『そして、バトンは渡された』

そして、バトンは渡された

 
一条真也です。
明仁天皇の退位儀式および成仁天皇の即位儀式が無事に終わりました。ついに、「平成」から「令和」へのバトンが渡されましたね。
『そして、バトンは渡された』瀬尾まいこ著(文藝春秋)を読みました。2019年本屋大賞を受賞した小説です。著者は1974年、大阪府生れ。大谷女子大学国文学科卒。2001年、「卵の緒」で坊っちゃん文学賞大賞を受賞し、翌年単行本『卵の緒』で作家デビュー。2005年『幸福な食卓』で吉川英治文学新人賞を、2009年『戸村飯店 青春100連発』で坪田譲治文学賞を受賞しています。 

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本書の帯

 

アマゾンの「内容紹介」には、以下のようにあります。
「森宮優子、十七歳。継父継母が変われば名字も変わる。だけどいつでも両親を愛し、愛されていた。この著者にしか描けない優しい物語。 『私には父親が三人、母親が二人いる。 家族の形態は、十七年間で七回も変わった。 でも、全然不幸ではないのだ。』身近な人が愛おしくなる、著者会心の感動作 」

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本書の帯の裏

 

主人公の優子が3歳になる少し前に実の母が交通事故で亡くなります。その後、父は再婚しますが、仕事でブラジルに転勤します。日本から離れたくなかった優子は義理の母に育てられますが、その彼女が再婚して義理の父ができます。さらに気ままな義理母は家を出て行ってしまい、違う義理父と暮らすことになります。つまり実父が1人、義理父が2人、義理母が1人いる女性の物語なのですが、どの親もみんな良いひとばかりで、優子の幸福を第一に考えてくれます。途中、高校で主人公が同級生からいじめに遭う場面も出てきますが、基本的にこの物語に悪人は登場しません。全員が善人と言ってもよいでしょう。

 

正直、あまりにも能天気というか、「人生はこんなに甘くないよ」と思った読者は多いと思います。アマゾンのレビューを見ても、「今自分の境遇が不幸せな人が何かの救いを求めてこの本を読んではいけないと思う。主人公が順風満帆すぎて辛くなってくると思う」(ましゅまろこさん)、「この本の主人公と似た境遇で、まだ小学生の子供が身近にいるため、主人公が成長していく過程での心の変化などを参考にしたくて読みましたが内容が余りにも現実的ではなく上っ面のキレイな部分だけを捉えた家族像。もっと信憑性のある少し重めな、それでいて教訓になるようなストーリーを期待したのにがっかりしました」(キムコさん)といったレビューに多くの読者が共感していました。

 

ただ、この物語をファンタジーというか、一種の「おとぎ話」として読めば、やはり心温まる傑作であると思います。そして、「どんな大変な境遇にあっても淡々と生きていくしかない」「そうすればいつか良いこともある」といった大切なメッセージが込められています。印象的な文章やセリフも多かったです。

 

たとえば、優子はずっと実母の不在について「どうして、お母さんはいないの?」「お母さんは、どこにいるの?」と実父に問いかけていましたが、父はいつも「お母さんは遠くに行ったんだよ」とだけ答えていました。優子が小学2年生になったとき、父は「その遠くっていうのは天国のことなんだ」「お母さん、死んじゃったんだ。優ちゃんが3歳になる少し前にね」「トラックに轢かれちゃってね。小さな軽トラだったんだけど、頭を打っちゃって。病院に運ばれた時にはもう遅かった」と真実を告白します。そのとき、優子は以下のように考えました。

 

 お父さんは、お母さんが買い物の帰りに信号を渡り終えたところで、トラックに轢かれたんだと説明した。頭を打つなんて痛そうだ。そのトラックを運転していた人はなんて悪い人なんだろう。いろいろな気持ちが私の中で、少しずつ沸き立ってきた。そのうち、死んだということがはっきりしてくると、お母さんの顔も覚えていないのに、涙が勝手に出てきた。死んじゃうのは、ものすごく怖くて悲しい。そんなひどい目に遭ったなんてお母さんがかわいそうだ。
 そして、遠くじゃなくて天国にいるということは、どれだけ待っていても、入学式だろうと卒業式だろうと、お母さんには会えないんだということもわかってきた。いつかは会える。そう望むことは、これからはなくなるということだ。 
 ずっとお母さんがどこにるのか知りたかった。でも、会えないのは同じなら、お母さんはどこか知らない遠くにいると思っていたほうがきっとよかった。2年生にならなかったら、こんな悲しいことを知らなくてすんだのかな。早く、大きく賢くなりたかった。だけど、小さいままでいるほうがいいこともあるのかもしれない」(『そして、バトンは渡された』P.36)

 

また、8歳のときに優子には梨花という義理母ができますが、その梨花が「私、すごくラッキーなんだよね」と言います。優子の父と結婚しただけなのに、優子の母親にまでなることができてラッキーだというのです。以下は優子と梨花のやりとりです。

  

「それがラッキーなの?」
 お母さんになると、子どもの面倒を見たり家事をしたりと忙しくなりそうなのに。何かいいこともあるのだろうか。 
「そうだよ。しかもさ、もう優子ちゃん8歳だし」 
「8歳だといいことあるの?」
「うん。だって、子ども産むのってすごく痛いんだって。スイカを鼻の孔から出しながら、腰を金づちで殴られるくらい苦しいらしいよ。それに、子育ても3歳くらいまでは、泣かれるし、しょっちゅう抱っこしなきゃいけないし絶対たいへん。そういうのを全部すっ飛ばして、もう大きくなってる優子ちゃんのお母さんになれるって、かなりお得だよね」(『そして、バトンは渡された』P.57)

 

 実母を亡くした後、優子は母方の祖父母にかわいがってもらっていました。でも、梨花という義理母ができると祖父母とは疎遠になっていきます。父親がいない間にはいつも祖母の家で過ごしていた優子でしたが、もう1人でいることがなくなったのです。優子は思います。

 

 血がつながっている身内なのに、あんなに面倒を見てもらったのに、いつしか完全に離れてしまったなんて。あいさつを欠かさないことや、物を大事にすること、箸の使い方や言葉遣い。そういうことは、全部おじいちゃんやおばあちゃんに教えてもらったのに、今は二人がどうしているかすら知らない。おじいちゃんやおばあちゃんのことを思い出すと、申し訳ない気持ちになる」(『そして、バトンは渡された』P.60)

 

無縁社会 (文春文庫)

無縁社会 (文春文庫)

 

 

優子は多くの人々と出逢いと別れを繰り返しながら、大人になっていきます。そして彼女は人生の伴侶となる男性と結ばれるのでした。彼女の人生は無数の「縁」で支えられていたのです。  
2010年、NHK「無縁社会」キャンペーンが大きな話題となりました。番組は菊池寛賞を受賞し、「無縁社会」という言葉は同年の流行語大賞にも選ばれました。しかし、「無縁社会」という言葉は日本語としておかしいのです。なぜなら、「社会」とは「関係性のある人々のネットワーク」という意味だからです。ひいては、「縁ある衆生の集まり」という意味なのです。「社会」というのは、最初から「有縁」なのです。そして、縁には「血縁」や「地縁」や「学縁」といった、さまざまな縁があります。


人生の四季を愛でる』(毎日新聞出版

 

平成が終わり、令和の時代が始まりましたが、新時代の到来とともに、あらゆるものが変化することが予想されます。しかし、世の中には、変えてもいいもと変えてはならないものがあります。変えてはならないものの代表が冠婚葬祭だと思います。演出などはアップデートで変わっていきますが、結婚式や葬儀の本質は昔から変わりません。わたしは、「縁」という目に見えないものを実体化して見えるようにするものこそ冠婚葬祭であると思います。


サンデー毎日」2015年10月18日号

 

結婚式や葬儀、七五三や成人式や法事・法要のときほど、縁というものが強く意識されることはありません。冠婚葬祭が行われるとき、「縁」という抽象的概念が実体化され、可視化されるのではないでしょうか。冠婚葬祭は人生の四季を愛でるセレモニーでもあり、冠婚葬祭を行うことは人生を肯定することでもあるのです。

 

きみの友だち (新潮文庫)

きみの友だち (新潮文庫)

 

 

本書『そして、バトンは渡された』のラストは結婚式のシーンです。淡々と描かれていますが、ブログ『きみの友だち』で紹介した重松清氏の小説のラストに登場する結婚式と同じく、とても感動的です。優子は3人いる父の1人と一緒にバージンロードを歩きますが、「笑顔で歩いてくださいね」という式場のスタッフの合図とともに、目の前のチャペルの大きな扉が一気に開かれます。そのとき、優子は光が差し込む道の向こうに生涯の伴侶となる人が立つ姿を見ます。そして。「本当に幸せなのは、誰かと共に喜びを紡いでいる時じゃない。自分の知らない大きな未来へとバトンを渡す時だ。あの日決めた覚悟が、ここへ連れてきてくれた」と思うのでした。

 

心に沁みる結婚式の描写に、わたしの涙は止まりませんでした。そして、ブライダルの仕事に携わっていることに心の底から誇りを感じました。ブライダルだけでなく、冠婚葬祭業に携わるすべての方々に読んでいただきたい物語です。
「平成」から「令和」へとバトンが渡されましたが、このたびの皇位継承儀式は内外のメディアが中継し、大きな注目を集めました。そこに新しい時代への希望を感じます。考えてみれば、皇位継承儀式だけでなく、結婚式も葬儀も、すべての儀式とはバトンを渡すことではないでしょうか。蛇足ながら、本書は、わたしが平成で最後に読んだ小説です。

 

そして、バトンは渡された

そして、バトンは渡された

 

 

2019年5月2日 一条真也

グリーフケア・ソングとしての「Lemon」

一条真也です。
ついに「令和」の時代を迎えましたね。 
6月3日、WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第10回目がアップしました。タイトルは、「グリーフケア・ソングとしての『Lemon』」です。

f:id:shins2m:20190425150819j:plainグリーフケア・ソングとしての『Lemon』」

 

令和の時代が始まり、平成の時代が終わりました。その平成の最後に、日本の音楽市場に残る大ヒット曲が誕生しました。米津玄師の「Lemon」です。
2018年1月12日から3月16日までTBS系で放送された石原さとみ主演のドラマ「アンナチュラル」の主題歌です。不自然な死を解明する司法解剖医たちの物語でしたが、主題歌である「Lemon」は、大切な人を亡くした人の悲しみに寄り添うナンバーとして大きな話題となりました。

 

わたしが「Lemon」を初めて聴いたのは、昨年のNHK「第69回紅白歌合戦」においてですが、まずは題名が良いと思いました。梶井基次郎の名作「檸檬」を連想させるスタイリッシュな印象があります。それから、歌詞が絵画的で素晴らしいと感じました。そして何度か耳にするうち、「Lemon」はまさに「グリーフケア・ソング」だという結論に至ったのです。

 

愛する人を亡くした人は誰でも、「Lemon」の冒頭の歌詞のように、「夢ならば、どれほどよかったでしょう」と思うのが常です。また、「いまだに、あなたのことを夢に見る」はず。「戻らない幸せがあることを、最後にあなたが教えてくれた」とも思うでしょう。「今でも、あなたはわたしの光」という言葉も出てきますが、悲しみという闇の中で光を見つける営みこそ「グリーフケア」ではないでしょうか。

 

「Lemon」は、今や知らない人がいないくらい有名になりました。MVがYouTubeで3億回以上再生されており、何よりも、昨年末の紅白歌合戦に米津本人が出演し、徳島の美術館から生歌を披露したことが大きな話題となり、現在も高い人気を誇っています。この曲は、カラオケで歌われる曲としても歴代1位に輝きました。しかし、この歌、はっきり言って難しいです。リズムや音程など非常に難易度の高い楽曲です。それにも関わらず、発売直後よりカラオケでも高い人気を博しています。

 

じつは、わたしもカラオケで「Lemon」をよく歌います。東京、金沢、小倉、那覇のカラオケ店でもう数十回は熱唱しました。自分で言うのも何ですが、評判は上々である。精密採点では、信じられないような高得点が出ました。サビで高音を出すところなどが自分に合っているのかもしれません。しかし何よりも、わたしが、この歌のテーマである「グリーフケア」について考え続けてきたのが最大の原因ではないかと思います。

 

それはさておき、令和という新たな時代のおとずれと共にこのような「愛する人を亡くした人」のために作られた歌のMVが3億回以上も再生されたという事実に、わたしはグリーフケアの時代の到来を実感してしまいます。今日も誰かが「Lemon」を歌うたびに、今は亡き人々の面影が浮かんできます。

 

2019年5月1日 一条真也

こんにちは令和!

一条真也です。
4月30日の夜は「平成会」の同窓会で参加。平成最後の夜を「平成会」の仲間と過ごせて、幸せでした。
そして、5月1日を迎えました。今日から「令和」です。 
みなさま、令和の時代も、よろしくお願いいたします! 

f:id:shins2m:20190418163122j:plainサンレー本社の改元カウントダウンボード

 

元号の発表会見で菅官房長官が最初「レイワ」と口にしたとき、「ヘイワ」と聞こえて「平和」が新元号かと一瞬思いました。また、「令和」の「令」が「礼」だったら最高なのにとも思いました。しかしながら、新元号は「令和」です。新元号発表後に記者会見を開いた安倍首相によれば、『万葉集』三十二首序文の「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す」が出典です。

 

万葉集(一) (岩波文庫)

万葉集(一) (岩波文庫)

 

 

安倍首相は、「令和は、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味です。典拠となった『万葉集』は幅広い階層の歌がおさめられた日本の豊かな国柄をあらわす歌集であり、こうした日本が誇る悠久の歴史と香り高い文化、四季折々の自然の美しさという伝統を後世へ繫いでいく。また、厳しい冬の後に花開かせる梅の花のように、国民ひとりひとりがそれぞれの花を大きく開かせることが出来る時代になってほしい。その想いこめるにふさわしい元号として閣議で決定いたしました」と述べました。

 

論語 (岩波文庫 青202-1)

論語 (岩波文庫 青202-1)

 

 

また、「令和」を考案したと有力視されている国文学者の中西進氏は、「読売新聞」のインタビューに応じ、「元号の根幹にあるのは文化目標」とした上で、令和の「和」について「『和をもって貴しとせよ』を思い浮かべる」と述べ、十七条憲法の精神が流れているとの考えを語りました。聖徳太子の「和をもって貴しとせよ」のルーツは『論語』で、「有子が日わく、礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為す。小大これに由るも行なわれざる所あり。和を知りて和すれども、礼を以ってこれを節せざれば、亦た行なわれず。」〈学而篇〉という言葉があります。「みんなが調和しているのが、いちばん良いことだ。過去の偉い王様も、それを心がけて国を治めていた。しかし、ただ仲が良いだけでは、うまくいくとはかぎらない。ときには、たがいの関係にきちんとけじめをつける必要もある。そのうえでの調和だ」という意味ですね。

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元号「令和」発表の瞬間

 

大きく社会の様子が変化している現在だからこそ守っていかなければならないものがあります。それこそ、元号に代表される古代からの伝統であり、わが社が業とする儀式なのです。今回の改元が行われる曲折の中で、情報システム上の問題から、企業の元号離れが進んだといわれています。国際化などが進展する現代において、基準となる西暦以外の紀年法は必要ないのではないかという意見も聞こえました。もちろん、元号不要論の中には、単に西暦と併記することが億劫だからという理由もあるのでしょうが、果たしてそんな理由でこれまでの伝統をなくしてしまって良いのでしょうか? わたしの答えは「否」です。


和を求めて』(三五館)

 

元号であれば、「大化」以降約1400年あまりにわたって受け継がれてきた伝統であり、今回の「令和」に至るまで、平成を含めて約250を経ています。これはルーツとなった中国においても既に喪われてしまったもので、現在は日本固有の文化だということができるでしょう。ここに見える希少性は、もちろん、今後も元号を続けるべき理由のひとつですが、それ以上に、元号にはこれまで日本が歩んできた道のりや、その時代を生きた人々の想いが凝縮されたものであることが何よりも大切なのです。今回の「令和」であれば、「昭和」に続いて「和」の一字が入ったことが大きいです。拙著『和を求めて』(三五館)でも述べたように、「和」は「大和」の和であり、「平和」の和です。日本の「和」の思想こそが世界を救うのではないかと思います。

f:id:shins2m:20190418124647p:plain決定版 冠婚葬祭入門』と『決定版 年中行事入門』 

 

それは儀式においても、まったく同様です。冠婚葬祭・年中行事に代表される儀式は、これまで日本人が培ってきた文化の淵源すなわち「文化の核」であり、元号と同じく、携わる人間が想いをこめて紡ぎ上げてきた、かけがえのない存在です。そのように重要な存在を、効率化や文明化の美名を被った「面倒くさい」という意識のもとになくしてしまうことは、決して許されるものではありません。そもそも、現代のわたしたちが「改元」や「儀式」を体験できることは、過去のご先祖様たちがわたしたちへ、この文化を繫いできてくれたからです。それを中継地点に過ぎないわたしたちが勝手に途切れさせてしまうことは「おこがましい」としか表現のしようがありません。

儀式論』(弘文堂)

 

世の中には本当に意味のない、ムダな作法「虚礼」が存在することも事実です。このようなものは淘汰されてしかるべきですが、不易と流行の間にある線引きをどこに置くかについて、新時代を迎える今、わたしたちは慎重の上にも慎重に考えを巡らせなければなりません。平成が終わって新元号となったとき、さまざまな慣習や「しきたり」は一気に消え去ります。しかし、結婚式や葬儀、七五三や成人式などは消えてはならないものです。それらは「こころ」を豊かにする「かたち」だからです。人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。

f:id:shins2m:20190428225800j:plain先に「かたち」があって、後から「こころ」が入る 

 

そこで大切なことは先に「かたち」があって、そこに後から「こころ」が入るということ。逆ではダメです。「かたち」があるから、そこに「こころ」が収まるのです。人間の「こころ」が不安に揺れ動く時とはいつかを考えてみると、子供が生まれたとき、子どもが成長するとき、子どもが大人になるとき、結婚するとき、老いてゆくとき、そして死ぬとき、愛する人を亡くすときなどがあります。その不安を安定させるために、初宮祝、七五三、成人式、長寿祝い、葬儀といった一連の人生儀礼があるのです。


ミッショナリー・カンパニー』(三五館)

 

無縁社会」が叫ばれ、生涯非婚に孤独死や無縁死などが問題となる中、冠婚葬祭互助会の持つ社会的使命はますます大きくなります。いまや全国で2000万人を超える互助会員のほとんどは高齢者であり、やはり孤独死をなくすことが互助会の大きなテーマとなっているのです。わが社が行っている「隣人祭り」をはじめとした隣人交流イベント、グリーフケア・サポート、さらには見回りや買い物支援、そして婚活サポートなども互助会に求められてきます。それを果たすのが、わが社のミッションです。平成が終わって令和となり、あらゆるものが変化しようとも、わが社は互助会としてのミッションを果たす所存です。

f:id:shins2m:20190419084525j:plain礼を求めて』(三五館)

 

天皇陛下の継承儀式という、日本文化の核ともいえる践祚と即位に関する儀式群が幕を開けました。儀式に携わる者として、いま、この時に立ち会えた幸運に感謝し、その推移を見守らせていただくとともに、これから迎える新たな御代が誰にとっても平穏で、そして儀式の花開く時代となることを心より願う次第です。拙著『礼を求めて』(三五館)にも書きましたが、儀式は「礼」を形にしたものです。「礼」をハードに表現したものがセレモニーであり、ソフトに表現したものがホスピタリティではないかと思います。

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「こころ」を「かたち」にすることを大切に!

 

昨日から今日にかけて、天皇陛下の継承儀式が内外のメディアで中継されています。ここまで、儀式というものに国民の関心が集まったことは喜ばしいことです。ぜひ、この流れの中で至るところで冠婚葬祭が大切にされ、「おめでとう」と「ありがとう」の声が行き交うハートフル・ソサエティを実現したいものです。「令和」の出典である『万葉集』に収められている和歌で最も多いのは相聞歌と挽歌、つまり恋愛と鎮魂がテーマです。まさに冠婚葬祭そのものではありませんか。最後に、わたしは「令和の時代に、礼の輪を!」と訴えたいです。

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「令和」に時代に礼の輪を!

 

 

2019年5月1日 一条真也

ありがとう平成!

一条真也です。
いよいよ「平成」がもうすぐ終わります。
30日の夜は、かつて会員として所属していた若手経営者の勉強会である「平成会」の同窓会に参加し、地元の経営者のみなさんとともに大いに飲むつもりです。 

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当ブログを読んでいただいているみなさんの人生においても、平成はいろんな出来事があったでしょう。かくいうわたしも平成元年に結婚し、平成5年に長女が生まれ、平成11年に次女が生まれました。そして、平成13年に社長に就任しました。その思い出に溢れる「平成]が今日で終わります。明日からは「令和」の時代が始まります。新しい時代の訪れで、あらゆるものが変化することでしょう。

 

しかしながら、世の中、変えてもいいものと変えてはいけないものとがありますが、窮屈なばかりで意味のない礼儀、いわゆる虚礼などは廃れていくのが当然でしょう。平成が終わって新元号となったとき、それらの虚礼は一気に消え去ります。もちろん、結婚式や葬儀、七五三や成人式などは消えてはならないものです。それらは「こころ」を豊かにする「かたち」であり、それらを守るのが、わたしが業とする冠婚葬祭互助会の使命です。

 

とはいえ、冠婚葬祭互助会そのものも変わります。結婚式・葬儀以外のそれらの新型サービスを会員のニーズやウオンツをつかんでそれを形にしたとき、互助会は新しい共同体としての姿を浮き彫りにできる。そのように、わたしは信じています。
いま、七五三も成人式も結婚式も、そして葬儀も大きな曲がり角に来ています。現状の冠婚葬祭が日本人のニーズに合っていない部分もあり、またニーズに合わせすぎて初期設定から大きく逸脱し、「縁」や「絆」を強化し、不安定な「こころ」を安定させる「かたち」としての儀式の機能を果たしていない部分もあります。まさに、儀式の継承と創新が求められています。

 

そう、儀式文化の初期設定に戻りつつも、アップデートの実現が求められているのです。「無縁社会」が叫ばれ、生涯非婚に孤独死や無縁死などが問題となる中、冠婚葬祭互助会の持つ社会的使命はますます大きくなります。いまや全国で2000万人を超える互助会員のほとんどは高齢者であり、やはり孤独死をなくすことが互助会の大きなテーマとなっているのです。わが社が行っている「隣人祭り」をはじめとした隣人交流イベント、グリーフケア・サポート、さらには見回りや買い物支援など、そして婚活サポートなども互助会に求められてきます。

f:id:shins2m:20190301090403j:plainありがとう平成!

 

将来的に、互助会が進むべき姿は、「互助会4.0」です。これは結婚をプロデュースし、孤独死自死をなくす互助会です。この互助会4.0のめざすところは「結婚は最高の平和である」「死は最大の平等である」というわが社の理念の実現です。「結婚をプロデュースする」とは、いわゆる「婚活」のことですが、もともと、夫婦こそは「世界で一番小さな互助会」であると言えます。これらを実現することこそ、わが社の大きなミッションです。相互扶助の心と人生を肯定する冠婚葬祭は永久に不滅です。新しい時代を高い志で切り拓いてゆきたいと思います。最後に、「ありがとう平成!」と言いたいです。

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平成会」同窓会の二次会で

 

2019年4月30日 一条真也

『天皇メッセージ』

天皇メッセージ

 

一条真也です。
いよいよ「平成」も残すところ、あと1日。
本日4月30日は、今上陛下の「退位の日」です。
万感の思いで、『天皇メッセージ』矢部宏治[著]、矢部慎太郎[写真](小学館)を紹介いたします。著者は1960年、兵庫県生まれ。慶応大学文学部卒業後、株式会社博報堂マーケティング部を経て、1987年より書籍情報社代表。主な著書に、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(ともに集英社インターナショナル))、『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』『知ってはいけない2 日本の主権はこうして失われた』(ともに講談社現代新書)など。

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本書の帯

 

本書の帯には「『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』増補改訂版」「天皇・皇后両陛下がのこされた32の言葉を美しい写真とともに紹介する国民必読の書」「あなたは天皇・皇后両陛下の言葉に耳を傾けたことがありますか?」と書かれ、カバー前そでには「込められた思い。たくされた祈り。」とあります。 

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、以下のような言葉が紹介されています。
「石ぐらい投げられてもいい。 そうしたことに恐れず、県民のなかに入っていきたい」

――明仁皇太子、1975年。沖縄訪問を前に。

「普通の日本人だった経験がないので、 何になりたいと考えたことは一度もありません。 皇室以外の道を選べると思ったことはありません」

――明仁皇太子、1987年。アメリカの報道機関からの質問に対する回答。

「だれもが弱い自分というものを 恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている」
――美智子皇太子妃、1980年。46歳の誕生日会見より。

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「はじめに」
1章 I Shall  be  Emperor

2章 慰霊の旅・沖縄

3章 国民の苦しみと共に

4章 近隣諸国へのメッセージ

5章 戦争をしない国

6章 美智子皇后と共に

7章 次の世代へ

「あとがき」

 

「はじめに」で、著者は「みなさんは、『偉い人』って、どんな人だと思いますか?」と読者に問いかけ、頭がいい、社会的地位が高い、お金をもっている、家柄が良い、たくさん人を使っているなどの例をあげた後で、自分は長年、本を作るという仕事をしてきたからか、少し違った見方をしているとして、以下のように述べます。
「ちょっとだけ想像してみてください。アメリカ大統領と連続殺人犯が、本屋の店頭でとなりに並んで1対1の勝負をする。それが単行本の世界です。たとえていうと、どんな選手もトランクスひとつでリングにあがるボクシングと同じ。肩書はまったく関係がない。そこで問われているのは、ただただパンチの強さ、つまりその本がもつメッセージの輝きだけなのです」

 

続けて、著者は以下のようにも述べています。
「人間はときに、神のように素晴らしい行動もするが、ケモノに劣るようなふるまいもする。どちらの側面を描いた作品にも、多くの名作が存在します。けれどもそこにはひとつだけ共通した真実がある。それはどんな立場や視点からの作品であれ、読者の心を打つようなすぐれたメッセージは、必ず大きな苦悩の中から生みだされてくるものだという真実です。深い闇を体験し、その中でもがき苦しんだものだけが、長い思索ののち、光のような言葉をつむぎ出すことができる。そのプロセスに例外はない。そうした境地に到達できた人を、私は『偉い人』だと思っています」

 

本書の主人公である明仁(あきひと)天皇は、まさにこれまでそういう人生を歩んでこられた方だと、著者は言います。現在の日本で、明仁天皇美智子皇后ほど大きな闇を体験し、その中でもがき、苦しみ、深い思索を重ねた方は珍しいのではないかと、著者は考えているのです。明仁天皇のメッセージの根底にあるのは「平和国家・日本」という強い思いですが、それは何かの信仰のように、心のなかで願っていればそれで叶うというものではありません。著者は、「ときには我が身を危険にさらしながら、日々くり返される大変な努力の果てに、ようやく実現されるものだということを、それらのメッセージは教えてくれています。そうした長期におよぶ思索と、大変な自己犠牲の中からつむぎ出された『光もつ言葉』の数々を、ひとりでも多くのみなさまに知っていただければと思います」と書いています。

 

本書の32の言葉の中で、最初に紹介されているのは、“I Shall be Emperor”[私は必ず天皇になります]です。これは明仁天皇が15歳の春(1949年4月)、学習院高等科の最初の英語の授業で、「将来、何になりたいかを書きなさい」という課題に対して英語で書いた回答です。40年後に、明仁天皇はこの言葉の真意を次のように説明しています。
「普通の日本人だった経験がないので、何になりたいと考えたことは一度もありません。皇室以外の道を選べると思ったことはありません」(1987年9月/即位の1年4カ月前、アメリカの報道機関からの質問に対する文書での回答/英文)

 

先の戦争でA級戦犯とされた人々への判決は昭和23年(1948年)11月12日に言い渡されています。当時14歳だった正田美智子さんはこのニュースをラジオで聞いて「強い恐怖」を感じたそうです。そのとき7人のA級戦犯が絞首刑を宣告されましたが、実際に処刑されたのは翌月の12月23日でした。その日は明仁皇太子の15歳の誕生日だったのです。著者は述べます。
「もちろん、それは偶然ではありません。なぜなら裁判の始まり、つまり東京裁判A級戦犯たちが起訴されたのは、その2年8カ月前の昭和21年(1946年)4月29日、昭和天皇の誕生日だったからです。そこには、あきらかに占領軍のメッセージがこめられていました。『この裁判と処刑が何を意味するか、天皇とその後継者である皇太子は、絶対に忘れてはならない』」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「7人が処刑された1948年には、すでにドイツをはじめ、イタリア、ハンガリーブルガリアルーマニアなど、ヨーロッパの敗戦国(枢軸国)の王室はすべて廃止されていました。日本にだけ王室が残されたことの意味を、自分はどう考えればよいのか。おそらく明仁天皇は、その後、自分の誕生日を爽やかな気持ちで迎えられたことは一度もなかったでしょう。それはひとりの中学生が背負わされるのは、あまりに重い精神的な十字架でした」
“I Shall be Emperor”という回答を、明仁皇太子が学習院の授業で書いたのは、それからわずか4カ月後のことでした。それは自らの過酷な運命に対する1人の少年の覚悟の言葉だったのです。

 

1975年(昭和50年)にはいわゆる「ひめゆりの塔事件」が起こります。同年7月17日、明仁皇太子は沖縄海洋博の開会式出席のため、美智子妃とともに那覇空港に到着しました。皇太子ご夫妻は、空港を出発し、車で沖縄本島の最南端に向かいました。「ひめゆりの塔」をはじめとする沖縄戦の南部戦跡をめぐり、慰霊の祈りを捧げるための旅でした。沖縄訪問直前、明仁皇太子は「石ぐらい投げられてもいい。 そうしたことに恐れず、県民のなかに入っていきたい」と周囲に語っていましたが、この日、皇太子をめがけて投げられたのは「石ぐらい」ではすみませんでした。

 

ひめゆりの塔事件」とは、皇室としての第二次世界大戦後初の沖縄県訪問に際し、皇太子および同妃に、新左翼党派・沖縄解放同盟準備会(沖解同(準))と共産主義者同盟(西田戦旗派)の各メンバー2人が、潜伏していた洞窟(ひめゆりの壕)や白銀病院から火炎瓶やガラス瓶、スパナ、石を投げつけたテロ事件です。皇太子および同妃や関係者に大きな怪我はありませんでしたが、日本中に大きな衝撃が走りました。

 

この「ひめゆりの塔事件」について、著者は以下のように述べています。
「壕のなかに1週間ひそみ、皇太子ご夫妻に火炎ビンをなげつけた知念功と、もうひとりの小林貢(共産同・戦旗派)ですが、彼らも皇太子を傷つけるようなテロ行為が目的ではなく、昭和天皇や日本政府の戦争責任を問うことが目的だったと著書に書いています。事実、火炎ビンも明仁皇太子と美智子妃に当たらないよう、少し離れた柵の内側に投げつけています」

 

さらに続けて、著者は以下のように述べます。
「この皇太子の沖縄訪問の警備責任者で、事件の2週間後、責任を問われて警察庁警備課長を解任された佐々敦行氏は、事件の翌日、沖縄県に住む有識者300人に対し、緊急世論調査を実施しています。その結果を簡単にまとめると、人びとの感想は①長い間もやもやしていたものが、あの一発でふっきれた、②皇太子ご夫妻に当たらなくてよかった、③過激派はイヤだ、④皇太子ご夫妻には好感を抱いた、というものだったそうです」

 

昭和59年(1984年)4月6日、結婚25周年の記者会見では、明仁天皇は「政治から離れた立場で国民の苦しみに心を寄せたという過去の天皇の話は、象徴という言葉で表すのに最もふさわしいあり方ではないかと思っています。私も日本の皇室のあり方としては、そのようなものでありたいと思っています」と語っています。「国民の苦しみに心を寄せる」という言葉について、著者は「明仁天皇と美智子妃は、おそらくそれを天皇のもっとも重要な仕事と思われているのでしょう。さらにいえばそのなかでも、『声なき人びとの苦しみに寄り添うこと』を最大の責務と考えられているのだと思います」と述べています。

 

そうした明仁天皇の姿勢がいかに徹底したものであるかは、以下の言葉からもよく理解できます。
「日本ではどうしても記憶しなければならないことが4つあると思います。(終戦の日と)広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日、この日には黙とうをささげて、いまのようなことを考えています」(昭和56年[1981年]8月)
「どうしても腑に落ちないのは、広島の(原爆犠牲者の慰霊式の)時はテレビ中継がありますね。それにあわせて黙とうするというわけですが、長崎は中継がないんですね。(略)それから沖縄戦も県では慰霊祭を行なっていますが、それの実況中継はありません。平和を求める日本人の気もちは非常に強いと思うのに、どうして終戦の時と広島の時だけに中継をするのか」(同前)

 

ちなみに明仁天皇ご自身は、必ずこの4つの日には家族で黙とうをささげ、外出も控えて静かに過ごされているそうです。やむをえず海外を訪問中のときなども、公式日程を少しずらしてもらって、その時間に黙とうされているといいます。まさに天皇陛下こそは日本一の「悼む人」であることがわかります。そして、数々の被災地訪問の様子から、天皇陛下こそは日本一の「グリーフケア」の実践者であることもわかります。その想いは世代を超えて、次の徳仁(なるひと)天皇にも受け継がれていくことでしょう。

 

平成27年(2015年)1月1日、新年の感想で明仁天皇はこのように語られました。
「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、いま、極めて大切なことだと思っています」

 

 

この明仁天皇の言葉を受けて、大ベストセラーとなった『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を書いた著者は、以下のように述べています。
「戦後日本とは、とにかく戦争だけはしない、それ一本でやってきた国でした。そのために、どんな矛盾にも目をつぶってきた。沖縄に配備されていた米軍の核兵器にも、本土の基地からベトナムイラクに出撃する米軍の部隊にも、首都圏上空をおおう米軍専用の巨大な空域にも、ずっと見て見ぬふりをしてきたのです」

 

また著者は、以下のようにも述べています。
「『日本はなぜ、第二次世界大戦を止められなかったのか』という巨大な問いについて、ここで本格的に論じることはできませんが、ひとつは戦前の憲法では軍部が天皇に直属し、軍事に関して天皇がすべての権限をもつ立場にあった。そのため軍部が暴走を始めたとき、逆にブレーキをかけられるのが天皇ひとりしかいないという構造的な弱さがあったこと。
もうひとつは、あまり知られていないことですが、とくに満州国建設から国際連永脱退の過程で浮き彫りになる、日本の政治家や軍人たちの『国際法についての理解の欠如』があった。それは現実とはまったく同じ、日本人が伝統的にもつ大きな欠点なのです」

 

2018年12月23日、明仁天皇は在位中最後の「誕生日会見」を行ないました。それは明仁天皇ご自身の皇太子から天皇へのライフ・ヒストリーとともに、戦後日本の歴史と課題が見事に凝縮された素晴らしい内容の会見でした。16分間におよぶ会見の中で、明仁天皇が涙をこらえ、はっきりと言葉を詰まらせたのは、次の5カ所でした。「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」
先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の最後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のちゅみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました」
「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」
「明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました」
天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の1人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」

 

明仁天皇は、象徴天皇としての新しいスタイルを確立されていきました。さらにその天皇としての「平和の旅」は遠く海外まで及びました。天皇皇后両陛下の旅は、平成が一度も戦争のない時代として終わることに大きく貢献したのです。
著者は、以下のように述べています。
「かつて昭和の大歴史小説家、司馬遼太郎は、『およそ人として生まれてきて、優れた人格に出会うこと以上の喜びはない』と語っていましたが、まさにそうした人生の見本といっていいような、明仁天皇の戦後の旅だったといえます。そしてその横には60年間、いつも美智子皇后の励ましの笑顔があった。この最後の会見を聞き終えたあと、私の脳裏にはただ、『戦後日本のベストカップル』という言葉しか、浮かんでこなかったのです」

 

本日をもって退位されたら、明仁天皇はこれからどうされるのでしょうか? おそらくは、慰霊の旅を続けられるのではないかと推測されます。これまで、陛下は各地を慰霊のために訪れられました。戦後50年の95年には「慰霊の旅」として、沖縄、長崎、広島、大空襲で多数の犠牲者が出た東京の下町を巡り、平和を祈念されました。戦後60年の05年には多くの民間人が犠牲になったサイパン島、戦後70年の15年はパラオの激戦地ペリリュー島で海外の戦没者を慰霊されました。また、今年1月には国交正常化60周年の公式行事で、太平洋戦争の激戦地だったフィリピンを訪問。日比両国の戦没者を慰霊されています。天皇陛下がご自身の行動で示された平和への願いは、多くの国民の胸に刻み込まれています。

 

小学校の教科書には天皇の主な仕事として「国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する」「国会を召集する」「衆議院を解散する」「外国の要人と会う」などと書かれていますが、天皇陛下の最も大切な仕事が書かれていません。それは、「国の平和と国民の安寧を願って祈られる」という仕事です。天皇陛下とは、日本で最も日本人の幸福を祈る方なのです。

 

2011年に東日本大震災が起きたときも、昭和天皇の「終戦詔書」以来となる復興の詔勅としての「平成の玉音放送」を行われました。また、世界史にも他に例がないほどの回数の被災地訪問をなされました。そして、心から被災者の方々を励まされたのです。日本人にとって天皇陛下は、2600年にわたってこの国を、そして日本人を形作るのに欠かせない「扇の要」でした。天皇陛下は、無私になられて日々国民の安寧と世界の平和を祈ってこられました。国民を第一に、そしてご自分は二の次と考えられ、国民のことをお気にかけられてこられました。

 

ブログ「祈る人」にも書きましたが、偉大なブッダ、イエスといった「人類の教師」とされた聖人にはじまって、ガンディー、マザー・テレサダライ・ラマなど、人々の幸福を祈り続けた人はたくさんいます。しかし、日本という国が生まれて以来、ずっと日本人の幸福を祈り続けている「祈る人」の一族があることを忘れてはなりません。それは世界でも類を見ない「聖」なる一族なのです。
最後に、明仁天皇陛下の退位の日に心からの感謝と尊敬の念を込めて、次の道歌をお贈りしたいと思います。

 

聖人は仏陀

 孔子ソクラテス 

  イエスキリスト天皇陛下

         (庸軒)

 

天皇メッセージ

天皇メッセージ

 

 

2019年4月30日 一条真也

『天皇陛下のプロポーズ』

天皇陛下のプロポーズ

 

一条真也です。
今日は「昭和の日」ですが、63年におよぶ昭和の歴史の中で最も明るいニュースの1つが明仁皇太子と正田美智子さんのご成婚でした。ということで、『天皇陛下のプロポーズ』織田和雄著(小学館)を読みました。著者は昭和10年11月2日、日本人初のオリンピック金メダリスト・織田幹雄の次男として生まれました。中等科2年から高等科、大学まで学習院に通い、天皇陛下の2歳後輩になります。大学卒業後は、慶應義塾大学大学院などで学んだ後、三菱商事株式会社に入社。定年後は、関東テニス協会副理事長、東京都テニス協会副会長などの要職を歴任しました。 

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本書の帯

 

 本書のカバー表紙には、産経新聞社提供のテニスコートのベンチで談笑する若き日の天皇・皇后両陛下のお写真が使われ、帯には「恋のキューピッド訳が初めて明かす陛下の強い思い。『平成』を築いた陛下と美智子さまの純愛秘話」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、本書の序章から抜粋された「私は、陛下が退位を決断された今こそ、その半生の軌跡と美智子さまとの出会いからご結婚、そして二人三脚でご公務に勤しまれてこられた日々を書籍として残すことを考えました。それが陛下から受けた様々なご恩への、せめてもの感謝のしるしとなれば幸いです」という文章が紹介されています。

 

また、カバー前そでには、以下のように書かれています。
「その時、陛下はタオルで汗を拭きながら、『あんなに正確に粘り強く打ち返してくるのだから、かなわないよ。すごいね』とおっしゃいました。その表情に悔しさは微塵もなく、夏の暑い日差しのもと、むしろさばさばとした爽やかさに満たされているようにも感じられたのです。
昭和32年8月19日。軽井沢。このテニスコートでの運命的な出会いを演出した誰かがいるとしたら、それは神様しかありえない」

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。
序章   この本を執筆するにあたって
第一章  陛下とテニスと軽井沢と
第二章  陛下と美智子さまの恋
第三章  陛下の電話取り次ぎ係を拝命
第四章  ご結婚までのカウントダウン
第五章  陛下をよく知る友人たちの証言
第六章  海外に開かれた窓
第七章  天皇ご一家との交流
第八章  両陛下が築かれた平成の皇室
最終章  天皇陛下の退位によせて
「織田和雄さん『天皇陛下のプロポーズ』出版に際して」(師信介)

 

序章「この本を執筆するにあたって」で、著者は天皇陛下との交流について次のように述べています。
「お会いしてから、時にテニスの練習相手として、時におしゃべりの相手として、陛下は私を年下の友人として接して下さいました。成年になられ級友の皆さんが就職や留学などで陛下との距離が生じられても、私は年下であったことと、学習院大学を卒業後も慶應義塾大学の大学院に進学していたことなどから、比較的自由な時間を持てましたので、以前と変わらず陛下のお傍にご一緒させて頂いていたように思います。そうした交流が、もう70年以上も続いています」

 

その交流の中で、著者は「私はあくまで陛下のお傍に付き従い、折に触れ、その薫陶を授けて頂きました」と振り返り、さらには「わが生涯における陛下は、象徴天皇としてのあるべき理想をご体現され、またそのお姿は、人間としての正しい模範に通じる目指すべきはるかな山の頂のように仰ぎ見る存在でした。たわいない会話の端々にこめられた、深い思いやりや優しさは、心から尊敬に値する陛下の人間性を感じさせ、その一挙手一投足は、常に信念と理想に貫かれています」と述べています。

 

著者が当時は皇太子であった天皇陛下と初めてお会いしたのは、まだ東京に焼け跡が残る、昭和24年(1949年)1月30日のことでした。著者は成蹊中学1年生で、2歳年上の兄が学習院中等科で陛下と同級生でした。著者の兄と陛下は日ごろから仲が良く、その縁から「一緒にテニスのレッスンを受けないか?」と誘いを受けたそうです。

 

レッスンを受けていたパレステニスクラブから、皇居内にある常陸宮の御殿まで移動したとき、著者は宮内庁が用意した大きなリンカーンに陛下と同乗しましたが、定員オーバーで著者はなんと陛下の膝の上に座ったそうです。
陛下は著者のことを「ポケ」と呼んでいました。著書いわく、「チビで何事もちょこまか動いていた」著者は誰いうともなく「ポケットモンキー」と呼ばれ、それが縮まって「ポケ」と言われるようになったとか。

 

一方、陛下のニックネームは「チャブ」でした。理由は、「茶色いブタの蚊取り線香入れ」に似ていると、陛下の親しい級友たちが言い出して、略して「チャブ」となったそうですが、なんだか信じられないような話ですね。著者は、「不敬と思う向きもあるかもしれませんが、当時の友人仲間の間では親しみをこめたニックネームとして、陛下もそう呼ばれることを受け入れていらっしゃいましたので、どうかご容赦頂きたいと思います」と述べています。

 

そして、昭和32年8月19日。運命の出会いがありました。軽井沢でテニスの対戦相手となった正田美智子さんのことを、陛下は「あんなに正確に粘り強く打ち返してくるのだから、かなわないよ。すごいね」と言われました。著者は述べます。
「私から見てもコートの中の正田美智子さんは、常に一生懸命で若い青春の躍動感に溢れていました。そしてコートから離れると、清楚な気品を漂わせる稀有な美しさの持ち主でした。軽井沢で夏を過ごす同世代の若者たちの多くは、そんな美智子さんを高嶺の花として遠くから見ていたように思います。言葉を交わすことはおろか、目を合わせることさえできない、まさに当時の軽井沢では評判のマドンナだったのです」

 

当時は皇太子だった天皇陛下美智子さまとの出会いは「実は演出されたもの、意図的にアレンジされたものではないか?」といった報道がされたことがありましたが、著者は以下のように述べます。
「私はその場に居合わせた者として、絶対に演出された出会いなどではないと、はっきり断言できます。後日、当日の運営責任者だった私の同級生にも確認しております。なぜならば、陛下のペアと美智子さまのペアが対戦されたのは、4回戦となる準々決勝。つまり、両ペアともにそこまで勝ち進まなければ、出会うことがなかったのです。どちらかが1試合目あるいは2試合目で負けていれば、お二人の出会いを演出しようとする計画はすべて終わりとなるからです」

 

陛下は美智子さまを気に入られ、著者は二人の電話の取り次ぎ係というキューピッド役を引き受けることになりました。しかしながら、「正田さんの都合がよければ、明日、クラブに来ませんかと誘ってほしいのですが・・・・・・」という陛下からの伝言を受けた著者は、その日の夜、友人宅のパーティーに参加して、楽しく過ごしているうちにすっかり美智子さまに電話するのを忘れ、翌日、陛下はやきもきしながら、美智子さまを待ちぼうけしたことがあったそうです。後になって陛下はこの時のことを振り返って、「あの時は、もうこれで正田さんに会えなくなるのだと思ってがっかりしましたよ」と打ち明けられ、著者は大いに恐縮するとともに、本当に申し訳ないことをしたと反省したそうです。

 

そして、『天皇陛下のプロポーズ』という書名の通り、美智子さまが結婚を決められた陛下の言葉とは、どのようなものだったのでしょうか。陛下は電話で「YESと言ってください」と強く押されたそうです。つまり、ご結婚の申し込みにYESと言ってください、と熱意を伝えられたのです。陛下は、皇室に嫁ぐことは普通の結婚とは違い、戸惑うことばかりであろうから、皇太子妃そして皇后となれば、そのお立場を深く理解する必要性があることを語られ、最後に「公的なことが最優先であり、私事はそれに次ぐもの」とはっきりと伝えられたそうです。

 

この天皇陛下の言葉について、著者は述べます。
「それは、ご自身のお立場から公的なことが最優先であり、私的なことは後回しとなってしまうので、もしかしたら我慢や不自由を強いる結果になるかもしれない、という意味も含んでいるのではないかと推察致します。その上でどうしても結婚して頂きたいという、嘘偽りのない真っ正直で、誠実な陛下のお言葉と熱意。この言葉に美智子さまは心を動かされ、結婚を決意されたのではないかと思っております」

 

昭和4年(1959年)4月10日、日本中が歓喜に沸きました。陛下と美智子さまの「結婚の儀」が執り行われたのです。当日は著者も大忙しで、ご成婚を中継する日本テレビに依頼され、生放送の番組に出演したそうです。この日は朝から雨が降り続いており、ご成婚パレードは中止からしれないと噂されていましたがパレードの直前、まるでお二人を祝福するかのように、突然、晴れ渡る青空が広がりました。著者は、日記に「前日の雨もうそみたいに晴れ上がった」と書いています。

 

また、著者はご成婚の日の日記に「両殿下 馬車にて宮城よりかえる とても美しかった」「今日は本当に良い結婚式が行われた」とも記しています。その日の心境について、著者は以下のように書いています。
「陛下と美智子さまのご成婚の日を迎え、私は電話取り次ぎ係としてお役目を果たすことができたという清々しい心地でした。月日が流れるのは早いもので、平成31年(2019年)4月でお二人のご成婚から60年が経ちます。経ぎてみれば早いものですが、私は今でもあの日の感動が蘇っては、懐かしい気持ちになります。美智子さまが皇室に入られたことで国民の皇室への親しみが増し、日本にとって新しい時代が幕を開けたのです」

 

最後に、平成30年夏、著者が軽井沢会のニスコートで両陛下に再会したときのエピソードに感動しました。この日、著者は軽井沢会のメンバーから1人の老紳士を紹介されました。聞けば、なんと92歳になるコートキーパーの方でした。今も現役で、テニスコートをベストな状態に保つよう、炎天下でも黙々と整備していると知りました。著者は真っ黒に日焼けしたコートキーパーの老紳士にとても感動し、「これは陛下にご紹介して差し上げなければ・・・・・・」と思ったそうです。両陛下が退出される頃合いを見計らって、著者は陛下にこの老紳士を紹介しました。

 

著者が「今92歳の、昔から軽井沢会のコートの整備をされてきた方です」とお伝えすると、陛下は「あ、そうですか・・・・・・。お元気でいて下さい」と言葉こそ短かったものの、その表情には軽井沢会のテニスコートに刻まれた、さまざまな思い出が蘇っていたように感じられたそうです。著者は、「老紳士は思いがけない陛下からの労いのお言葉に感激しているようでした。あの昭和32年(1957年)8月19日、陛下と美智子さまが初めてプレイしたコートを整備したのも、もしかしたら、この老紳士だったかもしれません」と書いています。


結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)

 

人は、いろんな偶然のもとに人と出会います。
拙著『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)にも書きましたが、「浜の真砂」という言葉があるように、数十万、数百万人を超える結婚可能な異性のなかからたった一人と結ばれるとは、何たる縁でしょうか!
かつて古代ギリシャの哲学者プラトンは、元来が1個の球体であった男女が、離れて半球体になりつつも、元のもう半分を求めて結婚するものだという「人間球体説」を唱えました。元が1つの球であったがゆえに湧き起こる、溶け合いたい、1つになりたいという気持ちこそ、世界中の恋人たちが昔から経験してきた感情です。プラトンはこれを病気とは見なさず、正しい結婚の障害になるとも考えませんでした。

 

人間が本当に自分にふさわしい相手をさがし、認め、応えるための非常に精密なメカニズムだととらえていたのです。そういう相手がさがせないなら、あるいは間違った相手と一緒になってしまったのなら、それは私たちが何か義務を怠っているからだとプラトンはほのめかしました。そして、精力的に自分の片割れをさがし、幸運にも恵まれ、そういう相手とめぐり合えたならば、言うに言われぬ喜びが得られることをプラトンは教えてくれたのです。そして、彼のいう球体とは「魂」のメタファーであったと思います。

 

また、17世紀のスウェーデンに生まれた神秘思想家スウェデンボルグは、「真の結婚は神的なものであり、聖なるものであり、純潔なものである」と述べました。天国においては、夫は心の「知性」と呼ばれる部分を代表し、妻は「意思」と呼ばれる部分を代表している。この和合はもともと人の内心に起こるもので、それが身体の低い部分に下ってくるときに知覚され、愛として感じられるのです。そして、この愛は「婚姻の愛」と呼ばれます。両性は身体的にも結ばれて1つになり、そこに1人の天使が誕生する。つまり、天国にあっては、夫婦は2人ではなくて1人の天使となるのです。

 

プラトンとスウェデンボルグをこよなく敬愛するわたしは、結婚とは男女の魂の結びつき、つまり「結魂」であると信じています。そして、天皇皇后両陛下こそは最も理想的な「結魂」の実例であると思います。ちなみに、わたしの両親も今年で結婚60周年、わたしたち夫婦も結婚30周年を迎えましたが、すべての結婚は奇跡ではないでしょうか。いずれにせよ、天皇皇后両陛下がすべての夫婦の模範であり、戦後日本のベストカップルであることに異論のある日本人は少ないでしょう。令和の御代になっても、お二人がいつまでもお元気でいらっしゃることを心から願っております。
「令和」への改元まで、あと2日です。

 

天皇陛下のプロポーズ

天皇陛下のプロポーズ

 

 

 2019年4月29日 一条真也

『昭和天皇物語』

昭和天皇物語 1-3巻 新品セット (クーポン「BOOKSET」入力で+3%ポイント)

 

一条真也です。
4月29日は「昭和の日」です。もともと昭和天皇の誕生日でしたが,1989年の崩御に伴って「みどりの日」として制定されました。 2007年、国民の祝日に関する法律の改正によって、「みどりの日」は5月4日に変更され、4月 29日は新たに「昭和の日」となりました。「激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす」ことをその趣旨としています。昭和の後の平成もあと1日で終わりますが、『昭和天皇物語』能條純一著(小学館)を紹介したいと思います。

 

昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)

昭和史-1945 (平凡社ライブラリー)

 
昭和史戦後篇 (平凡社ライブラリー)

昭和史戦後篇 (平凡社ライブラリー)

 

 

昭和天皇物語』は「ビッグコミックオリジナル」に連載中のコミックで、半藤一利氏の『昭和史』(平凡社)を原作とし、永福一成氏が脚本を、志波秀宇氏が監修を担当しています。作者の能條純一氏は1951年、東京都墨田区生まれ。 1996年、『月下の棋士』で第42回(平成8年度)小学館漫画賞受賞。 「哭きの竜」「翔丸」に代表される、クールな主人公が登場する乾いた雰囲気の作品から、「プリンス」「ずっこけ侍ミケランジロウ」などの軽妙な人情モノの両極な作風が特徴だとか。

昭和天皇物語 (1) (ビッグコミックス)

 

最初にこの作品を知ったとき、わたしは「ついに天皇がマンガで描かれる時代になったか!」と軽い衝撃を受けました。コミックス第1集ですが、アマゾンの「内容紹介」に以下のように書かれています。
「今世紀最大の話題作、ついに単行本化!! 大元帥陛下して軍事を、大天皇陛下として政治を一身に背負い昭和という時代を生き抜いた巨人。波瀾万丈という言葉では表せないほどの濃密な生涯に半藤一利氏協力のもと、漫画界の巨人・能條純一氏が挑む・・・『ビッグコミックオリジナル』誌で毎号にわたり衝撃を呼ぶ巨弾連載、待望の第1集は、その少年時代が大胆な解釈と圧倒的な画力で描かれる・・・!」

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第1集の カバー裏

 

第1集のカバー裏には、「昭和天皇裕仁。激動を生き抜いた巨人。」「『大元帥』として、『象徴』として、そしてひとりの『人間』として。知られざる少年時代を舞台に大いなる物語の幕が上がる・・・!!」と書かれています。

昭和天皇物語 (2) (ビッグコミックス)

 

 コミックス第2集ですが、アマゾンの「内容紹介」に以下のように書かれています。「反響轟轟! 話題の歴史物語、待望の第2集! 武田鉄矢氏はじめ、各所で激賞の嵐!! 時は大正。自らの為に創設された御学問所で強烈な講師陣による英才教育を施される迪宮(みちのみや)少年。やがて天皇となることを運命づけられた少年も、とはいえ多感な10代半ば。学友たちとのかけがえのない日々を過ごす一方で、母のように慕った教育係・足立タカとの悲しい別れや周囲が押し進める『お妃候補』との出会いを経て少しずつ大人への階段を登ってゆく姿が情感豊かに描かれます。ビッグコミックオリジナル誌にて大きな反響を呼ぶ『誰も見たことのない』歴史物語・・・身震い必至の第2集、いよいよ発刊!!」

f:id:shins2m:20190428135245j:plain第2集の カバー裏

 

第2集のカバー裏には、「昭和天皇裕仁が過ごした青春の日々とは。」として、「『御学問所』にて英才教育を施される迪宮(みちのみや)少年。唯一無二の人生を歩むことになるこの少年にも、かけがえのない学生時代があった・・・!!」と書かれています。

昭和天皇物語 (3) (ビッグコミックス)

 

 コミックス第3集の「内容紹介」は、アマゾンに以下のように書かれています。
「ご婚約は白紙!? 暗躍する元老との対峙! 時は大正。晴れて皇太子となった裕仁(ひろひと)青年のお妃候補、内定・・・! 不況の世に明るいニュースが流れる中、真っ向から異を唱えたのは“明治の亡霊”こと元老・山縣有朋であった。自らの希望を通さんと、不遜とも思える態度で婚約破棄を迫る老政治家に対し、皇室は、そして裕仁青年は・・・? 大正の世を揺るがした“宮中某重大事件”を大胆な解釈で描く最新刊です」

f:id:shins2m:20190428135349j:plain第3集の カバー裏

 

第3集のカバー裏には、「それは私欲か愛国心か。蔑ろにされた青年は。」として、「裕仁皇太子のお妃候補に良子(ながこ)女王、内定。祝賀ムードの中、人選を不服とした元老・山縣有朋が不遜にも映る態度で婚約破棄を迫る!!」と書かれています。

 

この『昭和天皇物語』、とにかく能條氏の画力が素晴らしいです。能條氏は「昭和天皇という存在を、あくまで一人の人間のドラマとして描きたい」という強い思いを抱いているそうですが、それが見事に表現されています。第1集の1話目の冒頭にマッカーサーに会いに行く昭和天皇の表情がアップで描かれた絵が出てきますが、もうこの絵を見ただけで、このコミックから目が離せなくなります。まさに伝記コミックの新境地を開いたと言ってよいでしょう。

 

冒頭の場面はハリウッド映画「終戦のエンペラー」(2013年)を連想させました。昭和天皇の実像に迫る作品です。マッカーサーと初対面を果たした天皇は、まず一緒に写真を撮影します。あの、あまりにも有名な天皇マッカーサーのツーショット写真です。天皇は写真を撮り終え一度は椅子に腰掛けます。しかし、すぐに立ち上がってマッカーサー元帥に自身の偽らざる思いを述べます。そう、戦争に対する自らの責任について心のままに述べるのです。このシーンを見て、わたしは涙がとまりませんでした。
歴代124代の天皇の中で、昭和天皇は最もご苦労をされた方です。その昭和天皇は、自身の生命を賭してまで日本国民を守ろうとされたのです。昭和天皇が姿を見せるシーンは最後の一瞬だけでしたが、圧倒的な存在感でした。そして、実際の天皇の存在感というのも、この映画の「一瞬にして圧倒的」という表現に通じるのではないでしょうか。

 

天皇はけっして自身の考えを直接口にすることはなく、昭和天皇の戦争に反対する気持ちも祖父である明治天皇御製の歌に託するほどでした。その昭和天皇がたった一度だけ、自らの意思で、勇気を持って断行したのがポツダム宣言の受諾であり、玉音放送を国民に流すことでした。それは昭和天皇自身の生命の危険を招く行為であり、そのあたりは日本映画「日本のいちばん長い日」を観ればよくわかります。また、開戦から終戦に到る日本の真実は、津川雅彦東条英機を熱演した日本映画「プライド~運命の瞬間~」(1998年)において見事に描かれています。

 

昭和天皇物語』には多くの実在した歴史上の人物が登場しますが、中でも裕仁皇太子の少年時代の教育責任者を務めた乃木希典東郷平八郎の2人がとびきり魅力的に描かれています。乃木は陸軍、東郷は海軍の軍人でしたが、軍人としての評価は正反対です。ともに日露戦争の指揮を執りましたが、乃木は二百三高地で多くの若い命を失い、東郷は日本海海戦で世界史上に残る奇跡的勝利を収めたのです。しかし、2人は軍人としての人生を極めただけでなく、大和魂というものを体現できる最高の人格者でありました。皇太子の教育について責任は想像を絶するほど大きいでしょうが、こういった人物が選ばれたことは非常に納得できます。

 

昭和天皇物語』では、裕仁皇太子に帝王学を教えた倫理学者の杉浦重剛も重要な役割を果たします。一般的に杉浦は国粋主義的教育者・思想家として知られます。近江国膳所藩(現・滋賀県大津市)出身で、父は膳所藩の儒者杉浦重文です。杉浦重剛は、若き日の昭和天皇秩父宮雍仁親王高松宮宣仁親王の3兄弟に帝王学の一環として倫理を進講しました。後に「人格高邁の国士」と評されますが、その教えの一部がコミックにも紹介されていて興味深いです。安岡正篤の一世代前の「帝王学の第一人者」といったイメージでしょうか。

 

昭和天皇物語』はまだ第3集が刊行されたばかりであり、物語は途中です。第2集では、裕仁皇太子が後の伴侶となる久邇宮良子と再会する場面が描かれます。宮城内に咲く草を見て、「この草は雑草・・・」とつぶやく久邇宮家の令嬢に対して、裕仁皇太子は「いえ・・・雑草という草はないのです」と言います。さらに二人は「どんな草にもちゃんと名前があります。たとえば・・・」「は・・・い」「この草の名前はツルボといってキジカクシ科で・・・・・・」「・・・はい!」「夏になったらかわいい花を咲かせます」「はい」といった会話を交わします。このあたりはまことに爽やかで、心が洗われる思いがします。

 

このとき、裕仁皇太子には杉浦重剛が、良子には野口ゆかが付き添っていました。野口ゆかは、裕仁皇太子の母である貞明皇后が最も信頼を寄せた女性教育者です。貧しい庶民の子どものために日本初の施設幼稚園である「二葉幼稚園」を立ち上げた人物です。裕仁皇太子のお妃選びには3つのテーマがありました。一に、温和でほがらかなこと。二に、人の話をよく聞くこと。三に、必ず相槌を打てること。・・・・・・杉浦重剛も、野口ゆかも、久邇宮良子こそは将来の皇后になる女性であると確信したのでした。しかし、山縣有朋をはじめとする抵抗勢力の存在で、二人のご成婚には障害もありました。今上天皇や皇太子のご成婚のいきさつは有名ですが、昭和天皇のご成婚にも数々のドラマがあったことを初めて知りました。

 

第3集には、漢那憲和が登場します。琉球国出身の海軍軍人で、最終階級は海軍少将です。裕仁皇太子の欧州遊学の際、御召艦「香取」の艦長を務めたことで知られます。彼を「香取」の艦長に推挙したのは東郷平八郎で、東郷は漢那の航海術が誰よりも卓越していることを高く評価していました。漢那は最初の停泊地に自身の故郷である沖縄を希望していました。当時、天皇家の人々は誰ひとりとして沖縄の地に足を踏み入れていませんでした。沖縄の県民たちは裕仁皇太子が沖縄の地に降り立つことを期待し、知念岬に大きなやぐらを建てていました。沖縄寄港の際には、やぐらの上で松明を焚き、皇太子を奉送する準備も整えていました。

 

皇太子の随行員の中には「なぜ琉球へ」などと沖縄寄港へ反発する者もいましたが、皇太子の「イラブーを食してみたい」という鶴の一声で沖縄寄港が決定したのでした。イラブーは海蛇の一種で、もちろん皇太子は本気で食べてみたいわけではありませんでしたが、漢那艦長に故郷に錦を飾らせてあげたかったのです。皇太子の思いやりが描かれたこの場面には感動しました。漢那憲和は退役後、地元・沖縄県選出の衆議院議員となりました。戦前最後の沖縄県選出議員の1人です。
このように『昭和天皇物語』には、杉浦重剛、野口ゆか、漢那憲和といった、これまであまり知られていなかった人物が次から次に登場し、まことに興味深いです。第4集の刊行が楽しみでなりません。
「令和」への改元まで、あと2日です。

 

 

 2019年4月29日 一条真也