東日本大震災八周年追悼式   

一条真也です。
東京に来ています。今朝の関東地方は台風並みの低気圧で、いわゆる「春の嵐」でした。ブログ「東日本大震災8年」に書いたように、今日は、東日本大震災の発生から8年目の日です。14時半から東京の国立劇場内閣府主催の「東日本大震災八周年追悼式」が開催されます。平成最後の追悼式典となりますが、わたしも参列いたしました。

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国立劇場の前で

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身の引き締まる思いです

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東日本大震災追悼式典」の案内状と受付票

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受付の列に並びました

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喪章には「八」と書かれていました

 

 

内閣府のHPに掲載されている開催趣旨は「東日本大震災は、被災地域が広範に及び、極めて多数の犠牲者を出すとともに、国民生活に多大な影響を及ぼした未曽有の大災害であったことから、発災8年を機に、国として、被災者を追悼する式典を開催するものです」とあります。ブログ「全互協新年行事」で紹介したように、今年1月22日、東京は亀戸の結婚式場「アンフェリシオン」で一般社団法人 全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の歴代会長と正副会長等との懇談会が開かれました。そこで今回の「東日本大震災追悼式」に参列する全互協の代表にわたしが選ばれたのです。このような国家規模の追悼式典にぜひ参加したいと常々思っていましたので、大変名誉なことと、二つ返事でお引き受けしました。

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会場では喪章をつけました

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なにしろ秋篠宮同妃両殿下、安倍内閣総理大臣をはじめ、衆参両院の議長、最高裁判所の長官など、国家の最重要VIPが参列されるということで、警備は厳重でした。SPの数がものすごかったです。カメラはもちろんNGですが、飲み物や手荷物などもすべて受付で預けなければなりません。携帯電話だけは電源OFFもしくはマナーモード設定ということで許可されました。事前に内閣府から「御留意事項」が届いていましたので、なんとか事なきをえました。

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厳粛な追悼式でした

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追悼式次第

 

式典はやはり荘厳そのものでしたが、「開式の辞」で追悼式実行副委員長の菅官房長官(実行委員長は安倍総理)が「ただ今より、東日本大震災記念式典を行います」と宣言したのには仰天しました。「追悼式典」を「記念式典」と言い間違えたわけで、あってはならないことでした。厳粛なセレモニーの冒頭で痛恨のミスでしたが、わたしは「八周年」という表現にも違和感があります。「周年」というのは創業とか結婚とか、お祝いのイメージがあるからです。原爆の日終戦の日に「周年」を使うのも違和感を感じます。悲劇の場合は「~周年」ではなく「~年」がふさわしいように思います。だから、わたしはブログ「東日本大震災8年」のように、「東日本大震災8年」と表現しています。もしかしたら「記念」ではなく「祈念」と言いたかったのかもしれませんが、「祈念」だけでは意味が通りません。「平和祈念」とか「治癒祈念」といったように祈念する対象を明らかにすることが必要です。

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「復興の現状について」の資料が配られました

 

 主催者である安倍総理はお辞儀は見事でしたが、式辞の内容が犠牲者への鎮魂や慰霊の言葉というよりも、残された被災者の方々への復興の現状の説明が多かったです。なんだか政策アピールのように感じられました。もっと、死者への言葉が聞きたかったです。
一方で、遺族や被災者の方々の「ことば」はいずれも死者へのメッセージで、非常にリアルであり、亡くなった家族への情愛がこもっており、聴いていて涙が出てきました。退場時に福島県代表の遺族の高齢男性が階段につまずいて転びそうになったとき、同じく福島県の被災者の女性がさりげなく支えてあげた姿に感動しました。極限の経験をされた方の心の優しさを見せていただいた思いでした。

 

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

唯葬論 なぜ人間は死者を想うのか (サンガ文庫)

 

 

わたしは、犠牲者の方々の御冥福を心から祈りました。
それにしても、このような追悼式を行うことは素晴らしいことです。この日は150を超える諸外国の関係者も参列されていましたが、オリンピックが「人類の祭典」なら、このような追悼式も「人類の典礼」であると思いました。世界中の多くの人々が犠牲者のために献花する姿を見て、『唯葬論』(サンガ文庫)で訴えた「生者は死者とともに生きている」「人間とは死者を弔う存在である」という考えが間違っていないことを改めて痛感しました。

 

儀式論

儀式論

 

 

秋篠宮同妃両殿下が御退席された後は、献花が行われました。安倍内閣総理大臣にはじまって、衆議院議長参議院議長、最高裁判所長官の3人、それから岩手県宮城県福島県の被災者および遺族、続いて政党代表(共産党の志位委員長の姿もありました)、続いて各国代表、その後で首相経験者、両院の副議長、国務大臣官房長官含む)、官房副長官および副大臣政務官内閣総理大臣補佐官、両院常任委員長および特別委員長、その他の国会議員および最高裁判所判事、都道府県知事・・・・・・と延々と続きました。わたしたちの順番は政令指定都市市長などの後でしたが、開始からずいぶん時間が経過しました。なんだか人間として低いクラスに扱われたようでけっして良い気分はしませんが、でもこれが儀式なのです。なによりも「礼」とは順番を重んじます。拙著『『儀式論』(弘文堂)に書いたように、良きにつけ悪きにつけ、このような儀式を行うから人間なのだと思います。

 
さて、今回の追悼式では、あの「平成の玉音放送」を思い出しました。東日本大震災の発生当日、天皇陛下皇學館大学の学生ボランティアによる皇居勤労奉仕団が皇居などで奉仕作業を行っておられました。地震発生による交通マヒで勤労奉仕団が帰路に就くことが出来なくなってしまいましたが、そのことを耳にした陛下の指示により、皇學館大学皇居勤労奉仕団参加者全員を皇居内の施設である窓明館に宿泊させたそうです。
天皇皇后両陛下は、地震発生の翌日となる3月12日に地震津波被害に対するお悔やみと見舞いの気持ちを示し、宮内庁長官を通して菅首相に、災害対策に全力を尽くしている関係者一同の努力を深く労う旨を伝えられました。

 

東日本大震災による電力危機により3月15日から東京電力が実施した管内における計画停電は皇居・御所がある千代田区は対象外でしたが、皇居・御所では東京電力が発表した計画停電スケジュールの「第1グループ」地域における停電時間(1回約2時間)に合わせて電気の使用をほぼ全て控える「自主停電」を行われました。自主停電は、東京電力から計画停電のスケジュールが発表されなくなった4月30日まで続けられました。
また、3月14日以降の一部儀式の簡略化、園遊会の中止が決定され、電力消費の大きい宮殿の使用は認証官任命式と新駐日大使の信任状捧呈に限定し、他の宮殿行事は御所で実施されました。

 

夏の電力使用を抑えるため、7月5日の平野達男震災復興担当大臣の認証官任命式、7月25日の韓国とモナコの新任駐日大使の信任状捧呈式も、御所で行われました。震災当時、天皇陛下侍従長からシェルター「特別室」への避難を進言されましたが、「その必要はない」と返答されたそうです。
そして、天皇皇后両陛下が3月30日に東京武道館に避難している被災者のもとを訪れ、慰問したのを皮切りに、天皇や皇族は各地の被災地や避難所を歴訪し、被災者を慰問されています。不遜を承知で申し上げれば、天皇陛下は日本における「グリーフケア・キング」であると思います。

 

もうすぐ平成が終わりますが、30年におよぶ平成の歴史の中で、最大の出来事はやはり東日本大震災ではないでしょうか。わたしたちの人生とは喪失の連続であり、それによって多くの悲嘆が生まれます。大震災の被災者の方々は、いくつものものを喪失した、いわば多重喪失者です。家を失い、さまざまな財産を失い、仕事を失い、家族や友人を失いました。しかし、数ある悲嘆の中でも、愛する人の喪失による悲嘆の大きさは特別です。

 

グリーフケアとは、この大きな悲しみを少しでも小さくするためにあるのです。わたしはサンレーの社長として、また、上智大学グリーフケア研究所客員教授として、グリーフケアの研究と実践と普及に尽力したいと思います。
今日は儀式とグリーフケアを考えるうえで非常に勉強になりました。献花を終えた後は、国立劇場の花道を歩いて退場しましたが、これも良い思い出になりました。わたしを参列させて下さった関係者の皆様に感謝を申し上げます。改元まで、あと51日です。

 

2019年3月11日 一条真也

東日本大震災8年   

一条真也です。
今年も「3・11」がやってきました。
今日は、東日本大震災の発生から8年目の日です。改めて、犠牲者の方々の御冥福を心よりお祈りいたします。14時半から東京の国立劇場内閣府主催の「東日本大震災八周年追悼式」が開催されます。わたしも参列するために、昨日のうちに東京入りしました。

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今日の朝刊各紙


2011年3月11日は、日本人にとって決して忘れることのできない日になりました。三陸沖の海底で起こった巨大な地震は、信じられないほどの高さの大津波を引き起こし、東北から関東にかけての太平洋岸の海沿いの街や村々に壊滅的な被害をもたらしました。福島の第一原子力発電所の事故も引き起こしました。亡くなった方の数は1万5894人、いまだ2539人の行方が分かっていません。さらに7.3万人の方々が今も避難生活を送っておられます。未曾有の大災害は現在進行形で続いているのです。


陸上に漂着した船の前で(気仙沼

 

この国に残る記録の上では、これまでマグニチュード9を超す地震は存在していませんでした。地震津波にそなえて作られていたさまざまな設備施設のための想定をはるかに上回り、日本に未曾有の損害をもたらしました。じつに、日本列島そのものが歪んで2メートル半も東に押しやられました。


願はくば海に眠れる御霊らよ 神の心で子孫をまもれ

 

震災の直後、わたしは足を骨折してしまいました。
ようやく快癒したわたしは、被災地に向かいました。まず気仙沼を訪れたわたしは、今も海の底に眠る犠牲者の御霊(みたま)に対して心からの祈りを捧げるとともに、「ぜひ、祖霊という神となって、次に津波が来た時は子孫をお守り下さい」との願いを込め、数珠を持って次の歌を詠みました。

 

願はくば海に眠れる御霊らよ 
  神の心で子孫をまもれ(庸軒)



三陸の海をながめて

 

気仙沼から南三陸に向いました。途中で、三陸線の鉄道線路がブツッと切れていました。わたしは、多くの人命を奪った三陸の海をしばらく眺めました。南三陸町は根こそぎ津波にやられており、一面が廃墟という有様でした。
そんな中に、かの防災対策庁舎がありました。津波が来たとき、最後までマイクで避難を住人に呼びかけ続け、自らは犠牲となってしまった女性職員がいた庁舎です。ここは建物の廃墟の前に祭壇が設えられ、花や飲み物やお菓子などが置かれていました。多くの人々がこの場所を訪れていました。


防災対策庁舎の前で祈る

 

それにしても、見渡す限り一面が廃墟でした。
この場所のみならず、東北一帯で多くの人が亡くなりました。大地震と大津波で、3・11以降の東北はまさに「黄泉の国」となりました。
黄泉の国とは『古事記』に出てくる死後の世界で、いわゆる「あの世」です。神話では、かつて「あの世」と「この世」は自由に行き来できたとされています。それが日本では、7世紀頃にできなくなりました。それまで「あの世」に通じる通路はいたる所にあったようですが、イザナギの愚かな行為によってその通路が断ち切られてしまいました。イザナギが亡くなった愛妻イザナミを追って黄泉の国に行きました。そこまでは別に構わないのですが、彼は黄泉の国で見た妻の醜い姿に恐れをなして、逃げ帰ってきたのです。
イザナギの心ない裏切りによって、あの世とこの世をつなぐ通路だったヨモツヒラサカは1000人で押しても動かない巨石でふさがれました。


みちのくのよもつひらさか開きたるあの日忘るな命尽くまで

 

マグニチュード9の巨大地震は時間と空間を歪めてヨモツヒラサカの巨石を動かし、黄泉の国を再び現出させてしまったのではないか。そのような妄想さえ抱かせる大災害でした。わたしは、「東北でヨモツヒラサカが再び通じた3・11をけっして忘れず、生存者は命が続く限りおぼえておこう」という願いを込め、数珠を持って次のような短歌を詠みました。


みちのくのよもつひらさか開きたる あの日忘るな命尽くまで(庸軒)



巨大なクジラ缶の前で(石巻

 

津波の発生後、しばらくは大量の遺体は発見されず、多くの行方不明者がいました。火葬場も壊れて通常の葬儀をあげることができず、現地では土葬が行われました。海の近くにあった墓も津波の濁流に流されました。
葬儀ができない、遺体がない、墓がない、遺品がない、そして、気持のやり場がない・・・・・まさに「ない、ない」尽くしの状況は、今回の災害のダメージがいかに甚大であり、辛うじて助かった被災者の方々の心にも大きなダメージが残されたことを示していました。現地では毎日、「人間の尊厳」が問われました。亡くなられた犠牲者の尊厳と、生き残った被災者の尊厳がともに問われ続けたのです。「葬式は、要らない」という妄言は、大津波とともに流れ去ってしまいました。


京大で「東日本大震災グリーフケアについて」を報告


わたしは、東日本大震災愛する人を亡くした人たちのことを考えました。わが社が取り組んできたグリーフケア活動をさらに推進させました。上級心理カウンセラーの資格を多くの社員が取得しました。わたし自身も、さらにグリーフケアについての研究を重ねました。そして、ブログ「『こころの再生』シンポジウム」に書いたように、2012年7月には京都大学で「東日本大震災グリーフケアについて」を報告する機会も与えていただきました。わたしにとって、まことに貴重な経験となりました。


のこされた あなたへ』(佼成出版社

サンデー毎日」2017年3月19日号

 

愛する人を亡くし、生き残った方々は、これからどう生きるべきなのか。そんなことを考えながら、わたしは『のこされた あなたへ』(佼成出版社)を書きました。もちろん、どのような言葉をおかけしたとしても、亡くなった方が生き返ることはありませんし、残された方の悲しみが完全に癒えることもありません。しかし、少しでもその悲しみが軽くなるお手伝いができないかと、わたしは心を込めて、ときには涙を流しながら同書を書きました。

 

のこされた あなたへ』で、わたしが一番言いたかったことは何か。それは、残された人は、亡くなった愛する人に必ず再会できるということ。死別はたしかに辛く悲しい体験ですが、その別れは永遠のものではありません。残された人は、また亡くなった人に会えるのです。
風や光や雨や雪や星として会える。
夢で会える。
あの世で会える。
生まれ変わって会える。
そして、月で会える。
世の中には、いろんな信仰があり、いろんな物語がある。
しかし、いずれにしても、必ず再会できるのです。
ですから、死別というのは時間差で旅行に出かけるようなものなのです。先に行く人は「では、お先に」と言い、後から行く人は「後から行くから、待っててね」と声をかけるのです。ただ、それだけのことなのです。


石巻の教会の上空に上る月

 

考えてみれば、本当に不思議なことなのですが、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。
日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうです。
英語の「See you again」もそうです。
フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。
これは、一体どういうことでしょうか。世界中に住む昔の人間たちは、辛く、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。
でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。その無意識が、世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。そう、別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。
「また会えるから」という言葉を合言葉に、愛する人との再会の日を楽しみに、残された方々には生きていただきたいと心から願っています。


石巻の海に上る月

 

言うまでもなく、これからも人間は死に続けます。
多くの地震津波や台風で、そしてテロや戦争で、世界中の多くの人命が失われることでしょう。また、天災や人災でなくとも、病気や事故などで多くの方々がこの世を続々と卒業されていくでしょう。
愛する人と死に別れることは人間にとって最大の試練です。
しかし、試練の先には再会というご褒美が待っています。
けっして、絶望することはありません。
けっして、あせる必要もありません。
なぜなら、最後には、また会えるのですから。

 

どうしても悲しくて、辛いときは、どうか夜空の月を見上げて下さい。そこには、あなたの愛する人の面影が浮かんでいるはずです。愛する人は、あなたとの再会を楽しみに、気長に待ってくれることでしょう。
東日本大震災から8年、多くの死者たちに支えられて、わたしたちは生きていきます。そう、わたしたちは、これからも生きていくのです。ブッダは、満月の夜にあらゆる生きとし生けるものの幸せを願って「慈経」を説きました。幸せであれ 平穏であれ 安らかであれ・・・・・・。

 

今朝、サンレー本社の朝礼では、東日本大震災の犠牲者の方々の御冥福を祈念して、黙祷が行われました。総務部の國行部長の進行で、全社員が鎮魂の祈りを捧げました。毎年、わたしも参加していますが、今回は東京の国立劇場で大震災の発生時間である午後2時46分に黙祷いたします。

f:id:shins2m:20190311092241j:plain今朝のサンレー本社の朝礼のようす

f:id:shins2m:20190311092317j:plainサンレー本社朝礼での黙祷のようす

 

それにしても、あれから、もう8年も経ったのですね。
昨日、わたしは東京へ向かうスターフライヤーの機内でサザンオールスターズの「TSUNAMI」を聴きました。ここ数年、よくこの曲を聴いたり歌ったりします。一時は津波の被害を連想させるタイトルからタブー視された曲ですが、逆に「TSUNAMI」こそは津波で亡くなられた方々のための鎮魂の歌であり、遺された方々のためのグリーフケア・ソングと思えてなりません。今もなお苦しみ続けておられる被災者の方々に、あの歌の歌詞のように「深い闇に夜明けが来る」ことを心から願っています。
東日本大震災が多くの日本人に大きな傷跡を残した「平成」ももうすぐ終わります。改元まで、あと51日です。


鎮魂のTSUNAMI歌へば光射す 
     深い闇にも夜明け来れり(庸軒)

 


2019年3月11日 一条真也

「マイ・ブックショップ」  

一条真也です。
10日の日曜日、スターフライヤーで東京に飛びました。
翌11日に国立劇場で開催される「東日本大震災八周年追悼式」に参加するためですが、不測の事態に備えて前日入りしました。その夜、9日に公開されたばかりの映画「マイ・ブックショップ」をシネスイッチ銀座で観ました。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ナイト・トーキョー・デイ』などのイザベル・コイシェ監督が、イギリスのブッカー賞受賞作家ペネロピ・フィッツジェラルドの小説を映画化。田舎町で亡き夫との念願だった書店を開業しようとするヒロインを描く。主演は『レオニー』などのエミリー・モーティマー、共演に『ラブ・アクチュアリー』などのビル・ナイ、コイシェ監督作『しあわせへのまわり道』にも出演したパトリシア・クラークソンら」

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ヤフー映画の「あらすじ」には、以下の通りです。
「1959年、戦争で夫を亡くしたフローレンス(エミリー・モーティマー)は、書店が1軒もないイギリスの田舎町で、夫との夢だった書店を開こうとする。しかし、保守的な町では女性の開業は珍しく、彼女の行動は住民たちから不評を買う。ある日、40年以上も自宅に引きこもりひたすら読書していた老紳士(ビル・ナイ)と出会う」

 

「マイ・ブックショップ」は書店をテーマにした映画なので、三度の飯よりも本が好きなわたしは楽しく鑑賞しました。エミリー・モーティマー演じるフローレンスも、ビル・ナイ演じる老紳士も、こよなく本を愛しています。彼らは多くの本を読んでいますが、教養豊かな上品な人物として描かれています。わたしのブックレビューサイトである「一条真也の読書館」の扉には、「本ほど、すごいものはありません。自分でも本を書くたびに思い知るのは、本というメディアが人間の『こころ』に与える影響の大きさです。わたしは、本を読むという行為そのものが豊かな知識にのみならず、思慮深さ、常識、人間関係を良くする知恵、ひいてはそれらの総体としての教養を身につけて『上品』な人間をつくるためのものだと確信しています」と書かれています。


2012年のクリスマスに開設された「一条真也の読書館

 

40年間も引きこもって本を読み続けた老紳士はあっけなく亡くなってしまいます。死んでしまったら、彼の続けてきた膨大な読書はすべてムダになってしまうのでしょうか。わたしは、そうは思いません。拙著『あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)にも書きましたが、教養こそは、あの世にも持っていける真の富だとわたしはは確信しています。あの丹波哲郎さんは80歳を過ぎてからパソコンを学びはじめました。ドラッカーは96歳を目前にしてこの世を去るまで、『シェークスピア全集』と『ギリシャ悲劇全集』を何度も読み返していたそうです。死が近くても、教養を身につけるための勉強が必要なのです。


あらゆる本が面白く読める方法』(三五館)

 

モノをじっくり考えるためには、知識とボキャブラーが求められます。知識や言葉がないと考えは組み立てられません。死んだら、人は魂だけの存在になります。そのとき、学んだ知識が生きてくるのです。そのためにも、人は死ぬまで学び続けなければなりません。現金も有価証券も不動産も宝石もあの世には持っていけません。それらは、しょせん、この世だけの「仮の富」です。教養こそが、この世でもあの世でも価値のある「真の富」なのです。

 

ゲーテとの対話(全3冊セット) (岩波文庫)

ゲーテとの対話(全3冊セット) (岩波文庫)

 

 

わたしは、読書した本から得た知識や感動は、死後も存続すると本気で思っています。人類の歴史の中で、ゲーテほど多くのことについて語り、またそれが後世に残されている人間はいないとされているそうですが、彼は年をとるとともに「死」や「死後の世界」を意識し、霊魂不滅の考えを語るようになりました。『ゲーテとの対話』では、著者のエッカーマンに対して、「私にとって、霊魂不滅の信念は、活動という概念から生まれてくる。なぜなら、私が人生の終焉まで休みなく活動し、私の現在の精神がもはやもちこたえられないときには、自然は私に別の生存の形式を与えてくれるはずだから」(木原武一訳)と語っています。

永遠の知的生活』(実業之日本社

 

わたしは、ゲーテと同じく理想の知的生活を実現された、おそらく唯一の日本人に「稀代の碩学」と呼ばれた故渡部昇一先生と「読書」について対談させていただきました。その内容は『永遠の知的生活』(実業之日本社)として出版しました。わたしとの対談で、渡部先生は「キリスト教の研究家にこんなことを教えてもらいました。人間が復活するときは、最高の知性と最高の肉体をもって生まれ変わるということです」と言われました。わたしが「これらかもずっと読書を続けていけば、亡くなる寸前の知性が最高ということですね。そして、その最高の知性で生まれ変われるということですね」と言ったところ、先生は「そうです。それに25歳の肉体をもって生まれ変われますよ」と言われました。これほど嬉しい言葉はありません。わたしは「それを信じてがんばります。まさに『安心立命』であります」と述べました。

 

さて、「マイ・ブックショップ」ですが、当然ながら舞台は書店です。書店を舞台とした映画といえば、すぐに「チャーリング・クロス街84番地」が思い浮かびます。ニューヨークに住む本好きの女性がロンドンの古書店にあてた1通の手紙から始まった20年にわたる心温まる交流が描かれた往復書簡集を映画化した作品です。書物への愛情が描かれているのはもちろん、ともにアカデミー賞俳優であるアンソニー・ホプキンズとアン・バンクロフトによる心温まる珠玉のラブ・ストーリーに仕上がっています。

 

また、「マイ・ブックショップ」にはウラジミール・ナボコフの『ロリータ』やレイ・ブラッドベリの『華氏451度』といった実在の小説たちが登場します。『ロリータ』は「ロリコン」の語源となった問題小説ですが、『華氏451度』は本をテーマにした作品で、本の素材である紙が燃え始める温度(華氏451度≒摂氏233度)を意味します。この小説は1966年にフランソワ・トリュフォー監督によって「華氏451」として長編SF映画化されました。非常にスタイリッシュで、わたしの大好きな作品です。

 

「華氏451」では読書が禁じられた独裁国家の恐怖が描かれています。読書家が隠し持っていた書物は当局から没収され、焼却されます。古代中国の始皇帝による「焚書坑儒」が有名ですが、古来、書物を燃やすことほど野蛮な行為はありません。そんな野蛮行為が20世紀にナチス・ドイツによって復活しました。それをテーマにしたのが、ブログ「やさしい本泥棒」で紹介した20世紀フォックスが2013年に制作した映画です。マークース・ズーサック原作のベストセラー小説『本泥棒』を基に、ナチス政権下のドイツを舞台に、孤独な少女が書物を糧に厳しい時代を乗り越えようとする姿を感動的に描いています。

 

ネタバレを覚悟で書くと、「マイ・ブックショップ」のラストシーンでは書店が火事となり、大量の書物が焼けます。
主人公にとっての至福の場所が炎に包まれるという設定は、ブログ「ニュー・シネマ・パラダイス」で紹介した1989年のイタリア映画を連想させます。主人公トトの愛した映画館「パラダイス座」はフィルムからの出火により、思い出とともに燃えてしまったのでした。この映画は、89年のカンヌ国際映画祭審査員特別賞および同年のアカデミー外国語映画賞を受賞しています。

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シネスイッチ銀座で上映された「マイ・ブックショップ」

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シネスイッチ銀座の「マイ・ブックショップ」コーナー

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『ロリータ』や『華氏451度』の原書も展示

 

ニュー・シネマ・パラダイス」の日本における初公開は、1989年12月でした。東京・銀座4丁目にある「シネスイッチ銀座」で40週にわたって連続上映されました。わずか200席の劇場で動員数約27万人、売上げ3億6900万円という驚くべき興行成績を収めました。この記録は、単一映画館における興行成績としては、現在に至るまで未だ破られていません。奇しくも、わたしは同じシネスイッチ銀座で「マイ・ブックショップ」を鑑賞しました。

 

シネスイッチ銀座で上映された映画にブログ「マイ ビューティフル ガーデン」で紹介した2017年日本公開のイギリス映画があります。「植物恐怖症の女性が、偏屈だが卓越した園芸家である隣人男性からガーデニングの手ほどきを受けるうちに人生が輝き始める」人間ドラマです。
美しいイングリッシュガーデンから生まれた現代のシンデレラストーリーなのですが、わたしは「マイ・ブックショップ」を観ながら、ずっと「マイ ビューティフル ガーデン」のことを考えていました。

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花咲く庭で読書するのが最高の幸せ!

 

両作品はイギリスを舞台にしているだけではなく、「本」と「花」という人生を豊かにしてくれる宝物の素晴らしさを描いています。かくいうわたしは「読書」と「ガーデニング」が最高の趣味であり、書斎と庭園という二大マイ・ユートピアを合わせた「書庭」という言葉をひそかに使っています。できるものなら、わたしはどこにも行かず、わが理想郷である「書庭」にずっと潜んでいたい!
改元まで、あと52日です。

 

2019年3月10日 一条真也

 

「運び屋」

一条真也です。
8日に公開されたばかりの映画「運び屋」を9日夜のレイトショーで観ました。わたしの大好きなクリント・イーストウッドの監督・主演作品ですが、監督としては「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」「グラン・トリノ」「アメリカン・スナイパー」「ハドソン川の奇跡」に続く、全米興収1億ドル突破の大ヒットを記録しました。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『The New York Times Magazine』に掲載された実話をベースにしたヒューマンドラマ。麻薬を運ぶ90歳の男に待ち受ける運命を描く。監督と主演を務めるのは『ミリオンダラー・ベイビー』などのクリント・イーストウッドイーストウッド監督作『アメリカン・スナイパー』などのブラッドリー・クーパー、『マトリックス』シリーズなどのローレンス・フィッシュバーンらが共演する」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「90歳のアール・ストーン(クリント・イーストウッド)は、家族を二の次にして仕事一筋に生きてきたが、商売に失敗した果てに自宅を差し押さえられそうになる。そのとき彼は、車で荷物を運ぶだけの仕事を持ち掛けられる。それを引き受け、何の疑いも抱かずに積み荷を受け取っては運搬するアールだったが、荷物の中身は麻薬だった」

 

この映画、重いテーマなのですが、意外にも軽やかというか爽やかな印象でした。主人公がジョークを連発することや、ラストがそれほど悲劇的ではなかったからかもしれません。この映画は実話に基づいています。実際のストーリーは、第二次大戦に従軍した退役軍人が、デイリリー(ユリ科の植物)の栽培でいったん成功しますが、インターネットの普及などの時代の変化に取り残されて没落します。彼は80歳を過ぎてから、メキシコの麻薬カルテルから運び屋としてスカウトされるのでした。

 

物語のベースになったのは2014年6月に「ニューヨーク・タイムズ」別冊に掲載された「シナロア・カルテルの90歳の運び屋」という驚くべき記事でした。巨大麻薬組織から一目置かれ、全米の警察が必死で捜すも、1度に13億円のドラッグを運ぶ「伝説の運び屋」の正体が90歳の老人だったという衝撃ニュースです。これは、昔でいえば「ウィークエンダ―」(ちょっと古過ぎるか!)、今なら「アンビリーバボー」の再現ドラマで取り上げられそうな話ですね。

 

クリント・イーストウッドが監督と主演を兼ねたのは「グラン・トリノ」以来で、10年ぶりとなります。そのことは鑑賞後に知ったのですが、わたしは「運び屋」を観終わったとき、「グラン・トリノ」のことを連想しました。「グラン・トリノ」も「運び屋」も、ともにイーストウッドが演じた主人公が朝鮮戦争従軍経験を持つ老人だったこともありますが、両作品ともに脚本を手掛けたのがニック・シェンクだったことも大きいでしょう。彼はフォードの工場で働いた経験もある苦労人ですが、「グラン・トリノ」で脚本家としてデビューしました。イーストウッドはシェンクの脚本を非常に高く評価しているそうです。今回、10年ぶりに監督兼主演というハードワークを引き受けたのも、シェンクが脚本を書いたからだと推測されます。

 

グラン・トリノ」は、気難しい主人公が、近所に引っ越してきたアジア系移民一家との交流を通して、自身の偏見に直面し葛藤する姿を描くヒューマンドラマです。映画評論家の高森郁哉氏は、「『運び屋』強い米国の体現者イーストウッドの回顧と贖罪を忍ばせた、技あり脚本」というタイトルの映画評で、以下のように書いています。
「家族関係の失敗を償うかのように、運び屋稼業に関わるメキシコ人の若者に対し父親のように接して、真っ当に生きるよう諭すくだりは、『グラン・トリノ』におけるモン族の少年との関係性を反復する。モン族がベトナム戦争の影響で故郷を逃れてきたように、米国に暮らす少数民族の多くは、アメリカという大国が内外で正義と力を振りかざしてきた“副産物”として、かの地でマイノリティーとして生きざるを得なくなった。かつて無頼のガンマンとして、また「ダーティハリー」シリーズの暴力刑事として、世界の警察国家たるアメリカを体現したイーストウッドが、老いてそうした少数民族に手を差し伸べるとき、成熟した大国の反省と贖罪の意識もそこに重なってくる」

 

グラン・トリノ」という作品は、アメリカに暮らす少数民族を温かなまなざしで見つめています。主人公と彼らが交流する「隣人祭り」の場面も登場します。すなわち、「グラン・トリノ」のテーマは「隣人」なのですが、「運び屋」のテーマは「家族」でした。アールは長年、家族よりも仕事を優先しており、妻とも離婚。ずっと家族とは疎遠です。彼の一人娘はそんな父親を毛嫌いし、口もきいてくれません。
それは、かつてアールが1人娘であるアイリスの結婚式を欠席するという途方もない掟破りを犯したからでした。わたしは、老後のアールの孤独は「当然の報いである」と思います。娘の結婚式に出席しなかった罰が当たったのです。どんな理由があろうとも、人間たる者、家族の結婚式や葬儀には必ず参加しなければなりません。これは、宗教や民族や時代を超えた人類普遍の「人の道」だからです。

 

そんな「人の道」から外れてしまったアールも、孫娘の結婚式、元妻の葬儀には参列しました。失われた大切なものを取り戻すかのように・・・・・・。
そうです、この「運び屋」は結婚式も葬儀も登場する冠婚葬祭映画なのです。ブログ「洗骨」でも紹介しましたが、黒澤明と並んで「日本映画最大の巨匠」であった小津安二郎の作品には、必ずと言ってよいほど結婚式か葬儀のシーンが出てきました。小津ほど「家族」のあるべき姿を描き続けた監督はいないと世界中から評価されていますが、彼はきっと、冠婚葬祭こそが「家族」の姿をくっきりと浮かび上がらせる最高の舞台であることを知っていたのでしょう。そして、クリント・イーストウッドもそのことを知っていました。

 

 アールの人生には、イーストウッドの人生が反映しているようです。高森氏は「30近くで人気スターになったイーストウッドは派手な私生活を送り、結婚歴は2回だが6人の女性との間に8人の子がいるとされる。最初の妻との間に生まれた実子アリソン・イーストウッドが本作でアールの娘アイリスを演じていて、父親に対する彼女の冷ややかで激しい態度には映画と現実の境界を歪ませるようなすごみがあるし、イーストウッドも作品を通じて家族への謝意を示しているように見える」と書いています。それはイーストウッドが主演した「人生の特等席」(2012年)にも通じるメッセージかもしれません。妻を亡くし、男手ひとつで育てようとして育てられなかった父娘が、旅の最後にそれぞれが「人生の特等席」を見つける物語です。稀代の名優の見納めと思われた「グラン・トリノ」以来、イーストウッドが4年ぶりに主演した家族映画です。

 

それにしても、「運び屋」で「なんでも金で買えると思っていたが、時間は金では買えなかった」というアールのセリフは心に沁みました。時間とは、家族と過ごす時間のことです。わたし自身も、これまで家族よりも仕事(執筆活動を含む)を優先してきた生き方だったので、過去を悔むアールの姿には心が痛みましたし、最後に愛娘と和解したシーンでは胸が熱くなりました。
アールは、家族の記念日を忘れたブラッドリー・クーパー演じる刑事に「記念日を忘れてはいけない」とアドバイスしますが、誕生日や結婚記念日などをしっかり憶えていて、きちんと祝うことが「家族」という厄介なものを続けていく魔法なのかもしれません。祝うということは、それを肯定することだからです。
 
人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社

 

魔法といえば、わたしは『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)という本を書きました。いま、多くの人々が人間関係に悩んでいますね。わたしたちが生きる社会において最大のキーワードは「人間関係」ではないでしょうか。社会とは、つまるところ人間の集まりです。そこでは「人間」よりも「人間関係」が重要な問題になってきます。そもそも「人間」という字が、人は1人では生きていけない存在であることを示しています。人と人の間にあるから「人間」なのです。だからこそ、人間関係の問題は一生つきまといます。

 

夢十夜・草 枕 (集英社文庫)

夢十夜・草 枕 (集英社文庫)

 

  

夏目漱石の『草枕』には、「智に働けば角がたつ。情に棹されば流される。意地を通せば窮屈だ。とにかく人の世は住みにくい」という言葉が冒頭に出てきますが、これは人間関係の難しさを見事に表現しています。いくら人間関係というものが難しくても、わたしたちは1人では生きていけません。誰かと一緒に暮らさなければなりません。
では、誰とともに暮らすのか。まずは、家族であり、それから隣人ですね。考えてみれば、「家族」とは最大の「隣人」かもしれません。


「幸福」とは宙に漂う凧のようなもの

 

現代人はさまざまなストレスで不安な心を抱えて生きています。ちょうど、空中に漂う凧のようなものです。そして、凧が安定して空に浮かぶためには縦糸と横糸が必要ではないかと思います。縦糸とは時間軸で自分を支えてくれるもの、すなわち「先祖」です。この縦糸を「血縁」と呼びます。横糸とは空間軸から支えてくれる「隣人」です。この横糸を「地縁」と呼ぶのです。
この縦横の2つの糸があれば、安定して宙に漂っていられる、すなわち心安らかに生きていられる。これこそ、「幸福」の正体ではないでしょうか。アメリカ史上に残る前代未聞の犯罪を描いた映画「運び屋」を観て、わたしはそのように考えました。
改元まで、あと52日です。

 

2019年3月10日 一条真也

『鏡が語る古代史』

鏡が語る古代史 (岩波新書)

 

一条真也です。
『鏡が語る古代史』岡村秀典著(岩波新書)を読了。著者は1957年、京都大学文学部卒業。文学博士。京都大学助手、九州大学助教授を経て、京都大学人文科学研究所教授、東アジア人文情報学研究センター長。専攻は中国考古学。

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本書の帯

 

本書の帯には、「精神を刻み 恋情を歌い 思いを伝える」「鏡から生の声を聴きとる〈人間の考古学〉」と書かれています。カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「中国の皇帝が邪馬台国卑弥呼に贈った『銅鏡百枚』。日用の化粧具のほか、結婚のしるし、護符、政権のプロパガンダなど、さまざまに用いられた古代の鏡は、どのようにつくられ使われてきたか。鏡づくりに情熱を注いだ工匠たちの営みに注目しつつ、図像や銘文を読み解くことから、驚くほど鮮やかに古代びとの姿がよみがえる」 

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「はじめに」

第一章 鏡はどのように使われたか

第二章 人びとの心情を映す

    ――前漢鏡に刻まれた楚歌

第三章 “プロパガンダ”としての鏡

    ――儒家思想のひろがりと王莽の台頭

第四章 自立する鏡工たち

    ――後漢前期に生まれた淮派

第五章 民間に題材を求めた画像鏡

    ――江南における呉派の成立

第六章 幽玄なる神獣鏡の創作

    ――四用における広漢派の成立

第七章 うつろう鏡工たち

    ――東方にひろがる神獣鏡

第八章 政治に利用された鏡

    ――「銅鏡百枚」の謎を解く

「あとがき」

「図出典」

「参考文献」

「鏡関連年表」

 

「はじめに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
卑弥呼の『銅鏡百枚』――多数の小国に分かれて争っていた日本列島の倭人が、邪馬台国の女王卑弥呼のもとに結集し、西暦239年、中国王朝の魏に使いを送ったところ、魏の皇帝から返礼として贈られたものである。かわって近代、いまから100年ほど前に、それを日本の古墳から大量に出土する三角縁神獣鏡に比定したのが京都大学の富岡謙蔵である。その後、日本では邪馬台国論争、ひいては日本の国家形成論において鏡が大いに注目されている」

 

また、著者は以下のように述べています。
「古代の銅鏡に関心がもたれるようになったのは、いまから1000年も前にさかのぼる。中国のルネサンスといわれる北宋時代(960~1127)、文人官僚たちは古代にならった儀礼制度への改革を進めるため、地中から掘り出された古代の銅器や石碑を珍重し、そこに刻まれた文字を研究するようになった。それが金石学のはじまりである」

 

中国やヨーロッパでは、20世紀はじめまで古鏡の賞玩と銘文の読解が進められたのに対して、日本では古くから鏡が“三種の神器”の1つとして重んじられ、実際に古墳から大量の鏡が出土していることから、もっぱら歴史的な関心を引いてきました。著者は述べます。
「江戸時代の1822年、怡土郡三雲村(福岡県糸島市)から多数の銅鏡が出土した。福岡藩青柳種信はさっそく現地を調査し、遺跡と出土品について詳しく記録した。それによれば、農民が土を掘っていたところ、口を合わせた2個の素焼き甕(いわゆる甕棺)から大小35面分の鏡のほか、銅矛や勾玉などが出土し、重なった鏡と鏡との間には円盤状のガラス璧が差し挟まれていたという」

 

 

続いて、著者は以下のように述べます。
「青柳はさらに、古銅器の鑑識を論じた南宋の趙希鵠『洞天清録』(1242年ごろ)など宋・明代の漢籍を博捜して三雲の出土鏡を漢鏡とみなし、中国の習俗にならって多数の鏡を墓に副葬したものであり、『魏志倭人伝に記されるような交流によって中国から大量の鏡が舶載されたと推測した。かれは本居宣長門下の国学者であり、それが中国鏡か和鏡か、日本史の中にそれをどのように位置づけるのかに、主たる関心があったのである。出土鏡を日本史の文脈でとらえる視角は、ここにはじまったといってよい」

 

第一章「鏡はどのように使われたか」では、「最古の銅鏡」として、著者は以下のように述べています。
「東アジアにおける青銅器の出現は、紀元前3千年紀後半にさかのぼる。黄河上流域の斉家文化では工具類を中心に多くの銅器が出土し、チベット高原に近い青海省ガ(乃の下に小)馬台25号墓では、被葬者の胸の位置から銅鏡1面が出土している。墓の年代は前2000年ごろに下るが、鏡は径9センチ、背面に光の輝きをあらわす星形の文様がある」
中央の紐(紐を通すつまみ)が破損したため、周縁の近くに2孔をあけており、首から紐で吊り下げていたと推測されます。合金成分は銅90、錫10パーセント、白銅色からほど遠い赤みがかった色になるため、これで顔を映すのはむずかしかったと思われるそうです。

 

周礼

周礼

 

 

本書でわたしが最も興味を惹かれたのは、「殷周時代の礼器と鏡」として述べられた以下のくだりです。
「紀元前に成立した『周礼』考工記は、銅と錫の配合比に6段階あるという。すなわち、錫の少ない順に、楽器の鐘と炊器の鼎、木を切削する斧と斤、長柄の武器である戈と戟、長い刃をもつ刀剣、小刀の削と武器の鏃であり、もっとも錫の多いのが鑑と燧、つまり鏡である。宮廷儀礼に用いる礼楽器は錫が少なく、鏡は鋭利な刃をもつ工具や武器よりも錫が多いというのである。梅原末治らが歴代の鏡を分析したところ、およそ戦国時代(前453~前221)の鏡は銅75、錫25パーセント、漢~唐の鏡は銅70、錫25、鉛5パーセント前後である」

 

春秋左氏伝 (中国古典新書)

春秋左氏伝 (中国古典新書)

 

 

続いて、著者は以下のように述べています。
「『国の大事は祀と戎にあり』(『春秋左氏伝』成公13年条)といわれたように、祭祀と戦争は古代国家の根本であり、その礼楽器と武器・車馬具は青銅でつくられた。青銅器が古代国家を維持するもっとも重要な資財とされる所以である。
しかし、銅鏡は礼楽器より早く出現したとはいえ、殷周時代の作例はあまり多くない。また、儀礼について記した『礼記』や『儀礼』などの儒教経典には、青銅の酒器・食器・炊器・楽器などにかんする記述が豊富にあるが、祭祀儀礼において鏡はほとんど用いられていない。礼楽器と鏡とでは、用いられた時代と使われ方がちがっていたのである」

 

礼記 (中国古典新書)

礼記 (中国古典新書)

 

 

また、「儒家道家の言説」として、著者は述べます。
「古典籍には『鑑』と『鏡』の両方が用いられたが、漢以前の儒教経典は『鑑』がほとんどである。しかも形を映すはたらきの比喩として政治を『鑑みる』という用例が多い。たとえば『尚書書経)』酒誥には、殷が天命を失ったことにかんして「人は水を鑑とするのではなく、民を鑑としなければならない」という古人のことばが引かれている。儒家はこのように歴史を手本とする政治思想をしばしば説いた。北宋司馬光が編纂した『資治通鑑』や、日本の『大鏡』以下の歴史書に『鑑』や『鏡』のタイトルがあるのも、この考えにもとづいている」

 

書経 (中国古典新書)

書経 (中国古典新書)

 

 

これに対して戦国時代の『荘子』は、「鏡」の字をはじめて用い、「至人の心を用いるや、鏡のごとし」とあるように、道を体得した聖人の象徴としています。『淮南子』脩務訓にも「誠に清明の士の、玄鑑を心に執り、物を照らすこと明白なるを得る」とあります。この「玄鑑」は「水かがみ」であり、それに聖人の清らかな心をなぞらえています。著者は述べます。
「漢代にいたって、前2世紀中葉の安徽省阜陽双古堆1号墓から出土した『万物』という竹簡文書には『事 到れば大鏡を高く懸けるなり』と記されていた。精白なる鏡には目にみえない現象でも映し出すはたらきがあると考えられ、災いが起こったときには、大きな鏡を高くかかげて不祥をしりぞけるというのである。『万物』は医薬・物理・物性にかんする書物で、その思想は道家に近い。これは鏡を魔除けに用いた最古のテキストとして重要である」

 

荘子 (中国古典新書)

荘子 (中国古典新書)

 

 

第三章「“プロパガンダ”としての鏡――儒家思想のひろがりと王莽の台頭」では、「王莽の台頭」として、以下のように書かれています。「武帝のとき、儒家董仲舒は、天と人とは不可分の関係にあるという天人相関説を唱えた。政治に対する天の評価は自然現象としてあらわれ、君主が徳のある政治をおこなえば、天はそれを嘉して瑞祥を降し、悪政だと自然災害や怪異現象などの災異をもたらすという。この天人相関説は、宣帝のころからさかんにとりあげられた」

 

儒家を好む元帝(在位前48~前33)が即位すると、儒家官僚がますます登用されていきました。著者は述べます。
儒教にもとづく天地や祖宗の祭祀制度が整備され、経典の収集と整理が進められた。そのとき儒家思想の中核をなしたのが讖緯思想である。讖とは未来を予言する文字、緯とは織物のように経糸の経典を緯糸から解釈することで、緯書によって未来を予言する思想をいう。これは天人相関説を発展させた考えで、この讖韓思想と自然の変化を説明する陰陽五行思想とが車の両輪となって儒教の国教化へと進んでいった」

 

また、「陰陽五行思想」として、著者はこう述べます。
「讖緯思想に並んでひろがったのが、陰陽五行思想である。陰陽説は、天地や日月、男女など、陰と陽の相反する性質をもつ2つの気が、相互に盛衰をくりかえすという二元論である。一方の五行説は、万物が木・火・土・金・水という五要素によって成り立ち、それぞれの相生と相剋によって天地万物が変化し、循環するという。この陰陽五行思想は、周期的な天体の動きや季節の移ろいなど、天や自然の変化を説明する理論であり、前漢末期に天人相関説と結びついて人事を説明する理論にもなった。漢王朝は火徳で赤色を尊び、それにかわる王莽の新王朝が土徳で黄色を尊ぶという説も、この五行思想にもとづいている。また、讖韓思想による予言書にも、陰陽五行思想が反映されている」

 

「瑞祥の象徴」として、著者はこう述べます。
「めでたいことの前兆としてあらわれる瑞祥は、想像上の神秘的な動植物の形をとることが多く、前1世紀後半に天の瑞獣を主文とする鏡が出現する。生き生きとした細い線で瑞獣を表現するのが特徴で、方格の紐座をもち、円い天と四角い大地をあらわしたのが方格規矩四神鏡、円形の紐座をもち、円い天をあらわしたのが獣帯鏡である」

 

文献に記された瑞祥は、為政者の徳をたたえて出現する例がほとんどですが、鏡には瑞祥の出現によって服用者や家族の幸福がかなえられることを予言した銘文があります。
本書を読んで、鏡の魅力に惹かれました。わたしは儀式をについて研究と実践を続けていますが、鏡の存在はきわめて重要です。これからも、多くの文献を読んで、鏡についてもっと知りたいです。改元まで、あと53日です。

 

2019年3月9日 一条真也

『古墳の古代史』

古墳の古代史: 東アジアのなかの日本 (ちくま新書)

 

一条真也です。
『古墳の古代史』森下章司著(ちくま新書)を読みました。「東アジアのなかの日本」というサブタイトルがついています。渦巻の眼ごとく支配者が出現する、古墳の時代の中国・朝鮮・倭。日本と他地域に見られる共通点との違いについて最新考古学から考えた本です。著者は1963年生まれ。京都大学大学院文学研究科修士課程修了。考古学専攻。専門は古墳時代の研究。とくに銅鏡に関心を持ち、現在は大手前大学総合文化学部教授。

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本書の帯 

 

本書の帯には「日本の独自性はどこから芽生え どこへ向かったか」と書かれています。また、カバー前そでには、以下のように書かれています。
「紀元前1~4世紀の中国・朝鮮・日本。この時代の東アジアでは、中国の影響を受け、朝鮮・倭など周辺地域において、大小の『渦巻』が発生するごとく社会が階層化し、やがて『王』と呼ばれる支配者が登場する。その状況を最も雄弁に語る考古資料が『墳墓』だ。領域の明確な境界も形成されていなかった時代、ひととものが往来し、漢文化が大量に流入する一方で、東アジア諸地域の『ちがい』はむしろ拡大の方向へと向かった。明白に存在するそのちがいとは? それは何から生まれたのか? 最新考古学の成果に基づき、古代アジアのグローバリゼーションとローカリゼーションに迫る」

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本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「はじめに」 

第一章 前方後円墳とは何か

  1 前方後円墳の出現をめぐって

    【コラム1】時代の区分

  2 飛躍と東アジア

  3 中国王朝の変動

  4 東夷の社会変化

  5 渦巻の展開

第二章 ものとひとの往来

  1 漢文化の波動

  2 多様な交易

  3 ひとの動き

  4 倭の中の動き

  5 交流の変容

    【コラム2】石にかける情熱 

第三章 古墳の発達と王権

  1 中国の王墓

    【コラム3】王墓・首長墓・天皇

  2 朝鮮半島の王墓と倭

  3 王墓発展の相互作用

    【コラム4】王墓の復活

第四章 つながりとちがいと

  1 権威の象徴

  2 墳墓と思想

  3 倭の墳墓

    【コラム5】誰と誰をいっしょに葬るか

  4 けがれときよめ

  5 カミとひと

    【コラム6】研究するひとびと

「おわりに」

「主要参考文献・引用文献」

「挿図出典」

 

「はじめに」では、「古代東アジアの交流」として、以下のように書かれています。「古代日本(以降は「倭」と呼ぶことにする)と、中国との直接的な『交流』が考古資料にあらわれるのは弥生時代の中ごろからである。古墳時代にかけて、そのつながりは深さを増す。『後漢書』、『三国志』など中国の文献史料に倭が登場する時期だ。飛鳥・奈良時代へと続く東アジアの交流時代のはじまりである。この時代から、倭をふくむ中国周辺地域は大きな変貌をとげる」

 

第一章「前方後円墳とは何か」の冒頭では、著者は以下のように書いています。
前方後円墳という奇妙なかたちの墳丘をもつ墓は、倭に特徴的な墳墓形式である。この円と方とを合体させたかのようにもみえる墳墓のもつ意義は、単に墓のかたちだけにあるわけではない。前方後円墳の登場は、倭の大きな社会変化を反映するものと想定されている。国々の統一、王権の成立など、古代国家形成の出発点として考古学では盛んに議論されてきた大きな問題だ。近年の研究では、それが中国を中心とする東アジア世界の社会動向と関連づけて理解されるようになった」

 

1「前方後円墳の出現をめぐって」では、「どのようにして出現したのか」として、「古墳時代、大型の前方後円墳が奈良や大阪に集中して存在する。この時点で畿内(大和、河内、和泉、摂津、山城)に中心的な勢力、すなわち王権が形成されつつあったことはまちがいない。王権と前方後円墳の築造とは密接に関連する」と述べ、さらには以下のように述べています。
「九州北部では、弥生時代前期から多数の青銅器を副葬した有力者ないし支配者の墓が存在する。中期になると、中国製の鏡を大量に出土する傑出した存在の墓もみつかっており、『王墓』と呼ぶ人もある。弥生時代においては畿内以外の地域の方が社会の階層化や有力者層の形成は進んでいたのではないか、そう考える人が多くなるのも無理はない」

 

また、「九州北部の特異な墳墓――平原一号墓」として、著者はこう述べています。
畿内の評価を戸惑わせてきたのは、墳墓の大きさだけでなく、副葬品の問題もあった。弥生時代では、銅鏡の大量副葬例や出土総数に関しては、九州北部の墳墓が圧倒的に優位にある。集落の出土品もふくめて、鉄器の出土数も九州が断然多い九州北部の銅鏡大量副葬墓として問題となったのは、糸島市平原一号墓である。昭和40(1965)年に発見されて発掘調査されたが、その評価をめぐって研究者の意見が分かれ、長く議論が続いている。この墳墓の位置づけは、九州北部が前方後円墳出現に果たした役割の評価にも大きく影響する。場所は『伊都国』の中心部であり、近くには三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡など弥生時代中・後期の『王墓』が位置する」

 

「【コラム1】時代の区分」では、こう書かれています。
「考古学でつけられた時代名称は、言葉は悪いが、やや便宜的なところもある。『縄文』『弥生』という名称は土器に由来する区分だが、ひとくちに縄文土器といっても時期や地域による変化は大きい。縄文がない『縄文土器』はたくさんあるし、ややこしいことに関東地方では弥生時代にも『縄文』をつけた土器がある。近年は『縄文土器』というくくり方が存在するのかどうかも問題となっている。弥生時代が本格的な水稲耕作の時代であることがわかってくると、狩猟採集の時代/水稲耕作の時代という生産活動上の区分と一致させるようになった。ところが九州北部では、明らかに縄文土器が続いていた時代に本格的な水稲耕作が始まっていたことが証明されてしまった。土器で区分するのか、生業形態で区分するのか、大きな議論となった。水稲耕作のはじまりで区分すると別の問題が生ずる。関東地方や太平洋側の東北地方など、『弥生時代』のかなり遅くまで水稲耕作の導入が遅れる地域がある。広い地域をひとつの基準で区分することに無理があるのだ」

 

2「飛躍と東アジア」では、「飛躍の契機」として、著者は以下のように述べています。
「おもしろいことに、多くの研究者は前方後円墳の出現に関して、弥生時代からの段階的な進展を認めつつ、ある『飛躍』を踏んだ変革であったとみる点では共通する。『飛躍』を想定すると、そこには何らかの『契機』があったと考えるのが自然だ。その契機については海外、すなわち中国や朝鮮半島からの影響を想定する研究者が多い。日本考古学の定番となる考え方でもあるが、この島国において何かが突然大きく変化する時、そこに外からの影響や刺激があったとみるのが自然な場合が多い」

 

また、著者は「擬制的同族関係」を取り上げ、以下のように述べます。
「『擬制』を維持するためには、儀式や象徴物などを通じて結束を絶えず確認する必要がある。墳墓の形式を統一することは、この確認を支える象徴となりうる。大型前方後円墳を中心とする古墳のあり方に、政治・社会制度が反映した「秩序」をみる。このとらえ方は古墳時代研究者にも多大な影響を与えることとなった。それまでは古墳を『文化』や『風習』、あるいは漠然とした身分の象徴とみる傾向も強かったのだが、政治や社会の仕組みを端的に表すものと評価されたのだ。いいかえると考古資料から政治や社会を研究する道が開かれることとなったのである。この議論では、景初3年、卑弥呼が魏に朝貢し『親魏倭王』に冊封されたことが、こうした身分標識を導入する契機となったものとして重視される。中国王朝との新たな『秩序』の構築による強い影響が『飛躍』を生んだのだ」

 

さらに「古墳の秩序」として、こう書かれています。
古墳時代は、身分と出自にもとづく社会組織が形づくられており、それは後の幕藩体制などと並ぶ、日本の歴史の一段階として位置づけられる。墳墓の制度だけでなく、身分制や支配組織の進展も認められる。広く世界史・人類史的発展段階の中で『初期国家段階』として古墳時代を評価し、7世紀、律令国家体制の成立した段階への移行期にあたるものとみる。考古資料の実態に即するなら、ある歴史的段階が『国家段階』か否かというように区分するのではなく、社会の各種の側面が段階的に整っていったとみる方が自然だ」

 

第二章「ものとひとの往来」の5「交流の変容――3~4世紀」では、「三角縁神獣鏡の問題」として、著者は以下のように書いています。
「3世紀中ごろの中国との関係変化を考える上で、避けて通れないのが三角縁神獣鏡の問題だ。卑弥呼朝貢に対して魏から与えられた『銅鏡百枚』にあたるかどうかをめぐって大きな議論を呼んでいる。『景初三年』『正始元年』という卑弥呼朝貢と一致する年号を記した紀年鏡が存在する。一方、『景初四年』という実在しない年号を記したものもある。中国鏡の特徴を備えながら、中国での確実な出土例が確認できないなど問題は複雑だ。
その一方、三角縁神獣鏡前方後円墳への『飛躍』とともに大量に副葬されるようになったのであり、畿内に分布の中心があることも明らかである。『飛躍』の評価には欠かせない」

 

また、「器物の動きと渦巻の発達」として、著者は以下のように述べています。
「紀元前1世紀~紀元後1世紀の朝鮮半島南東部や九州北部では、楽浪を通じてもたらされた製品をふくむ豊富な器物を副葬した墓が登場する。ただ、それらの墓では立地や埋葬形式に関して、他のひとびとの墓との間に決定的な差は生じていない。器物の到来が先にあり、それによって有力者の地位が向上していったことを示すものかもしれない」

 

「2世紀には、倭では楯築墓に代表される大きな墳丘をもち、他の墓から独立した墳墓が登場する。朝鮮半島南東部では豊富な副葬品をもつ木槨墓が発達する。中部では低い墳丘をもち、鉄器などを多数副葬した墳墓が中心となる。それぞれの地域によってちがいはありながらも、有力者がより規模の大きい墳墓を築造することが普及してゆく」

 

「3~4世紀になると、巨大な墳丘と豊富な副葬品をそなえた『王墓』が登場してゆく。倭では三角縁神獣鏡など、中央からの器物を『威信財』として『配布』するという方式による渦巻の強化も認められる。そこには、単に社会の階層化や有力者の伸長以上の『飛躍』があったのだ」

 

第三章「古墳の発達と王権」の1「中国の王墓」では、「地下室王墓の出現」として、以下のように述べられています。
「東アジアにおいていちはやく王墓を発達させたのは古代中国だ。今のところもっとも古い王墓は、殷代後期、河南省安陽市殷墟遺跡でみつかっている。地下式であることが特徴で、地中深くにむけて大型の穴を掘り、中央に木を組んでつくられた槨を設け、その中の棺に亡骸を納める。四方向に墓道が伸びる」

 

続けて、以下のように書かれています。
「青銅器など多数の品物が副葬され、また王とともに人を犠牲として葬った『殉葬』が多いことも特色だ。大規模な墓ではあるが、地上に墳丘を築いていない。ただし、『婦好』という人物の墓上で建物跡がみつかった例もあり、なんらかの建築物が地上にあった可能性も考えられている。数基の王墓が一地区に集中してつくられており、独立した王墓区を形成する。甲骨文からも『王』の系譜の存在が確かめられる」

 

著者は、「墳丘と陵園の成立」として、こう述べます。
春秋時代の末期頃に、明確な墳丘をもった支配者の墓が登場する。それ以前にも低墳丘をもつ墓があった可能性はあるが、この時期からとくに高い墳丘を備えた墓となる。そして戦国時代、各地の国が覇権を競う時代になると、それぞれに特色ある墳丘をそなえた王墓が登場する。それらの王墓は大規模な建築物をともなう点も特徴である」

 

さらに「始皇帝陵の登場」として、秦始皇帝陵が、そうした戦国時代の王墓の発達の集大成であると指摘し、「地下の墓室の上に築かれた巨大な墳丘、その周囲に設けられた広大な陵園と多数の建築、墳丘の周辺の多数の陪葬墓などの要素は、いずれもその淵源は戦国時代の王墓にある。始皇帝以前の秦の王陵も墳丘・陵園のある点で基本的な要素は備えていた」と述べています。

 

始皇帝陵では地上の建物で、亡き皇帝に対する奉仕が行われましたが、著者はこう述べています。
「地下に保護された亡骸とは別に、霊魂が地上にあって生前と同じく生活をし、また政務などもおこなうと信じられていたのだろう。古代中国では、人を構成する気を陰の『魄』と陽の『魂』に分け、魄は肉体を、魂は精神をつかさどるとされる。死後はそれぞれ地下と地上・天に分かれる。古代中国の独特の霊魂観にもとづく墳墓形式なのである。地下の埋葬施設には『魄』があり、『魂』は地上の『寝』の設備で生活を送るとともに、廟に現れ、子孫の儀礼を受け、彼らを見守る役割も果たした」

 

「祖先祭祀と皇位継承」として、著者は述べます。
「中国では墳墓とともに、代々の祖霊が宿る施設として宗廟が重視された。殷周時代では、宗廟は祭祀の場にとどまらず、祖先の霊が見守る中で、政治に関わる重大な決定をおこない、布告する中心的な施設でもあった。そのため当初は宮殿内に設置されていた。政治活動の中心が朝廷に移ってゆくと、祭祀の場に地位がやや下がり、前漢代になると墳墓の近くにも廟を設けるようになる。ただし漢王朝の創設者である高祖の廟は長安の近くに置かれ、一貫して重視されていた」

 

続いて、以下のように述べています。
「天地を祭ることと祖先の帝を祭ることが、皇帝のもっとも重要な祭祀であった。とくに重要なのは新皇帝が即位する際の儀礼だ。天を祭る儀礼と高祖の廟でおこなわれる儀礼が必要とされた。皇帝の地位は天地の神と先祖の帝の承認が求められたのである。
後漢代になると変化が生ずる。後漢の明帝は、祖先の皇帝陵のそばに建てた廟に、百官を引き連れ自ら赴いて祭祀をおこなった。陵の近くの廟が祭祀の中心となってゆく。こうした変化は、権力や社会の維持手段として、儒教的な祖霊祭祀を一層重視することが広く社会的に普及したことのあらわれでもあった。後漢時代には、墓地での祖霊祭祀は官僚・豪族層まで普及する。墓に廟を建て、祖先の祭祀をおこなっていたことが考古学的にも確かめられる」

 

第四章「つながりとちがいと」の2「墳墓と思想」では、「中国の墳墓と社会」として、著者はこう述べています。
「皇帝陵を中心とした中国の墳墓の歴史をみると、墓が果たした政治・社会的役割の大きさにあらためて気づかされる。亡骸の安置場所であるとともに、霊が現世と同じ生活をおくるための居場所であり、さらに祖先の霊が子孫の継続と繁栄を見守り、補助する場所でもあった。そして墳墓や、別に設けられた廟などを場として、死者の世界と現実の社会や政治が強く結びついていたのである」

 

また、「中国の墳墓の特徴」として、こう述べます。
「皇帝陵に限らず、それ以下の位の人々の墳墓にも共通した観念の存在が認められる。それは死者の世界と現世とがつながっており、それが墳墓の形式や祖先祭祀などに明確に反映していることだ。墳墓が帝位や地位の継承、一族の維持など社会的機能に重要な役割を果たす点もその特色である。死者は来世で現世と同様の生活をおくるのであり、そのために墓室は生活空間を意識してつくられた」

 

 

中国の墳墓について、著者はこうも述べています。
「墓は生者のための施設でもある。祖霊は墓や廟にあって子孫を守護し、また占いなどを通じてその意志を伝えた。もっとも大切なのは、帝位や族長をはじめとした地位の継承に権威づけをおこなうことである。廟や祠堂での祭祀、祖先の崇拝を通じ、一族の結束を確認することも重要であった。代々の祖霊を一箇所の宗廟に集めて、墳墓とは離れた場所で一括して祭祀をおこなう場合と、墳墓のそれぞれに廟を設ける場合とがあるが、目的とするところは同じだ。王朝や一族が滅亡すれば、このシステムは崩壊し、墓所も放棄されただろう。王朝の簒奪者が前王朝の帝陵を破壊して略奪をおこなうのは、金品目当てでもあるが、祖霊に護られた仕組みを断ち切ることにも意味があったのかもしれない」

 

さらに「死霊への怖れ」として、こうも述べます。
「祖霊の尊重と表裏一体ではあるが、後漢代には死に対する別の観念も顕著になる。それは祖霊や死者に対する『怖れ』である。現世に生きるひとびとに「たたり」をもたらす存在として、祖霊を怖れる信仰は殷代から存在した。王墓において、多数の供物や人間の犠牲まで用意して手厚い埋葬をおこなったのは、祖霊となった死者を慰撫する意味があったという説もある」

 

「中国式の墓制や死生観念は、すくなくとも高句麗の王墓には影響を与えた可能性が高い。細かい比較はむずかしいが、陵園を備えた王墓があり、居宅を意識した柱などを壁画や彫刻で表現した例が認められる。広開土王碑文にみられる『陵戸』の存在も、陵邑の縮小版であろうか。百済新羅の墳墓に関しては、こうした比較はむずかしい。ただ王都の近くに築かれた王墓に関しては、文献記載などを総合すると、廟で祖先祭祀をおこなっていた可能性は高い。総じていえば、墳墓が死者のための施設にとどまらず、祖霊に対する祭祀とそのための設備により、生者の世界と恒常的に結びついていたことに特徴がある。ところが、倭では大きく異なる方向に墳墓が進化する」

 

3「倭の墳墓」では、「墳丘へのこだわり」として、著者は以下のように述べています。
「中国の陵園は、亡き王の祭祀を継続してゆくための重要施設だ。後漢代では、庶民の墓でも代々の墓を一定の敷地内に築き、定期的に祭祀・儀礼をおこなっている。百済新羅でも同じ場所に代々の王や一族の墓が継続して築かれており、祖先祭祀がおこなわれていた。倭でも『大王墓系列』、『首長墓系列』と呼ばれるが、何代かにわたってある地域に支配者の墓を続いて築く風習はあった。しかし、それらをまとめ、祖先として祭祀・儀礼をおこなった跡はみつかっていない。あるいは墳墓とは別の場所に設けられていたのであろうか。祖霊祭祀は、宮殿や居館でおこなわれたとみる説がある」

 

「おわりに」では、著者は以下のように述べるのでした。
「中国や朝鮮半島の墓制においては、現実の社会や一族の維持を果たす存在として祖先を祀り続けることが、王権や社会の維持においてとりわけ重大な意義をもつ。墳墓と生活・政治空間が一体のものとして機能した。倭でも祖先崇拝・祭祀はもちろんあったが、墳墓は聖域として政治・生活空間とは切り離された存在であり、その役割は大きく異なっていた。それは辟邪やきよめなど独自の信仰や身体感覚にもとづいていた。他地域の墳墓の歴史との大きなちがいは、前方後円墳を中心とする独特の墳墓の制度が7~8世紀に消滅してしまうことにもある。こうした変化は、一般には政治・社会体制の変化、律令制国家の形成と関連づけられて理解されている。しかし、それは墳墓の変化を直接的に説明するものではない。大きな要因は、独特の墓制が社会や生活の根本的な仕組みと結びついていなかったことにもあるのではないか」

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さて、わたしが古墳についての本を読んだのには大きな理由があります。それは、ここ数年、福岡県田川市赤村で発見された「卑弥呼の墓」と騒がれている前方後円墳のような地形について、より詳しい知識を得るためです。
西日本新聞」2018年3月20日朝刊には「『卑弥呼の墓では』巨大な前方後円墳? 謎の丘陵 日本最大に迫る全長450メートル (福岡県)」の見出しで、「赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳『大山(だいせん)古墳』(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは『卑弥呼の墓では?』といった期待の声も聞かれる」という内容の記事が掲載されています。

 

続けて、記事には以下のように書かれています。
「丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる『豊の国古代史研究会』の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径『径百余歩』とほぼ一致するという。また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を『自然の地形』として、前方後円墳との見方を明確に否定している」

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「FRIDAY」2018年5月25日号

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週刊プレイボーイ」2018年22号

f:id:shins2m:20190117130237j:plain週刊プレイボーイ」2018年23号

 

この赤村の前方後円墳のような地形は大きな話題となり、「FRIDAY」や「週刊プレイボーイ」をはじめとしたマスコミにも取り上げられました。じつはこの土地ですが、その一部は、わが社が所有する不動産であります。
それで、わが社の会長でもあるわたしの父などは、邪馬台国について熱心に研究しています。もし本当にこの地形が「卑弥呼の墓」であるなら、わたしは国に寄贈して、「卑弥呼公園」を造りたいと思っています。それにしても、ロマンのある話だとは思いませんか?
ということで、改元まで、あと54日です。

 

 

 2019年3月8日 一条真也

大分総合朝礼  

一条真也です。
7日、北九州は朝から大雨でした。
その雨の中を小倉から社用車で中津へ。途中、豊前紫雲閣に立ち寄りました。10時30分からサンレー大分の総合朝礼をわが社の結婚式場「ヴィラルーチェ」で行いました。
さまざまな部署から、総勢150名以上が参集しました。

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最初は、もちろん一同礼!

f:id:shins2m:20190307102932j:plain社歌斉唱のようす

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S2M宣言」を全員で唱和

 

司会は管理部の白鳥課長が務めました。
まず、「開会の辞」に続いて全員で社歌を斉唱し、それから宇佐営業所の西河所長によって「経営理念」および「S2M宣言」が読み上げられ、全員で唱和しました。

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社長訓示を行いました

 

それから、わたしが登壇して社長訓話を行いました。
最初に、わたしは「昨年の紅白歌合戦を御覧になりましたか。近年稀に見る素晴らしい紅白でした。サザンオールスターズ北島三郎さんの絡みには感動しました。新時代が来ると、あらゆる古いものが『もう不要では?』と言われます。紅白もきっとその危機感を抱いていたのでしょう。昨年の紅白は、北島三郎の『まつり』とサザンの『勝手にシンドバッド』で盛り上がりましたが、わたしも会社の新年祝賀会でその2曲を歌いました」と述べました。

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あと55日で、平成が終わります!

 

 もうすぐ、平成が終わります。みなさんの人生においても、平成はいろんな出来事があったでしょう。かくいうわたしも平成元年に結婚し、平成5年に長女が生まれ、平成11年に次女が生まれました。そして、平成13年に社長に就任しました。その思い出に溢れる平成があと数ヵ月で終わります。今年の4月30日に今上天皇は退位され、翌5月1日に改元となります。新しい時代の訪れで、あらゆるものが変化することでしょう。今年も多くの方々から年賀状をいただきましたが、文面に「紙の年賀状は今年限りとさせていただきます」というものがたくさんありました。いわゆる「年賀状じまい」です。もう新しい時代が来るのだから、古い習慣は終わりにしよう」という考え方が広まってきています。

f:id:shins2m:20190307103935j:plain変えてはならないものとは?

 

 その「新時代には不要では?」と考えられる可能性のある筆頭は冠婚葬祭かもしれません。バーチャルなIT社会の現在、リアルな冠婚葬祭という営みを否定する輩が必ず出てくるでしょう。世の中、変えてもいいものと変えてはいけないものとがありますが、窮屈なばかりで意味のない礼儀、いわゆる虚礼などは廃れていくのが当然でしょう。平成が終わって新元号となったとき、それらの虚礼は一気に消え去ります。しかしながら、結婚式や葬儀、七五三や成人式などは消えてはならないものです。それらは「こころ」を豊かにする「かたち」だからです。

f:id:shins2m:20190307104631j:plain「かたち」と「こころ」の関係を説明

 

人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。そこで大切なことは先に「かたち」があって、そこに後から「こころ」が入るということ。逆ではダメです。「かたち」があるから、そこに「こころ」が収まるのです。ちょうど不安定な水を収めて安定させるコップという「かたち」と同じです。

f:id:shins2m:20190307104245j:plain儀式という「かたち」を守ろう!

 

 人間の「こころ」が不安に揺れ動く時とはいつかを考えてみると、子供が生まれたとき、子どもが成長するとき、子どもが大人になるとき、結婚するとき、老いてゆくとき、そして死ぬとき、愛する人を亡くすときなどです。その不安を安定させるために、初宮祝、七五三、成人式、長寿祝い、葬儀といった一連の人生儀礼があるのです。今年はわれわれにとっても正念場です。ぜひ、サンレーグループ全員の「こころ」を1つにして、儀式という「かたち」を守りましょう!

f:id:shins2m:20190307105136j:plain実績報告のようす

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実績表彰のようす

 

その後、祐徳事業部長による実績報告があり、業績表彰として日田営業所の武富所長、宇佐紫雲閣の永松副支配人に2月度達成賞をお渡ししました。2人とも緊張しながらも、晴れやかな表情をしていました。

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各部署連絡事項を報告

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再び登壇して講評を行いました

 

そして各部署連絡事項として、営業推進部の堺部長代理、ヴィラルーチェの吉田支配人、マリエールオークパイン日田の辻支配人、紫雲閣事業部の山形支配人から報告がありました。その後、わたしが再び登壇して、社長として講評を行いました。わたしは儀式文化を守ることの意義を強調し、各部署の健闘を祈りました。

f:id:shins2m:20190307111623j:plain和のこえ」で締めくくる

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最後は、もちろん一同礼!

 

そして、いよいよクライマックス。別府営業所の澤谷ブロック長の音頭で「和のこえ」を行いました。わたしたちは、手をつないで「ガンバロー!」と3回唱和しました。わたしは、「この勢いがあれば、新元号になっても必ず飛躍できる!」と思いました。大分のみなさんに期待しています!
改元まで、あと55日です。

 

2019年3月7日 一条真也