる。死が迫ってきたとき、本人が意識してもしなくても、これまでの人生で起こったことや、健康だったころはあまり考えなかった昔の思い出が自然とよみがえってくるのだ。『走馬灯』という言葉があるが、人は、人生の危機に接したときに回想を経験する。死とは、言ってみれば人生最大の危機なのだろう」「回想には極めて重要な役割がある。過去を振り返り、内省することで彼らは人生の意味に気づき、現状を乗り越える力を得ていく。そしてときには、やり残したことに気づいたりもするのだ」と述べられています。

 

さらに「死を超えるものとは?」として、著者は「死を超えるものがあるとしたら、それはまさしく愛であろう。死に逝く人たちもまた、それに気づくのだ」と述べ、「『ボーナブル』な私たちと『大きな器』の話」として、「末期の患者さんというのは、とてもボーナブル(vulnerable)な状況にある。ボーナブルとは、誰かの支えを必要としていたり、困っていたり、傷つきやすくなっている『状態』を指す。日本語にはない表現で、『弱者』とも意味が違う。ボーナブルは、患者さんに限らず誰もが経験することだ。たとえば、言葉の話せない国に行ったとき、暗い夜道を1人で歩いているとき、風邪にかかったときなどには、ボーナブルな状態になり得る。そして死期が近づいているとき、私たちは人生で最もボーナブルな状態にあると言えるだろう」と述べています。

 

三「正直な会話をする――そのための3つのことば」では、著者は「許す」ということについて、以下のように述べています。
「許すとは、何も相手の行為を無条件に肯定することではない。許すとは、「過去に起こったことは、もう変えることができない」と、ただ受け入れることなのだ。そうすることで初めて、私たちは怒りや後悔から自由になれる。怒りを持ち続けるということは、とてもしんどいことだ。エネルギーも時間も相当に消耗する。許すこと、受け入れることには勇気がいる。でもそれは、何よりも自分自身のために必要な行為なのだろう」

 

また、「今、伝えることの大切さ」として、著者は以下のように述べます。
「人は、自らの死を悟る。患者さんに病気のことを隠し通すことはできない。だからこそ、ここで重要なのは、告知をするかしないか、ということではない。どのように告知をするか、そしてそのあとどうやってサポートしていくかだ。つまり、『弱い人を守る』という視点ではなく、『ボーナブルな状態にある彼らをいかに支えるか』という視点でのアプローチが求められるのである」

 

四「象徴的なメッセージを見逃さない」では、「ビジョンや夢」として、著者は以下のように述べています。
「死を迎える数週間前に、患者さんが亡くなった家族や友人に関するビジョンや夢を見るということは、研究結果からもわかっている(近年ニューヨーク州ホスピスで行われた研究では、患者さんが見た夢やビジョンはすでに亡くなった家族や友人に関するものが多く、それらは彼らに安らぎを与えるものだと判明した)。患者さんは、その人たちが見守ってくれているとか、もうすぐお迎えに来る、というような感覚があると語る。家族は驚くかもしれないが、これはあくまでも普通の現象であり、患者さんにとっては大きな意味を持つのだ」

 

すでに他界した家族が迎えに来るという「お迎え現象」と呼ばれるものは、アメリカのホスピスでもよくあるそうで、人類共通だといいます。この「お迎え現象」について、著者は以下のように述べます。
「これらの体験は患者さんにとっては意義深い体験だが、それを受け止める家族の側が困惑してしまうことが多い。『単に夢を見ただけだよ』『お母さんは昔亡くなったじゃないの』『おじいさんが見えるはずない』『薬のせいで混乱しているに違いない』『幻覚を見ているだけだろう』――このような言葉を、家族からよく聞く。もし、あなたが死に逝く人の夢やビジョンを単なる幻覚だと切り捨て、その意味を理解できないでいると、彼らとの距離はどんどんと開いていくことになるだろう。そして、ときにそれが、患者さんの葛藤の原因になってしまうこともある」

 

第三章「グリーフについて――悲しいのは、当たり前のこと」では、著者は以下のように述べています。
「死との向き合い方に個人差があるように、グリーフの過程も千差万別だ。あなたがどのようにグリーフを経験するかは、あなたの性格や人生経験、大切な人がどのように亡くなったか、その人との関係はどうだったかなど、さまざまな要素が影響する。反応にも個人差があり、悲しみで涙が止まらない人もいれば、しばらくの間ショックで何も感じない人もいる。どれが正しいということはない。どれもその人なりの自然なグリーフの表れなのだ」

 

一「グリーフを経験している人の心」では、「孤独感」として、著者は述べます。
「本来、グリーフは社会的な過程である。グリーフを乗り越えるためには、家族や友人、同僚や近所の人々など、周りからのサポートが必要なのだ。しかし現代社会ではそのサポートが欠けているため、本人の孤独感は強まってしまう。また、グリーフの過程はひとりひとり違うので、理解するのが難しい。たとえば、夫を亡くした未亡人同士でもグリーフは異なる。故人の亡くなり方や年齢など、さまざまな要素がグリーフに影響を及ぼすからだ。そして、亡くなった人との関係やあなたの性格も影響する。だから、子どもを亡くした両親であっても、それぞれグリーフの反応が違うというのは、ごく普通のことなのだ。アメリカ人の作家ウィラ・キャザーが言うように、他人の心は、それがどんなに自分自身の近くにあったとしても、『暗い森(dark forest)』のようなものなのだ。人の心は根本的にはわからない。どんなに優れたセラピストであっても、である」
これは、わたしの実体験からもよく理解できます。「人の心は根本的にはわからない」というのは、とても共感できます。

 

また「ショックと否定」と、著者は述べます。
アメリカ人作家のジョーン・ディディオンは『悲しみにある者』で、長年連れ添った夫を亡くしたのちの1年間を振り返っている。夫が心臓発作で亡くなったあと、しばらくの間、ジョーンは『摩訶不思議な考え(magical thinking)』をしていたと語っている。たとえば、彼女は亡くなった夫の靴を捨てることできなかった。彼が帰ってきたときに靴がないと困ると思ったからだ。そして夫の臓器提供を拒否した理由も、臓器がなければ彼は生き返ることができないと感じたからだった。このように『死んだ人がもしかしたら帰ってくるかもしれない』という感覚は、グリーフの症状のひとつだ。愛する人の死を、頭では理解していても、心では受けとめられていないのである」

 

さらに「不安と恐怖」として、著者は述べます。
「イギリス人の作家C・S・ルイスは妻の死後、『グリーフが恐怖とよく似ているとは、誰も教えてくれなかった』という有名な言葉を残した。彼は妻の死に際し、心の動揺や不安が、恐怖の感情と同じだと思ったのである。グリーフのときに私たちが恐怖を感じる理由のひとつは、大切な人を失うことで自分の死への認識が高まることにある。自らの『死すべき運命』を否定することができなくなるし、他の家族もいつか失うという事実からも逃れられなくなるのだ。中には、自分はこれからどうなってしまうのだろう、という漠然とした不安に襲われる人もいる。新しく果たさなければいけない責任や役割に、圧倒されることもあるだろう」

 

著者は、「今日妻と会うことができない、という事実は受けとめることができる。でも、彼女と一生会えないという事実を受けとめることはできない」という妻を亡くした70代の男性の言葉を紹介しています。そして、「周囲にサポートを求める」として、以下のように述べています。
「故人が死に至った過程を何度も繰り返し話すというのも、グリーフの症状のひとつである。病気を悟ったころから今に至るまでの経過や、そのときの気持ちなどを何回も語っている自分に気づくときがあると思う。これが実は、グリーフの過程において重要な役割を果たす。ショックな出来事があったとき、それを受けとめて前に進むまでには果てしなく時間がかかる。そんなとき、誰かに話をすることによって、受け入れたくない出来事を少しずつ受け入れることができるようになるのだ」

 

また、「複雑なグリーフは専門家に頼る」として、著者は述べます。
「自殺や他殺による死や、事故や災害で多くの人を同時に失った場合などは、当然、グリーフもかなり複雑になる。たとえ家族を病気で失ったとしても、あなたが以前に複雑なグリーフを経験したことがある場合や、故人との関係がこじれていた場合、あるいはもともとの精神状態などによって、複雑になる場合もある。自分も一緒に死にたかったなどと思ったり、人を信頼できなくなったり、月日が経っても故人の死を認めることができなかったりすることもあるだろう。もしかしたら、亡くなった人の死を自分のせいだと思ってしまうかもしれない。このような症状がある場合は、いち早く専門家の助けを求めて欲しい」

 

二「遺される子どものグリーフについて」では、著者は以下のように述べています。
「大人のグリーフと比べ、子どものグリーフは複雑化しやすい。家族を失ったあと、子どもは大人と同じようにさまざまな感情を抱くが、子どもはその複雑な感情を的確に表現する言葉を持っていないため、気持ちが行動に出てしまいがちだ。グリーフを乗り越えられなかった子どもは、のちに非行に走ったり、登校拒否やひきこもりになったりする場合もある。周囲の大人の反応によって、子どものグリーフの過程は大きく変わる」

 

「子どもせいではないと伝える。そして、亡くなった人の話を避けない」として、著者は以下のように述べます。
「人が亡くなったとき、周囲の大人は死んだ人の話を避けようとする。これも子どもを守りたいという気持ちからだと思うが、逆効果になる。子どもは、死んだ人が忘れられてしまったと感じるだろう。大人と同様に、子どもも大切な人を忘れてほしくないという希望を持っているのだ。それに、故人の話を避けることは、子どもから死について質問したり気持ちを表現したりする場を奪うことになりかねない」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「ショックを与えないために、お葬式やお通夜に子どもは参加させないほうがいいのでは?と考える人もいるようだ。しかし、このような場があるからこそ、子どもは大切な人にきちんとお別れすることができる。無理に参加させる必要はないが、子どもが自分で決められる年齢であれば、本人にどうしたいか聞くといい。あらかじめお葬式がどういうものなのか説明しておけば、子どもも安心できるだろう。亡くなった人への最期の贈り物として、子どもが書いた絵や手紙、故人と一緒に撮った写真やおもちゃをお棺に入れることも、子どもがお別れをする手助けとなる」

 

また、「思春期の子どものグリーフ」として、著者は述べます。
「この世代の子どもたちにできることはシンプルだ。『悲しんでもいい』ということを、教えてあげればいい。グリーフにはさまざまな感情があって、それは避けて通れないもので、今感じている気持ちがどんなにつらくても、いつか必ず変化する――。そういうことを、周りの大人たちから伝えてあげてほしいのだ」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「大切な人を失った子どもは、人生の過程の中で何度もグリーフを経験する。卒業式、就職、結婚式、出産など、人生における大きな出来事を経験するたびに、亡くなった人のことを思い出すからだ。しかし、これは彼らのグリーフが解決していないことを意味するのではない。その悲しみは、彼らの成長過程においてあくまでも普通のことであり、そのたびに素直に悲しむことで、彼らは何度でもそれを乗り越え、強く、未来へと歩んでいけるのだ」

 

さらに、「グリーフは『克服する』ものではなく、『乗り越えていく』もの」として、著者は以下のように述べています。
「心の傷は目に見えないだけで、体の傷と似ている。最初は血が止まらず痛いが、そのうち、かさぶたができる。私の腕には、中学生のころに転んでできた傷がある。今でも他の皮膚と色は違うし、触った感触も違う。グリーフも同じように、時間が経つにつれ痛みは減っても傷跡は消えない。大切な人が占めていた心のスペースを埋めることはできないのだ。つまり、グリーフとは『克服する』」(get over)ものではなく、『乗り越えていく』(get through)ものと言える」

 

そして、著者は「強く愛することができる人だけが、大きな悲しみを経験する。しかし、その愛こそがグリーフを乗り越える力となる」というロシア人の小説家トルストイのことばを紹介し、「喪失の悲しみから前進するための原動力は、あなたの故人への愛情なのである」と訴えるのでした。本書は、ホスピス緩和ケアの実践を積み重ねてきた著者だからこそ到達した地点から「グリーフケア」の本質と可能性を語った名著であり、グリーフケアに関わるすべての人々に読んでいただきたいと思います。

 

 

2019年8月13日 一条真也

日航ジャンボ機墜落事故の日

一条真也です。
8月12日になりました。1985年の日航ジャンボ機墜落事故から34年目の日です。あの事故は、ちょうど40回目の「終戦の日」の3日前のことでした。1985年8月12日、群馬県御巣鷹山日航機123便が墜落、一瞬にして520人の生命が奪われたのです。単独の航空機事故としては史上最悪の惨事でした。

 

遺体の確認現場では、カルテの表記や検案書の書式も統一されました。頭部が一部分でも残っていれば「完全遺体」であり、頭部を失ったものは「離断遺体」、さらにその離断遺体が複数の人間の混合と認められる場合には、レントゲン撮影を行った上で「分離遺体」として扱われたそうです。まさに現場は、「この世の地獄」そのものでした。


御巣鷹山日航機123便の真実

 

当時、群馬・高崎署の元刑事官である飯塚訓氏が遺体の身元確認の責任者を務められました。ブログ「『墜落遺体』『墜落現場』」で紹介した飯塚氏の著書を読むと、その惨状の様子とともに、極限状態において、自衛隊員、警察官、医師、看護婦、葬儀社社員、ボランティアスタッフたちの「こころ」が1つに統合されていった経緯がよくわかります。

 

看護婦たちは、想像を絶するすさまじい遺体を前にして「これが人間であったのか」と思いながらも、黙々と清拭、縫合、包帯巻きといった作業を徹夜でやりました。そして、腕1本、足1本、さらには指1本しかない遺体を元にして包帯で人型を作りました。その中身のほとんどは新聞紙や綿でした。それでも、絶望の底にある遺族たちは、その人型に抱きすがりました。亡き娘の人型を抱きしめたまま一夜を過ごした遺族もおられたそうです。その人型が柩に入れられ、そのまま荼毘に付されました。どうしても遺体を回収し、「普通の葬儀をあげてあげたかった」という遺族の方々の想いが伝わってくるエピソードです。 人間にとって、葬儀とはどうしても必要なものなのです。そのことは、「沈まぬ太陽」や「クライマーズ・ハイ」といった、日航ジャンボ機墜落事故をテーマにした映画を観たときも痛感しました。

  

茜雲 日航機御巣鷹山墜落事故遺族の30年

茜雲 日航機御巣鷹山墜落事故遺族の30年

 

わたしは、ブログ『沈まぬ太陽』で紹介した山崎豊子氏の小説をはじめ、くだんの『墜落遺体』『墜落現場 遺された人たち』、さらには日航機墜落事故の遺族の文集である『茜雲〜日航御巣鷹山墜落事故遺族の30年』(本の泉社)も含めて多くの資料を読みました。その感想は拙著『葬式は必要!』(双葉新書)にも書きましたが、あらためて葬儀とは「人間尊重」の実践であるという思いを強くしました。

 

葬式は必要! (双葉新書)

葬式は必要! (双葉新書)

 

さらに、ヒトは葬儀をされることによって初めて「人間」になるのではないでしょうか。ヒトは生物です。人間は社会的な存在です。葬儀に自分のゆかりのある人々が参列してくれて、その人たちから送ってもらう――それで初めて、故人は「人間」としてこの世から旅立っていけるのではないでしょうか。葬儀とは、人生の送別会でもあるのです。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

 

 

1人の人間が亡くなることは大事です。宇宙的事件です。
東日本大震災の直後に北野武氏が「2万人の人間が死んだんじゃない。1人の人間が死ぬという大事件が2万回起こったんだ」という名言を残されていますが、まさにその通りだと思います。それなのに、現代日本では通夜も告別式も行わずに遺体を火葬場に直行させて焼却する「直葬」が流行し、さらには遺体を焼却後、遺灰を持ち帰らずに捨ててしまう「0葬」も登場。あいかわらず葬儀不要論も語られています。そういった風潮に対して、わたしは拙著『唯葬論』(サンガ文庫)を書きました。絶対に、死者を忘れてはなりません。いつの日か、520名の犠牲者が昇天した“霊山”であり、4名の奇跡の生存者を守った“聖山”でもある御巣鷹山に登ってみたいです。

 

ちょうど2年前、わたしは『般若心経 自由訳』(現代書林)を上梓しました。自由訳してみて、わたしは日本で最も有名なお経である『般若心経』がグリーフケアの書であることを発見しました。このお経は、死の「おそれ」も死別の「かなしみ」も軽くする大いなる言霊を秘めています。葬儀後の「愛する人を亡くした」方々をはじめ、1人でも多くの方々に同書をお読みいただき、「永遠」の秘密を知っていただきたいと願っています。最後に、御巣鷹山で亡くなられた方々の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

 

般若心経 自由訳

般若心経 自由訳

 

2019年8月12日 一条真也

なつの白無垢姿を見て

一条真也です。
お盆休みの最中ですが、わたしは、次回作の『ハートフル・ソサエティ2020』(弘文堂)を執筆しています。年内には刊行の予定ですので、お楽しみに!
ところで、みなさんは、NHK「連続テレビ小説」第100作目の「なつぞら」をご覧になっていますか? わたしは、主役なつを演じる広瀬すずの大ファンでありながら、忙しさにかまけて、まだ一度も観ていませんでした。

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なつの白無垢姿(NHK「なつぞら」より)

 

なつぞら」は1937年(昭和12年)に東京に生まれ、戦争で両親を失い父の戦友に引き取られた戦災孤児の少女なつが、北海道の十勝で広大な大自然と開拓者精神溢れる強く優しい大人たちに囲まれてたくましく成長し、上京後北海道で育んだ想像力と根性を活かして当時「漫画映画」と称された草創期の日本アニメの世界でアニメーターを目指す姿を描く物語です。DVD-BOXが発売されたら購入しようとは思っていましたが、昨日10日に放送された第114回に、なんと広瀬すずの白無垢姿が登場したとネットで知り、早速、NHKオンデマンドで観ました。そのあまりの美しさと感動のドラマに、わたしの涙腺は大いに緩んでしまいました。

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昭和の祝言(NHK「なつぞら」より)

 

いやあ、114回放送されている中のたったの1回しか観ていないのに、もう「なつぞら」に夢中です。「MANTAN WEB」の「なつぞら:感動呼んだ泰樹の“ありがとうの涙” スタッフももらい泣き?」という記事には、次のように書かれています。
「女優の広瀬すずさんが主演を務めるNHK連続テレビ小説(朝ドラ)『なつぞら』の第114回が8月10日に放送され、花嫁姿のなつ(広瀬さん)の前で涙する泰樹(草刈正雄さん)にもらい泣きする視聴者が続出した。この日は、なつ(広瀬さん)と坂場(中川大志さん)、夕見子(福地桃子さん)と雪次郎(山田裕貴さん)の結婚式のシーンが描かれた」

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感動の名シーン (NHK「なつぞら」より)

 

続いて、以下のように書かれています。
「その当日、白無垢姿で牛舎へとやってきたなつが『じいちゃん、長い間お世話になりました』とあいさつすると、泰樹は『ありがとうな』と感謝の言葉で返答。『ありがとうはおかしいべさ。育ててくれた、じいちゃんが』と驚くなつに、さらに泰樹は『わしもお前に育ててもろた。たくさん、たくさん、夢をもろた』と告げ、『ありがとう。おめでとう、なつ』と涙を流した・・・・・・」

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感動の名場面でした(NHK「なつぞら」より)

 

続いて、以下のように書かれています。
「SNS上では『涙が止まらない』『朝から号泣』『涙腺崩壊』『涙腺大決壊』などといった言葉が多数並んだが、『なつぞら』の公式ツイッターも『白無垢姿は初めてだという広瀬すずさん。着替えて衣装部屋から出てくると、みんなに「おめでとう」と声をかけられていました。じいちゃん役・草刈さんとのシーンでは、スタジオで涙するスタッフも。なっちゃん、本当におめでとうございます』と放送後に投稿していた」

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広瀬すずのインスタグラムより 

 

続いて、以下のように書かれています。
「また、公式サイトで広瀬さんは『白無垢を着てスタジオ前で待っていると、みんなに「おめでとう」と声をかけられるんです。松嶋(菜々子)さん、小林(綾子)さん、高畑(淳子)さんといった大先輩からも「おめでとう」と言っていただいたり、スタジオに入るときにはスタッフの方々も「おめでとう」と迎えてくださったり、“朝ドラってすごいな”って感じました』と振り返っていた」

 

広瀬すずは結婚情報誌「ゼクシイ」の第7代CMガール(2014年~15年)でしたので、そのウェディングドレス姿は見たことがありました。もちろん美しいのですが、モデルを務めた当時の彼女はまだ16歳ぐらいだったこともあり、「ちょっと花嫁さんにしては若いな」と思った記憶があります。現在の彼女は21歳ですが、白無垢姿の似合うこと、似合うこと。神々しささえ感じます。わたしは、「日本人は和が似合う」という自分の信条を再確認しました。


サンデー毎日」2016年10月23日号

 

以前、わたしは「サンデー毎日」でも「日本人は和が似合う」というコラムを書いたことがあります。わが社の松柏園ホテルでは、海外からの研修生を受け入れていますが、彼らは「結婚式の際、なぜ日本人は積極的に和装にしないのか?」と疑問を持つようです。実は同ホテルでは、日本庭園が人気ということもあり、和装率が7割以上と全国平均を大きく上回っているのですが・・・・・・。


和を求めて』(三五館)

 

それでも海外から来た彼らは違和感を禁じ得ないといいます。確かに結婚式のとき、韓国の人たちはチマ・チョゴリを着ますし、インドの人たちはサリーを着ます。その他、タイ、ミャンマーハンガリーウクライナ、そしてイスラム圏・・・・・・世界中の人々が、結婚式では自分たちの民族衣装を身にまとうはずです。そう考えると、日本の結婚式には、やはり和服がないと物足りないように思います。

 

言うまでもなく、和服は日本の民族衣装です。日本人の女性は和装が一番似合い、一番美しく見えるのは当然なのです。そもそも肌の色や体形に合わせて、日本の女性を最も美しく見せるようにデザインされたものが和服だからです。新婦だけではありません。新郎の和装姿は「侍」を連想させ、男ぶりを大いに上げます。ぜひ、これから結婚式を予定されている方は和装にしてほしいものです。「日本人には和が似合う」といえば、現在、京都きもの友禅のCMでは、広瀬すずに続く若手人気女優の浜辺美波が明治・大正・昭和・平成・令和の5つの時代の振袖姿を披露しています。彼女は現在18歳ですが、おそらくは20歳以降にNHK朝ドラで主演を務めると思います。

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合同結婚式のようす(NHK「なつぞら」より) 

 

なつぞら」第114回に登場したなつと夕見子の合同結婚披露宴のシーンも良かったですね。とても昭和の香りがしました。ブログ「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」で紹介した映画は何となく昭和の香りがしました。小学生の頃に観た「東宝チャンピオンまつり」のゴジラ映画を思い出したのです。思うに、令和の「和」は昭和の「和」ですが、令和になって各所で昭和リバイバルが同時多発で起こっているように思います。平成はオウム真理教事件や大災害などで暗いイメージがありましたが、令和になって一気に明るくなったような気もします。

 

ヘーゲル弁証法で言えば、昭和が「正」で、平成が「反」、そして令和が「合」なのでしょうか。わたしは、平成の時代の出来事で最も乗り越えるべき現象は「無縁社会」だと思います。ゴジララドンモスラといった昭和の怪獣たちが令和になって再びスポットライトを浴びたように、平安閣や玉姫殿や高砂殿などでかつて行われた昭和テイストの結婚披露宴や、血縁・地縁・社縁を総動員した葬儀も見直されるかもしれません。ちなみに、昭和の結婚披露宴といえば、「男はつらいよ」の第1作では、さくらと博と感動的な披露宴が行われました。寅さんのセリフもこの上なくハートフルで、これは泣けます!

 

2019年8月11日 一条真也

『死と生』

死と生 (新潮新書)

 

 一条真也です。
死者を想う季節の中で、『死と生』佐伯啓思著(新潮新書)を読みました。日本を代表する社会経済学者で思想家でもある著者は、1949年奈良県生まれ。京都大学名誉教授。東京大学経済学部卒。東京大学大学院経済学研究科博士課程単位取得。2007年正論大賞ブログ『反・幸福論』で紹介した本をはじめ、『隠された思考』(サントリー学芸賞)、『日本の宿命』、『正義の偽装』、『西田幾多郎』、『さらば、資本主義』、『反・民主主義論』、『経済成長主義への訣別』などの多くの著書があります。

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本書の帯

 

本書の帯には「『死』とは何か。なぜ、怖いのか。死ねば、どこへゆくのか。」「稀代の思想家が挑む究極の謎」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「『死』。それは古今東西、あらゆる思想家、宗教家が向きあってきた大問題である。『死ぬ』とはどういうことなのか。『あの世』はあるのか。『自分』が死んだら、『世界』はどうなるのか――。先人たちは『死』をどう考えてきたのか、宗教は『死』をどう捉えているのかを踏まえながら、人間にとって最大の謎を、稀代の思想家が柔らかな筆致で徹底的に追究する。超高齢化社会で静かに死ぬための心構えを示す、唯一無二の論考」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「まえがき」
第一章  超高齢化社会で静かに死ぬために
第二章  「一人では死ねない」という現実を知る
第三章  われわれは何ひとつわからない
第四章  死後の世界と生命について
第五章  トルストイが到達した「死生観」
第六章  仏教の輪廻に見る地獄
第七章  「あの世」を信じるということ
第八章  人間は死ねばどこへゆくのか
     ――浄土と此土
第九章  「死の哲学」と「無の思想」
     ――西部邁自死について
第十章  「死」と日本人
     ――生死を超えた「無」の世界
「あとがき」

 

「まえがき」で、著者は以下のように述べています。
「政府も識者も財界人も、イノベーショングローバリズムで日本は成長できる、経済はよくなる、われわれの生活は大きく変化する、というのですが、同時に、今日の日本の大問題は、人口減少社会化、高齢社会化ではなかったのか、と思ってしまうからです。いや、『思ってしまう』などという主観的かつ印象的ないいかげんな話ではなく、まぎれもない客観的かつ統計的な現実なのです。すると、このふたつの傾向を掛け合わすとどうなるのかというと、年寄りばかりが国土を覆ってゆくこの日本社会で、AIやロボットやドローンや生命科学といったイノベーションをどんどん推進し、グローバルに活躍できる人材を育てれば大きく成長できる、といっているわけです」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
高齢化社会とはまた、本来は、もはやモノを増やして、生活の物質的な向上を求めるような経済段階ではありません。食べ物や着るものや遊ぶものをいくら増やしても、それほどありがたみのある社会ではありません。それは本来は成熟社会のはずなのです。成熟社会とは、長い人生の生の意味づけや、やがてすべての人に訪れる死への準備へと人々の関心が向けられる社会です」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「人生の最後をどう迎えるか、というのはただ高齢者だけの関心ではなく、本当は、若者もマスメディアも含めて、ひとつの国民のもつ死生観の問題なのです。ただ日本のような『超』高齢化へと突入する社会は、この普遍的な問題を、実際上、高齢者の切実な社会問題へと押し上げてしまうのです。ただそれは、私には、介護施設ターミナルケアといった目に見える社会問題であるだけではなく、それ以上に、まずはひとつの国民の精神的な文化や内面的な価値の問題だと思われるのです。にもかかわらず、現実には、高齢化社会のもつ精神的価値や文化への関心などどこかへ吹っ飛んでしまい、もっぱら、『一億総活躍社会』をつくれば日本はますます元気になる、といった調子になっている」

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「経済成長が可能か否かなどというよりも、生の意味や死の意味を問うことの方がはるかに人間的な問いでもあり、若干、大げさにいえば、人類の普遍的な問いではないでしょうか。古代のエジプト人が、死後の魂にたいへんな関心をもった事実はよく知られていますが、おそらくは縄文時代の日本人でも、ただただ生きるために食物を探しまわっていただけではなく、生を可能ならしめるために儀式めいたことをやり、死後の世界にさえも無関心ではなかったでしょう。歴史をもう少し手前まで手繰り寄せれば、人々は、確実に、生を可能とするものや死をもたらすものに強い関心を持っていました。つまり宗教的意識であり、死生観です」

 

第一章「超高齢化社会で静かに死ぬために」では、「年寄が『生きた粗大ゴミ』になる」として、著者は述べます。
「今日65歳以上の高齢者人口はすでに3000万人を超えていますが、2025年には約3700万人になると予想されています。そして、そのうちの10%近くの約350万人が認知症になるとみられている。また、高齢者の1人暮らしの世帯は2025年で680万世帯(約37%)と推計されているのです(国立社会保障・人口問題研究所の推計)。へたをすれば相当な数の認知症老人がそのあたりを徘徊しかねない。私もその1人ですが『生きた粗大ゴミ』が巷に大量放出されることになるのです。これが『2025年問題』といわれるもので、戦後日本の経済成長を牽引してきたいわゆる団塊の世代(ベビーブーム世代)が、75歳以上の後期高齢者になるからです」

 

また、「孤独に老いてゆくこと」として、著者は述べます。
「60歳過ぎになって定年で仕事をやめ、いわば社会から放り出されて1人でいる、ということ。そして、そのままどのようにして死を迎えるか、ということ。1人で老い、死へ向かうこと。その最後の生をどう過ごすか、ということ。ある意味では、この人間の普遍的な問題にわれわれは、日々、この高齢化が進む社会で、誰もが改めて直面し、もはや目を背けることができなくなった、ということなのです」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「かつては家族があった。地域もあった。それが、かろうじて老いや死の露出を回避していたのです。しかし、今日、家族も地域もほとんど崩壊状態になってしまうと、われわれは、むきだしの老いや死に直面せざるをえなくなる。いや、この人間の生の普遍的で根本的な問題がむきだしのままで露呈してきたのです。しかし今日、老いや死に面して、それをいかに受け入れるか、あるいは処遇するかというと、われわれには何の手掛かりもありません」

 

第二章「『一人では死ねない』という現実を知る」では、「本当に恐ろしいのは『死に方』である」として、著者は以下のように述べています。
「多くの人がいいます。『死など考えても仕方ない』『死などこわがっても仕方ない、どうせみんな死ぬんだから』と。それはそうです。私もそのことには大賛成です。しかし、こういうことをいうたいていの人が見落としているのは、死とは、生が徐々に衰退し、変形し、われわれの存在の在り方を歪めてゆくプロセスであり、その極限に現れるものだ、という事実です。こういう厳然たる事実を見落としているか、もしくは、見ないふりをしているかでしょう」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「われわれが気にしているのは、死そのものではなく、死のほんの少し手前、つまり、死にゆく、その最後の生の在り方です。『死』ではなく『死に方』なのです。『死』は経験できませんが、『死に方』は経験できるのです。いやそれどころではありません。いやおうなく『経験』させられてしまうのです。この経験から逃れることはできません。それが恐ろしいのではないでしょうか。『死』が恐ろしいとか恐ろしくない、とかいっても意味がありません。経験できないものについて、恐ろしいも恐ろしくないもないからです。しかし、『死に方』は、いやでも経験させられ、それから逃れることはできないのです」

 

また、「人は一人では死ねない」として、著者は述べます。
「『死』ほど個人的なことはほかにありません。日常的な『生』のなかで起きる多くの事柄は他者によって代行可能です。少なくとも、想像上の可能性の次元においては代替できるでしょう。しかし、『死』だけは絶対的に代行不可能です。他者の介在する余地はまったくありません。心中などといっても、死にたいもの同士が時間と場所を共有しているだけのことです。あくまで『死』は『個』にやってきます」

 

さらに、「死によって励まされる」として、著者は以下のように述べています。
「はっきりとしていることは、とてもではないが、人は1人では死ねない、ということなのです。急激にバタッと倒れても自分では何もできない。排泄の始末も自分ではできません。痛み止めの加減も自分では指示できないでしょう。延命治療の判断も自分では指示できません。肝心なことは何ひとつできないのです。最後の点滴をはずすという行動も本人にはできないのです。誰かにケアしてもらうほかないのです。ケアするとは、『うまく死なせる』ということです」

 

そして、「『自死という生き方』について」として、著者はこう述べるのでした。
「人間の死に方としては大雑把に3つあるでしょう。第一に事故や災害死や戦死、つまり、外部からの力による不可避的で突然の死。第二に老衰や病死、つまり、生物学的な自然死。そして第三に『自死』です。まだ世の中が貧しく、また人々が若くして病死した時代、あるいは戦時中は、人々はともかくも生の確保に必死でした。生きることに精いっぱいだった。しかし、元気に活動ができる健康寿命を越えて、はるかに寿命の延びた現代では、3番目の『老人の自死』という問題こそが、最大の焦点になってくるのかもしれません。実際、老老介護で疲れて自死する老人は結構いるのです」

 

儀式論

儀式論

 

 

第三章「われわれは何ひとつわからない」では、「『答え』の出ないやっかいな『問い』」として、著者は以下のように非常に興味深いことを述べています。
「おそらく人間にとっての根本的な逆説は、人間にとってもっとも重要でかつもっとも関心のある事項について、われわれは何ひとつわからない、ということでしょう。『死』がそれです。おそらくは、このもっとも根本的な事実、誰もがとても深く関心をもっているこの不可避な事実について、ほとんど何ひとつ確実なことを論じることも、また書くことさえできない、ということなのです」
これを読んで気づいたのですが、わからないことに対する人間の答えこそが「儀式」ではないでしょうか。「死」とともに「結婚」も謎に満ちています。誕生や成長や老いも謎だらけです。その「わからないこと」に対して、人間は誕生祝い、七五三、長寿祝いなどの「かたち」を与えて、「こころ」の不安をコントロールしてきたのではないでしょうか。詳しくは、拙著『儀式論』(弘文堂)をお読みいただきたいと思います。

 

「人間を超えた圧倒的な『力』」として、著者は述べます。
「『死』は『絶対的なもの』というよりほかありません。『絶対的なもの』を人は経験もできなければ、言葉で言い表すこともできません。それは名状しがたい、しかし、厳然とある何ものかなのです。それは、もはやわれわれの経験を超えた事実であり、それについて論じることさえいっさい受け付けない確たる事実なのです。われわれの経験には不確かなものはいくらでもありますが、『死』という事実ほど確たるものはありません。実際、『生』の中身は人によって様々でしょう。幸福も様々ですし、生き方も様々な可能性をもつ。人の知恵や努力によって変えることもできます。それらはすべて相対的なのです。偶発的でもある。しかし、『死』という事実だけは、きわめて普遍的で、絶対的で、必然的です。『死に方』はいろいろあっても、『死』という事実(状態)は、男女、貴賤、人種、美醜、善悪をまったく問わず、まったく同じであって、人智でも努力でも祈願でもどうにもなりません。まさしく『絶対的』なのです」

 

また、「『絶対的な無意味』の不気味さ」として、著者は以下のように述べています。
「われわれは、普通、『生』から『死』へと一挙に相転移するわけではありません。『生』と『死』の間に、『生』でも『死』でもないような、『老』や『病』があるのです。『生』は徐々に力を失い、意味を薄めてゆき、世界は色あせてゆき、そのあげくに『死』へといたる。そのプロセスが苦しく、つらく、想像を絶するようなものであり、屈辱的でさえあるのです。『死』へいたるためには、もはや『生』ともいえない『生』を送らざるをえない」

 

それに比べれば、「死」は救済とさえいえると指摘し、著者は以下のように述べています。
「『生』の究極の時間からの解放であり、苦をもたらす物理的身体からの解放だからです。『絶対的な無意味』である『死』に対しては、怖いも恐ろしいもありません。怖さや恐ろしさは、何かある意味をもった存在や事態についていえることだからです。『死』へと向かって『生』が徐々に蝕まれ、衰弱し、意味を喪失してゆくことが恐ろしいのです。多くの人が、病気で苦しんで死んだ自分の近親者の死に顔を見て、『ようやく安らかな顔になった』といって、ほっとしたりします。『死』は恐怖どころか『救済』でもあるのです」

 

「誰も論じられない」として、著者はこう述べます。
「不気味さから逃れるにはどうすればよいか。さしあたり答えは簡単です。意味を求めないことです。意味のないものに意味を求めるから不気味になるのであって、意味のない、もしくはわかりようもないものについて意味を求めるのをやめることです。それは、この『絶対的な無意味』について論じることには意味はない、と高をくくることです。『絶対的な無意味』にそもそも意味を求めようとするから困る。つまり『死』について論じたり、思念したりすることには意味がない、と割り切ればよい。そんなことを論じても考えても仕方ないのです」

 

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

 

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「実際、考えてみれば、西洋も日本も併せて、われわれの前には膨大な数の哲学書も文学書も積まれていますが、正面から『死』について論じたものはほとんどない、といってよいほどでしょう。現代の哲学者や文学者でも、この主題でまとまったものを書いた人はほとんどいないでしょう。驚くべきことといえば驚くべきことで、『死』というこの人生の最大級の問題に関心がないはずはない。しかし、実際には、論じることはできないのです。それは、先に述べたように、それについて論じることは『死』ではなく『生』の側の行為だからであり、言い換えれば、『死』を論じることは、『死』ではなく『死の概念』に意味をもたせることだからです。そして『絶対的な無意味』に意味をもたせることはできないからです」
正面から「死」について論じた本といえば、最近では、話題になったブログ『「死」とは何か』で紹介したシェリー・ケーガンの哲学書が思い浮かびますが、同書もまた、「死」ではなく「死の概念」に意味をもたせたといえます。

 

「『不気味さ』の正体とは」として、著者は述べます。
「たとえば親しい人が急に死んだとき、多くの人は、悲しいとかつらい、というより前に、まず、何とも言えない奇妙な不気味な感じをもつのではないでしょうか。私の場合は、だいたいそうでした。まだ子供だった頃、近所のよく知っているおばあさんが死に、葬式にいってお棺に納まった死体を見たときの印象は、何か名状しがたい不気味なものでした。怖いというのでもなく、悲しいというのでもなく、ただ不気味だったのです。そして、その感じは、大人になって、親しい人の遺体を見た時にも同じでした。死者とは生物体なのか単なる物質なのかよくわかりません。物質化した生物体というか、生命を失った生物体というのか、ともかく、その『意味』を確定するのが難しいのです。私の場合、お棺に入った遺体を見た時、たいてい、何とも表現のしようのない居心地の悪さを感じてしまいます。怖いでもなく寂しいでもなく、しいていうと不気味さということになるのですが、それは、必ずしも動かない死体のはなつ不気味さではない。むしろ昨日までは話をし、活動をしていた『生』というものを無意味化するという『死』そのもののもつ不気味さといったものでした」

 

そして、著者は「なぜ『死』を恐ろしく感じるか」として、こう述べるのでした。
「『観念としての死』は、われわれに『死とは何なのか』という問いを差し向けるのですが、それは決して出口へとわれわれを導くものではなく、答えのない、しかも窓もない暗室のような部屋へとわれわれを誘導してゆく。この密閉された部屋で、われわれは、苦しい呼吸のなかで、出口を探して、ひたすらもがくだけでしょう。そしてそれはまさしく恐怖にほかなりません。『死』という必然によって『生』が囲い込まれ、脅かされるという感覚は、確かに『死』こそは恐ろしい、という恐怖を与え続けるでしょう。こうしてわれわれは、それを『死の恐怖』などというのです。『死は恐ろしい』と考えてしまうのです。しかしそうではありません。『死が恐ろしい』のではなく、『死について考えること』が、われわれを恐怖に陥れるのです。より正確にいえば、『死について考えるにもかかわらず、まったく何の解答も得られないこと』が恐怖を与えるのです」

 

第四章「死後の世界と生命について」では、「死んだ後に何が起きるか」として、著者は以下のように述べています。
「私は、いくら『死ねば何もなくなる』といっても、ここで述べられている数多くの霊的現象をすべて錯覚だというほどの勇気はありません。少なくとも、地震津波で身内を突然失った多くの人々が、何か説明のつかない不思議な体験をしたと信じていることは事実であり、しかも、多くの場合、その霊的体験によって残された家族が多分に安らかな気持ちになれた、という事例を読めば、そのことに疑いをさしはさむ必要もありません。それを読んでいるこちらもつい静かな感動に誘われてゆきます。いくら『死ねば何もない』といっても、こうした感動まで否定することはできません。とするなら、やはり『わからないことはわからない』というほかないのです」

 

 

また、著者は「ソクラテスはこう教えている。『人間は肉体から抜け出て霊的(精神的)存在になればなるほど真理に近づく。だから死を恐れる理由は何もない』と。ショーペンハウエルはいう。『そもそも人間の意思と認識がなければ、この世界は存在しないのである。だから、世界の本質は空無である』と。そして仏陀はいう。『苦痛と病気と死の避けがたさを意識しながら生きゆくことはできない。だからわが身を生より脱却させ、死後に生命が二度とよみがえることのないように解脱すべきである』と。このどれもが、生の苦痛や無意味さを述べているのです」とも述べています。

 

プラトン全集〈11〉 クレイトポン 国家

プラトン全集〈11〉 クレイトポン 国家

 

 

さらに、著者は以下のように述べています。
「宇宙の素粒子から出発しようと、この世界の背後にある『空無』であろうと、あるいは、ソクラテスのいうような霊性の世界(エルの物語に述べられる冥府)にせよ、いわば『無限』(永遠)の世界である。これに対して、われわれの生きているこの人間世界はあくまで『有限』である。『有限』な人間世界の出来事の意味を『無限』から眺め、その結果、無意味だという結論を導いたそのやり方が間違っていた、というのです。人間の有限の世界の意味はあくまでその有限の現実社会のなかに手掛かりを求めるべきであった。それを絶対的で永遠の『無限』と混同していた、というのです。宇宙的な『無』であろうと、物質を構成する最小の素粒子であろうと、はたまた、永遠の霊魂であろうと、そもそも、この『無限なるもの』は理性で把握できるものではなく、理性を超えたもうひとつの知恵によってとらえるほかない。それは信仰の世界だというのです」

 

人生論 (新潮文庫)

人生論 (新潮文庫)

 

 

著者はロシアの文豪トルストイの『人生論』に言及し、「私とは何なのだろうか」として、こう述べます。
トルストイはきわめて優秀だった兄の死に大きな衝撃を受けました。では兄が死ねば、それで兄との関係はすべて終わったのか。そうではありません。兄の思い出が残る。それは、兄の顔形や声というより、むしろ『精神の形の思い出』だというのです。肉体的つまり物質的なものではなく、兄のもっていたある種の精神の力が、自分の精神にこれまでよりも強く働きかける。思い出とはそういうものです。思い出とは、声や顔や動きというおぼろげな物的な形象をとるとしても、本質的には精神に働きかけるものであり、精神に働きかけるものは精神でしかありません」

 

光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)

光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)

 

 

こういう作用を何といえばよいのか。トルストイはそれを「生命」と呼ぶと指摘し、「キリストとトルストイ」として、著者はこう述べます。
イエス・キリストの死は、彼を実際に見ていない、何の交流も関係もない数えきれない人々の生を変え、人生に影響を及ぼしてきたではないか。兄の死は、身近で起きたことだ。しかし、記憶や伝承や想像力がある限り、人は、ずっと昔に死せる者からも影響を受けることはできる。兄の死が、1000年前であっても、私は影響を受ける。それこそが『生命力』である。こうして、私の生の根本は、すべて、私以前に生き、とうの昔に死んだ人々の生命からなっている、ということになる」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「したがって、人はまた誰でも、自分の死後も他人のうちに生き続けることができるのでしょう。その意味で、死んだ人々の生命はこの世限りのものではないのです。もしも、このように考えれば、これまた死は恐れるものではなくなります。私が死んでも『生命』の消滅するはずのないことを信じられるからです。いや、そう信じることができれば死は恐怖でも何でもなくなるでしょう」

 

そして、著者はトルストイの死生観について、「トルストイの死生観はなかなか興味深いものです。一方には生も死も『無』であるという意識があり、他方には、生も死も超えた永遠の『生命』がある、というふたつの極をもっているのです。これは実は、仏教や日本的な自然観に親しんだわれわれにも馴染み深く感じられることではないでしょうか」と述べるのでした。

 

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)

 

 

第五章「トルストイが到達した『死生観』」では、著者はトルストイが「生と死」を扱った小説である『イワン・イリイチの死』を取り上げ、「『すべて偽物で無意味』という虚無」として、以下のように述べています。
「『死』という途方もない『絶対』を前にすれば、この世という、それこそ相対世界におけるささやかな成功や失敗や名声や利益などは、塵、芥ほどの価値もない、ということになるでしょう。どんぐりの背比べで、勝ったの負けたの、得をしたの損をしたの、といってもたかが知れた話です。しかし、その勝ち負けや、得や損で一喜一憂し、家族にも苦労を与え、他人も傷つけて、自分も得意になったり落ち込んだりしていた。それは確かに偽りの人生だったということになる。とすれば、それ自体がたいへんに罪深いというほかありません」

 

葉隠 (講談社学術文庫)

葉隠 (講談社学術文庫)

 

 

また、「死ねばすべては『無』になる」として、著者は以下のように述べています。
「たとえば、ハイデガーは、常に死を想起し、死を前提として覚悟的に見据えることから生の実存的意味を見出す、という方向をとったわけです。あるいは、『葉隠』のような日本の武士道にも似たところがあり、これも常に死を意識し覚悟することで武士としての生の意義を確かなものとするわけです。ところが、では実際の「死」は、というと、とてもではありませんが、『葉隠』が想定しているような見事な、意思的な決断による生の遮断どころではありません。実は『葉隠』も同じ問題を抱えてはいたのですが。それは、もはや武士のように戦場で名を残して戦士として死んだり、主君に殉じて切腹するという時代ではなかったということです」

 

第六章「仏教の輪廻に見る地獄」では、「『地獄』とは何か」として、著者は「死は生にとって二重の意味をもってきます」と指摘し、「第一に、生が、大きな苦しみだとすれば、死は、生という苦痛からの解放であり唯一の希望ですらある。そして第二に、それにもかかわらず、死後の世界がまったく不明であり、想像を絶するものであるとすれば、死は恐怖である。つまり、死は、救済と恐怖のふたつの面をもってくるでしょう」と述べています。

 

日本的霊性 完全版 (角川ソフィア文庫)

日本的霊性 完全版 (角川ソフィア文庫)

 

 

 第七章「『あの世』を信じるということ」では、「『あの世』を信じられない高齢者」として、著者は述べます。
「死が身近にリアリティをもってくると、むしろ曖昧なものや未知なものに死を委ねようという気がしなくなるのではないでしょうか。しかし平安末期や鎌倉となればだいぶ違います。信仰ということの切迫性が違うのです。同じ『あの世を信じる』や『輪廻転生を信じる』といっても、彼らの方が、信仰のもつ切迫感ははるかに強かったでしょう。死を意味づけるものが他に何もないのです。救済を求める心理ははるかに強かったでしょう。だから、具体的な浄土や極楽というもののイメージを必要としたのでしょう。そこでこそ、仏教学者の鈴木大拙のいうような『日本的霊性』がくっきりと立ち上がった、ということもできるのです」

 

また、「『植物的死生観』と『生死連続観』」として、著者はいkのように述べています。
「農耕を基盤とした生死連続的観念は、古神道的な儀式のなかにいくらでも見て取ることができるでしょう。たとえば、神社や鎮守の森で、田の神に豊作祈願をして歌や踊りを奉納する儀式は、一種の鎮魂儀式といってよい。そこにまた、豊穣をもたらす力をもった『迦微(カミ)』の観念が生み出され、これらの農耕儀式はまた、カミの供応という意味ももってくるでしょう。それが天皇を軸にした国家共同体的な儀式にまでなったのが『大嘗祭』です。大嘗祭のような本格的なものではなく、こぢんまりとした農耕儀礼は今日でも地方の祭りのなかにいくらでも残っているでしょう」

 

 

著者は、哲学者の磯部忠正氏が著書『「無常」の構造――幽の世界』や『日本人の信仰心』(ともに講談社現代新書)において、日本における「自然の根源的な生命のリズム」を繰り返し強調していることを紹介し、「鎮魂呪術と日本人」として、こう述べます。
「磯部氏によると、豊作祈願の踊りとは、衰弱しつつある生命に活力を取り戻し、また死んだ生命を蘇生する儀式なのであり、それは別の言い方をすれば「霊(たま)ふり=魂(たま)ふり」の儀式ということになる。『霊ふり』とは、霊魂の宿った身体を揺さぶり、振ることによって霊魂に再び活力を与える。それはまさに鎮魂呪術にほかなりません。鎮魂とは、身体から遊離したり、遊離しそうな魂を招き寄せて、再び身体に定着させることなのです。しかも、昔は、農耕だけではなく、人が死んだときの葬送においても、『霊ふり』の儀式が行われた。『鎮魂』とは、もともとは、死んで活力を失い、肉体から遊離しかかっている魂を肉体に呼び戻し、再び生命力を与えるための歌舞儀式だったのです」

 

日本人の信仰心 (講談社現代新書 (712))
 

 

また著者は、磯部氏の言説を引用しながら、以下のようにも述べています。
「『日本の祭りは、本質的に鎮魂呪術であり、その中心になったのが歌舞や音楽をともなった魂振りだった』(『日本人の信仰心』)ということにもなるのです。それは農耕儀礼から葬礼の儀式にいたるまで基本的には同じなのです。なぜなら、それは農耕における植物も人も包摂した生命の再生と刷新であり、そのための死霊の招迎と鎮送だったからです。民俗学者折口信夫が述べたように、こうした儀式をもともと『遊び』といったのであり、その役割をつかさどる職業的儀礼者を『遊部(あそびべ)』と言ったのです。すると、植物と同様に、人間もその身体は滅んで消えてなくなっても、生命は引き継がれている。死んでもまた再生する。この生命とはいいかえれば『霊魂』といってよい。とすれば、『霊ふり』の儀式や鎮魂の儀礼が、やがて『祖霊の招致』になっても不思議はありません」
このあたりは拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の内容にも通じます。同書では、「遊部」についても詳しく述べました。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

 

 

さらに著者は、「生命力の再生とは霊魂の清め」として、以下のように述べています。
「死から再生へと向けるには、まずは、この穢れを取り払う、つまり、浄化するという清めの儀式が必要になった。肉体から魂を切り離し、魂の浄化、霊魂の浄化、ということです。先の『霊ふり』も、魂の浄化と見てよい。生命力の再生とは、霊魂の清めにほかなりません。かくて、日本の、とりわけ神道系の宗教では、清浄を中心的な価値におき、『清め』ということが儀礼の中心に置かれる。穢れを取り払うことこそがその重要な役割となるのです」

 

そして、第十章「『死』と日本人――生死を超えた『無』の世界」では、「日本人にとっての『死』」として、著者は以下のように述べるのでした。
「生も死も自然のなかにある。そこにおのずと生命が循環する、ということです。この自然の働きに任せるのです。とすれば、われわれは特に霊魂はあるのかないのか、あるいは来世はあるのかどうか、などということに悩まされる必要はない。確かに、生も死もどちらでもよい、などと達観することはできません。しかし、この達観に接近しようとしたのが日本的な死生観のひとつの大きな特徴だったのであり、それは現代のわれわれにも決して無縁ではないでしょう」

 

オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突き付けることによってオウムは多くの信者を獲得したが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、言挙げする必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということです。問われるべきは「死」でなく「葬」なのだと思います。そんなわたしですが、本書は非常に興味深く読みました。「死」だけではなく「葬」の意味まで考えさせてくれ、さらには「人間とは何か」という問題を考えさせてくれる名著だと思いました。

 

死と生 (新潮新書)

死と生 (新潮新書)

 

 

2019年8月11日 一条真也

『「死」とは何か』

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

 

一条真也です。
死者を想う季節の中で、『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著、柴田裕之訳(文響社)を読みました。「イェール大学で23年連続の人気講義」というサブタイトルがついていますが、“DEATH(原書)”のChapter1、8~16の完訳と、Chapter2~7の原著者自身の要約原稿の翻訳文による、日本縮約版です。

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本書のカバー表紙

 

著者は、イエール大学哲学教授。ウェスリアン大学で博士号を取得したのち、ピッツバーグ大学、イリノイ大学を経て、1995年からイエール大学で教鞭を執っています。2016年、アメリカ芸術科学アカデミーに選出。道徳・哲学・倫理の専門家として知られ、「死」をテーマにしたイエール大学での授業は、17年連続で「最高の講義」に選ばれています。また、本授業は2007年にオンラインで無料提供され、大好評を博しました。本書は、その講座をまとめたものであり、すでに中国、韓国をはじめ世界各国で翻訳出版され、ベストセラーとなっています。本書のカバー表紙には「人は必ず死ぬ。だからこそ、どう生きるべきか」と金の箔押しで書かれています。

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本書のカバー裏表紙

 

カバー裏表紙には「余命宣告をされた学生が、“命をかけて”受けたいと願った伝説の講義、ついに日本上陸――!」として、以下のように書かれています。

○死とは何か
○人は、死ぬとどうなるのか
○死への「正しい接し方」――本当に、恐れたり、絶望したりすべきものなのか
○なぜ歳をとるごとに、
 「死への恐怖」は高まっていく?
○残りの寿命――あなたは知りたい? 知りたくない?
○「不死」が人を幸せにしない理由
○「死ぬときはみな、独り」というのは、本当か
○自殺はいつ、どんな状況なら許されるのか
○死が教える「人生の価値」の高め方
【特別書き下ろし】
「日本の読者のみなさんへ」付き!

 

カバー前そでには、こう書かれています。
「どのような生き方をするべきか?
“誰もがやがて死ぬ”ことがわかっている以上、この問いについては慎重に考えなければなりません。どんな目的を設定するか、どのようにその目的の達成を目指すか、念には念を入れて決めることです。もし、死が本当に“一巻の終わり”ならば、私たちは目を大きく見開いて、その事実に直面すべきでしょう。――自分が何者で、めいめいが与えられた“わずかな時間”をどう使っているかを意識しながら。
イェール大学教授 シェリー・ケーガン」

 

アマゾンの「出版社からのコメント」は以下の通り。
「『私自身が、日本語版の制作チームに加わっているような気分です』このお言葉は、 日本語版制作にあたって、『日本の読者のみなさんへ』を書き下ろしていただき、さらに、編集上の様々な疑問点にお答えいただいた際の、シェリー先生のお言葉です。イェール大学で20年以上、『死』をテーマにした講義を続けていらっしゃる、シェリー先生。そのお姿はまるで、 悟りを開いた高僧のよう・・・・・・。『死』という難しいテーマを扱いながら、理性的に、そして明快に導かれる、まさに、イェール大学の看板授業! ぜひみなさんも、イェール大学に入学した気分で、世界最高峰の『死』の授業をお楽しみください」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

第1講 「死」について考える
 日本の読者のみなさんへ

第2講 死の本質

第3講 当事者意識と孤独感
    ――死を巡る2つの主張
 主張①「誰もがみな、“自分が死ぬ”ことを
    本気で信じていない」
 主張②「死ぬときは、けっきょく独り」 

第4講 死はなぜ悪いのか
 死はどうして、どんなふうに悪いのか
 死はいつの時点で、私にとって悪いのか
 死後に関するルクレティウスの主張とその反論

第5講 不死――可能だとしたら、
    あなたは「不死」を手に入れたいか?

第6講 死が教える「人生の価値」の測り方

第7講 私たちが死ぬまでに考えておくべき、
    「死」にまつわる6つの問題
 1 「死は絶対に避けられない」という事実を巡る考察
 2 なぜ「寿命」は、平等に与えられないのか
 3 「自分に残された時間」を誰も知りえない問題
 4 人生の「形」が幸福度に与える影響
 5 突発的に起こりうる死との向き合い方
 6 生と死の組み合わせによる相互作用 

第8講 死に直面しながら生きる
 死に対する3つの立場
 死と、それに対する「恐れ」の考察
 いずれ死ぬ私たち――人生で何をするばきか
 死を免れない私たちに採れる、最高の人生戦略 

第9講 自殺 
 自殺の合理性に対する第一の疑問
 ――そんな状況ならば、自殺は合理的な決断になりうるか
 自殺の合理性に対する第二の疑問
  ――自殺の決断は明晰で冷静になされうるか
 自殺の道徳性に対する疑問
 結果主義と自殺と道徳性

死についての最終講義「これからを生きる君たちへ」
「訳者あとがき」

 

第1講「『死』について考える」では、著者は以下のように述べています。
「私がこれから語るつもりなのは、主に、『死の本質』あるいは『死という現象にまつわる心理学的な疑問や社会学的な疑問』だ。一般に、死に関する本ではおそらく、死にゆくプロセスや自分が死ぬという事実を甘んじて受け容れるに至るプロセスが詳しく語られるだろう。だが、本書ではそういう話はしない。また、死別したり死者を悼んだりするプロセスについてもまったく語らない。そして、葬儀業界について論じることもないし、私たちが死にゆく人に対して取りがちな態度の問題点や、死にゆく人を他者の目に触れさせぬようにしようとする傾向を話題にすることもない」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「本書では、死の本質について考え始めたときに湧き起こってくる哲学的な疑問の数々を検討することになる。たとえば、「私たちは死んだらどうなるのか」といった疑問だ。とはいえ、じつはその疑問に立ち向かうためには、真っ先に次のような疑問について考える必要がある。
私たちは何者なのか?
人間とはどのような存在なのか?
そしてとくに重要なのが、私たちには魂があるのか、という疑問だ。冒頭で早々に説明しておいたほうが良いだろうが、本書では『魂』という言葉を哲学的な意味合いで使い、理詰めで考えていく。私が『魂』と言うとき、それは身体とは別個の、非物質的なものを指す。だから今後、次のような疑問を投げかけることになる」

 

「『生と死の本質』とは?」として、〈死についての一般的な見解〉が紹介されます。
「死は究極の謎だ。だが、魂の存在を信じていようといまいと、みなさんは少なくとも魂があってほしいと願っているだろう。魂があれば、死後も存在し続ける可能性がおおいに出てくるからだ。なにしろ、死は悪いものであるばかりか、身の毛がよだつようなものでもあるため、私たちは永遠に生き続けることを望んでいるのだ。不死は素晴らしいものだろう。もし魂が存在せず、死が本当の終わりを意味するなら、それは圧倒的に悪いものであり、死の見込みには恐れと絶望を抱いて向き合うというのが、わかりきった反応、適切な反応、普遍的な反応になる。最後に、死は身の毛がよだつほど恐ろしく、生はあまりに素晴らしいとすれば、自分の命を投げ捨てるのが理にかなうはずがない。このように、自殺は一方では常に不合理であり、他方では常に不道徳でもある」

 

また、〈死についてのシェリー先生の見解〉が以下のように紹介されています。
「私は魂が存在しないことをみなさんに納得してもらおうとする。不死は良いものではないことを納得してもらおうと試みる。そして、死を恐れるのは、じつは死に対する適切な反応ではないことや、死は特別謎めいてはいないこと、自殺は特定の状況下では合理的にも道徳的にも正当化しうるかもしれないことも。繰り返すが、私は一般に思われていることは最初から最後までほぼ完全に間違っていると考えるので、それをみなさんに納得してもらおうとする。少なくとも、それが私の目標であり、狙いだ」

 

「日本の読者のみなさんへ」では、「心(魂)と身体は切り離せるか」として、著者は以下のように述べます。
「物理主義者は、人格を持った人間であるとは、これらのさまざまな事柄(恋に落ちる、詩を書く、将来の計画を立てる、微積分の問題を解く、など)ができる身体を持っているだけのことにすぎないと考えている。物理主義者にとって、人間とはただの身体、手の込んだ有形物にすぎない。もちろん、私たちはどこにでもあるような月並みな有形物ではない。人間とは驚くべき物体であり、人格を持った人間は他の物体にはできない、ありとあらゆる種類の機能を果たすことができるのだ(その機能を本書では「P機能(人格機能)」と呼ぶ)。だがそれにもかかわらず、私たちは有形物にすぎない。事実上、ただの機械なのだ」

 

さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「私は、物理主義の立場が最も妥当に思えると結論する。実際、人はP機能を果たせるただの身体にすぎないことを私たちは受け容れるべきだ。人は自分の身体の死後も存在し続けるという、その考えはまったくもってお門違い、あるいはありえないということを、この結論が意味していると思うのは自然だろう。なにしろ、もし人が特別な形で機能している特別な種類の身体にすぎないのなら、身体が死んだときにその人も消滅して当然ではないか?」

 

第2講「死の本質」では、「私が死んだのはいったいいつ?」として、著者は以下のように述べています。
「きちんと機能している人間の身体について考えてほしい――たとえば、みなさんの。みなさんの身体は、現在じつにさまざまな機能を実行している。単に食物を消化したり、身体をあちこちに移動させたり、心臓を拍動させたり、肺を広げたり縮めたりといった機能もある。それらを『身体機能』、略して『B機能』と呼ぼう。もちろん、それ以外にももっと高次のさまざまな認知機能があり、それを私は『P機能』と呼んできた。さて、おおざっぱに言って、身体の機能が停止したときに人間は死ぬ。だが、機能と言っても、どの機能のことだろう? B機能か、P機能か、はたまたその両方か?」

 

また、「死とは何か――シェリー先生の哲学的回答」として、こう書かれています。
「健全な人間の身体は、さまざまな形で機能できる。低次の適切なB機能が実行されている(あるいは、実行されうる、と言ったほうが良いかもしれない)限り、身体は生きている。もちろん、万事順調なら、身体はもっと高次の認知機能であるP機能も果たせる。そして、それはつまり人格を持つ生きた人間であるということだ。ところが悲しいかな、いずれ身体は壊れ始める。P機能を実行する能力を失う。その時点で、人格を持つ生きた人間ではなくなる。最後に(それはその時点かもしれないし、さらに後かもしれない)、身体はさらに壊れていき、B機能を行なう能力も失う。そして、それが身体の死だ。当然ながら、科学の観点から解明するべき詳細はたくさんあるかもしれない。だが、哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。死とは、ただそれだけのことなのだ」

 

第3講「当事者意識と孤独感――死を巡る2つの主張」では、主張①「誰もがみな、“自分が死ぬ”ことを本気で信じてはいない」の根拠①「『死んでいる自分』を想像できないから」として、著者は以下のように述べています。
「私は病気になったところを間違いなく思い描ける。死の床に就き、癌で死にかけており、どんどん衰弱していく。自分が死ぬ瞬間さえ思い描けそうだ。家族や友人にはもう別れを告げた。すべてが薄暗くなり、ぼんやりしてくる。意識を集中するのがしだいに難しくなる。そして、それから――その後、『それ以上』何もなくなる。私は死んだ。というわけで、私には自分が死ぬところが思い描けるらしい。だが、これは的外れだ。信じることに関する説は、病気になったところや死ぬところを思い描けないとは言っていないからだ。自分が死んでいるところを思い描けないというのが肝心の主張のはずだ。まあ、やってみてほしい。死んでいるところを思い描こうとしてもらいたい」

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入棺体験で、死んだ自分を思い描く

 

わたしには、自分の「死んでいるところを思い描く」のは簡単です。というのも、わが社のセレモニーホール(コミュニティセンター)で実施している施設見学会で人気を呼んでいる「入棺体験」をすればいいからです。お客様が来る前に、何度か自分でも試しに棺の中に入ってみました。棺に入って目を閉じると不思議な感じで、本当に自分が死んだような気がしました。わたしは「これまでの人生に悔いはないか」と振り返り、自分の人生をフラッシュバックしてみました。すると、いろんな想いが次から次へと思い浮かんできました。亡くなった方の気持ちが想像できたように思います。入棺体験は、自分を見つめ直す行為になると実感しました。わたしは「わたしが人生を卒業する日はいつだろう。いずれにせよ、今日は残りの人生の第1日目だな」と思いました。わたしは、入棺体験で「死」と「再生」を疑似体験することができました。

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生まれ変わった気になりました 

 

第7講「私たちが死ぬまでに考えておくべき、『死』にまつわる6つの問題」の4「人生の『形』が幸福度に与える影響」では、「『あなたの余命はあと1年です』――そのとき、あなたは何をする?」として、著者は以下のように述べます。
「もし、あと1年か2年しか残っていなかったら、みなさんはその時間で何をするだろう? 学校に行くか? 旅行に出るか? 友人たちともっと時間を過ごすか? この疑問に直面しなければならなかった人の、並外れて感動的な例が、私がイェール大学で教えている死についての講座で見られた。数年前、その講座には死を目前にした学生がいた。本人も自分が死ぬことを知っていた。1年生のときに癌という診断を受けていたのだ。医師は、回復の見込みがないに等しいことを告げ、しかも、あと2年しか生きられないと伝えた。そうと知った学生は、自問せざるをえなかった。
『さて、残された2年で何をするべきか?』
彼は、自分がしたいのはイェール大学の学位を取ることであると見極めた。そして、死ぬまでに卒業するという目標を立てた。その一環として4年生の後期に、死についての私の講座を受けたのだ(それを知って私は畏れ多い気がした。彼のような立場にある人が死についての講座を選び、毎週毎週、私が教壇に立って、魂は存在しない、死後の生は存在しない、私たち全員がいずれ死ぬのは良いことだ・・・・・・と語るのを聴くことにしたのだから)」

 

続けて、著者は以下のように書いています。
「というわけで、彼は私の講座に出席していた――春休みまでは。春休みを迎えたころには具合がかなり悪くなり、医師に学業の継続は無理だと言われていた。彼は自宅に帰らなければならなかった。医師は事実上、家に帰って死ぬ時が来たと告げたわけだ。彼は自宅に戻り、その後、病状は急速に悪化した。その学期に彼が取っていたさまざまな講義の教員は全員、管理部門からの問い合わせに直面した。学期のその時点までの実績に基づいて、学期全体としてどのような成績を彼に与えるつもりがあるか? もちろん、どの講座の単位が取れて、どの単位が取れないか次第で、彼が卒業できるかどうかが決まるからだ。けっきょく、彼は十分な成績を収めていたことがわかった。そこでイェール大学は、見上げたものだが、管理部門の職員を1人、死の床に派遣し、彼が死ぬ前に学位を授与した」

 

死についての最終講義「これからを生きる君たちへ」では、著者はこう述べています。
「魂など存在しない。私たちは機械にすぎない。もちろん、ただのありきたりの機械ではない。私たちは驚くべき機械だ。愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、計画を立ててそれを他者と共有できる機械だ。私たちは人格を持った人間だ。だが、それでも機械にすぎない。そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。つまるところ死は、電灯やコンピューターが壊れうるとか、どの機械もいつかは動かなくなるといったことと比べて、特別に不思議なわけではない」

 

そして最後に、著者はこう述べるのでした。
「不死について論じたときに主張したように、人生が価値あるものをもう提供できなくなるまで生きる力が私たちにあったほうが、間違いなく望ましいだろう。少しでも長い人生を送ることが本人にとって全体として良い限り、死は悪い。そして少なくとも多くの人にとって、死は早く訪れ過ぎる。だがそうは言っても、不死が良いということには絶対にならない。実際には、不死は災いであり、恵みではない。そんなわけで、死について考えるとき、死を深遠な謎と見なし、恐ろしくて面と向かえず、圧倒的でぞっとするものと捉えるのは適切ではない。適切ではないどころか、死に対する比類なく合理的な応答にはほど遠い。思うに、死を恐れるのは不適切な対応だ」

 

「訳者あとがき」で、訳者の柴田裕之氏は以下のように書いています。
「道徳・哲学・倫理の専門家として知られる著者が、着任以来の20数年間、毎年のように「死」をテーマにして行なっているこの講義は、イェール大学でも常に指折りの人気コースとなっている。学生時代にこんな講義があったら、ぜひ受けてみたかった。今さら昔には戻れないが、幸い今では、インターネット上でも見られるし、内容をまとめたものが、こうして書籍でも読めるのだからありがたい。本書は、イェール大学出版局が同大学のさまざまな分野の教員による卓越した講義を紹介するために刊行しているシリーズの1冊だ」

 

また、柴田氏は以下のようにも述べています。
「社会全体に目を向けても、死について考えるべき機が熟してきている。1つには、テクノロジーや科学や医学の進歩で、不死というものがSFではなく現実の可能性として語られ始めている。まあ、今の世代が全員、不死に手が届くとはとうてい思えないから、それは脇に置くとしても、高齢化はすでに大きな社会問題になっている。病気になる可能性や余命を遺伝子検査などで統計的に予測できる時代に入りつつある。臓器移植、植物状態脳死、延命措置、尊厳死安楽死、自殺、リビングウィル、老前整理、終活、遺言など、死に関連した話題には事欠かない。社会が成熟していくにつれて、人はこうした事柄について、これまでよりもさばさばと、あるいはいやおうなく語り、行動をとるという気運が高まるのだろう。人生をどう生き、どう終えるかを考えるのが若いころから当たり前にさえなるかもしれない」

 

日本一楽しいひらがなドリル うんこひらがなドリル (うんこドリルシリーズ)

日本一楽しいひらがなドリル うんこひらがなドリル (うんこドリルシリーズ)

 

 

 ということで、「死」をテーマにした本としては異例のベストセラーとなった本書を読み終えましたが、正直言って、まったく面白くありませんでした。コンビニの書籍コーナーにも置かれていた本ですが、どうしてそれほど売れたのか、理解に苦しみます。大きな原因としては、版元である文響社マーケティング力&プロデュース力があるでしょう。同社は『うんこドリル』を大ベストセラーにしていますが、「うんこ」の次は「死」だということでしょうか。

 

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 

 

著者のシェリー・ケーガンは本人も明言しているように唯物論者です。ゆえに「魂」の存在を否定しています。彼は哲学者だそうですが、もともと「哲学の祖」とされる古代ギリシャソクラテスは、「哲学は死の予行演習」という言葉を残しています。彼は、紀元前469年頃アテナイに生まれ、スパルタと戦ったペロポネソス戦争に従軍した他は、生涯のほとんどをアテナイで暮らしました。ソクラテスの裁判の模様、獄中および死去の場面は、弟子プラトンが書いた「対話篇」と呼ばれる哲学的戯曲の諸作品、すなわち『エウチュプロン』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』に詳しく描かれています。それらに描かれた、自らの死に直面したソクラテスの平静で晴朗な態度は、生死を超越した哲学者のあり方 を示すものとされました。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

 

 

拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の「哲学論」にも書きましたが、ソクラテスほど、わたしたちに生と死について考えさせる哲学者はいません。彼はつねに人間の幸福というものを追求していました。そして、人間のための哲学をつくろうとしたソクラテスは、「人間の生を幸福にするためには何をすべきか」と自問して、次のように考えたのです。ただ生きることは人間の生ではない。人間の生は人間らしい生でなければならず、それには「善く生きる」ことが大切である。これを言い換えれば、「正しく生き る」ということなのである。そして、そのためには「いかなる仕方でも、不正を犯してはならない」、さらには「たとえ不正を加えられても、不正の仕返しをしては ならない」ということが大切になるのです。

 

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

 

 

ソクラテスは、倫理性こそが人間を人間であらしめていると考えたのでした。さらに「人間が幸福になるためには、哲学をすればよい」とソクラテスは言いました。哲学は幸福への道だというのです。そして、その幸福への道の哲学とは何かというと、「死の予行演習だ」と答えました。それは限られた人生の中で、本当に自分の生が充実するものはどこにあるかを探してみなければならないということ。さらには、肉体という牢獄につながれている魂 が解放されて自由になることが「死」と「哲学」に共通した営みであるということ。 この死の思想こそソクラテス哲学の神髄であり、弟子のプラトンにも受け継がれた ものでした。

 

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

 

 

プラトン哲学では、魂は不死で あり永遠でした。魂は聖火の火花であって、始めもなく終わりもありません。『パイドロス』によれば、魂はかつて至高のイデアの世界にいました。その後、イデアの高所か ら落とされ、人間の肉体に宿り、囚人として追放の身となりました。それでも不滅の性格は失ってはいませんでした。そして、「もし、地上にとどまっている間に、この肉体をコントロールして感覚的な外形や偽りの幸福から引き離すことができれば、死んでから元のイデアの世界に戻る。しかし堕落した魂は、人間なり動物なりの肉体の中に再び入って輪廻を繰り返し、1万年の間、地上にとどまる」と考えました。プラトンにおいては、 魂は純粋に精神的で、独立しており、遍歴して肉体に落ち込む実在なのです。

 

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版

 

 

さて、本書は前半の形而上学パートが丸ごとカットされています。アマゾンのレビューを読むと、ほとんどの方がこのことを「残念」と嘆かれていますが、わたしはそうは思いません。また本書がベストセラーになったので、完全翻訳版も出たようですが、わたしは読みたいとは思いません。「死とは何か」みたいな抽象的なことをグダグダ述べられても仕方ないからです。わたしは、絶対に遠慮したいですね。

 

そもそも、わたしは「死」をそれほど重大視していないのです。では、何を重大視しているかといえば、「葬」です。7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされますが、わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であり、発展基盤だと思っています。「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、埋葬という行為には人類の本質が隠されています。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できるでしょう。文明および文化の発展の根底には、「死者への想い」があるのです。


サンデー毎日」2015年12月20日号

 

オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突き付けることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝(つ)くことはできませんでした。人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、言挙げする必要なし。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということ。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです。唯物論者である本書の著者は葬儀というものにまったく価値を置いていないようですが、唯葬論者であるわたしは本書を読んでまったく共感できず、学ぶところもなかったことを、ここに告白しておきます。

 

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

 

 

2019年8月10日 一条真也

長崎への祈り

一条真也です。
8月9日は「長崎原爆の日」です。
今朝、サンレー本社の朝礼に参加しました。
そして、社員のみなさんに長崎原爆の話をしました。

f:id:shins2m:20190809093604j:plain今朝のサンレー本社朝礼のようす

f:id:shins2m:20190809084502j:plain朝礼で長崎原爆の話をしました

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犠牲者の御冥福を祈って黙祷しました

f:id:shins2m:20190809084857j:plain心からの祈りを捧げました

 

当初は小倉に原爆が投下される予定で、その場合は広島原爆以上の犠牲者が出たと推測されています。しかし、当日になって投下の場所は小倉から長崎に変更されたのでした。小倉がアウシュビッツと並ぶ人類愚行のシンボルにならずに済んだのは奇跡と言えるでしょう。その意味で、そのような奇跡的な土地に本社を構えるわが社のミッションとは、死者の存在を生者に決して忘れさせないお手伝いをすることだと、わたしは確信しています。最後は、社員全員による長崎原爆犠牲者への黙祷を捧げました。犠牲者の方々の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

f:id:shins2m:20190808165529j:plain「西日本」「毎日」「読売」「朝日」新聞8月9日朝刊広告

 

2019年8月9日 一条真也

長崎原爆の日

一条真也です。
8月9日は「長崎原爆の日」です。
詳しくはブログ「小倉に落ちるはずの原爆」をお読みいただきたいと思いますが、今日は、わたしにとって1年のうちでも最も重要な日なのです。

 

長崎原爆といえば、ブログ「母と暮せば」で紹介した映画を思い出します。名匠山田洋次監督が、原爆で亡くなった家族が亡霊となって舞い戻る姿を描いた人間ドラマでした。原爆で壊滅的な被害を受けた長崎を舞台に、この世とあの世の人間が織り成す不思議な物語を映し出した作品です。主人公の母親を名女優吉永小百合が演じました。2015年12月12日に公開されましたが、戦後70年という「死者を想う」年の締めくくりにふさわしい名作であると思いました。

 

 

この日にあわせて、わが社では毎年、「昭和20年8月9日 小倉に落ちるはずだった原爆。」というキャッチコピーで「西日本」「毎日」「読売」「朝日」の各紙に広告を掲載しています。ようやく北九州でも歴史上の事実が知れ渡ってきました。

f:id:shins2m:20190808165529j:plain「西日本」「毎日」「読売」「朝日」新聞8月9日朝刊広告

 

新聞広告には満月のイラストをバックに「鎮魂」と大きく書かれ、「昭和20年8月9日−−小倉に落ちるはずだった原爆。」と続きます。そして「平和への願いを込めて、長崎に祈りを」として、次のように書いています。
「それは74年前のこと。昭和20年8月9日、長崎に第2の原子爆弾が投下されました。広島に人類最初の爆弾が落とされた3日後のことです。長崎型原爆・ファットマンは8月6日にテニアン島で組み立てられました。そして、8月8日にアメリカ陸軍在グアム第20航空軍司令部野戦命令17号において、小倉を第1目標に、長崎を第2目標にして、8月9日に投下する指令がなされました。8月9日に、ソ連が日本に宣戦布告。この日の小倉上空は前日の八幡爆撃による煙やモヤがたち込めていたため投下を断念。第2目標であった長崎に、同日の午前11時2分、原爆が投下されました。小倉の軍需工場が爆弾投下の第1目標であったことを、皆さんはご存知でしたか。長崎ではこの原爆によって74000人もの尊い生命が奪われ75000人にも及ぶ人々が傷つき、現在でも多くの被爆者の方々が苦しんでいます。もし、この原爆が小倉に投下されていたら、あなたの家族や知りあいの方々が命を失い、あるいは大きな痛手を受けたことでしょう。もしかすると、この文章を読んでいるあなたは、この世に存在していなかったかもしれません。絶対に戦争の悲惨さを風化させないためにも、私共は原爆の犠牲になられた方々へのご冥福を祈るとともに、恒久平和への祈りを捧げていきたいと思います。
古来、世界各地で月はあの世に見立てられていました。夜空に浮ぶ月を見上げて手を合わせ、亡くなられた方々を想ってみてはいかがでしょうか。
私たちは、『人間の尊厳』を見つめながら、全国各地で真心を込めて、鎮魂と慰 霊のお手伝いをさせていただきたいと願っております。

株式会社サンレー代表取締役社長 佐久間庸和

 

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

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また、昨日発売されたばかりの『修活読本』(現代書林)のプレゼント告知も行いました。「終活」から「修活」へ。人生の後半戦をより豊かに暮らすための情報や知恵をまとめた一冊です。遺言書やエンディングノート、整理のコツにはじまり、葬儀や法事、お墓など気になる情報が満載です。この本を抽選で30名様に進呈します。ハガキでご応募ください。

<応募方法>

郵便ハガキに郵便番号・住所・氏名・電話番号・書籍名をご記入の上、下記宛へお送りください。尚、当選は商品の発送をもって代えさせていただきます。

 〒802-0022
北九州市小倉北区上富野3-2-8
サンレー「鎮魂」書籍プレゼント 係
2019年8月21日(水)消印有効

 

さらには、10月11日(金)18時からサンレーグランドホテルで行われる「月への送魂」のセレモニーの案内をさせていただきました。ぜひ、今年も多くの方々にご参集いただき、月を見上げてなつかしい故人を偲んでほしいと思います。死者を忘れて、生者の幸福など絶対にありません。最後に、長崎の原爆で亡くなられた方々の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌

 

2019年8月9日 一条真也