『「死」とは何か』

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義

 

一条真也です。
死者を想う季節の中で、『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著、柴田裕之訳(文響社)を読みました。「イェール大学で23年連続の人気講義」というサブタイトルがついていますが、“DEATH(原書)”のChapter1、8~16の完訳と、Chapter2~7の原著者自身の要約原稿の翻訳文による、日本縮約版です。

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本書のカバー表紙

 

著者は、イエール大学哲学教授。ウェスリアン大学で博士号を取得したのち、ピッツバーグ大学、イリノイ大学を経て、1995年からイエール大学で教鞭を執っています。2016年、アメリカ芸術科学アカデミーに選出。道徳・哲学・倫理の専門家として知られ、「死」をテーマにしたイエール大学での授業は、17年連続で「最高の講義」に選ばれています。また、本授業は2007年にオンラインで無料提供され、大好評を博しました。本書は、その講座をまとめたものであり、すでに中国、韓国をはじめ世界各国で翻訳出版され、ベストセラーとなっています。本書のカバー表紙には「人は必ず死ぬ。だからこそ、どう生きるべきか」と金の箔押しで書かれています。

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本書のカバー裏表紙

 

カバー裏表紙には「余命宣告をされた学生が、“命をかけて”受けたいと願った伝説の講義、ついに日本上陸――!」として、以下のように書かれています。

○死とは何か
○人は、死ぬとどうなるのか
○死への「正しい接し方」――本当に、恐れたり、絶望したりすべきものなのか
○なぜ歳をとるごとに、
 「死への恐怖」は高まっていく?
○残りの寿命――あなたは知りたい? 知りたくない?
○「不死」が人を幸せにしない理由
○「死ぬときはみな、独り」というのは、本当か
○自殺はいつ、どんな状況なら許されるのか
○死が教える「人生の価値」の高め方
【特別書き下ろし】
「日本の読者のみなさんへ」付き!

 

カバー前そでには、こう書かれています。
「どのような生き方をするべきか?
“誰もがやがて死ぬ”ことがわかっている以上、この問いについては慎重に考えなければなりません。どんな目的を設定するか、どのようにその目的の達成を目指すか、念には念を入れて決めることです。もし、死が本当に“一巻の終わり”ならば、私たちは目を大きく見開いて、その事実に直面すべきでしょう。――自分が何者で、めいめいが与えられた“わずかな時間”をどう使っているかを意識しながら。
イェール大学教授 シェリー・ケーガン」

 

アマゾンの「出版社からのコメント」は以下の通り。
「『私自身が、日本語版の制作チームに加わっているような気分です』このお言葉は、 日本語版制作にあたって、『日本の読者のみなさんへ』を書き下ろしていただき、さらに、編集上の様々な疑問点にお答えいただいた際の、シェリー先生のお言葉です。イェール大学で20年以上、『死』をテーマにした講義を続けていらっしゃる、シェリー先生。そのお姿はまるで、 悟りを開いた高僧のよう・・・・・・。『死』という難しいテーマを扱いながら、理性的に、そして明快に導かれる、まさに、イェール大学の看板授業! ぜひみなさんも、イェール大学に入学した気分で、世界最高峰の『死』の授業をお楽しみください」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

第1講 「死」について考える
 日本の読者のみなさんへ

第2講 死の本質

第3講 当事者意識と孤独感
    ――死を巡る2つの主張
 主張①「誰もがみな、“自分が死ぬ”ことを
    本気で信じていない」
 主張②「死ぬときは、けっきょく独り」 

第4講 死はなぜ悪いのか
 死はどうして、どんなふうに悪いのか
 死はいつの時点で、私にとって悪いのか
 死後に関するルクレティウスの主張とその反論

第5講 不死――可能だとしたら、
    あなたは「不死」を手に入れたいか?

第6講 死が教える「人生の価値」の測り方

第7講 私たちが死ぬまでに考えておくべき、
    「死」にまつわる6つの問題
 1 「死は絶対に避けられない」という事実を巡る考察
 2 なぜ「寿命」は、平等に与えられないのか
 3 「自分に残された時間」を誰も知りえない問題
 4 人生の「形」が幸福度に与える影響
 5 突発的に起こりうる死との向き合い方
 6 生と死の組み合わせによる相互作用 

第8講 死に直面しながら生きる
 死に対する3つの立場
 死と、それに対する「恐れ」の考察
 いずれ死ぬ私たち――人生で何をするばきか
 死を免れない私たちに採れる、最高の人生戦略 

第9講 自殺 
 自殺の合理性に対する第一の疑問
 ――そんな状況ならば、自殺は合理的な決断になりうるか
 自殺の合理性に対する第二の疑問
  ――自殺の決断は明晰で冷静になされうるか
 自殺の道徳性に対する疑問
 結果主義と自殺と道徳性

死についての最終講義「これからを生きる君たちへ」
「訳者あとがき」

 

第1講「『死』について考える」では、著者は以下のように述べています。
「私がこれから語るつもりなのは、主に、『死の本質』あるいは『死という現象にまつわる心理学的な疑問や社会学的な疑問』だ。一般に、死に関する本ではおそらく、死にゆくプロセスや自分が死ぬという事実を甘んじて受け容れるに至るプロセスが詳しく語られるだろう。だが、本書ではそういう話はしない。また、死別したり死者を悼んだりするプロセスについてもまったく語らない。そして、葬儀業界について論じることもないし、私たちが死にゆく人に対して取りがちな態度の問題点や、死にゆく人を他者の目に触れさせぬようにしようとする傾向を話題にすることもない」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「本書では、死の本質について考え始めたときに湧き起こってくる哲学的な疑問の数々を検討することになる。たとえば、「私たちは死んだらどうなるのか」といった疑問だ。とはいえ、じつはその疑問に立ち向かうためには、真っ先に次のような疑問について考える必要がある。
私たちは何者なのか?
人間とはどのような存在なのか?
そしてとくに重要なのが、私たちには魂があるのか、という疑問だ。冒頭で早々に説明しておいたほうが良いだろうが、本書では『魂』という言葉を哲学的な意味合いで使い、理詰めで考えていく。私が『魂』と言うとき、それは身体とは別個の、非物質的なものを指す。だから今後、次のような疑問を投げかけることになる」

 

「『生と死の本質』とは?」として、〈死についての一般的な見解〉が紹介されます。
「死は究極の謎だ。だが、魂の存在を信じていようといまいと、みなさんは少なくとも魂があってほしいと願っているだろう。魂があれば、死後も存在し続ける可能性がおおいに出てくるからだ。なにしろ、死は悪いものであるばかりか、身の毛がよだつようなものでもあるため、私たちは永遠に生き続けることを望んでいるのだ。不死は素晴らしいものだろう。もし魂が存在せず、死が本当の終わりを意味するなら、それは圧倒的に悪いものであり、死の見込みには恐れと絶望を抱いて向き合うというのが、わかりきった反応、適切な反応、普遍的な反応になる。最後に、死は身の毛がよだつほど恐ろしく、生はあまりに素晴らしいとすれば、自分の命を投げ捨てるのが理にかなうはずがない。このように、自殺は一方では常に不合理であり、他方では常に不道徳でもある」

 

また、〈死についてのシェリー先生の見解〉が以下のように紹介されています。
「私は魂が存在しないことをみなさんに納得してもらおうとする。不死は良いものではないことを納得してもらおうと試みる。そして、死を恐れるのは、じつは死に対する適切な反応ではないことや、死は特別謎めいてはいないこと、自殺は特定の状況下では合理的にも道徳的にも正当化しうるかもしれないことも。繰り返すが、私は一般に思われていることは最初から最後までほぼ完全に間違っていると考えるので、それをみなさんに納得してもらおうとする。少なくとも、それが私の目標であり、狙いだ」

 

「日本の読者のみなさんへ」では、「心(魂)と身体は切り離せるか」として、著者は以下のように述べます。
「物理主義者は、人格を持った人間であるとは、これらのさまざまな事柄(恋に落ちる、詩を書く、将来の計画を立てる、微積分の問題を解く、など)ができる身体を持っているだけのことにすぎないと考えている。物理主義者にとって、人間とはただの身体、手の込んだ有形物にすぎない。もちろん、私たちはどこにでもあるような月並みな有形物ではない。人間とは驚くべき物体であり、人格を持った人間は他の物体にはできない、ありとあらゆる種類の機能を果たすことができるのだ(その機能を本書では「P機能(人格機能)」と呼ぶ)。だがそれにもかかわらず、私たちは有形物にすぎない。事実上、ただの機械なのだ」

 

さらに、著者は以下のように述べるのでした。
「私は、物理主義の立場が最も妥当に思えると結論する。実際、人はP機能を果たせるただの身体にすぎないことを私たちは受け容れるべきだ。人は自分の身体の死後も存在し続けるという、その考えはまったくもってお門違い、あるいはありえないということを、この結論が意味していると思うのは自然だろう。なにしろ、もし人が特別な形で機能している特別な種類の身体にすぎないのなら、身体が死んだときにその人も消滅して当然ではないか?」

 

第2講「死の本質」では、「私が死んだのはいったいいつ?」として、著者は以下のように述べています。
「きちんと機能している人間の身体について考えてほしい――たとえば、みなさんの。みなさんの身体は、現在じつにさまざまな機能を実行している。単に食物を消化したり、身体をあちこちに移動させたり、心臓を拍動させたり、肺を広げたり縮めたりといった機能もある。それらを『身体機能』、略して『B機能』と呼ぼう。もちろん、それ以外にももっと高次のさまざまな認知機能があり、それを私は『P機能』と呼んできた。さて、おおざっぱに言って、身体の機能が停止したときに人間は死ぬ。だが、機能と言っても、どの機能のことだろう? B機能か、P機能か、はたまたその両方か?」

 

また、「死とは何か――シェリー先生の哲学的回答」として、こう書かれています。
「健全な人間の身体は、さまざまな形で機能できる。低次の適切なB機能が実行されている(あるいは、実行されうる、と言ったほうが良いかもしれない)限り、身体は生きている。もちろん、万事順調なら、身体はもっと高次の認知機能であるP機能も果たせる。そして、それはつまり人格を持つ生きた人間であるということだ。ところが悲しいかな、いずれ身体は壊れ始める。P機能を実行する能力を失う。その時点で、人格を持つ生きた人間ではなくなる。最後に(それはその時点かもしれないし、さらに後かもしれない)、身体はさらに壊れていき、B機能を行なう能力も失う。そして、それが身体の死だ。当然ながら、科学の観点から解明するべき詳細はたくさんあるかもしれない。だが、哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。死とは、ただそれだけのことなのだ」

 

第3講「当事者意識と孤独感――死を巡る2つの主張」では、主張①「誰もがみな、“自分が死ぬ”ことを本気で信じてはいない」の根拠①「『死んでいる自分』を想像できないから」として、著者は以下のように述べています。
「私は病気になったところを間違いなく思い描ける。死の床に就き、癌で死にかけており、どんどん衰弱していく。自分が死ぬ瞬間さえ思い描けそうだ。家族や友人にはもう別れを告げた。すべてが薄暗くなり、ぼんやりしてくる。意識を集中するのがしだいに難しくなる。そして、それから――その後、『それ以上』何もなくなる。私は死んだ。というわけで、私には自分が死ぬところが思い描けるらしい。だが、これは的外れだ。信じることに関する説は、病気になったところや死ぬところを思い描けないとは言っていないからだ。自分が死んでいるところを思い描けないというのが肝心の主張のはずだ。まあ、やってみてほしい。死んでいるところを思い描こうとしてもらいたい」

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入棺体験で、死んだ自分を思い描く

 

わたしには、自分の「死んでいるところを思い描く」のは簡単です。というのも、わが社のセレモニーホール(コミュニティセンター)で実施している施設見学会で人気を呼んでいる「入棺体験」をすればいいからです。お客様が来る前に、何度か自分でも試しに棺の中に入ってみました。棺に入って目を閉じると不思議な感じで、本当に自分が死んだような気がしました。わたしは「これまでの人生に悔いはないか」と振り返り、自分の人生をフラッシュバックしてみました。すると、いろんな想いが次から次へと思い浮かんできました。亡くなった方の気持ちが想像できたように思います。入棺体験は、自分を見つめ直す行為になると実感しました。わたしは「わたしが人生を卒業する日はいつだろう。いずれにせよ、今日は残りの人生の第1日目だな」と思いました。わたしは、入棺体験で「死」と「再生」を疑似体験することができました。

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生まれ変わった気になりました 

 

第7講「私たちが死ぬまでに考えておくべき、『死』にまつわる6つの問題」の4「人生の『形』が幸福度に与える影響」では、「『あなたの余命はあと1年です』――そのとき、あなたは何をする?」として、著者は以下のように述べます。
「もし、あと1年か2年しか残っていなかったら、みなさんはその時間で何をするだろう? 学校に行くか? 旅行に出るか? 友人たちともっと時間を過ごすか? この疑問に直面しなければならなかった人の、並外れて感動的な例が、私がイェール大学で教えている死についての講座で見られた。数年前、その講座には死を目前にした学生がいた。本人も自分が死ぬことを知っていた。1年生のときに癌という診断を受けていたのだ。医師は、回復の見込みがないに等しいことを告げ、しかも、あと2年しか生きられないと伝えた。そうと知った学生は、自問せざるをえなかった。
『さて、残された2年で何をするべきか?』
彼は、自分がしたいのはイェール大学の学位を取ることであると見極めた。そして、死ぬまでに卒業するという目標を立てた。その一環として4年生の後期に、死についての私の講座を受けたのだ(それを知って私は畏れ多い気がした。彼のような立場にある人が死についての講座を選び、毎週毎週、私が教壇に立って、魂は存在しない、死後の生は存在しない、私たち全員がいずれ死ぬのは良いことだ・・・・・・と語るのを聴くことにしたのだから)」

 

続けて、著者は以下のように書いています。
「というわけで、彼は私の講座に出席していた――春休みまでは。春休みを迎えたころには具合がかなり悪くなり、医師に学業の継続は無理だと言われていた。彼は自宅に帰らなければならなかった。医師は事実上、家に帰って死ぬ時が来たと告げたわけだ。彼は自宅に戻り、その後、病状は急速に悪化した。その学期に彼が取っていたさまざまな講義の教員は全員、管理部門からの問い合わせに直面した。学期のその時点までの実績に基づいて、学期全体としてどのような成績を彼に与えるつもりがあるか? もちろん、どの講座の単位が取れて、どの単位が取れないか次第で、彼が卒業できるかどうかが決まるからだ。けっきょく、彼は十分な成績を収めていたことがわかった。そこでイェール大学は、見上げたものだが、管理部門の職員を1人、死の床に派遣し、彼が死ぬ前に学位を授与した」

 

死についての最終講義「これからを生きる君たちへ」では、著者はこう述べています。
「魂など存在しない。私たちは機械にすぎない。もちろん、ただのありきたりの機械ではない。私たちは驚くべき機械だ。愛したり、夢を抱いたり、創造したりする能力があり、計画を立ててそれを他者と共有できる機械だ。私たちは人格を持った人間だ。だが、それでも機械にすぎない。そして機械は壊れてしまえばもうおしまいだ。死は私たちには理解しえない大きな謎ではない。つまるところ死は、電灯やコンピューターが壊れうるとか、どの機械もいつかは動かなくなるといったことと比べて、特別に不思議なわけではない」

 

そして最後に、著者はこう述べるのでした。
「不死について論じたときに主張したように、人生が価値あるものをもう提供できなくなるまで生きる力が私たちにあったほうが、間違いなく望ましいだろう。少しでも長い人生を送ることが本人にとって全体として良い限り、死は悪い。そして少なくとも多くの人にとって、死は早く訪れ過ぎる。だがそうは言っても、不死が良いということには絶対にならない。実際には、不死は災いであり、恵みではない。そんなわけで、死について考えるとき、死を深遠な謎と見なし、恐ろしくて面と向かえず、圧倒的でぞっとするものと捉えるのは適切ではない。適切ではないどころか、死に対する比類なく合理的な応答にはほど遠い。思うに、死を恐れるのは不適切な対応だ」

 

「訳者あとがき」で、訳者の柴田裕之氏は以下のように書いています。
「道徳・哲学・倫理の専門家として知られる著者が、着任以来の20数年間、毎年のように「死」をテーマにして行なっているこの講義は、イェール大学でも常に指折りの人気コースとなっている。学生時代にこんな講義があったら、ぜひ受けてみたかった。今さら昔には戻れないが、幸い今では、インターネット上でも見られるし、内容をまとめたものが、こうして書籍でも読めるのだからありがたい。本書は、イェール大学出版局が同大学のさまざまな分野の教員による卓越した講義を紹介するために刊行しているシリーズの1冊だ」

 

また、柴田氏は以下のようにも述べています。
「社会全体に目を向けても、死について考えるべき機が熟してきている。1つには、テクノロジーや科学や医学の進歩で、不死というものがSFではなく現実の可能性として語られ始めている。まあ、今の世代が全員、不死に手が届くとはとうてい思えないから、それは脇に置くとしても、高齢化はすでに大きな社会問題になっている。病気になる可能性や余命を遺伝子検査などで統計的に予測できる時代に入りつつある。臓器移植、植物状態脳死、延命措置、尊厳死安楽死、自殺、リビングウィル、老前整理、終活、遺言など、死に関連した話題には事欠かない。社会が成熟していくにつれて、人はこうした事柄について、これまでよりもさばさばと、あるいはいやおうなく語り、行動をとるという気運が高まるのだろう。人生をどう生き、どう終えるかを考えるのが若いころから当たり前にさえなるかもしれない」

 

日本一楽しいひらがなドリル うんこひらがなドリル (うんこドリルシリーズ)

日本一楽しいひらがなドリル うんこひらがなドリル (うんこドリルシリーズ)

 

 

 ということで、「死」をテーマにした本としては異例のベストセラーとなった本書を読み終えましたが、正直言って、まったく面白くありませんでした。コンビニの書籍コーナーにも置かれていた本ですが、どうしてそれほど売れたのか、理解に苦しみます。大きな原因としては、版元である文響社マーケティング力&プロデュース力があるでしょう。同社は『うんこドリル』を大ベストセラーにしていますが、「うんこ」の次は「死」だということでしょうか。

 

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

パイドン―魂の不死について (岩波文庫)

 

 

著者のシェリー・ケーガンは本人も明言しているように唯物論者です。ゆえに「魂」の存在を否定しています。彼は哲学者だそうですが、もともと「哲学の祖」とされる古代ギリシャソクラテスは、「哲学は死の予行演習」という言葉を残しています。彼は、紀元前469年頃アテナイに生まれ、スパルタと戦ったペロポネソス戦争に従軍した他は、生涯のほとんどをアテナイで暮らしました。ソクラテスの裁判の模様、獄中および死去の場面は、弟子プラトンが書いた「対話篇」と呼ばれる哲学的戯曲の諸作品、すなわち『エウチュプロン』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』に詳しく描かれています。それらに描かれた、自らの死に直面したソクラテスの平静で晴朗な態度は、生死を超越した哲学者のあり方 を示すものとされました。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

 

 

拙著『唯葬論』(サンガ文庫)の「哲学論」にも書きましたが、ソクラテスほど、わたしたちに生と死について考えさせる哲学者はいません。彼はつねに人間の幸福というものを追求していました。そして、人間のための哲学をつくろうとしたソクラテスは、「人間の生を幸福にするためには何をすべきか」と自問して、次のように考えたのです。ただ生きることは人間の生ではない。人間の生は人間らしい生でなければならず、それには「善く生きる」ことが大切である。これを言い換えれば、「正しく生き る」ということなのである。そして、そのためには「いかなる仕方でも、不正を犯してはならない」、さらには「たとえ不正を加えられても、不正の仕返しをしては ならない」ということが大切になるのです。

 

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

 

 

ソクラテスは、倫理性こそが人間を人間であらしめていると考えたのでした。さらに「人間が幸福になるためには、哲学をすればよい」とソクラテスは言いました。哲学は幸福への道だというのです。そして、その幸福への道の哲学とは何かというと、「死の予行演習だ」と答えました。それは限られた人生の中で、本当に自分の生が充実するものはどこにあるかを探してみなければならないということ。さらには、肉体という牢獄につながれている魂 が解放されて自由になることが「死」と「哲学」に共通した営みであるということ。 この死の思想こそソクラテス哲学の神髄であり、弟子のプラトンにも受け継がれた ものでした。

 

パイドロス (岩波文庫)

パイドロス (岩波文庫)

 

 

プラトン哲学では、魂は不死で あり永遠でした。魂は聖火の火花であって、始めもなく終わりもありません。『パイドロス』によれば、魂はかつて至高のイデアの世界にいました。その後、イデアの高所か ら落とされ、人間の肉体に宿り、囚人として追放の身となりました。それでも不滅の性格は失ってはいませんでした。そして、「もし、地上にとどまっている間に、この肉体をコントロールして感覚的な外形や偽りの幸福から引き離すことができれば、死んでから元のイデアの世界に戻る。しかし堕落した魂は、人間なり動物なりの肉体の中に再び入って輪廻を繰り返し、1万年の間、地上にとどまる」と考えました。プラトンにおいては、 魂は純粋に精神的で、独立しており、遍歴して肉体に落ち込む実在なのです。

 

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版

 

 

さて、本書は前半の形而上学パートが丸ごとカットされています。アマゾンのレビューを読むと、ほとんどの方がこのことを「残念」と嘆かれていますが、わたしはそうは思いません。また本書がベストセラーになったので、完全翻訳版も出たようですが、わたしは読みたいとは思いません。「死とは何か」みたいな抽象的なことをグダグダ述べられても仕方ないからです。わたしは、絶対に遠慮したいですね。

 

そもそも、わたしは「死」をそれほど重大視していないのです。では、何を重大視しているかといえば、「葬」です。7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされますが、わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であり、発展基盤だと思っています。「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、埋葬という行為には人類の本質が隠されています。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できるでしょう。文明および文化の発展の根底には、「死者への想い」があるのです。


サンデー毎日」2015年12月20日号

 

オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突き付けることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝(つ)くことはできませんでした。人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、言挙げする必要なし。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということ。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです。唯物論者である本書の著者は葬儀というものにまったく価値を置いていないようですが、唯葬論者であるわたしは本書を読んでまったく共感できず、学ぶところもなかったことを、ここに告白しておきます。

 

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

 

 

2019年8月10日 一条真也

長崎への祈り

一条真也です。
8月9日は「長崎原爆の日」です。
今朝、サンレー本社の朝礼に参加しました。
そして、社員のみなさんに長崎原爆の話をしました。

f:id:shins2m:20190809093604j:plain今朝のサンレー本社朝礼のようす

f:id:shins2m:20190809084502j:plain朝礼で長崎原爆の話をしました

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犠牲者の御冥福を祈って黙祷しました

f:id:shins2m:20190809084857j:plain心からの祈りを捧げました

 

当初は小倉に原爆が投下される予定で、その場合は広島原爆以上の犠牲者が出たと推測されています。しかし、当日になって投下の場所は小倉から長崎に変更されたのでした。小倉がアウシュビッツと並ぶ人類愚行のシンボルにならずに済んだのは奇跡と言えるでしょう。その意味で、そのような奇跡的な土地に本社を構えるわが社のミッションとは、死者の存在を生者に決して忘れさせないお手伝いをすることだと、わたしは確信しています。最後は、社員全員による長崎原爆犠牲者への黙祷を捧げました。犠牲者の方々の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

f:id:shins2m:20190808165529j:plain「西日本」「毎日」「読売」「朝日」新聞8月9日朝刊広告

 

2019年8月9日 一条真也

長崎原爆の日

一条真也です。
8月9日は「長崎原爆の日」です。
詳しくはブログ「小倉に落ちるはずの原爆」をお読みいただきたいと思いますが、今日は、わたしにとって1年のうちでも最も重要な日なのです。

 

長崎原爆といえば、ブログ「母と暮せば」で紹介した映画を思い出します。名匠山田洋次監督が、原爆で亡くなった家族が亡霊となって舞い戻る姿を描いた人間ドラマでした。原爆で壊滅的な被害を受けた長崎を舞台に、この世とあの世の人間が織り成す不思議な物語を映し出した作品です。主人公の母親を名女優吉永小百合が演じました。2015年12月12日に公開されましたが、戦後70年という「死者を想う」年の締めくくりにふさわしい名作であると思いました。

 

 

この日にあわせて、わが社では毎年、「昭和20年8月9日 小倉に落ちるはずだった原爆。」というキャッチコピーで「西日本」「毎日」「読売」「朝日」の各紙に広告を掲載しています。ようやく北九州でも歴史上の事実が知れ渡ってきました。

f:id:shins2m:20190808165529j:plain「西日本」「毎日」「読売」「朝日」新聞8月9日朝刊広告

 

新聞広告には満月のイラストをバックに「鎮魂」と大きく書かれ、「昭和20年8月9日−−小倉に落ちるはずだった原爆。」と続きます。そして「平和への願いを込めて、長崎に祈りを」として、次のように書いています。
「それは74年前のこと。昭和20年8月9日、長崎に第2の原子爆弾が投下されました。広島に人類最初の爆弾が落とされた3日後のことです。長崎型原爆・ファットマンは8月6日にテニアン島で組み立てられました。そして、8月8日にアメリカ陸軍在グアム第20航空軍司令部野戦命令17号において、小倉を第1目標に、長崎を第2目標にして、8月9日に投下する指令がなされました。8月9日に、ソ連が日本に宣戦布告。この日の小倉上空は前日の八幡爆撃による煙やモヤがたち込めていたため投下を断念。第2目標であった長崎に、同日の午前11時2分、原爆が投下されました。小倉の軍需工場が爆弾投下の第1目標であったことを、皆さんはご存知でしたか。長崎ではこの原爆によって74000人もの尊い生命が奪われ75000人にも及ぶ人々が傷つき、現在でも多くの被爆者の方々が苦しんでいます。もし、この原爆が小倉に投下されていたら、あなたの家族や知りあいの方々が命を失い、あるいは大きな痛手を受けたことでしょう。もしかすると、この文章を読んでいるあなたは、この世に存在していなかったかもしれません。絶対に戦争の悲惨さを風化させないためにも、私共は原爆の犠牲になられた方々へのご冥福を祈るとともに、恒久平和への祈りを捧げていきたいと思います。
古来、世界各地で月はあの世に見立てられていました。夜空に浮ぶ月を見上げて手を合わせ、亡くなられた方々を想ってみてはいかがでしょうか。
私たちは、『人間の尊厳』を見つめながら、全国各地で真心を込めて、鎮魂と慰 霊のお手伝いをさせていただきたいと願っております。

株式会社サンレー代表取締役社長 佐久間庸和

 

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

 

 

また、昨日発売されたばかりの『修活読本』(現代書林)のプレゼント告知も行いました。「終活」から「修活」へ。人生の後半戦をより豊かに暮らすための情報や知恵をまとめた一冊です。遺言書やエンディングノート、整理のコツにはじまり、葬儀や法事、お墓など気になる情報が満載です。この本を抽選で30名様に進呈します。ハガキでご応募ください。

<応募方法>

郵便ハガキに郵便番号・住所・氏名・電話番号・書籍名をご記入の上、下記宛へお送りください。尚、当選は商品の発送をもって代えさせていただきます。

 〒802-0022
北九州市小倉北区上富野3-2-8
サンレー「鎮魂」書籍プレゼント 係
2019年8月21日(水)消印有効

 

さらには、10月11日(金)18時からサンレーグランドホテルで行われる「月への送魂」のセレモニーの案内をさせていただきました。ぜひ、今年も多くの方々にご参集いただき、月を見上げてなつかしい故人を偲んでほしいと思います。死者を忘れて、生者の幸福など絶対にありません。最後に、長崎の原爆で亡くなられた方々の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌

 

2019年8月9日 一条真也

 

隣人館で「まつり」を歌う

一条真也です。
昨夜は、人間国宝の今泉今右衛門さんが小倉に来たので、恒例のサザン・カラオケ対決で深夜まで盛り上がりました。午前1時頃に鍛冶町の「丸玉」という店で焼うどんを食べてから、わたしたちは固い握手を交わして別れました。今朝は二日酔い気味でしたが、午前中から福岡県内の冠婚葬祭施設の建設候補地を回りました。

f:id:shins2m:20190808141506j:plain隣人館 の前で、末館長と

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末館長にお土産のスイカを渡しました

 

福岡市を経て飯塚市に入ったわたしは、わが社の高齢者介護施設である隣人館を訪れました。最近、増築工事が終了したばかりなので、その視察のためです。久々に訪れた隣人館は清潔に掃除されており、入居者の方々の明るい笑い声が響いていました。わたしは、途中で買ったお土産のスイカを末館長に渡しましたが、そのとき大きな歓声が上がりました。

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カラオケで「まつり」を歌うことにしました

 

わたしは、みなさんに「こんにちは。毎日暑いですね。みなさん、体調は大丈夫ですか?」と挨拶したのですが、そのとき、横に最新鋭のカラオケ機器があるのを発見しました。同行していたサンレー企画部の石田部長が「社長、みなさんに1曲披露されたらいかがですか?」と言うので、わたしは北島三郎の「まつり」を歌うことにしました。

f:id:shins2m:20190808135704j:plain男は〜ま〜つ〜り〜を〜♪ 

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いきなり大盛り上がり!

 

イントロの部分で、「年がら年じゅう、お祭り騒ぎ。初宮祝に七五三、成人式に結婚式、長寿祝に葬儀を経て法事法要・・・人生は祭りの連続でございます。冠婚葬祭のサンレーから、お祭り男がスイカを下げて隣人館にやって来たよ。こりゃあ、めでたいなあ〜。今日は祭りだ! 祭りだ!」と言うと、早くも会場が熱狂の坩堝と化しました。わたしが「男は〜ま〜つ〜り〜を〜♪」と歌い始めると、みなさん目を輝かして、一生懸命に手拍子をして下さいました。

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祭りだ、祭りだ、祭りだ!

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みなさん、手拍子をして下さいました

 

最後の「これが日本の祭り〜だ〜よ〜♪」の歌詞を「これが隣人館の祭り〜だ〜よ〜♪」に替えて歌い上げると、興奮が最高潮に達しました。割れんばかりの盛大な拍手が起こり、感激しました。中には涙を流しておられる方もいて、「ものすごい迫力だった」「プロの歌手よりうまかった」「元気をいただいた」「生き返ったようだ」「これからも来て下さい」などの言葉をかけていただき、わたしのほうが泣きそうになりました。

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心をこめて歌いました♪

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イカの前で熱唱しました♪

f:id:shins2m:20190808140017j:plainこれが隣人館の祭り〜だ〜よ〜♪

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みなさん、お元気で!

 

じつは最近、小倉の「ルパン」というカラオケスナックで「まつり」を熱唱したところ、ママさんが涙を流しながら「素晴らしい。感動しました。あなたの歌には生命力というか、人を元気にする力があります。病院とか慰問して、末期がんの患者さんたちなどにその歌を聴かせてあげたらいいと思いますよ」と言って下さいました。そのことが頭にあったので、隣人館のお元気な高齢者の方々の前で歌うことにしたのです。隣人館のみなさん、今日はお会いできて嬉しかったです。いつまでもお元気で。
また、お会いいたしましょう!

『結婚不要社会』

結婚不要社会 (朝日新書)

 

一条真也です。
自民党小泉進次郎衆院議員とフリーアナウンサー滝川クリステルさんの結婚報道には驚きました。滝川さんは妊娠しており、年明けに出産の予定だとか。本当に、おめでたいお話です。お似合いのお二人ですし、心から祝福したいと思います。このビッグカップル誕生をきっかけに、令和の日本に結婚ブームが起こることを願っています。
結婚といえば、『結婚不要社会』山田昌弘著(朝日新書)を読みました。著者は、1957年、東京生まれ。1981年、東京大学文学部卒。1986年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在、中央大学文学部教授。専門は家族社会学。学卒後も両親宅に同居し独身生活を続ける若者を「パラサイト・シングル」と呼び、「格差社会」という言葉を世に浸透させたことでも知られます。「婚活」という言葉を世に出し、婚活ブームの火付け役ともなりました。ブログ「無縁社会シンポジウム」で紹介した2012年1月18日に横浜で開催されたパネル・ディスカッションで、わたしは著者と共演したことがあります。  

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本書の帯

 

本書の帯には「結婚しないほうが幸せ!?」と大書され、「『婚活』の提唱者が激動の平成男女を総括する」「結婚社会学の決定版!」と書かれています。
また、帯の裏には、「欧米とは違うかたちで“結婚不要”になっている日本社会の実態がここに」として、本書に書かれているテーマが並べられています。

○結婚困難社会――結婚をめぐる日本の現状

○結婚再考――なぜ結婚が「必要」なのか

○近代社会と結婚――結婚不可欠社会

○戦後日本の結婚状況――皆婚社会の到来

○「結婚不要社会」へ――近代的結婚の危機

○結婚困難社会――日本の対応

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本書の帯の裏

 

カバー前そでには、「なんのための結婚か? 決定的な社会の矛盾がこの問いで明らかに――」として、以下のように書かれています。
「好きな相手が経済的にふさわしいとは限らない 経済的にふさわしい相手を好きになるとも限らない、しかも結婚は個人の自由とされながら、社会は人々の結婚・出産を必要としている・・・・・・これらの矛盾が別々に追求されるとき、結婚は困難になると同時に不要になるのである。平成を総括し、令和を予見する、結婚社会学の決定版!」

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「はじめに」

第1章 結婚困難社会
   ――結婚をめぐる日本の現状

『結婚の社会学』以降
男性には「イベント」、女性には「生まれ変わり」
 1996年頃の結婚状況
晩婚化ではなく未婚化
結婚できない人はなぜ増えたのか
未婚化現象のロジック
「いつでもできる」から「しにくいものだ」へ

第2章 結婚再考
   ――なぜ結婚が「必要」なのか

結婚の形態
結婚の定義
結婚の始まり
結婚の役割
結婚の効果
結婚の社会的機能
結婚の矛盾

第3章 近代社会と結婚
   ――結婚不可欠社会

近代的結婚の「経済的」特徴
近代的結婚の「心理的」特徴
近代的結婚の成立要素
恋愛結婚の純化
社会再生産のための矛盾
未婚者の居場所がない社会                                               .

第4章  戦後日本の結婚状況
   ――皆婚社会の到来

戦前の階層結婚
社会的制裁と一夫多妻
戦後の自由結婚
見合い結婚の変化
要素としての愛情と経済
皆婚社会時代の到来
「告白文化」の弊害

第5章  「結婚不要社会」へ
   ――近代的結婚の危機

ニューエコノミーの影響
性革命の影響
経済か? 愛情か?
離婚の自由化の影響
欧米の結婚状況
欧米と日本の違い
経済と親密性の分離

第6章  結婚困難社会――日本の対応

結婚困難社会への道
どういう人が結婚できるのか
イデオロギーと本音
近代的結婚に固執する理由
世間体の呪縛
欧米とは異なる結婚不要社会
パートナー圧力のない日本
日本の結婚の未来形

「おわりに」
「参考文献」

 

「はじめに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「結婚は、幸福を保証しない。この点が理解されるなら、結婚はもっと、増えるのではないか。結婚難の本当の原因は、『結婚=幸福』という思いこみにあるのではないか――。右ような見解を私が自著に記したのは1996年、いまから23年前のことです。あれから社会はどのように変わり、どのように変わらなかったのでしょうか」

 

第1章「結婚困難社会」では、「結婚できない人はなぜ増えたのか」として、以下のように書かれています。
「『結婚していない』もしくは『結婚できない』人たちが増えた原因は何でしょう。私は次のような説を展開しました。それは単に、男女の意識変化ではない。そうではなく、結婚をめぐる社会、とりわけ経済状況が変わったのだと。つまり、個人の意識はむしろ変わらないまま社会の変化が進み、結婚が減った。その結果として独身者が増え、独身でも生活できる仕組みが整ったということです」

 

「『いつでもできる』から『しにくいものだ』へ」として、著者は以下のようにも述べています。
「実際に未婚者、つまり『結婚したいけれども結婚できない人』が増えるにつれて、それが人々の認識のレベルにまで浸透し、人々の行動に変化をもたらしている(社会学では「再帰性」と言います)のが、ここ20年の動きなのです。『結婚なんかいつでもできる。だから独身時代を楽しまなきゃ』という認識から、『結婚はしたくてもしにくいものだ』という現実に直面して、それを知識として得てそれに基づいて行動する人が現れるようになったというわけです」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
「人々の結婚をめぐる認識は、20年前から徐々に変わり始めていました。だから『婚活』と呼ぶことができる現象が起きた。このような変化を私が『婚活』と名付けた2008年頃から、政府の認識も変わっていったのです。『結婚したければいつでもできる』というものから、『結婚自体が困難になっている』と認めた政府の政策変更と、未婚者の『婚活』行動――その2つが相まって、近年は国や自治体による『結婚支援』といった動きも広がっているわけです」

 

さらに「アジア金融危機の影響」として、著者は述べます。
「『いつでも結婚できる』から『なかなか結婚できない』へ、結婚についての人々の『認識』は変化を遂げました。ところが、『結婚後は主に夫の収入で生活する』、だから『結婚相手の収入は多いほうがいい』といった『意識』のほうはほとんど変わっていません。そのために『婚活』のような相手探し競争が起こっているのです」

 

結婚の社会学―未婚化・晩婚化はつづくのか (丸善ライブラリー)
 

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「それに加えて生じた想定外の社会現象、それが、『恋愛の衰退』です。『結婚の社会学』では、恋愛が盛んなヨーロッパやアメリカの例をもとに、『男女ともに自分で自分の生活の責任をもつようになると、結婚が愛情だけに基づくものになる。日本社会はその方向に動くかもしれない』といった見立てを示しました。けれども日本では、そうしたことがまったく起こらずに、ヨーロッパとは逆に『恋愛が衰退する』というかたちで推移してきたのです」

 

第2章「結婚再考」では、「結婚の形態」として、著者は以下のように述べています。
「日本で言えば、平成の天皇陛下の結婚(1959年)が社会に与えた影響はじつに大きなものでした。当時の庶民の多くは見合い結婚でした。お二人の出会いは、軽井沢のテニスコート。コートで見初めて恋愛結婚した、というのが公式見解です。ときの皇太子が恋愛結婚をするのですから庶民が真似ても何ら問題がない。時代の空気は影響を受け、一気に恋愛結婚が日本社会に広がっていったわけです」
では、そもそも近代社会とは何か。社会学者である著者は、「近代社会とは何かというのは、じつは社会科学の永遠のテーマです。社会科学の領域では、前近代と近代の間には大きな断絶があり、社会のあり方が大きく異なると分析されるのが一般的な見解です」と説明します。

 

それでは、結婚とは何か。
「結婚の定義」として、著者は述べます。
「結婚はいわば、社会を構成する枠組みの1つです。その結婚をミニマムに――人類社会に共通する最低限の部分を取り出して――定義すると、『性関係のペアリングに基づく恒常的関係』と表現することができます。あまりにあっさりした定義でやや拍子抜けかもしれませんが、『結婚とは何か』を社会学法律学文化人類学の知見、その他の辞典類から共通の定義を導きだすと、恋愛というような『感情』の要素はまったく入ってきません。恋心や愛情があるかないかは、結婚という枠組みを通文化的に説明するときには不適当なのです」

 

また、「結婚の効果」として、著者はこう述べています。
「前近代社会の結婚は『経済的効果』も『心理的効果』も夫婦以外の要素に強く影響されるものだったとも言えるでしょう。これに対して近代社会は、結婚がもたらす2つの効果が『純化』していると言えます。たとえば、結婚相手以外の人に経済的責任を持つ必要がないし、逆に結婚相手以外の人と楽しく過ごしてはいけないというのが近代社会の文化です。これはつまり、結婚における排他性の原理というものが近代社会においては、より純粋に適応されているということ。結婚がもたらす効果を純化したのが近代社会である、という言い方もできるでしょう」

  

親族の基本構造

親族の基本構造

 

 

「結婚の社会的機能」として、著者は「性的ペアリングである結婚には、2人がそれぞれ属している『親族集団』―――氏族やイエ、伝統的な日本社会では農山漁村のマケ(同族集団)など――を結びつける社会的な機能があります」と指摘し、さらに以下のように述べています。
「前近代社会では、かならず親をはじめとして親族の承認がないと結婚できません。対して近代社会では、親族集団を結びつけるという結婚の社会的機能が最小限のものになっているので、親族が『うん』と言わなくても結婚できます。ちなみに前近代社会では、この『親族間』という領域が重要な機能を果たしていました。たとえば、フランスの文化人類学クロード・レヴィ=ストロースが分析したように、結婚は『生殖相手を親族間で交換するイベント』ととらえることもできるでしょう」

 

第3章「近代社会と結婚」では、「近代的結婚の成立要素」として、著者は以下のように述べています。
「自分で配偶者を見つけなければ生涯独りで生きなければならず、生活にもそれなりの困難が生じるのですから当然の変化でした。これが近代的結婚の1つのかたちです。ですから、『男性が独力で生活費を稼ぐ社会にならなければ、近代的結婚は成り立たない』という言い方もできるわけです」

 

さらに著者は、以下のように述べるのでした。
「前近代社会は、結婚しなくてもイエや宗教、コミュニティなどで、経済的な安定と心理的な保証を得る場がありました。独身であってもイエのきょうだいが面倒を見たり、お寺や修道院などに入ることもできました。これは後で述べます。しかし、近代社会は結婚しないと非常に困る社会になりました。つまり、結婚しない人が生きにくい社会が近代社会でもあったのです」

 

第4章「戦後日本の結婚状況」では、「見合い結婚の変化」として、著者は以下のように述べています。
「戦後は恋愛結婚が普及し始めると同時に、見合い結婚変質し始めます。特に、上流階級が見合いという名のもと、有無を言わせず『取り決め』で結婚を遂行していたのが、会う前でも断れるし、会ってからでも断れるという『断る自由』のある見合いを許容しだします。つまり、戦後の見合い結婚というものは、恋愛結婚に限りなく近いわけです。紹介してくれるのが仕事の上役や親族というだけで、相手に会う前も会ってからも、交際を始めてからでも『断る』ことができます」

 

また著者は、「要素としての愛情と経済」として、「要するに、高度成長期には『出会い』が十分にあったので、皆婚社会が成立したというわけです。団塊の世代くらいまでは、ほとんどの人が結婚できました。1970年代くらいまではそうなのですが、結婚後の生活を想像できるということも大きかったでしょう」と述べ、「『告白文化』の弊害」として、「私は以前から、知り合った相手に『つき合ってください』『わかりました、つき合います』といった、告白をしなければ恋愛関係に発展しない告白文化が、今日の若者たちの恋愛の活発化を妨げている要因の1つではないか、と主張しています」と述べます。

 

第6章「結婚困難社会」では、「欧米とは異なる結婚不要社会」として、著者は以下のように述べています。
「欧米は、幸せに生きるためには親密なパートナーが必要な社会です。結婚は不要だけれども、です。それに対して日本は、配偶者や恋人のような決まったパートナーがいなくても、なんとか幸せに生きられる社会になったのです。これが私の結論です」

 

おひとりさまの老後 (文春文庫)

おひとりさまの老後 (文春文庫)

 

 

そして、著者は以下のように述べるのでした。
「社会としても個人としても、パートナーなしで『おひとりさま』で生きることも視野に入れておかないといけないということです。多くの人はもうそれに気づいていて、だから『おひとりさまの老後』(上野千鶴子法研/2007年)もベストセラーになったのでしょう。『ソロ活』という言葉も生まれるわけです。そして、おひとりさまになりたくないからこそ、その逆の動きとも言える世間体に合うような『婚活』が、どんどん広がっていくわけです」

 

わたし自身は26歳になったばかりで結婚しました。妻は22歳でした。わたしたち夫婦は夢と希望を抱いたまま(?)結婚し、30年の時間が経過しましたが、2人の娘はこれからどうなるかわかりません。実際、本人にふさわしい結婚相手と出会うことの難しさを痛感することが多いです。しかし、いくら「結婚はしたくてもしにくいものだ」と言い続けても現実は変わりません。このままでは日本の人口も減少する一方です。なんとかベスト・パートナーに出会える社会的システムを構築しなければなりません。そのためには、わが社が運営する「オークパイン・ダイヤモンド・クラブ」のようなマッチング・システムを常にアップデートする必要があると考えます。

 

結婚不要社会 (朝日新書)

結婚不要社会 (朝日新書)

 

 

2019年8月8日 一条真也

あらゆる力は、気から生まれる(中村天風)

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一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、異色の哲学者である中村天風の言葉です。天風は「あらゆる力というものは、それが何の種類であると問わず、すべて気というものから生まれる」と語りました。彼は、合気道の生みの親である植芝盛平とも交流がありました。



「気」とは何か。まず、宇宙と人間との関わりから考えてみましょう。人間とは、「大宇宙」すなわち自然の中に生命を与えられた「小宇宙」です。東洋医学では自然と人間との関係を示すのに五行説を用います。1年の春夏秋冬を「四季」と呼びますが、夏と秋のあいだに土用が入って、季節は五季になります。人間の身体には肝、心、脾、肺、腎があって、これを「五臓」と呼びます。また、目、舌、口、鼻、耳から感じる感覚を「五感」と呼び、味についても「五味」という表現があります。このように、自然と人間との関わりで「5」が重要なキー・ナンバーになっているのです。

 

さらに、1年は12ヵ月、人間の体内に走っている経路は12脈、1年は365日、ツボと呼ばれる体内の経穴は365ヵ所、大動脈は12脈、静脈は365脈、大きな関節は12、小関節は365といったふうに、宇宙と人間はミステリアスなまでに対応しています。その宇宙には気という生命エネルギーが満ちています。人間や動植物は、宇宙から気のエネルギーを与えられて生まれます。また、宇宙の気のエネルギーを吸収して生きているのです。東洋医学では、人間は天の気(空気)と地の気(食物)を取り入れて、体内の気と調和して生存しているといいます。科学的に見れば、気は1つの波動なのです。したがって気が乱れると病気になってしまいます。


サンレー・オリジナル「産霊気功」のようす

 

わが社では毎日の朝礼において、全員で気功を行っています。かつて、佐久間進会長がオリジナルの「産霊気功」を開発したのです。何度も新聞やテレビで紹介されたこともあり、わが社のことを「気功の会社」とか「気の経営」と表現する人も多いようです。サンレー創業以来、「気づき、気配り、気働きこそホスピタリティそのもの」という考え方を佐久間会長は信念としてきました。その意味で、サービスは「気」に通じるのであり、サービス業とは「気業」であるとも言えるでしょう。


サンレー社員による気功指導

 

さらには、サービス業に限らず、企業そのものが気業であるとも考えられます。わたしは、「企業とは経営者の持っている気が社員に乗り移る生命体である」と思っています。経営者が強気で陽気なら、強気で陽気な会社となり、その逆なら、弱気で陰気な会社となるのです。わが社では1988年に「気業宣言」を導入し、ことあるごとに「気」の重要性を社員に説いてきました。ブログ「気功で元気になろう!」で紹介した産霊気功を朝礼に取り入れたのもそれ以来です。現在では、サンレーグループの社員のみならず、広く各地の市民の方々にも気功指導を行っています。

 

中村天風の「あらゆる力というものは、それが何の種類であると問わず、すべて気というものから生まれる」という言葉に戻りましょう。積極的に力強く人生を生き抜くためには宇宙エネルギーを取り入れることが欠かせないという天風の教えの源流には、インドのヨガがあります。ヨガには、プラナヤマ(呼吸法)によって宇宙にあまねく存在しているプラーナ(宇宙エネルギー)を呼吸していくという考えですが、このプラーナは「活力」とも「気」とも呼ばれます。プラーナにしろ活力にしろ気にしろ、呼び方はさまざまです。いずれにせよ、それらを取り入れ、活力のある会社にすることが大切です。なお、今回の中村天風の言葉は、『孔子とドラッカー新装版』(三五館)にも登場します。

 

 
2019年8月7日 一条真也

仏の正体  

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仏とは、青色でもなく、黄色でもない。赤色でもなく、白色でもない。紅色でもなければ、紫色でもない。もちろん、透明でもない。また、長くもなく、短くもない。丸くもなければ、四角でもない。明るくもなければ、暗くもない。男でもなければ、女でもない。かといって、中性でもなければ、両性でもない。それが、仏だ。
(『十住心論』)

 

一条真也です。
空海は、日本宗教史上最大の超天才です。
「お大師さま」あるいは「お大師さん」として親しまれ、多くの人々の信仰の対象ともなっています。「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」の異名が示すように、空海は宗教家や能書家にとどまらず、教育・医学・薬学・鉱業・土木・建築・天文学・地質学の知識から書や詩などの文芸に至るまで、実に多才な人物でした。このことも、数多くの伝説を残した一因でしょう。

 
超訳空海の言葉

超訳空海の言葉

 

 

「一言で言いえないくらい非常に豊かな才能を持っており、才能の現れ方が非常に多面的。10人分の一生をまとめて生きた人のような天才である」
これは、ノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞した湯川秀樹博士の言葉ですが、空海のマルチ人間ぶりを実に見事に表現しています。わたしは『超訳 空海の言葉』(KKベストセラーズ)を監訳しました。現代人の心にも響く珠玉の言葉を超訳で紹介します。

 

2019年8月7日 一条真也