石垣紫雲閣竣工式

一条真也です。
20日、東京から石垣島に入りました。ブログ「八重山第二紫雲閣起工式」で紹介した施設が「石垣紫雲閣」の名称で完成し、21日にその竣工清祓御祭の神事が行われました。場所は、沖縄県石垣市真栄里570-8です。

f:id:shins2m:20190620224345j:plain完成した「石垣紫雲閣

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石垣紫雲閣の前で

f:id:shins2m:20190621100857j:plain石垣紫雲閣の前は、さとうきび畑

f:id:shins2m:20190621100923j:plainざわわ、ざわわ、ざわわ・・・・・・

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前原支配人と

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控室のようす

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バス・ルームのようす

 

サンレーグループとしては、沖縄県で9番目、全国で79番目の(いずれも完成分)のセレモニーホール(コミュニティセンター)です。この日は、地元を代表する神社である出雲大社沖縄分社の東政廣様をお招きしました。開式の後、修祓之儀、降神之儀、献饌、祝詞奏上、清祓之儀を行いました。

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本日の神饌

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竣工神事のようす

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一同礼!

f:id:shins2m:20190621104449j:plain清祓之儀のようす

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この日は、四拍しました

f:id:shins2m:20190621105018j:plain拝礼しました

 

それから、玉串奉奠です。祭主に続いて、最初に株式会社サンレー社長であるわたしが玉串を奉奠しました。この日は出雲大社の作法に合わせて、二礼四拍一礼でした。それから、関係各位のみなさんが次々に玉串を奉奠しました。その後、撤饌、昇神之儀、そして閉式と、滞りなく竣工清祓神事を終えました。

f:id:shins2m:20190621105725j:plainちねん設計様に感謝状を贈呈

f:id:shins2m:20190621105903j:plain大進建設様に感謝状を贈呈

 

神事の後は、感謝状贈呈です。わたしは、設計を担当して下さった「ちねん設計」の知念様、建設を担当して下さった「大進建設」の石垣社長に心をこめて感謝状を金一封を添えて贈呈させていただきました。

f:id:shins2m:20190621110123j:plain主催者挨拶をしました

 

それから、主催者挨拶です。
わたしは、次のように挨拶しました。
「本日は晴天、このように立派なホールを建設できて、本当に嬉しく思います。これで、会員様に満足のゆくサービスを提供することができます。ぜひ、新施設で最高の心のサービスを提供させていただき、この地の方々が心ゆたかな人生を送り、人生を卒業されるお手伝いをさせていただきたいと願っています」

f:id:shins2m:20190621110145j:plain石垣島について話しました

 

また、わたしは石垣島について以下のように述べました。
石垣島琉球列島の最南端に位置する八重山諸島に属し、自然性の高い亜熱帯性常緑広葉樹林に覆われています。島の周辺にはサンゴ礁が発達し、多種のサンゴ類と熱帯性魚類を始めとする豊かな海洋生物が優れた海中景観を展開しています。また、白砂と灰岩の海蝕崖からなる自然海岸は、背後の山地部と前面に広がるリーフと一体となって独特の景観を構成するとともに、河口部の一部にはマングローブ林が見られるなど、多様性に富む亜熱帯の景観を特徴とします。石垣島は方言で「イシャナギシマ・イシャナギラシマ」といい、「石の多いところ」という意味です。

f:id:shins2m:20190621110238j:plain石垣島の星天について話しました

 

続けて、わたしは、石垣島の星天について述べました。
石垣島は日本でトップクラスの星空が見えることができ、別名「星の島」や「スターアイランド」などとも呼ばれます。国内唯一の「星空保護区」として国際認定されるなど、星空観測するのに最適な自然環境になっています。現地の言葉で「ティンガーラ」と呼ばれる天の川は一年中石垣島の夜空を彩り、毎日のように流れ星が見えます。また、本州では見ることのできない「南十字星」も見ることができます。

f:id:shins2m:20190621110331j:plainさとうきび畑」について話しました

 

さらに、わたしは「この石垣紫雲閣の前には、見事なさとうきび畑が広がっています。歌手の森山良子さんが歌って有名な『さとうきび畑』という名曲があります。作曲家の寺島尚彦さんが1964年に本土復帰前の沖縄を訪問した際、摩文仁の丘を観光して着想した作品です。第二次世界大戦末期の沖縄戦で戦死した人々が眠る、夏のさとうきび畑に流れる風の音が繰り返されます」と述べました。

f:id:shins2m:20190621110457j:plainさとうきび ざわわざわわと風に揺れ 青い空には紫の雲

そして、わたしは「第二次世界大戦を通して、沖縄の人々は日本で最も激しい地上戦を戦い抜きました。激戦沖縄戦を通して、日米両国、無数の人々が敵味方殺し合い、そして集団自決するという悲しい事実もありました。数え切れないほど多くの戦死者・自決者たちが今なお『さとうきび畑』の下に眠っています。名曲『さとうきび畑』の中では『ざわわざわわ』という風の音が66回も繰り返されますが、まさに慰霊と鎮魂の歌であり、わが石垣紫雲閣に最もふさわしい歌であると思います。この魂の港から多くの方をニライカナイへ導いてさしあげたいと願うばかりです」と述べ、最後に以下の道歌を披露しました。

 

さとうきび ざわわざわわと風に揺れ

   青い空には紫の雲(庸軒)

 

f:id:shins2m:20190621110649j:plain前原支配人の決意表明を受けました

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集合写真を撮影しました

 

その後、前原支配人より、この地の方々の人生の卒業式を心をこめてお世話させていただき、地域に愛される会館をめざしますという力強い決意を受け取りました。決意表明の後は、参加者全員で集合写真を撮影しました。

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直会でも挨拶しました

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石垣島への想いを述べました

 

それから直会が開かれました。神事に続いて、わたしが主催者挨拶をしました。わたしは、佐久間会長やわたしがいかに石垣島を愛しているか、そしてサンレーという会社がいかに沖縄の文化と相性が良いかということを「SUNRAY(太陽光)」「産霊」「讃礼」の3つのキーワードに添ってお話しました。そして、「セレモニーホールからコミュ二ティセンターへ。どうか、この地域の人間関係を良くするお手伝いをさせていただきたい」と述べました。

f:id:shins2m:20190621113012j:plain神酒拝戴のようす

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本日のお弁当

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直会のようす

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中締めの挨拶をする小久保本部長

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最後は「末広がりの五本締め」で

f:id:shins2m:20190621115045j:plainお疲れ様でした!

 

主催者挨拶の後は、出雲大社沖縄分社の東神職の発声で神酒拝戴となりました。直会は賑やかに進行していきましたが、最後はサンレー沖縄の小久保本部長の音頭によるサンレー恒例の「末広がりの五本締め」でお開きとなりました。なお、本日の「八重山毎日新聞」朝刊に竣工広告が掲載されました。開業記念プレゼントは、『決定版 冠婚葬祭入門』(PHP研究所)。30名様にプレゼントさせていただきます。

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八重山毎日新聞」2019年6月21日朝刊

 

 

直会の終了後、わたしは石垣空港に向かって、そこからANA1870便で福岡に飛びました。夜は小倉でロータリークラブの新旧理事懇談会に出席する予定です。ハードな毎日ですが、「天下布礼」のために頑張ります!

 

2019年6月21日 一条真也

変わるセレモニーホール

一条真也です。
石垣島に来ています。これから石垣紫雲閣の竣工式に施主として参加します。ブログ「テレビ取材」で紹介したように、14日にテレビ東京系TVQの「ふくサテ!」という番組のインタビュー取材を受け、ブログ「北九州市災害時支援協定調印式&記者会見」で紹介した北九州市と株式会社サンレーの間で結んだ「災害時における施設の使用に関する協定」を中心にお話しました。20日の夕方、放送されました。

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TVQ「ふくサテ!」より 

f:id:shins2m:20190621092318j:plainTVQ「ふくサテ!」より

f:id:shins2m:20190621092338j:plainTVQ「ふくサテ!」より

f:id:shins2m:20190621092400j:plainTVQ「ふくサテ!」より

f:id:shins2m:20190621092455j:plainTVQ「ふくサテ!」より

f:id:shins2m:20190621092520j:plainTVQ「ふくサテ!」より

f:id:shins2m:20190621092614j:plainTVQ「ふくサテ!」より

f:id:shins2m:20190621092633j:plainTVQ「ふくサテ!」より

f:id:shins2m:20190621093156j:plainTVQ「ふくサテ!」より

f:id:shins2m:20190621092724j:plainTVQ「ふくサテ!」より

f:id:shins2m:20190621092758j:plainTVQ「ふくサテ!」より

f:id:shins2m:20190621092911j:plainTVQ「ふくサテ!」より

f:id:shins2m:20190621093002j:plainTVQ「ふくサテ!」より

 

「葬儀をする施設」から「葬儀もする施設」へ。
セレモニーホールからコミュニティセンターへ。
互助会の理念である「相互扶助」の実現をめざして、そして地域に不可欠な施設としてこれからも地域に貢献させていただきたいと願っています。

 

2019年6月21日 一条真也

具志堅用高記念館

一条真也です。
石垣島に来ています。
20日、沖縄県石垣市新川2376番地にある「具志堅用高記念館」を訪れました。

f:id:shins2m:20190620154207j:plain具志堅用高記念館の前で
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カンムリワシを背に

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入口を入ったところで

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館内のようす


具志堅用高といえば、元WBA世界ライトフライ級王者です。日本のボクシング史に燦然と輝く世界戦13連続防衛を果たした石垣市出身の英雄です。2015年に国際ボクシング名誉の殿堂オールドタイマー部門に選出されました。

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石垣島が生んだ英雄です!

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強烈なパンチでした!

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現役時代のコスチュームも展示

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具志堅のことなら何でもわかる!

 

Wikipedia「具志堅用高」の「概要」には、以下のように書かれています。
「ニックネームは『カンムリワシ』。生来のサウスポーだが、書き手は右手。ボクシングスタイルはファイタータイプ。血液型A型。トレードマークは独特のアフロヘアー(天然ではない)と口髭。入場テーマ曲はメイナード・ファーガソンの『Conquistador』(征服者)。 協栄ジム初代会長の金平正紀が具志堅の世界初挑戦の時に『100年に一人の天才』というキャッチフレーズで売り出した」と書かれています。

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2階のようす

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試合別に紹介

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栄光のトロフィーの数々

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リングとサンドバックがありました

 

館内には具志堅の巨大パネルや現役時代のリング・コスチューム、数々の名勝負が試合別に紹介され、チャンピオン・ベルトやトロフィーなども展示されていました。2階には本物のリングも設置され、その前にはサンドバックも吊り下げられていました。わたしは「明日のジョー」の主題歌を口ずさみながらサンドバックを何度か叩いてみましたが、とてもいい感じだったので、「今度、自宅にサンドバックを買って、毎日叩こうかな?」と思ったりしました。

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サンド~バックに~浮かんで~消える~♪

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自宅用サンドバックを買おうかな?


現在の具志堅用高は芸能界で活躍しています。数々のバラエティ番組に出演し、「ちょっちゅね」に代表される陽気なイメージと、独特のキャラクターで人気を集めています。2010年5月には、日本における元世界チャンピオンたちと、プロボクシング・世界チャンピオン会を設立しました。2014年に国際ボクシング名誉の殿堂オールドタイマー部門に選出され、2015年にはイクメン・オブ・ザ・イヤー・イクジイスポーツ部門を受賞しています。今では具志堅用高のことを「天然ボケの芸能人」としてしか認識していない若い人も多いそうですが、1人でも多くの方が「具志堅用高記念館」を訪れ、不世出の天才ボクサーの偉大さを知ってほしいものです。ちょっちゅね~!

 

2019年6月21日 一条真也

石垣島へ!

一条真也です。
20日の朝、羽田空港からANA91便で石垣島に飛びました。21日に行われる石垣紫雲閣の竣工式に施主として参加するためです。

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ANA91便で石垣島

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ANA91便の機内で

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機内では『結婚不要社会』を読みました

 

結婚不要社会 (朝日新書)

結婚不要社会 (朝日新書)

 

 

機内では、読書をしました。『結婚不要社会』山田昌弘著(朝日新書)という本です。「婚活」という言葉の生みの親である著者とはシンポジウムのパネリストとしてご一緒したことがありますが、結婚の定義について「性関係のペアリングに基づく恒常的関係」と、あまりにも淡泊に表現しているので苦笑しました。それにしても、結婚するのが困難な時代になって困ったものですね。

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石垣空港に着きました

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気温が33度もありました

 

石垣空港に着くと、気温が33度もあって暑かったです。じつは昨日、東京でちょっとストレスを感じる出来事があったのですが、南の島に来ると、さまざまな不安や悩みなどは消えていくような気がします。空港ではサンレー沖縄の小久保本部長と下野ブロック長が迎えに来てくれました。

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具志堅用高記念館に寄りました

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中はこんな感じです

 

かりゆし姿の下野ブロック長が「社長は格闘技がお好きなんですよね。具志堅用高記念館というのがあるのですが、よかったら見学されませんか?」というので、石垣紫雲閣を視察した後、石垣の英雄の記念館に寄りました。吊してあったサンドバックも叩きました。

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ホテルの客室から見えた石垣島の海

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かりゆしに着替えました

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第11管区の船着き場で(日活映画ではありません)

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海上保安庁の巡視艇を背に


その後、ホテルにチェックインしましたが、オーシャンビューの部屋で石垣島の美しい海がよく見えました。かりゆしに着替えた後は、海上保安庁の第11管区の船着き場に行ってみました。ここには尖閣諸島を巡視している巡視艇がたくさん停泊しています。

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この石垣牛を見よ!

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こりゃ、うまいサー!

 

夜は、サンレー沖縄のみなさんと一緒に石垣牛の名店「きたうち牧場」で会食しました。久々に美味しい石垣牛をたくさん食べて、波の音を聴きながら早く寝ました。昔から、疲れたときは肉を腹いっぱい食べるようにしています。
やはり、南の島は身も心も癒してくれます。

 

2019年6月20日 一条真也

『クーデター 80年代新日本プロレス秘史』

クーデター 80年代新日本プロレス秘史

 

 一条真也です。
『クーデター 80年代新日本プロレス秘史』大塚直樹著(宝島社)を読みました。著者は元新日本プロレスの営業部長で、長州力をエースにジャパン・プロレスを旗揚げした人物です。ブログ『証言 長州力「革命戦士」の虚と実』で紹介した本の内容と関連の深い一冊と言えます。新日本プロレスのクーデターに関しては、UWF分裂と並んでネタが出尽くした感がありますが、本書にはこれまで明かされなかった事実がたくさん明かされており、昭和プロレス・ファンならば読んでおいて後悔はしないと思います。 

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本書の帯

 

カバー表紙には著者の手書きの「日記」の写真が使われ、帯には「元新日本プロレス営業部長が初めて『激動の80年代』」「発掘された『日記』が語る真実」「◎猪木『失神』◎アントン・ハイセル◎タイガーマスク引退◎UWF設立◎『ジャパンプロレス』の設立と崩壊」と書かれています。 

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、以下のように書かれています。

◎「本多芸能スポーツ」で知ったプロレス興行の魅力

◎伝説の猪木vsアリ戦「ジャッジ・ペーパー」の真実

◎伝説の「噛ませ犬」発言が新日本にもたらした吉凶

◎IWGP決勝戦「猪木失神」事件の知られざる舞台裏

◎「アントン・ハイセル」以前にあった新日本分裂の伏線

◎18名の「血判状」が物語る新日本選手の「序列」

◎「タイガーマスク」と「佐山聡」の間にあったもの

新間寿「追放事件」とUWF設立に残された謎

ジャパンプロレスを作り壊した「バブル景気」

 

アマゾンの「内容紹介」には、こう書かれています。
「日本のプロレス・格闘技史における大きな分水嶺となった80年代新日本プロレスの分裂・移籍劇。初代タイガーマスクの引退、猪木の社長辞任、そして長州らの離脱とジャパンプロレスの設立、それらのすべてを知る立場にあった大塚直樹・元新日本プロレス営業部長が当時自身がつけていた『日記』をもとに真実を告白する。未公開の記述から初めて明かされるタイガーの引退、ジャパンプロレスの設立秘話などスクープ満載の書」

 

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」
第1章 70年代の新日本群像
第2章 黄金時代の光と影
第3章 同時多発クーデター
第4章 鎮圧された「乱」
第5章 ジャパンプロレスの野望
第6章 夢の跡
「あとがき」

 

「はじめに」で、著者は以下のように書いています。
「昭和のプロレスに明るい本書の読者であれば、1983年の新日本プロレスで起きたさまざまなできごとについて、ご存知の方も多いと思う。タイガーマスク佐山聡)の人気、そして長州、藤波のライバル抗争、さらにIWGPの創設など、リング内容も充実しテレビ中継も高視聴率をマークしていたはずの新日本で『クーデター』が起きた。その『首謀者』が他ならぬ私である」

 

新日本プロレス10大事件の真相

新日本プロレス10大事件の真相

 

 

 続けて、著者は以下のように書いています。
「このクーデター事件で、猪木さんが社長を辞任。坂口征二さんが副社長を辞任し、平取締役に降格。営業本部長の新間寿さんは追放的な退社を余儀なくされ、タイガーマスクは新日本を電撃退団した。私も新日本を退社し、猪木さんのアドバイスで『新日本プロレス興行』を設立。これが長州力を中心とする『ジャパンプロレス』につながっていく。私は後にUWF設立に動いた新間さんと並び、新日本の歴史上、初めて『団体を割った』人間の1人となったわけである」

 

80年代の新日本プロレスについて、著者は述べます。
「プロレス関連の雑誌記事、書籍、テレビ番組はいまもって『80年代の検証』をテーマにしたものが多く、当時フロントの最前線に身を置いていた私は、これまで何度となく証言を求められた。特に多かったものが、長州力佐山聡、そして前田日明といった当時新日本を飛び出していった選手たちに関する質問である」

 

続けて、前田をエースとして旗揚げしたUWFについて、著者はこう述べています。
「80年代に新日本から派生したUWFという団体は、日本における格闘技の歴史に重要な意味を残すことになるのだが、もし、1983年のクーデター事件で新間寿さんが新日本を退社していなかったならば、この団体は生まれていなかっただろう。まったくの結果論になるが、1983年から翌年にかけての新日本プロレスの混迷は、非常に多くの選手、関係者の『人生の岐路』となたばかりでなく、その後の日本のプロレス史、格闘技史にも多大な影響を与えることになった」

 

本書では、いろいろと驚愕の事実が明かされているのですが、わたしがもっとも驚いたのは、第1章「70年代の新日本群像」の「猪木―アリ戦『ジャッジ・ペーパー』の謎」でした。1976年6月26日、「格闘技世界一決定戦」としてアントニオ猪木モハメド・アリが戦いました。15ラウンドをフルに戦っても決着がつかず、判定の結果、引き分けとなりました。具体的なジャッジの内容は以下の通り。
遠藤幸吉 アリの勝ち(猪木72-アリ74)
◎遠山甲 猪木の勝ち(猪木72-アリ68)
ジーン・ラーベル 引き分け(猪木71-アリ71)

 

しかし、試合の2日前(6月24日)に「判定=15ラウンド終了したときは、レフェリー、ジャッジの合計得点の多いほうが勝者」という最終ルールが公表されていたのです。当時の新聞記事を見ると、確かにそう書かれています。このルールに従えば、3人の合計得点は猪木215-アリ213で猪木の勝ちでした。この問題は試合から40年も経過してから、「別冊宝島」編集部が気づき、著者に事実関係について質問してきたそうですが、わたしもこれには驚きました。当時のずさんなルール運営には呆れますが、それ以上に「本当は猪木が勝っていた」というのは大きなロマンですね。

 

第2章「黄金時代の光と影」では、長州力藤波辰巳(現在は辰爾)に対する「噛ませ犬」発言の意外な真相が以下のように明かされます。
「人気のタイガーマスクだけではなく、今後は長州と藤波を売り出す必要がある。その戦いは単なるライバル抗争にとどまらず『ポスト猪木』争いというテーマも含んでいた。長州は、もともと藤波をライバル視していたわけではない。新日本プロレスに入団した時期は藤波の後だが、年齢は上で、アマレスで五輪代表(ミュンヘン五輪韓国代表)にもなり、専修大学レスリング部で主将をつとめた長州が、本気で藤波にジェラシーを感じる必要はなかった。当時のメキシコ遠征も、実を言えば自動車の運転免許を取得するのが主目的で、藤波の背中を追っていたわけではない」

 

長州率いる維新軍団の独立やタイガーマスクに退団に関しては、その背景にプロレス新団体設立の計画があったことが明かされます。
「当時、タイガーマスクの生みの親である梶原一騎さんが計画していたとされる『大日本プロレス』構想があった。ユセフ・トルコさんが中心となり、大相撲から千代の富士高見山全日本プロレスジャンボ鶴田などを引き抜く計画があったとされるが、長州と浜口はこの『第3の団体』に参加するのではないかという噂が流れた。しかし、梶原さんは(1983年)5月25日、講談社の編集者に対する暴行事件を起こし、逮捕されてしまう。これによって『新団体』の計画は自然消滅した」

 

第1回IWGPの決勝戦で、アントニオ猪木ハルク・ホーガンのアックスボンバーで失神し、担架に乗せられて病院に運び込まれました。現在では、この事件は猪木の自作自演であったことがわかっていますが、著者は以下のように述べています。
「猪木さんがあのとき『失神』して話題をさらったのには、いくつかの理由があったと思う。ただ、私はそのなかの理由のひとつに、長州らに関する話題性をゼロにする狙いが確実にあったと考えている。『長州と俺では格が違う』――猪木さんのそんな思いを、私はあの失神事件のなかに感じ取ったのである」

 

本書は新日本プロレスのクーデター事件について、あまりにも生々しく書かれています。その詳細はここでは紹介しませんが、一連の同時多発クーデター事件で心身ともに疲労困憊した猪木の田園コロシアム大会での試合後のくだりに感銘を受けました。
「この日の田園コロシアム大会で、猪木さんはラッシャー木村卍固めで勝利した後、リング上で鬼神のごとくこう叫んだ。『てめえらいいか、姑息なマネをするな! 片っ端からかかって来い! 全部相手してやる! 藤波だって、坂口! お前もだ! オレの首を掻っ切ってみろ!』まさに、実人生とリング上が一体化した瞬間だった。自身の生きざまを見せる、アントニオ猪木の真骨頂である」

 

その後、著者は新会社である新日本プロレス興行を立ち上げました。表面上は新日本プロレスとも友好な関係を保っていましたが、猪木の心中は穏やかではありませんでした。そんな頃、1984年2月3日、新日本プロレスのリング上である「事件」が起きました。有名な「雪の札幌テロ事件」です。第5章「ジャパンプロレスの野望」の「『冬の札幌テロ事件』の背景にあった『大塚潰し』」で、著者はこう述べています。「長州が藤波に挑戦するWWFインター王座戦で、入場しようとした長州を藤原喜明が花道で急襲し、長州の大流血で試合は不成立となった。このとき藤波が叫んだ言葉は有名である。
『こんな会社辞めてやる!』
だが、クーデター事件で会社に忠誠を誓ったばかりの藤波が、ここで会社を辞めるはずがない。プロレスファンには『テロリスト藤原誕生』と記憶されているこの事件だが、私はまったく別の印象を抱いていた。それは、この大会が北海道、つまり我々新日本プロレス興行がプロモートする興行だったからである」

 

その後、著者は長州をエースにジャパンプロレスを立ち上げ、全日本プロレスに参戦しました。第6章「夢の跡」の「馬場さんとの試合を拒否していた長州」では、著者はこのように述べています。
「当時、長州がよくこぼしていたのは次のような言葉である。『ジャンボや天龍はいいけど、馬場さんとはできない・・・・・・』長州は、馬場さんとどう戦っていいのか分からない、合わせられないというのである。実際、全日本ではついに長州と馬場さんのシングルマッチが組まれることはなかった。長州は、どんな相手でも戦い光らせることができるタイプではなかった。全日本のなかファイトが噛み合ったのは天龍だけで、ジャンボ鶴田や外国人選手とは、相性が良くなかったように思う。とはいえ、鶴田と長州とシングルマッチは1度だけ(1985年11月4日、大阪城ホール)で、そもそも対戦そのものが少ない。この唯一のジャンボ鶴田戦はご記憶の方も多いと思う。結果は60分フルタイムを戦い抜き時間切れドローだったが、内容は『鶴田が終始圧倒していた』との印象だけが残り、いまでは鶴田伝説として語り継がれている」

 

「『ジャパンプロレス』がマット界に残したDNA」として、著者はこう述べています。
新日本プロレス興行時代から約3年半存在したジャパンプロレスという団体は、その後のプロレス史に有形無形の影響を与えた。ジャパンというそれまでになかった遺伝子が注入された全日本では、その後天龍が『レボリューション』(天龍革命)を開始した。馬場さんと私の相談から誕生した2代目タイガーマスク三沢光晴となり、やがて『四天王プロレス』が誕生する」

 

また、著者は以下のように述べています。
「新日本に戻った長州は1987年、やはりUWFから新日本に戻った前田日明にリング上で顔面を蹴られ、この試合が契機となって新日本を再び飛び出した前田は第2次UWFを旗揚げ。これが後に花開く日本の格闘技界の源流となる。そして長州はその後、新日本の現場監督として90年代のドーム時代を謳歌することになった。ここで活躍したのは、佐々木健介馳浩といった、ジャパンで新人時代を送った選手たちである」

 

さらに、著者は以下のように述べています。
ジャパンプロレスの旗揚げは多団体時代へ移行するきっかけを作ることにもなった。前田のUWF、大仁田のFMW、天龍のSWS等々、有力選手が独立し、たとえテレビがなかったとしても、それに見合った規模で興行を回すことができるビジネスモデルが確立すると、次々に『新団体』が誕生した。これも価値観が多様化する時代を象徴していたのである」

 

2016年、著者の盟友であった永源遥が70歳で急死。著者はこう述べています。
「永源さんとは同郷(石川県)で仲人でもある森喜朗元首相も連日、弔問に訪れた。私もひとりの友人として、坂口さん、藤波らとともにその棺を運んだが、そこには猪木さんの姿はなかった。だが後日、猪木さんが誰にも知らせず、永源さんのお通夜の前日にひっそりと自宅を訪れ、ご遺体の前で手を合わせ、帰って行ったことを親族から聞かされた」
なにかとパフォーマンス過剰な印象のある猪木ですが、こういう一面もあったのですね。心が洗われる思いがしました。

 

そして「あとがき」で、著者はこう述べるのでした。
「短い間ではあったかもしれないが、戦後大衆文化の一翼を担ったプロレス界の巨頭、アントニオ猪木さんとジャイアント馬場さんの2人に仕え、ともに仕事ができたことは、私の人生における最大の財産である。
猪木さんには、私の若き日の過ちを心からお詫びさせていただきたい。あのとき私が引き起こしたのは、確かにクーデター事件だった。馬場さんには、ジャパンプロレスの力不足で思ったほどの集客効果をもたらすことができず、短期間で袂を分かつ結果になったことを、お詫び申し上げたい」

 

最後に、「はじめに」に書かれており、カバー前そでにも出ている著者の言葉を紹介したいと思います。
「私はいま、あのクーデター事件について、後悔はしていないが、反省はしている。確かに、当時の新日本の経営には道義的問題があったかもしれない。しかし新日本プロレスは猪木さんの会社であり、猪木商店であって、営業部長あたりが会社のカネの使い方に『物言い』をつけることは不遜なことだったと思うのである。私は現在は会社の代表取締役に就任して20年以上になるが、経営者になってみて、初めて『社長』の気もちが分かった」

 

クーデター 80年代新日本プロレス秘史

クーデター 80年代新日本プロレス秘史

 

 

 2019年月日 一条真也

『証言 長州力「革命戦士」の虚と実』

証言 長州力 「革命戦士」の虚と実

 

一条真也です。
『証言 長州力「革命戦士」の虚と実』前田日明ミスター高橋大仁田厚藤原喜明金本浩二ほか著(宝島社)を読みました。カバー表紙には、ポロシャツ姿の長州力と上半身裸の佐々木健介の写真が使われ、帯には「因縁の19人が告白――“カテエ”男のベールを剥ぐ!」と書かれています。ものすごく面白いので、プロレス・ファンの方はぜひ、お買い求めの上、ご一読下さい! 

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本書の帯

 

「正直、すまんかった」という健介のセリフではありませんが、「正直、もうプロレス本はいいかな」と自分でも思っていました。しかし、ブログ『証言UWF』ブログ『証言UWF最終章』ブログ『『証言UWF完全崩壊の真実』ブログ『証言1・4橋本vs.小川 20年目の真実』ブログ『証言「橋本真也34歳 小川直也に負けたら即引退!」の真実』が予想外の大反響で、未だに毎日のようにアクセスが集中しています。それで、宝島社「証言」シリーズ最新刊の本書をブログで取り上げることにしました。長州力に関しては、ブログ『真説・長州力 1951-2015』ブログ『長州力 最後の告白』で紹介した本も話題となりました。 

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本書の帯の裏

 

また帯の裏には、「沈黙の『最強レスラー』を知る19人が語った」「噛ませ犬発言、名勝負数え唄、ジャパンプロ、UWFとの暗闘、Uインター対抗戦、幻のヒクソン戦、“ど真ん中”WJ・・・・・・の深層!」「前田日明藤原喜明船木誠勝新倉史祐キラー・カーンミスター高橋宮戸優光ターザン山本西村修大仁田厚/田山正雄/谷津嘉章/高田龍/永島勝司越中詩郎金本浩二/田中ケロ/上井文彦金沢克彦

一条真也です。
『さよならムーンサルトプレス』福留祟広著(イースト・プレス)を読みました。「武藤敬司35年の全記録」というサブタイトルがついています。

 

本書の「目次」は、以下の通りです。

「はじめに」ターザン山本

第1章 “革命戦士”の目撃者たち

前田日明

「長州さんが『プロレスラーは何回引退してもいいんだよ』って」

藤原喜明

「予定調和じゃない、札幌で長州を襲ったのは本気だった」

船木誠勝

「『いいとこ連れてってやるよ』と金玉を触ってきた長州」

 

第2章 ジャパンに“夢”を抱いた男たち

新倉史祐

「ジャパン分裂は、会社が長州さんのものにならないと気づいたから」

キラー・カーン

「長州のここでは言えない話を聞きたかったら、店まで来てくれよ」

 

第3章 長州政権に“翻弄”された男たち

ミスター高橋

「長州を“金の亡者”扱いしていた私は間違っていた」

宮戸優光

「『墓にクソぶっかけてやる!』言われて抱いた嫌悪感と達成感」

ターザン山本 

「俺の墓にクソぶっかけないと、俺と長州の物語は完結しない」

西村修

「反長州イズムがあったからこそ、私はここまでこれた」

大仁田厚

「WJをダメにしたのは、『長州力で稼げる』と思わせた俺」

田山正雄

「長州さんが新日本を去ってから、現場はグチャグチャに」

 

第4章 地獄の“ど真ん中”WJの男たち

谷津嘉章

「経費の使いっぷりだけは“目ン玉が飛び出る”ほどだったWJ」

高田龍

「リキちゃんと永島のオヤジに最初から深い結びつきはなかった」

永島勝司

「ミツオは、『カネ関係は永島だから』って、押しつけてきた」

越中詩郎 

「自分は決断して行ったんだから、WJの悪口を言うのも嫌」

 

第5章 出戻り長州を“嫌悪”した男たち

金本浩二

「出戻ってきた人間に指図されるのは面白くなかった」

田中ケロ

「『自分は新日本で歓迎されてない』と感じていた長州」

上井文彦

「復帰させましたが、新日本の選手全員が長州力を嫌いだった」

金沢克彦

「長州の現場監督復帰は、どん底状態の新日本を救った」

「詳細 長州力完全年表」

 

「はじめに」で、ターザン山本はこう述べています。
「1982年10月8日、後楽園ホール藤波辰爾に対する“噛ませ犬発言”がなかったら長州というレスラーは、日本プロレス史にあれだけ大きな足跡と実績を残すことは、まずありえなかった。どう見てもスターになっていなかったし、中堅で終わっていた。あの瞬間、長州は歴史の表舞台に一気に駆け上がっていったのだ」

 

 

これまでのプロレス証言シリーズと同じく、本書もいろんな選手の発言集(証言集)です。その発言の中から、わたしが知らなかったこと、興味を引かれたこと、「なるほど」と思ったことなどを中心に抜き書き的に紹介していきたいと思います。

 

新日本プロレスに入門したばかりの前田日明は、箱根の会場から東京に帰るハイエースの中で、長州、木村健吾星野勘太郎らと一緒だったそうです。そこで星野から「お前、“ヨッチョン”か?」と聞かれ、「そうです」と答えたら、「俺らもそうだよ」と言われて、「あっ、そうなんだ」と思ったとか。前田いわく、レスラー仲間のなかでは、在日であることは全然関係なかったそうです。

 

その前田が、「在日とプロレス」について語っています。
「在日の持つ特性はプロレスにぴったりなんだよ。どういうことかというと、長州さんは2世で、俺は3世なんだけど、やっぱ血は韓国人だよ。韓国人ってね、周りに『いかに俺が正しいか』っていうことをしゃべりながらケンカするんだよ。いまの韓国政府も同じだけど、良くも悪くもそういうカラーがあるんですよ。わざと論点をずらして、そして強く言う。言ったもん勝ちでさ。それってマイクアピールでも一緒じゃん。自分の都合のいいように論点ずらしをするっていうのがプロレスの社会ですよ」(前田日明

 

「長州さんがUWFに対してアレルギーを持っていたのは嫉妬でしょ。『俺は頑張ってやっとこの位置にまで来たのに、アイツらはこの世界でしちゃいけないことを全部やってて、おかしいじゃないか』っていう。すなわちUというよりも俺に対してのアレルギーだよね」(前田日明
「いまから思うと、あの頃の長州力前田日明って、結局は藤波辰爾っていう名プレイヤーがいたから名前を残せたんだよ。長州力には相手を光らせるまでの力量がなかったし、俺もそれ以外のところに目がいっていて、尖りまくってたし」(前田日明

 

1984年2月3日、札幌中島体育センターで、その事件は起きました。WWFインターナショナルヘビー級選手権試合、藤波vs長州の試合前、藤原喜明が突如、入場時の長州を花道で襲撃したのです。いわゆる「雪の札幌・藤原テロ事件」です。当事者である藤原はこう語っています。
「予定調和でもなんでもない。本気で襲ってるんだから、いまの時代だったら警察が出動しているよ。でも、プロレスのリングっていうのは、それくらいの非日常で、なにが起こるかわからない世界なんだ。サラリーマンが、お金を払ってサラリーマン同士の試合を見に行かない。一般社会とは別世界だから、お客が来るわけであってさ。長州は、会場入りしたら常にピリピリしているだろ? あれが本当なんだよ」(藤原喜明

 

格闘技団体「パンクラス」を興した船木誠勝は、新日本プロレスの若手時代に、マサ斎藤長州力谷津嘉章というアマレス出身の3人のスパーリングを目撃した思い出を次のように語っています。
「若手時代、長州さんとマサさんと谷津嘉章さんがレスリングのスパーリングをしてるところを見たんです。最初の2~3分はマサさんがいちばん強かったですね。で、長期戦になったら谷津さん。途中で長州さんとマサさんが2人とも疲れてきて、最後は谷津さんが転がし始めるです。『こういう順番なんだな』と思って。だから『マサさんがいちばん強いんだな』と思いました(笑)」(船木誠勝

 

2000年5月、「コロシアム2000」で船木はヒクソン・グレイシーと闘って敗れました。のちに長州もヒクソンとの対戦が取りざたされたことがあります。これについて、船木が次のように語っています。
「2人は体重が30キロくらい違うので、ヒクソンは長州さんをテイクダウンできないはずです。試合になったら、四つに組んでコーナーでずっと長州さんが押さえてると思います。ただ、スタミナがどこまで持つかだと思うんですね。ヒクソンはすごくスタミナありますから。途中で長州さんのスタミナが切れた瞬間を待ってグラウンドに引き込んでくるかもしれないですね。なので、最終的にはヒクソンなのかなという感じはします」(船木誠勝

 

「長州さんがヒクソン戦用に訓練を積み、時間制限がある試合だったら拮抗した勝負になると思いますけど、ヒクソンの試合は時間無制限じゃないですか。だから、たぶんヒクソンが勝つ。鍵はスタミナです。なんでかって言うと、谷津さんとスパーしてる時に長州さんは途中で疲れてしまいますから。でも、面白い試合だと思いますよ。いままでの誰とやった試合よりも違ったヒクソンが見られると思います」(船木誠勝

 

キラー・カーンといえば、維新軍団ジャパンプロレスで長州と共闘しましたが、現在は大の長州嫌いで知られています。両者が全日本プロレスに参戦したとき、1986年7月31日、両国国技館シングルマッチが組まれました。カーンが流血するなど荒れた展開になりましたが、終盤にカーンの必殺技であるトップロープからのダイビング・ダブル・ニードロップが炸裂するも、長州がカウント2でキックアウト。息を吹き返した長州は、バックドロップからリキラリアット3連発によりカーンにフォール勝ちしました。

 

「負けたけど、俺はいい試合をしたと思って満足してたんだけど、この時長州はプロレスラーとしていちばんやっちゃいけないことをやった。俺がニードロップを決めてフォールの体制に入ったとき、長州は手を振って『効いてない』って観客にアピールしたっていうんだよ。これは俺に対して失礼というか。いちばんやっちゃいけないことだよ。こういっちゃなんだけど、プロレスっていうのは持ちつ持たれつで、お互いの信頼があって成立するもの。自分だけカッコつけるなんてのはいちばんダメ。長州っていうのはそういう男。俺たちは、ジャパンプロレスってことで長州をかついだけど、アイツはそれをなんとも思ってなかった。自分だけカッコつけて、カネ稼ごうとしか考えてなかったんだよ」(キラー・カーン

 

新日本プロレスのレフェリーとして、多くの長州の試合を見てきたミスター高橋は次のように語っています。
「長州のファイトは、外国人レスラーたちには不評だったんです。それはもう、デビュー戦を終えて、海外修行から帰って来た時(77年)からです。攻めに力が入りすぎるんですよ。海外でそう多くの試合経験をしたわけじゃないので、外国人選手いわく、『Stiff』、いわゆる『硬い』と。たとえば、キラー・カール・クラップに長州の生の蹴りがガツンと入った時は、その夜、激怒したクラップから私の部屋まで抗議に来ました。アンドレに生の蹴りが入った時は、あの野球グローブのような手で顔面を張り倒されて、長州は鼻血を流していましたよ。逆に、藤波さんの蹴りがアンドレの腹を狙ったのに下腹部に入って、どうなることかとヒヤヒヤしたんですが、藤波さんがアンドレの耳元で『Sorry』とささやいたら、アンドレは不問にしたんです。アンドレからの信頼度の違いが2人にはあったんです」(ミスター高橋

 

長州力は、6月26日に引退します。本書は、長州の盟友、ライバル、フロントなど濃密な関係にあった19人が語る、タブーなしの証言集でした。長州は「革命戦士」と呼ばれました。アマレス時代に天下を獲った男が雌伏の時を経て、“噛ませ犬発言"でブレイクし、時代の寵児となりました。その後も紆余曲折されど、プロレス界の「ど真ん中」に立ち続けた不世出のレスラーが関係したエポックな事件の真実は興味深ったです。黙して語らない“最強レスラー”の「虚と実」を堪能しました。

 

証言 長州力 「革命戦士」の虚と実

証言 長州力 「革命戦士」の虚と実

 

 

 2019年6月19日 一条真也

「修活クラブ」としての互助会

一条真也です。
18日、ブログ「『隣人祭り』のある街」で紹介したように、「西日本新聞」朝刊に月2回連載しているコラムが掲載されました。この日は、早朝から松柏園ホテルの神殿で月次祭が行われました。

f:id:shins2m:20190618080537j:plain月次祭のようす

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今日は祭主を務めました

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拝礼しました

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一同礼!

 

皇産霊神社の瀬津神職が神事を執り行って下さいました。いつもはサンレーグループ佐久間進会長が祭主を務めるのですが、今日は不在でしたので、わたしが祭主を務め、玉串奉奠を行いました。わたしは、社業の発展と社員のみなさんの健康を祈願しました。

f:id:shins2m:20190618083111j:plain天道塾のようす

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わたしが登壇しました

 

神事の後は、恒例の「天道塾」を開催しました。いつもは佐久間会長が最初に登壇するのですが、この日はわたしが最初に登壇して、講話を行いました。わたしはまずブログ「サンクスフェスタ八幡」で紹介したイベントの総括を行い、それからブログ「北九州市災害時支援協定調印式&記者会見」で紹介した北九州市と株式会社サンレーの間で締結した「災害時における施設の使用に関する協定」について話しました。

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災害協定について話しました

 

これは、地震津波や台風や大雨などの災害時に予定避難所として北九州市が紫雲閣の施設を使用するという協定の調印式です。出席者紹介、協定概要説明、協定締結(署名)、記念写真撮影が行われた後、わたしはサンレー社長として次のように挨拶しました。
「弊社は昭和41年にこの北九州市で創業し、以来52年間冠婚葬祭互助会の事業を展開しております。『人間尊重』を経営理念とし、地域の皆様のお役に立てること、そして必要とされる会社となることを目指し精進してまいりましたが、わが社のミッションに基づいたこの協定の締結で、大きな目標に一歩近づくことができ、大変嬉しく思っております。今回の締結の経緯といたしましては『小倉紫雲閣』と『北九州紫雲閣』の2施設を災害時の予定避難所として提供させていただくことで、より地域の皆様が安心していただけるのではないかと考え、北九州市様にご相談させていただいたところ、ご尽力頂き締結の日を迎えることができました。今回の協定により、さらに地域に密着したかたちで地域の皆様と密接な関係が築けていけるものと思っております」

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互助会から互助社会へ!

 

北九州市の市民のみなさまのために、サンレーは全社をあげてお役に立ちたいと考えています。紫雲閣は全館バリアフリーで駐車場も完備しているため乳幼児や高齢者・身体が不自由な方でも安心して使用できる施設です。これまで避難所に行くことをためらっていた方に大規模な災害時に限らず、毎年起こりうる大雨や台風の際にも予定避難所として避難者を受け入れ安心を提供させていただきたいとの思いで今回の協定締結となりました。この協定により新たなコミュニティセンターとしての大きな役割を果たすことができ、そして地域に無くてはならない施設としてこれからも地域に貢献させていただきたいと願っています。拙著『ハートフル・ソサエティ』や『隣人の時代』(ともに三五館)などで訴えてきた互助社会の実現を目指したいです。

f:id:shins2m:20190618084428j:plain「修活クラブ」とは何か

 

続いて、わたしはパワーポイントを使って「人生の修め方」についての講話を行いました。今後の互助会は巨大な「修活クラブ」となります。そのコンセプトを理解してもらうための内容を用意しました。また、今月末には『修活読本』(現代書林)という監修書を上梓するので、そのエッセンスを話しました。冒頭、わたしは「アンチエイジング」という言葉についての異論を唱えました。これは「『老い』を否定する考え方ですが、これは良くありませんね」と述べました。

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ウルマンの「青春」について

 

そして、わたしは「老いと死があってこそ人生!」という話をしました。サミュエル・ウルマンの「青春」という詩がありますが、その根底には「青春」「若さ」にこそ価値があり、老いていくことは人生の敗北者であるといった考え方がうかがえます。おそらく「若さ」と「老い」が二元的に対立するものであるという見方に問題があるのでしょう。「若さ」と「老い」は対立するものではなく、またそれぞれ独立したひとつの現象でもなく、人生というフレームの中でとらえる必要があります。

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「人生の五計」について

 

理想の人生を過ごすということでは、南宋の朱新仲が「人生の五計」を説きました。それは「生計」「身計」「家計」「老計」「死計」の5つのライフプランです。朱新仲は見識のある官吏でしたが、南宋の宰相であった秦檜に憎まれて辺地に流され、その地で悠々と自然を愛し、その地の人々に深く慕われながら人生を送ったといいます。そのときに人間として生きるための人生のグランドデザインとでも呼ぶべき「人生の五計」について考えたのでした。

f:id:shins2m:20190618084932j:plain老年期は実りの秋である!

 

それから、「老年期は実りの秋である!」という話をしました。今年の夏は本当に暑かったですね。わたしはもうすぐ56歳になりますが、若い頃と違って暑さが体にこたえます。昔は夏が好きだったのですが、今では嫌いになりました。四季の中では、秋が好きです。古代中国の思想では人生を四季にたとえ、五行説による色がそれぞれ与えられていました。すなわち、「玄冬」「青春」「朱夏」「白秋」です。

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人は老いるほど豊かになる 

 

こうして歴史をひもといていくと、人類は「いかに老いを豊かにするか」ということを考えてきたといえます。「老後を豊かにし、充実した時間のなかで死を迎える」ということに、人類はその英知を結集してきたわけです。人生100年時代を迎え、超高齢化社会現代日本は、人類の目標とでもいうべき「豊かな老後」の実現を目指す先進国になることができるはず。その一員として、実りある人生を考えていきたいものです。

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「終活」から「修活」へ!

 

世の中は大変な「終活ブーム」ですが、「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いようです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人もお会いしました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。

f:id:shins2m:20190618092428j:plain死を穏やかに迎えられる死生観を!

 

わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提唱しています。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。そして、人生を修めるための活動が「修活」です。究極の「修活」とは死生観を確立することではないでしょうか。死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。以上のような話を1時間にわたって行いました。

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互助会を修活クラブに!

 

「天道塾」の終了後、わたしは迎えの車に乗って北九州空港に向かいました。これからスターフライヤーで東京に飛ぶのです。今日は数件の本業や出版関係の打ち合わせ、夜は業界の重要人物たちとの会食が予定されています。明日19日は朝から一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の正副会長会議、午後は正副会長委員長会議に出席、夜は一般財団法人 冠婚葬祭文化振興財団の懇親会に参加します。20日には石垣島に飛んで、21日は朝から石垣紫雲閣の竣工式を行ってから福岡に飛び、夕方から小倉ロータリークラブの新旧理事懇談会に参加します。
ハードな毎日ですが、「天下布礼」のために頑張ります!

 

2019年6月18日 一条真也