小倉に落ちるはずの原爆

一条真也です。
6日、台風8号の影響で北九州は暴風雨に襲われています。この日、「西日本新聞」に「令和こころ通信 北九州から」の第7回目が掲載されました。月に2回、本名の佐久間庸和として、「天下布礼」のためのコラムをお届けしています。今回のタイトルは「小倉に落ちるはずの原爆」です。

f:id:shins2m:20190806091419j:plain西日本新聞」2019年8月6日朝刊

 

8月6日は「広島原爆の日」です。9日の「長崎原爆の日」、12日の御巣鷹山日航機墜落事故の日、15日の「終戦の日」というふうに、8月は3日置きに続けて日本人にとって忘れられない日が訪れます。そして、それはまさに日本人にとって最も大規模な先祖供養の季節である「お盆」の時期とも重なります。まさに8月は「死者を想う季節」と言えるでしょう。

 

特に、「長崎原爆の日」は、わたしにとって1年でも最も重要な日です。わたしは小倉に生まれ、今も小倉に住んでいます。そして、日々、生きていることの不思議さを思います。なぜなら、広島に続いて長崎に落とされた原爆は、本当は小倉に落とされるはずだったからです。

 

74年前、原爆が予定通りに小倉に投下されていたら、どうなっていたでしょうか。広島に投下された原爆では、約14万人の方々が亡くなられましたが、当時の小倉・八幡を中心とする北九州都市圏(人口約80万人)は広島・呉都市圏よりも人口が密集していたために、広島を上回る数の犠牲者が出たと推測されています。

 

また、当時、わたしの母は小倉の中心部に住んでいました。よって原爆が投下されていた場合、確実に母の生命はなく、当然ながらわたしはこの世に生を受けていなかったのです。その事実を知ってから、わたしは「なぜ、自分は生を受けたのか」「なぜ、いま生きているのか」「自分は何をすべきか」について考えるようになりました。

 

まさに、長崎原爆は、わたしにとって「他人事」ではない「自分事」なのです。わたしも含めて、小倉の人々は、長崎原爆の犠牲者の方々を絶対に忘れてはならないと思います。しかし、悲しいことに、その重大な事実を知らない小倉の人々も多かったのです。そこで「長崎原爆の日」の当日、わが社では毎年、「昭和20年8月9日 小倉に落ちるはずだった原爆。」というキャッチコピーで新聞各紙に「鎮魂」のメッセージ広告を掲載しています。近年、ようやく北九州でも歴史上の事実が知れ渡ってきたように思います。

 

毎年その日には、小倉にあるサンレー本社の総合朝礼で、わたしが社員のみなさんに長崎原爆の話をし、最後に全員で犠牲者への黙祷を捧げます。「長崎の身代わり悲し忘るるな小倉に落つるはずの原爆」という歌を詠んだこともあります。家族葬直葬と、現在の日本では葬儀の簡略化が進んでいます。別に豪華な葬儀をあげる必要はないにせよ、わたしには、死者が軽んじられているような気がしてなりません。しかし、生者は死者に支えられて生きていることを忘れてはならないと思います。わたしは、常に「死者のまなざし」を感じながら生きていきたいです。

 

2019年8月6日 一条真也

広島原爆の日

一条真也です。
8月6日は「広島原爆の日」です。世界で初めての核兵器が使用されてから、74年目を迎えました。わたしは、犠牲者の方々に対して黙祷を捧げました。

f:id:shins2m:20190806090729j:plain8月6日の各紙朝刊

 

広島原爆といえば、ブログ「この世界の片隅に」で紹介したアニメ映画を思い出します。テレビドラマ化もされましたが、わたしは一昨年の11月にこのアニメ映画を観ました。もう、泣きっぱなしでした。主人公すずが船に乗って中島本町に海苔を届けに行く冒頭のシーンから泣けました。優しくて、なつかしくて、とにかく泣きたい気分になります。日本人としての心の琴線に何かが触れたのかもしれません。

 

「この世界の片隅で」の舞台は広島と呉ですが、わたしの妻の実家が広島です。映画に登場する広島の人々の方言が亡くなった妻の父親の口調と同じで、わたしは義父のことをしみじみと思い出しました。この映画は本当に人間の「悲しみ」というものを見事に表現していました。玉音放送を聴いた後、すずが取り乱し、地面に突っ伏して泣くシーンがあるのですが、その悲しみの熱量の大きさに圧倒されました。

f:id:shins2m:20130814155016j:plainさ広島平和記念資料館の前で

 

ブログ「広島平和記念資料館」に書いたように、わたしは6年前の8月15日に広島平和記念資料館を訪れました。
多くの来場者の間を縫い、わたしは館内をくまなく見学しました。見学しながら、わたしは人類の「業」について考えました。

 

人類はどこから来たのか。人類とは何なのか。人類はどこに行くのか。そんなことを考えました。アメリカが原爆を日本に投下した時点で、人類は1回終わったのではないのか。そんなことも考えました。館内には英語で話している白人もたくさんいました。彼らは、ここで何を感じたのでしょうか。出来るものなら、彼らの本音を聞いてみたかったです。


原爆ドームを訪れました

 

また、ブログ「原爆ドーム」に書いたように、6年前の猛暑の広島で放心状態になりながら、わたしは原爆ドームをじっと眺めました。もちろん人類史を代表する愚行の象徴なのですが、このような建物が当時の状態のままで保存されていることは、本当に凄いと思います。なんだか神々しく思えてきました。もはや神殿の雰囲気さえ醸し出しています。


そう、ブログ「伊勢神宮」に書いた日本最高の神社にも似て、人間の愚かさとサムシング・グレートの実在を感じさせてくれるのです。戦後、どれほど多くの人々が原爆ドームを訪れ、写真を撮影し、スケッチをし、眺め、何かを考えたことでしょう。その想念の巨大さを思うだけで、眩暈してしまいます。



この世界の片隅に」には、「死」と「死別」がリアルに描かれています。
ちょうど2年前、わたしは『般若心経 自由訳』(現代書林)を上梓しました。自ら自由訳してみて、わたしは日本で最も有名なお経である『般若心経』がグリーフケアの書であることを発見しました。このお経は、死の「おそれ」も死別の「かなしみ」も軽くする大いなる言霊を秘めています。葬儀後の「愛する人を亡くした」方々をはじめ、1人でも多くの方々に同書をお読みいただき、「永遠」の秘密を知っていただきたいと願っています。最後に、広島の原爆で亡くなられた方々の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌

 

般若心経 自由訳

般若心経 自由訳

 

 
2019年8月6日 一条真也

『神社崩壊』

神社崩壊 (新潮新書)

 

一条真也です。
『神社崩壊』島田裕巳著(新潮新書)を読みました。ブログ『仏教抹殺』で紹介した本を読んだら、神道や神社の行方も気になってきたからです。著者は1953年東京生まれ。宗教学者、文筆家。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。専攻は宗教学。著書多数。わたしとの共著にブログ『葬式に迷う日本人』で紹介した本があります。

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本書の帯

 

本書の帯には、「あの凶行の背景は?」「神社は儲かるのか?」「神社本庁の正体は?」「「『日本会議』との関係は?」「宗教学者がタブーをえぐる。」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

また帯の裏には、以下のように書かれています。

◎神社界の危機を象徴する事件

◎ 本当に儲かるのか?――神職の平均年収

◎ 不透明な経営と広がる経済格差

神社本庁の権力構造と時代錯誤な〝夢〟

宇佐神宮気多大社・・・・・・相次ぐ離脱騒動

富岡八幡宮と「日本会議の生みの親」

神社本庁は「新宗教」である――。

 

さらにカバー前そでには、以下のように書かれています。
「2017年末に富岡八幡宮で起きた前代未聞の事件。元宮司の弟が宮司の姉を刺殺するという凶行の背景には、不透明かつ放漫な神社経営、神社本庁との軋轢などがあり、そのいずれも現在の神社界の危機を象徴するものだった――。そもそも神社とはどのような場所で、何を祀っているのか。さらに、その収入源や経済格差、神社本庁の正体と続発する離脱騒動、その政治化や『日本会議』との関係など、御簾の裏に隠された〝暗部〟を、宗教学者が炙り出す」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」

第一章 富岡八幡宮事件

第二章 神社はそんなに儲かるのか

第三章 神社本庁とは何か

第四章 神々の相克――神社本庁は「新宗教」である

第五章 神社本庁政治学

第六章 揺らぐ神社の権威構造

「おわりに――神社は再生できるのか」

 

「はじめに」では、富岡八幡宮事件が紹介されます。
2017年12月7日、東京都江東区にある富岡八幡宮で、元宮司が現在の宮司を殺害するという事件が起こりました。宮司と元宮司は姉と弟の関係にありました。弟は女とともに犯行に及んだが、姉を殺害後に弟はその女を殺し、自ら命を絶ったのです。女の方は、姉の車の運転手にも重傷を負わせていました。この事件は日本中に衝撃を与えました。

 

江戸時代初期に創建された富岡八幡宮は「深川の八万さま」として地域の信仰を集めてきました。「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの1つに数えられ、さらには江戸勧進相撲発祥の地でもあります。近年では、新しく横綱になった力士の土俵入りも行われ、富岡八幡宮は大変ポピュラーな神社であると言えます。

 

富岡八幡宮事件で衝撃的なのは、その遺書の内容でした。富岡茂永容疑者は、自らの息子を富岡八幡宮宮司にするよう要求し、「もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永遠に祟り続けます」と綴っていたのです。

 

この富岡八幡宮事件について、著者は「神社の危機を象徴する事件」として述べます。
「最近、『美しい日本の再建と誇りある国づくり』をスローガンに掲げて活動する保守的な団体、『日本会議』のことが取り上げられることが多くなったが、神社本庁は、日本会議を構成するもっとも有力な組織である」
そして、富岡八幡宮日本会議は密接な関係を持っているとして、著者は「神社は神道の施設であり、神道の歴史は相当に古い。神道は日本で唯一の土着の宗教であり、日本の伝統的な信仰として受け継がれてきている。その神道や神社が、今、もしかしたら、その歴史の上で最大の危機を迎えようとしているのではないだろうか」と述べます。

 

富岡八幡宮事件の富岡茂永容疑者の祖父である富岡盛彦は「神社界の最重要人物」「日本会議の生みの親」などと呼ばれました。著者は以下のように述べています。
「富岡盛彦が、富岡八幡宮宮司となるのは1949年のことで、養父宣永が老齢となったためだった。富岡八幡宮では、宣永が復興した社殿等が1945年の東京大空襲によってすべて焼失し、その復興が課題だった。盛彦は、延期になっていた伊勢神宮式年遷宮を実現するために、伊勢神宮式年遷宮奉賛会理事として全国を飛び回って浄財を集め、それから富岡八幡宮の復興にかかった。氏子などからの募財によって1956年には社殿の復興を成し遂げ、社務所や結婚式場も再建している。一方で盛彦は、神社本庁理事として活動し、1952年には常務理事、1959年には事務総長に就任している。1962年に退任し、その後は、宗教法人審議会委員、國學院大學評議会議長、國學院大學の同窓会である院友会会長をつとめた。また、養父と同様に、1961年からは稜威会会長もつとめている」

 

富岡八幡宮事件では、茂永容疑者が銀座の高級クラブの常連で、刺殺された姉もホストクラブの上客であったことなどが報じられました。姉弟でかなりの金満家ぶりだったようです。第二章「神社はそんなに儲かるのか」では、「神社は儲からない」として、ほとんどの宮司の年収は1000万円に満たないことを紹介し、さらに著者は述べます。
「一部には、神社本庁が、宮司の月収の上限を60万円と定めているという話が出回っている。現役の宮司も、それを前提にインタビューに答えていたりするのだが、『神社本庁規定類集』を調べてみても、そうした規定は存在しない。したがって、1000万円以上の年収のぐうじが3・36パーセントにのぼるわけだが、ほとんどはそれに達していない」と書かれています。

 

寺院に関しては「坊主丸儲け」などとよく言われますが、本当に神社は儲からないのでしょうか。著者は述べます。
「よく僧侶のなかに贅沢な暮らしをしていて、高級な外車を乗り回し、巷で遊んでいる者がいるという話を聞くことがある。ただし、神主が遊んでいるという話は聞いたことがない。事件後に、京都の祇園にある料理屋の主人に聞いても、『坊さんが遊んでいるのは事実だが、神主については聞いたことがない』という答えが返ってきた。ただ、大阪で聞いたところによれば、京都の有名な神社の神主は、大阪の歓楽街、北新地で豪遊しているという。地元の京都を避けて、人目につきにくい大阪で遊んでいるわけである。そうした神主は、1000万円以上の収入があるのだろう」

 

そもそも、神社とは何でしょうか。「神社とは、どのような場所なのか」として、著者は以下のように述べています。
「神社は神を祀るための場であり、もっぱら祭祀を営むことが目的とされている。神社の境内は『神域』であり、世俗の世界とは隔絶されている。神社が仏教の寺院と異なるのは、寺院が僧侶の生活の場であるのに対して、神社は決して神職の生活の場ではないということである。寺院には『庫裡』と呼ばれる住居がある。僧侶は出家であり、寺院の庫裡以外に生活の場を持たない。僧侶が『住職』や『住持』と呼ばれるのも、寺院に住みこんでいるからである。これに対して、神職は基本的には神社に住んでいるわけではない。神社の境内が神域である以上、そこで何らかの経済活動を営むことは考えられない。したがって、古代から神社が建立される際には、併せて神社を経済的に支えるための土地が寄進されるのが一般的だった。建立後に土地が寄進されることもあった。『御厨』という地名が今も残されているが、それは有力な神社の神領を意味した」

 

第三章「神社本庁とは何か」では、「神社は法律でどのように分類されているのか」として、こう説明されています。
「宗教法人は大きく分けて、2つに区別される。1つは『単位宗教法人』で、もう1つが『包括宗教法人』である。単位宗教法人は、神社や寺院、教会などのように礼拝の施設を備えているものである。それに対して、包括宗教法人は、宗派や教派、教団のように、神社、寺院、教会などを傘下に持つものである。富岡八幡宮単位宗教法人で、神社本庁包括宗教法人である。富岡八幡宮がまだ神社本庁の傘下にあったとき、富岡八幡宮神社本庁に『包括』されていて、そうした状態にある単位宗教法人は『被包括宗教法人』とも呼ばれる。ところが、富岡八幡宮は、この包括関係を解消することで、神社本庁の傘下から離れたわけで、それによって『単立宗教法人』となった」

 

現在の神社界を考える上で、神社本庁の存在を無視することはできません。では、神社本庁とはいったい何なのか。「あくまで民間組織」として、著者は以下のように述べます。
神社本庁は東京都渋谷区代々木にあり、明治神宮に隣接している。神社本庁に包括されている神社はおよそ7万9千社にのぼり、神社界の包括法人としてはもっとも規模が大きい。各都道府県にはそれぞれ神社庁が設けられ、さらに地域にはその支部がある。都道府県の神社庁は、地域の主要な神社の境内に設けられている」

 

また、神社本庁の組織構成については以下の通りです。
神社本庁のトップに立つのが『総裁』であり、現在は、昭和天皇の第4皇女で、今上天皇の姉にあたる池田厚子氏である。総裁は、『神社本庁憲章』では、神社本庁の名誉を象徴し、表彰を行うとされている。
神社本庁の代表役員となっているのは総長であり、総長が実質的に神社本庁を動かしている。現在の総長は、石清水八幡宮宮司、田中恆清氏である。総長を選出するのは、17人の理事によって構成された役員会である。理事を選ぶのは評議員会で、これは、伊勢神宮神職神社庁長などから構成される」

 

第四章「神々の相克――神社本庁は『新宗教』である」では、「なぜ天皇伊勢神宮に参拝しなかったのか」として、著者は以下のように述べています。
「伊勢において天照大神を祀る役割を果たすのが『斎王』である。斎王になるのは、親王宣下を受けた内親王か、それを受けていない女王である。この制度は、南北朝時代まで受け継がれる。斎王が祀っているのだから、それで十分だということなのだろうが、代々の天皇は、伊勢神宮に参拝することはなかった。そこに、皇祖神が祀られていたにもかかわらずである。持統天皇は、代々の天皇のなかで唯一、伊勢国行幸したとされているが、伊勢神宮に参拝したかどうかは分からない。天皇のなかで、はじめて伊勢神宮に参拝したのは明治天皇である。即位したばかりの明治天皇は、1869(明治2)年に伊勢神宮への参拝を果たしている。持統天皇のことを除けば、代々の天皇のなかではじめて明治天皇伊勢神宮参拝を果たしたことになる」

 

また、「本当は恐ろしい天照大神」として、著者は以下のように述べています。
「恐ろしい神と言えば、まず一番先に想いつくのは、旧約聖書『創世記』のヤハウェである。ヤハウェは、自らが創造した人類が悪の方向へむかっていると見るやいなや、大洪水を引き起こし、ノアの家族や動物の番を除いて、人類を含むすべての動物を地上から一掃してしまう。この物語には、神の絶大な力が表現されていると見ることができるが、天照大神にも、そうした側面があったとも言える。それゆえに、天照大神は、宮中からはるか遠く伊勢に祀り籠められていたとも言えるし、代々の天皇が近づかなかったのも、それゆえであったと考えられる。少なくとも、天照大神は皇祖神ではあるものの、天皇が日頃生活する場からは遠ざけられていたのである」

 

さらに「神社本庁は『新宗教』である」として、著者は以下のように述べています。
伏見稲荷大社が当初から神社本庁の傘下に入らなかったように、すべての神社にとって伊勢神宮を頂点に位置づける体系のなかに組み込まれることは、必ずしも本意ではないはずである。神の立場からしても、それを受け入れることができる神と、できない神がある。たとえば、出雲大社大国主命の場合、『古事記』や『日本書記』では、国譲りをしたことになっているが、『出雲国風土記』には、そうした話は出てこない。しかも、大国主命は、『天の下造らしし大神』とされ、出雲国に限らず、世界全体を造り上げた神とされている。そこからすれば、天照大神ではなく、大国主命こそが本宗であるという考え方も成り立つのである」

 

続けて、著者は以下のように述べるのでした。
「実際、これは明治時代に起こったことだが、半ば公的な機関であった神道事務局が、その神殿に造化三神天御中主神=あめのみなかぬしのかみ、高御産巣日神=たかみむすひのかみ、神産巣日神=かみむすひのかみ)と天照大神を祀ろうとしたところ、出雲大社の側から、そこに大国主命を加えるべきだという要求が出された。これは議論になり、結局、出雲大社の主張は認められなかったが、出雲大社にしてみれば、大国主命天照大神と同格だという意識があったわけである。伊勢神宮を本宗とするということが、神社本庁創建の時点で生まれた新しいとらえ方であるとするなら、包括宗教法人としての神社本庁は、新しい1つの宗教、『新宗教』であったということにもなってくる」

 

第五章「神社本庁政治学」では、著者は「『日本会議』の結成」として述べています。
「神社界の枠を越えた運動体としては、1997年に結成された『日本会議』がある。日本会議は、憲法改正や首相の靖国神社公式参拝の実現をめざす運動体だが、その前身は、『日本を守る会』と『日本を守る国民会議』だった。富岡八幡宮の富岡盛彦宮司が、『日本を守る会』の結成に尽力したことについては、すでに第一章でふれた。もちろん、憲法の改正ということは、さまざまな形で議論になり、安倍首相はその実現に熱心である。だが、そこで言われる憲法の改正は、自衛隊を合憲とすることが中心である。日本会議は、憲法前文で『美しい日本の文化伝統』を明記したり、天皇を元首と定めるよう改正すべきだとしており、そこには大きなずれがある」

 

第六章「揺らぐ神社の権威構造」では、著者は「皇室と神社界の未来」として述べます。
皇位の安定的な継承に向けての議論は進んでいないし、そうした方向にむかう兆しも見えていない。たとえ、皇位の継承が果たせたとしても、皇族の減少、天皇家以外に宮家が存在しないという事態が、それほど遠くない将来に訪れる可能性がある。それは、天皇制の基盤を揺るがすことにもなるし、神社界への影響も避けられない」

 

また、「『神社崩壊』の危機」として、著者は述べます。
天皇が不在ということになれば、皇祖神の価値は著しく低下する。伊勢神宮は、皇祖神を祀るがゆえに、神社本庁によって本宗と位置づけられているわけだが、その地位は根本から揺らぐことになる。そうなれば、皇室とのかかわりから神宮と称されている各神社の地位も揺らぐ。当然、それによって神社本庁の存在意義も薄れることになる。にもかかわらず、神社本庁がその一翼を担う日本会議は、彼らの考える「伝統」にこだわり、女性天皇女系天皇女性宮家の設立に反対するばかりで、皇位継承の危機に対する根本的な対応策を提示できていない。旧宮家の復帰だけが具体策として俎上に載せられてはいるが、到底それが実現される状況にはない」

 

 

「おわりに――神社は再生できるのか」では、「宗教離れしていく世界」として、著者は以下のように述べています。
「私は、2016年に上梓した『宗教消滅 資本主義は宗教と心中する』(SB新書)において、世界的に宗教が力を失いつつある状況について報告した。その波は日本にも及んでおり、新宗教の教団は、一部を除いて、信者数が激減している。既成仏教の場合には、葬儀が重要な役割を果たしており、新宗教ほど信者数が激減するようにはなっていない。だが、本山などは、参拝者が相当に減少している。それも、地方で過疎化が進み、これまで講の組織を結んで本山に集団で参拝してきた人々がいなくなってしまったことが大きい」

 

神道はなぜ教えがないのか (ベスト新書)

神道はなぜ教えがないのか (ベスト新書)

 

 

神道については、著者は以下のように述べています。
神道には、死や血を穢れとする観念がある。とくに神域は穢れを免れた空間でなければならないとされてきた。神道が、近代になるまで葬儀を営まなかったのも、穢れの観念が関係する。では、神道において、穢れを祓うための手段がさまざまに開発されてきたかと言えば、必ずしもそうではない。その面では、神道は仏教にその役割を任せてきた。とくに神仏習合の時代には、密教がもっぱらその役割を担っていた。その点で、臨時大祓を営んだとしても、それで穢れを浄化することができるのか、神道の考え方にもとづいても、はっきりとした答えは出せないはずである」

 

最後に、富岡八幡宮の再生の手段として、著者は世俗的な方向での解決の他に、宗教的な方向での解決というものを以下のように提案します。
「神域が穢されたということを、より深刻に受け止め、信仰にかかわる形での解決を模索する必要もあるのではないだろうか。その際に、1つ考えられる手立てが、『放生会』の復活である。放生会は、もともと仏教に由来するもので、殺生戒の考え方が基盤になっている。人は、生き物を殺すことによってしか生き続けることができない。そのことを改めて認識するために、鳥獣や魚を海や川に放つのが放生会である」

 

続けて、著者は放生会についてこう述べるのでした。
「このように放生会は、仏教の思想にもとづいており、基本は仏教寺院で営まれるものだが、八幡神を祀る神社にも伝わっている。そこには、八幡神八幡大菩薩と称されたことや、武神、軍神として信仰を集めたことが関係しているものと思われる。したがって、八幡信仰のもとになる宇佐神宮では、現在でも放生会が行われており、それは、そこから八幡神を勧請した石清水八幡宮にも伝えられている。神仏分離という大波を被っているはずなのに、この仏教由来の行事が八幡宮に残されているのは、それだけ、八幡神の信仰と放生会が強く結びついてきたからだろう」

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著者の島田裕巳氏と 

 

富岡八幡宮をはじめとした神社を再生させる具体的プランとして、このように放生会を提案する著者の姿勢は素晴らしいと思いました。宗教学者として波乱万丈の人生を送られてきた著者ですが、いたずらに「葬式は、要らない」とか「宗教消滅」とか「神社崩壊」などと叫んで大衆の不安を煽るよりも、このような宗教再生のための具体的提案を行うことこそ著者の真骨頂であり、新たなミッションではないかと思いました。

 

神社崩壊 (新潮新書)

神社崩壊 (新潮新書)

 

 

2019年8月5日 一条真也拝 

盆踊り大会

一条真也です。
3日の北九州も非常に暑かったです。
夜は小倉では「わっしょい百万夏祭り」が行われましたが、八幡では盆踊り大会が開かれました。会場はサンレーグランドホテルの中庭です。地元の方々を中心に700人以上もの方々が集まって、大いに盛り上がりました。

f:id:shins2m:20190803181619j:plainサンレーグランドホテル

f:id:shins2m:20190803181739j:plainサンレーグランドホテルの前で

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浴衣に着替えました

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今年も始まります!

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書籍コーナー

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

 

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おかげさまで大人気でした

 

ブログ「盆踊り大会のお知らせ」で紹介したイベントです。ブログ「コミュニティセンター化に挑む!」ブログ「みんなの紫雲閣ひろば」などでも紹介しましたように、サンレーでは、有縁社会を再生するためのコミュニティセンターの展開を図っています。

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受付周辺のようす

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抽選会のようす

 

夏の風物詩の1つに盆踊りがあります。もともとはお盆の行事の1つとして、ご先祖さまをお向かえするためにはじまったものですが、今ではご先祖さまを意識できる格好の行事となっています。昔は、旧暦の七月十五日に初盆の供養を目的に、地域によっては催されていきました。照明のない昔は、盆踊りはいつも満月の夜に開かれたといいます。太鼓と「口説き」と呼ばれる唄に合わせて踊るもので、櫓を中央に据えて、その周りをみんなが踊ります。地域によっては、初盆の家を回って踊るところもありました。

f:id:shins2m:20190803191125j:plain盆踊りがスタートしました

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祭りだヨ、全員集合!

 

今は先祖供養という色合いよりも、夏祭りの行事の1つになりましたが、老若男女が音楽で心を1つにして踊る様を見ていると、そこには地域社会のつながりを感じます。小袖や浴衣など、日本の伝統衣装に身を包み、一心不乱に手足を動かして踊れば、わたしたちを遠いご先祖さまと結びつけてくれます。まさに、「血縁」と「地縁」を結び直してくれる盆踊りは、わたしたち日本人にとって必要なものだと言えます。


これがサンレーの祭りだよ〜♪

f:id:shins2m:20190803194328j:plain縁日コーナーの「射的」

f:id:shins2m:20190803191805j:plain縁日コーナーの「シュートゲーム」

f:id:shins2m:20190803192342j:plain縁日コーナーの「ヨーヨー釣り」

f:id:shins2m:20190803192359j:plain縁日コーナーの「金魚すくい

f:id:shins2m:20190803194232j:plain屋台コーナー

f:id:shins2m:20190803194258j:plain屋台コーナー

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日が暮れて・・・

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盆踊りのようす

f:id:shins2m:20190803201555j:plainかわいいキッズダンス♪

 

この日の盆踊りでは、元気キッズのパワフルステージ「キッズダンス」などのイベントも行われました。また「縁日コーナー」として、スーパーボールすくい、金魚すくい、射的など。さらに「屋台コーナー」として、フライドポテト、焼きそば、かき氷、唐揚げなどが人気を呼んでいました。

f:id:shins2m:20190803194136j:plainさあ、これから櫓の上へ!

f:id:shins2m:20190803194828j:plainみなさん、こんばんは!

 

この日はサンレーグランドホテルの中庭に櫓が組まれ、わたしは櫓の上で主催者挨拶をしました。浴衣を着て雪駄を履いたわたしは、本当は「雨上がり決死隊の宮迫です!」とか「ロンドンブーツ3号です!」とかのギャグをぶちかましたかったのですが、不謹慎なので止めておきました。(苦笑)まずは、「みなさん、こんばんは!」と言ってから、次のように挨拶しました。
「毎日、お暑うございます。本日は、サンレー盆踊り大会にご来場いただきましてまことにありがとうございます。開催にあたりましては地元大膳地区婦人会の皆様方に大変なご尽力を賜わり感謝申し上げます」

f:id:shins2m:20190803194856j:plain主催者挨拶のようす

 

それから、わたしは以下のように述べました。
「盆踊りは、お盆に帰ってきたご先祖様の霊をお迎えする鎮魂の年中行事ということは皆さんもご存知だと思いますが、昔盆踊りは同時にみんなで集まって踊ることで地域の結びつきを深めたり、また、帰省してきた人との再会の場や、男女の出会いの場としての役割を果たしていました。本来盆踊りは旧暦7月15日の満月の夜に行われていましたので、先祖が見下ろす明るい月明かりの下で、子供たちははしゃぎ、大人たちは様々な思いを胸に踊っていたのです」
f:id:shins2m:20190803194959j:plain「盆踊り」について話しました

 

さらに、わたしは「そんな盆踊りも、地元である大膳地区のようにしっかりとしたコミュニティがあり、婦人会のように志ある方々がいらっしゃる地区を除いては、残念ながら行うところがどんどんと減っています。そんな状況を憂い、この盆踊りを開催させていただきました。この盆踊りが、地域の結びつきを少しでも深め、男女の出会いの場となり、そして結婚にまでつながったりすれば最高だと思います。ぜひ、盆踊りで有縁社会を再生いたしましょう!」と述べました。

f:id:shins2m:20190803203739j:plain大いにお楽しみ下さい!

 

そして最後に、わたしは「ここサンレーグランドホテル北九州紫雲閣)は、今年6月4日に災害時の避難所として北九州市と提携しました。これは、災害時にこのサンレーグランドホテルが避難所となることを北九州市に認められたというものですが、いざという時に普段行ったことがない場所に避難するのは非常に難しいです。なので、我々は常日頃からこういったイベントや、カルチャー教室などを開催して皆様に少しでもこの場所のことを覚えて頂こうと励んでいます。サンレーは、これからも地域の皆様にお役に立てる企業を目指し頑張ってまいりたいと考えております。今後ともお引き立ての程お願いいたします。今宵は盆踊りで大いにお楽しみください」と述べました。

f:id:shins2m:20190803195005j:plainこれがサンレーの祭りだよ、わっしょい!


本当は、挨拶の後で、ブログ「まつり」で紹介した歌をカラオケで歌うというプランもあったのですが、この後はプロの歌手のショーが控えていることもあり、水を差してもいけないという配慮、また、主催者の社長が変に目立つのもおかしいという常識から断念しました。それでも、「これがサンレーの祭りだよ、わっしょい!」と叫んだところ、思いもかけず大きな拍手が起こり、感激しました。最後は「本日は誠にありがとうございました!」と述べて、櫓を降りました。

f:id:shins2m:20190803200945j:plain熱唱する中西奈津子さん

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お楽しみ抽選会の結果発表

f:id:shins2m:20190803203743j:plain盆踊りのようす

f:id:shins2m:20190804004802j:plain盆踊りフィナーレ!

 

主催者挨拶の後は、「New演歌の歌姫」として知られる那珂川仁美さんによる歌謡ショー、豪華賞品が盛りだくさんの「お楽しみ抽選会」、そして盆踊りで大いに盛り上がりました。じつは、もう20年も前に小倉紫雲閣では「大盆踊り大会」を開催し、大きな話題となりました。来年は、ぜひ、小倉でも開催を予定したいですね。ということで、紫雲閣グループは、これからも地域社会で愛されるコミュニティセンターを目指します!

f:id:shins2m:20190803195804j:plain地域社会で愛されるコミュニティセンターを目指します!

 

2018年8月4日 一条真也

『仏教抹殺』

仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか (文春新書)

 

一条真也です。
3日(土)の夜、北九州市八幡西区のサンレーグランドホテルで行われるサンレー主催の「盆踊り大会」に参加し、櫓の上から主催者挨拶いたします。
『仏教抹殺』鵜飼秀徳著(文春新書)を読みました。
「なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」というサブタイトルがついています。著者は、わたしが「仏教界の予見者」と呼ぶジャーナリスト、浄土宗正覚寺副住職で、1974年京都市右京区生まれ。成城大学文芸学部卒業。報知新聞社、日経BP社を経て、2018年1月に独立。一方、僧侶としての顔も持つ。一般社団法人「良いお寺研究会」代表理事東京農業大学非常勤講師。著書にブログ『寺院消滅』ブログ『無葬社会』ブログ『「霊魂」を探して』で紹介した本があります。

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本書の帯

 

本書の帯には破壊された阿修羅像の写真とともに「廃仏毀釈――隠された明治の暗部」「興福寺阿修羅像、五重塔も消滅の危機にあった!」「鍵島、松本、伊勢、東京、奈良、京都など現地徹底取材」と書かれています。

f:id:shins2m:20190626214410j:plain本書の帯の裏 

 

また帯の裏には破壊された地蔵の写真とともに「文化財、歴史史料も灰となった暴挙の実態が明らかに!」「比叡山から上がった‟火の手”」「廃仏のルーツは水戸黄門」「歴史まで破壊した薩摩の廃仏」「すべての寺が消えた村」「青山霊園神仏分離によって造られた」「焚き火にされた天平の仏像」「天皇家菩提寺も消滅 ほか」と書かれています。

 

カバー前そでには、以下のように書かれています。
「明治百五十年でも語られない闇の部分、それが廃仏毀釈だ。神社と寺院を分離する政策が、なぜ史上稀な宗教攻撃、文化財破壊にエスカレートしたのか?日本各地に足を運び、埋もれた歴史を掘り起こす近代史ルポルタージュ

 

また、アマゾン「内容紹介」は以下の通りです。
「文明開化の明治にも光と影がある。その影の部分を象徴するのが「廃仏毀釈」である。もともとは神仏習合状態にあった神社と寺院、神と仏を分離する政策だったのだが、寺院、仏像などの破壊から、暴動にエスカレート。完全に仏教を殲滅してしまった地域もあった。寺に保管されていた記録、史料などが焼かれたことで、その地域の「歴史」も消えてしまったケースすらある。日本史上でも例が少ない大規模な宗教への攻撃、文化財の破壊はなぜ行なわれたのか? 話題作『寺院消滅』などを著し、自らも僧侶である著者が、京都、奈良、鹿児島、宮崎、長野、岐阜、伊勢、東京など日本各地に足を運び、廃仏毀釈の実態に迫った近代史ルポ。百五十年のときを経て、歴史が甦る!」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一章 廃仏毀釈のはじまり――比叡山、水戸
第二章 維新リーダー藩の明暗――薩摩、長州
第三章 忖度による廃仏――宮崎
第四章 新政府への必死のアピール――松本、苗木
第五章 閉鎖された島での狂乱――壱岐佐渡
第六章 伊勢神宮と仏教の関係――伊勢
第七章 新首都の神仏分離――東京
第八章 破壊された古都――奈良、京都
「結びにかえて」
「参考・引用資料」

 

「はじめに」では、2018年(平成30年)が明治維新から150年目となる記念すべき年であり、同時に「廃仏毀釈150年」でもあることを指摘し、著者は以下のように述べています。
「日本の宗教は、世界の宗教史の中でも特殊な形態を辿ってきた。中世以降江戸時代まで、神道と仏教がごちゃまぜ(混淆宗教)になっていたのである。祈禱もするし、念仏も唱えるし、祓も、雨乞いもする。寺と神社が同じ境内地に共存するのも当たり前。神に祈るべき天皇が出家し、寺の住職を務めた時代も長かった」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「このように、日本では実におおらかな宗教風土が醸成されてきたのだ。しかし、明治維新を迎えたとき、日本の宗教は大きな節目を迎える。新政府は万民を統制するために、強力な精神的支柱が必要と考えた。そこで、王政復古、祭政一致の国づくりを掲げ、純然たる神道国家(天皇中心国家)を目指した。この時、邪魔な存在だったのが神道と混じり合っていた仏教であった。新政府は神と仏を切り分けよ、という法令(神仏分離令)を出し、神社に祀られていた仏像・仏具などを排斥。神社に従事していた僧侶に還俗を迫り、葬式の神葬祭への切り替えなどを命じた。この時点では、新政府が打ち出したのはあくまでも神と仏の分離があり、寺院の破壊を命じたわけではなかった。だが、時の為政者や市民の中から、神仏分離の方針を拡大解釈する者が現れた。そして彼らは、仏教に関連する施設や慣習などを悉く毀していった。これが廃仏毀釈の概要である」

 

それは文化財と歴史の破壊でもあったとして、著者は以下のように述べます。
廃仏毀釈によって日本の寺院は少なくとも半減し、多くの仏像が消えた。哲学者の梅原猛氏は、廃仏毀釈がなければ国宝の数はゆうに3倍はあっただろう、と指摘している。
国の財産が失われただけではない。廃仏毀釈は、日本人の心も毀した。何百年間にもわたって仏餉(仏前に供える米飯)を供え続け、手を合わせ続けた仏にたいし、ある時、日本人は鉄槌を下したのである。僧侶自らが率先して、神職への転職を申し出て、本尊を斧で叩き割った事例も見られた。2001(平成13)年、タリバンバーミヤンの磨崖仏を爆破した映像は記憶に新しい。なんという畏れ知らずの野蛮な行為なのか、と世界中の人々が憤慨した。だが、同様の行為を明治の日本人も行っていたのである」

 

第一章「廃仏毀釈のはじまり――比叡山、水戸」の冒頭では、「神と仏を切り分けた神仏分離令」として、著者は述べます。
「仏と神の切り分けは、1868(慶応4)年3月以降、新政府による法令の布告という形で、矢継ぎ早に実施されていった。1868(明治元)年10月まで断続的に続けられた一連の12の布告の総称を、神仏分離令と呼んでいる」

 

また、「『肉食妻帯』と上知令」として、著者は「新政府は仏教の力を削ぐ必要性はあった。これまで日本は、ムラ社会の見えざるコミュニティの中で仏教を中心とした檀家制度を敷き、寺院は時に怪しげな儀式を通じて人々を惑わす存在にもなっていた。純粋な神道による強い国家づくりを推し進めるためには、悪習であった仏教を徹底的に弱体化せねばならなかった」と述べています。

 

さらには「肉食妻帯」について、こう述べています。
「一般人の中にはいまでも『お坊さんが肉を食べてもいいのか』『結婚してもいいのか』という違和感を抱いている人は少なくないだろう。従来『肉食妻帯』を認めていた浄土真宗を除き、確かに江戸時代までそれらの行為は御法度だった。しかし、明治に入って僧侶の肉食、妻帯などを『国家』が認めるという、新たな局面に入っていく」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「伽藍(寺院の建物)などの物的破壊に加え、僧侶を俗化させる一連の弾圧によって、みるみるうちに仏教は弱体化してゆく。葬式の際にだけ寺を必要とする『葬式仏教』化が加速していくのもこの頃からだ。現在の、仏教者にたいする『金儲け主義』といった批判の源流をたどれば、この明治の神仏分離政策に行き着くだろう。さらに明治維新時の一連の仏教弾圧のなかでも、とくに致命的だったのが上知令であった。上知とは土地の召し上げを意味する」

 

「廃仏のルーツは水戸黄門」として、全国各地で展開された廃仏毀釈の中でも水戸藩廃仏毀釈がもっとも早い時期に実施されたと指摘し、著者は「江戸時代前期にはすでに、藩内寺院の破却や僧侶への還俗命令などに着手していたのである。ただし水戸藩の前期廃仏毀釈の特徴は、民衆運動としての破壊行為ではなく、無秩序に増えすぎた堕落寺院の統廃合にあった。いわば、寺院と僧侶の『リストラ』である」と述べています。

 

この時期の水戸藩廃仏毀釈は、寺社改革とも呼ばれるものでした。著者は以下のように述べます。
「当時、藩内寺院は由々しき問題を抱えていた。1630年ごろ(寛永年間)まで、無秩序に寺院が建立され、僧侶の数も膨れ上がり、正しい信仰が失われていたという。由緒不明の怪しげな寺院が目立ち、治安上の問題も発生した。とくに加持祈禱などの呪術めいた儀式をやる密教系宗派の処遇は、光圀にとって悩みのタネであった。庶民がこうした寺院に集い、迷信や妄言などに惑わされ始めたからである。こうした諸問題の元凶は中世以来、仏教を自由放任にしてきたためであるとして、当時、儒学者の間で仏教批判、神仏習合の否定、神道の復興などが議論されていく。光圀自身、若くして儒学に傾倒していた。当時の儒学界には強い仏教否定の思想が見られる。

 

第二章「維新リーダー藩の明暗――薩摩、長州」では、「鹿児島、宮崎に寺院が少ない理由」として、著者は以下のように述べます。
「全国一、寺院数が少ないのは沖縄県で87カ寺である。沖縄の事情は本土とは異なる。15世紀から1879(明治12)年まで琉球王国という別の国家であったからだ。琉球は1609(慶長14)年、薩摩藩琉球に攻め入ると、その後は薩摩藩支配下となった。琉球では個々の僧侶による仏教の布教が許されず、檀家制度が導入されなかった。寺は王国から俸禄を受給され、官寺としてのみ存在した。沖縄における葬送の担い手は伝統的に、地域における司祭者であるノロや、土着シャーマンであるユタであった。寺院の数が極端に少ないのは、そうした歴史的、慣習的背景がある。
また、鹿児島の隣、宮崎県の寺院数は鹿児島よりも少ない344となっている。現在の宮崎県の一部は、かつて薩摩藩が治めており、廃仏毀釈の影響を多分に受けていた」

 

第三章「忖度による廃仏――宮崎」では、「葬式の半分は神葬祭」として、著者は以下のように述べています。
「ここ日南市を中心に宮崎県南部地方の葬式の約半分が神葬祭形式で実施されるという。宮崎ではそもそも寺がほとんど存在しないので、現在でも神式で葬式をすることが定着しているのだ。火葬場での骨上げや納骨も神職が立ち会う。神道では死は穢れであり、神主が儀式で死体に直接触れることはまずない。だが、宮崎の習俗では神職が、まさに揺りかごから墓場まで面倒を見ているのである」

 

続けて、著者は「葬式の直後に、社殿に上がることは(タブーとされているので)ないですが、宮崎の神葬祭では多くは仏式を踏襲しているのが特徴です。神道では、仏教の年忌法要にあたる式年祭を、一年祭、三年祭と実施し、その後は5の倍数の年でやるのが一般的です。しかし、宮崎では三年祭以降は仏式と同じ七年祭(七回忌)、十三年祭、十七年祭・・・・・・と続き、そして、五十年祭を機に御霊上げ(弔い上げ)となります」という証言を紹介し、通常は寺院でやってきた葬送儀礼が、宮崎では神社に置き換えられていると述べます。

 

第六章「伊勢神宮と仏教の関係――伊勢」では、著者は伊勢神宮について述べます。「神宮は有史以来、地元伊勢のみならず全国から参詣者を集め、発展してきたことは申すまでもない。伊勢信仰の広がりは、神宮での様々な祭祀の際に京都から遣わされた勅使らやお供の人々が、都に戻った際、神宮のことを口伝で広め、憧れを募らせていったことに起因する。御師は自らの邸宅に伊勢参りの客を宿泊させ、神宮の案内人を務めるほか、伊勢礫や御祓大麻(御札)の配布を行った。同時に病気平癒などの祈禱や、自宅での御神楽の奉納などの宗教行為もやった。つまりは、ツアーコンダクターと宗教的職能者としての役割を併せ持った集団でもあった」

 

続いて、「『御師』の廃絶」として、著者は以下のように述べています。
「現在に至る伊勢ブランド構築の最大の立役者が御師であった。幕末期は、当時の人口およそ3000万人に対して、300万人程度が伊勢に参詣したとも伝えられており、ある意味、御師が伊勢の経済を支えていたと言える。
だが、1871(明治4)年、新政府は神仏分離政策の一環として、神宮の改革に伴う御師制度の廃止を通達。当時、神仏分離政策によって、祈禱手掛ける僧侶や修験道の山伏は、神仏の要素が混淆しているとして排除されていた。御師もまた、祈禱や神楽などを手掛ける民間の宗教的職能者であったために、廃絶になったと考えられる。御師の文化はここで途絶えてしまった」

 

続けて、以下のように述べられています。
「現在、伊勢市内には、一軒のみ御師邸が現存し、当時の様子をわずかに伝えている。伊勢市観光振興課によれば、廃仏毀釈後の明治期、伊勢の参拝者は150万人程度で推移していたという。江戸期の300万人から大幅に減少しているのは、御師の消滅との因果関係があったと考えて差し支えないだろう。廃仏政策が、伊勢神宮にまでマイナスの影響を与えてしまったのである」

 

第七章「新首都の神仏分離――東京」では、「芝公園青山霊園神仏分離で造られた」として、著者はこう述べます。
「東京ではそれまで仏式でやっていた葬式を神葬祭に切り替える政策が大々的に実施された。実は、青山霊園廃仏毀釈の産物である。神葬祭の場合は土葬で埋葬するのが通例であったため、広大な敷地を必要とした。そのための墓地として、東京都内に整備されたのが港区にある都立青山霊園だったのである。明治初期には神葬祭用墓地として、青山霊園の他にも雑司ヶ谷、谷中などの9ヵ所の公営霊園が整備された。
しかし、公衆衛生上の問題や、人口の急激な増加による墓地用地の確保などの問題が生じたために、1875(明治8)年には火葬が解禁になった。その後、土葬を伴う神葬祭は激減し、現在でも神葬祭メインでやっている地域は先述の宮崎市や岐阜・東白川村などに限られる」

 

第八章「破壊された古都――奈良、京都」では、「天皇の葬儀は仏式だった」として以下のように述べられています。
「皇室ゆかりの寺の最たる存在が、東山に位置する真言宗泉涌寺派総本山の泉涌寺だ。泉涌寺では、多くの天皇の墓や位牌が祀られており、天皇家菩提寺と位置づけられる。1242(仁治3)年、四条天皇が12歳の若さで崩御する。その際、泉涌寺で葬儀が実施されて以降、ここは『皇室の御寺』と呼ばれるようになった。さらに、南北朝時代の1374(応安7)年に後光厳天皇上皇)が同寺で火葬されたのを皮切りに以降、9代続けて天皇の火葬所となった。江戸時代の歴代天皇後水尾天皇から孝明天皇)、皇后はすべて泉涌寺に埋葬されている。泉涌寺の霊明殿には歴代天皇の位牌である尊牌を安置、朝夕のお勤めの際には同寺の僧侶によって、読経がなされる。各天皇の祥月命日には皇室の代理として、宮内庁京都事務所からの参拝が行われるという」

 

また、天皇の葬儀について以下のように述べられます。
天皇の弔いは、長年、火葬であった。厳密に言えば、中世以降の天皇は、仏式の火葬と神道の建前である土葬が混在する形で弔われていた。第108代の後水尾天皇以降は表向きには火葬、実質は土葬という不思議な形態をとっていた。正式に土葬になるのは、明治天皇の父孝明天皇からである。しかし、孝明天皇の葬式は神仏分離令より前であったために、仏式で行われた」

 

続けて、著者は以下のように述べます。
「それが、完全に神葬祭に切り替わり、また埋葬法も土葬になるのは明治天皇以降である。明治天皇は『幼い頃に過ごした京都に』という遺言をもとに、京都・伏見に陵墓が造られた。明治天皇陵は古代の天皇陵に回帰した巨大な上円下方墳であった。続く大正天皇昭和天皇、そしてその皇后は東京・八王子市の武蔵陵墓地に、やはり巨大な上円下方墳形式で祀られている」

さらに続けて、著者はこう述べるのでした。
「実は今上天皇崩御後は、土葬になる予定であった。ところが、宮内庁は2013年(平成25)年、天皇・皇后の意向を踏まえ、火葬にすることを発表。陵墓の大きさも2割程度縮小するという。天皇陵は、時代時代の宗教事情によって常に変化してきているのだ」
こうした史実から見ても、天皇家は明らかに仏教徒でした。

 

「結びにかえて」では、「四つの要因」として、廃仏希釈の要因は主に①権力者の忖度②富国策のための寺院利用③熱しやすく冷めやすい日本人の民族性④僧侶の堕落となっています。これを踏まえて、著者は述べます。
「江戸時代、寺院の数は人口3000万人に対し、9万カ寺もあった。それが廃仏毀釈によって、わずか数年間で4万5000カ寺にまで半減した。それが現在、7万7000カ寺(人口1億3000万人)にまで戻してきている。厳しい言い方をすれば、復興が叶わなかった寺院は、そもそも社会にとって『不必要な』寺院であったのかもしれない」

 

そういう意味では、「廃仏毀釈によって寺院は人口比で適正数に落ち着いた」とも言えるのではないかとして、著者は述べます。
「一連の調査を終え、私はこうも考える。明治以降も仏教が消滅することなく、今日まで続いてきているのはある意味、廃仏毀釈があったからではないか。これほどまでに多大な犠牲を払ったことは極めて残念なことであるが。これまで幕府によって特権を与えられ、一部では堕落もしていた仏教界が、はからずも綱紀粛正を迫られ、規模が適正化するとともに、社会における仏教の役割が明確化されたという『プラスの側面』も、廃仏毀釈にはあったのではないか、と考えるのだ」


著者の鵜飼秀徳氏と

 

そして最後に、著者はこう述べるのでした。
「いま、日本の各地では都市への人口の流出や核家族化に伴って、寺院が維持できなくなっている。また、死生観の変化によって葬送の希薄化が進んでいる。そこには僧侶の堕落も要素として絡んでいる。実は、『寺が消える』という点においては、かつての廃仏毀釈と、現在の寺院を取り巻く状況とはさほど変わらない。私はとくに都会人によく見られる“僧侶に対する反発”は、「第二の廃仏毀釈」の前兆現象とみている。社会にとって必要とされる寺であるためには、僧侶がどうあるべきか。150年前の惨劇が教えてくれることは決して少なくない」
現在が第二の「廃仏毀釈の時代」であるという見方は卓見ですが、「寺院消滅」や「無葬社会」の具体的解決案のヒントを見つけるのは、なかなか難しいようですね。一般社団法人「良いお寺研究会」代表理事でもある著者の今後の活躍に期待しています。

 

仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか (文春新書)

仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか (文春新書)

 

 

 2019年8月3日 一条真也

『すぐ死ぬんだから』

一条真也です。
125万部の発行部数を誇る「サンデー新聞」の最新号が出ました。同紙に連載中の「ハートフル・ブックス」の第136回が掲載されています。今回は、『すぐ死ぬんだから』内館牧子著(講談社)を取り上げました。

f:id:shins2m:20190731195314j:plainサンデー新聞」2019年8月3日号 

 

「新・終活小説」と謳われた本書は、80歳を間近にした女性主人公をめぐる、外見に関する物語です。忍(おし)ハナは自他共に認めるオシャレな高齢女性で、夫の岩造もそんなハナを自慢にしています。物語前半には、岩造とハナの夫婦の仲の良さがこれでもかというほど描かれています。

 

ある夜、二人は自宅マンションのベランダでビールを飲みながら、「夫婦は半端な縁じゃない」などと語り合っていました。そのとき、ハナには岩造の顔がお婆さんのように見えました。彼女は次のように思います。
「男は年を取るとどんどんお婆さん顔になり、女はどんどんお爺さん顔になる。テレビに出てくる有名人でもだ。私は前からそう思って見ていた。岩造が年を取ったということだろうか。私もお爺さん顔になり始めているのだろうか。悲しすぎる。どんな努力をしても、絶対に阻止する」

 

しかし、ハナがビールのツマミを作って、岩造のもとへ持って行ったところ、岩造の意識はありませんでした。すぐに救急車を呼んで医大の附属病院に連れて行きます。緊急手術に向けて数々の検査が行われましたが、その甲斐なく、岩造は息を引き取りました。死因は硬膜下血腫でした。

 

それから、ハナの記憶は飛びました。気づいたら、岩造の死から3日も経過していて、通夜も葬儀もすべて終わっていたのです。それは逆行性健忘症と呼ばれるものの一種で、あまりにも辛い経験をしたとき、その記憶を脳が忘れてしまうのだそうです。ハナは、岩造が自分のショックを案じ、一番辛い3日間だけ記憶を飛ばしてくれたのだと考えました。そして、「あの人ならやってくれそうだ。私を『自慢』と言い、『ハナと結婚したことが人生で一番の幸せだった』と、晩年まで言い続けた人だ」と思うのでした。

 

夫を失ったことを悲しんでいたハナでしたが、その後、岩造の遺言状が見つかり、そこには思いもよらない岩造の秘密が書かれていました。ここから先はネタバレになるので、詳しいことは書けません。でも、ここから一気に物語は加速して、面白くなっていきます。そして、さまざまな出来事があった後で、覚悟を決めたハナはさらに外見に磨きをかけて輝きを放つのでした。

 

「終活から修活へ」を提言しているわたしはアンチエイジングという考え方が嫌いです。しかし、高齢者が外見に注意を払ってオシャレをすることはそれとは別問題で大切なこと。本書を読んで、そのように思いました。外見も内面も美しいことを心がければ、それは美しい人生につながっていくのでしょう。すべての高齢者に読んでいただきたい名作です。

 

すぐ死ぬんだから

すぐ死ぬんだから

 

 

 

2019年8月3日 一条真也

盆踊り大会のお知らせ

一条真也です。
毎日、嫌になるくらい暑いですね。
ブログ「コミュニティセンター化に挑む!」などでも紹介しましたように、わがサンレーでは、有縁社会を再生するためのコミュニティセンターの展開を図っています。明日の3日(土)には、北九州市八幡西区のサンレーグランドホテルの中庭で、「盆踊り」大会が盛大に開催されます。当日は、昨年同様にわたしも櫓の上から主催者挨拶をさせていただきます。もしかしたら、今年はDVDの完成記念に浴衣姿で「まつり」を熱唱するかもしれません。みなさま、どうぞ、お誘いあわせの上、ご参加下さい!

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ご家族やご友人の皆様とお気軽にご参加ください!

 

屋台コーナー

◎フライドポテト

◎焼きそば

◎かき氷

◎唐揚げなど

 

縁日コーナー

◎スーパーボールすくい

金魚すくい

◎射的など

※内容は急遽変更になる場合がございます。

予めご了承ください。

 

2019年 8/3 [土]

18:30〜20:30 雨天中止

場所/サンレーグランドホテル

 

浴衣でご来場の皆様にフード券プレゼント

※お一人様1枚限り

当日のイベント

元気キッズのパワフルステージ!

キッズダンス

テレビ出演多数!!民謡日本一!

  中西奈津子 歌謡ショー

お楽しみアトラクション

豪華賞品がもりだくさん!

お楽しみ抽選会 当日、受付にて抽選券配布いたします!

サンレーグランドホテル TEL:093−601−1000

北九州市八幡西区大膳1−2−1

f:id:shins2m:20180804190951j:plain昨年の「盆踊り大会」のようす

f:id:shins2m:20190802111535j:plainキッズ・ダンスも大盛り上がり!

f:id:shins2m:20190802113129j:plain櫓の上での主催者挨拶

f:id:shins2m:20190802113148j:plain今年は「まつり」を歌うかも?

 

2019年8月2日 一条真也