さらば、爆弾小僧!

一条真也です。
イギリス出身の元プロレスラーのダイナマイト・キッドさんが60歳で死去したというニュースが入りました。わたしは昭和のプロレスを愛する者ですが、中でもキッドさんは大好きなプロレスラーでした。

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ヤフーニュースより

 

5日夜に配信されたデイリーのニュースでは「ダイナマイト・キッドさん死去 初代タイガーマスクや藤波らと名勝負」見出しで、以下のように書かれています。
「死因は不明だが、2013年には脳卒中を起こして倒れ、他にも心臓の病など複数の健康問題を抱えていた。イギリスのメディア『THE Sun』は現役時代の複数の写真を掲載し、60歳の誕生日を迎えた当日に亡くなったことを報じた」

 

デイリー・ニュースには、こうも書かれています。
「キッドさんはWWEの伝説のレスラーで、1980年代は日本のリングでも活躍。初代タイガーマスク藤波辰爾と名勝負を繰り広げ、日本のプロレスファンを熱狂させた。16年にはNHK・BSで放送された『タイガーマスク伝説~覆面に秘めた葛藤~』に出演したが、この時も闘病中だった」

 

デイリー・ニュースでは「初代タイガー キッドさん追悼『私にとって偉大なライバル』」の見出しで、以下のような記事も配信しています。
「日本でも人気を博した英国出身のプロレスラー、ダイナマイト・キッドさんの死去を、初代タイガーマスクこと佐山聡も悼んだ。2人が80年代前半に新日本プロレスで繰り広げた激闘は日本中で大ブームとなった。そのライバルとの別れに、初代タイガーマスクは主宰するプロレス団体リアルジャパンを通じ、『私にとって偉大なライバルでありますトミー(キッドさんの愛称)がなくなって悲しみにくれております。現状を知っていたので覚悟はしていましたが、今はただ安らかに眠っていただきたい』とのコメントを発表した。また、リアルジャパンは9日の後楽園ホール大会でキッドさん追悼の10カウントゴングを行う」

 

ダイナマイト・キッドさんは、アンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンらと並んで、アントニオ猪木率いる新日本プロレスの「過激なプロレス」を牽引しました。キッドさん自身はジュニアヘビー級であったため猪木というよりは藤波や初代タイガーマスクザ・コブラのライバルとして活躍しました。

 

証言UWF 完全崩壊の真実

証言UWF 完全崩壊の真実

 

 

最近、『証言UWF 完全崩壊の真実』(宝島社)という本を読んだのですが、その中で髙田延彦がキッドとのシングルマッチが夢だったと発言していました。念願のキッド戦が実現する直前に、髙田は藤原とともに旧UWFに移籍したため、幻のカードとなりました。髙田vsキッド戦、絶対に名勝負になったと思います。観たかったですね!

 

その後、キッドさんは新日本プロレスからジャイアント馬場率いる全日本プロレスに転じました。全日本のジュニアヘビー戦線でも数々の名勝負を披露しましたが、ステロイドに冒された彼の肉体はボロボロとなり、早期の引退を余儀なくされました。引退後もステロイドの後遺症で苦しみ続けたといいます。 

 

それにしても、60歳の誕生日に亡くなるとは!
早すぎる死に多くのプロレス・ファンは悲しみをおぼえています。キッドさんだけでなく、アンドレも馬場も鶴田も三沢も、みな亡くなりました。考えてみると、猪木、坂口、藤波、長州、木村健、藤原、前田、高田といった新日本プロレス出身の元プロレスラーは、橋本真也を除いてほとんど存命です。最もキッドと激闘を繰り広げた佐山聡氏は大病をされたと聞いていますが、ぜひキッドの分まで長生きしていただきたいものです。永遠の爆弾小僧、ダイナマイト・キッドよ、安らかに眠れ!  あなたの雄姿をけっして忘れません。合掌。

 

2018年12月6日 一条真也

『茶をたのしむ』 

一条真也です。
わたしは、お茶が大好きで、よく飲みます。
これからひと仕事するというときには濃いめのコーヒーを飲むことが多いのですが、疲れたときや病気のときは必ず緑茶をすすります。お茶ほどストレス・キラーな飲み物はありません。日本人は、もっともっとお茶を飲むべきだと思います。

f:id:shins2m:20181203181729j:plain茶をたのしむ』(2007年12月8日刊行)

 

ということで、24冊目の「一条真也による一条本」は、『茶をたのしむ』(現代書林)をご紹介いたします。「日本人の癒し」シリーズの第1弾として、2007年12月8日に刊行された本です。サブタイトルは「ハートフルティーのすすめ」です。帯には、「日本人はなぜ茶で癒されるのか?」と大書され、「『茶とコーヒー』『茶と健康』『茶と宗教』『茶の若者ばなれ』『茶のおいしい飲み方』『茶のふるさと・星野村を訪ねて』・・・・・・茶をたのしみ尽くす、『新・茶の本』誕生!」と書かれています。


本書の帯

 

帯の裏には、序文の言葉が引用されています。
「茶は単なる飲料ではありません。ペットボトルで飲めばよいというものではありません。茶には『もてなし』の心が欠かせないのです。茶で『もてなす』とは何か。それは、最高のおいしいお茶を提供し、最高の礼儀をつくして相手を尊重し、心から最高の敬意を表することに尽きます。そして、そこに『一期一会』という究極の人間関係が浮かび上がってきます」


本書の帯の裏

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。
序「茶の大いなる慈悲」   
茶の歴史を考える
宗教と茶
茶室が示す「平和」と「平等」
ハートフル社会と茶
第1部 ◆日本人の心の中にいつもお茶がある  
【茶の歴史】
古代中国にはじまり、世界を席捲するまで
「茶」の語源は“調べる”
陸路で世界へ伝播した茶は「チャ」、海路は「ティー
将軍・源実朝は2日酔いのときに一服の茶を飲んだ
石田三成の「三献の茶」が伝える「おもてなしの心」
18世紀初頭に登場した急須が、おいしい茶に貢献した
童歌に秘められた「お茶壺道中」の威光
慶事にも重宝されてきた茶のしきたり
茶柱が立つと縁起がいい、と言われた理由
【茶のいろいろ】
作り方によって味わいが変わる日本茶の妙
煎茶ができるまで
緑茶の種類いろいろ
土地柄が生んだ日本各地の銘茶
【茶の効用】
なぜ、体にいいのか。なぜ、心にいいのか
栄養素の宝庫、茶葉をそのまま食べよう
カテキンとビタミンの相乗効果で若々しく美しく
【茶のいれ方】
緑茶のおいしいいれ方としきたり
茶の種類によって違う基本のいれ方
水出し煎茶をおいしくいれるコツ
煎茶オンザロックをおいしくいれるコツ
緑茶の正しい買い方と保存法
古くなった煎茶は、自家製のほうじ茶に
捨ててしまうのはもったいない茶殻
【世界が注目する緑茶】
香りと味、そして健康食ブームに貢献
【ここまで発展した茶のいろいろ】
緑茶の風味を食べ、香りを楽しみ、着る
【幻の茶・本玉露
星野村が育んだ日本一の伝統本玉露
村人の愛情と熱意が育む最高の味わい
最高の本玉露で最高のおもてなし
第2部 ◆特別対談
茶も、冠婚葬祭も、「平和」に通じている!
日本茶が羽ばたく要素、ジャンルは無限
「あとがき」

 

茶は、現在のインドと中国の国境上にあたるヒマラヤ東部の山林地帯が原産地とされています。カメリアシネンシスという椿科の常緑樹の葉、芽、花を乾燥させ、これを煎じて飲むのです。最初は、飲み物というよりも、薬や食材でした。
茶はまず、中国で普及します。中国の神話によれば、最初に茶をたてたのは神農とされています。紀元前28世紀から27世紀に君臨したと言われる、伝説上の第二代皇帝です。初代皇帝は火と調理と音楽を見つけたと言われていますが、神農は農業と鋤を人々に教え、薬草を発見したことで知られます。伝説では、神農が飲み水を沸かしているときに、自生の茶の枝を火にくべていると、突風が吹いて茶の葉が何枚か鍋の中に落ち、偶然に繊細かつすっきりとした味わいの飲み物ができたのだそうです。

 

もちろん、これは、あくまでも伝説です。茶がいつ、どのようにして中国で普及したのかは不明です。でも、どうやら仏教僧の働きによるものだったことは間違いないようです。仏教僧に限らず、道教僧も、茶は集中力を高め、疲れを吹き飛ばしてくれることを知っていました。茶に含まれるカフェインの効能ですが、そのため茶を飲むことが瞑想をする上で大変有益であると気づいていました。道教の思想的源流の1人である老子は、茶は不老不死の霊薬に欠かせない材料であると信じていたのです。

 

その道教の徒である陸羽という人物が8世紀に登場し、『茶経』を著しました。茶は4世紀までにはかなり一般化していましたが、中国史において黄金時代を迎えるのは陸羽の活躍した唐の時代です。唐において、茶は中国人にとって国民的な飲み物となったのです。
陸羽こそは茶を喉の渇きを癒すための単なる飲み物から、文化のシンボルへと変えた人物でした。彼の登場後、中国では茶の味がわかり、これを愛でることが評価されるようになりました。とりわけ、茶葉の種類の違いを見分けられることが高く評価されました。茶を入れることは、一家の主にのみ許された名誉あることであり、上手に優雅な作法で入れられないのは恥とされました。

 

王朝では、茶を中心とする会や宴が人気となりました。皇帝は特定の泉から取ってこさせた水で入れた特別な茶を飲み、これが後に特別な茶を「年貢」として皇帝に納めるという伝統につながってゆくのです。
その後、茶の人気は宋の時代も続きましたが、13世紀に中国人がモンゴルの支配下に入ると、茶の文化は一気に衰退します。反対にモンゴル人が排斥され、明朝が起こると、中国文化再評価の機運が生じて、その流れの中で茶の人気は再燃します。陸羽が唱えた茶の作法はますます複雑化し、より入念かつ詳細な手順が良しとされるようになりました。もともと宗教的な飲み物であった茶は原点回帰を果たし、茶の文化は一種の宗教的次元にまで高められました。こうして茶は肉体のみならず、精神をも癒す飲み物としての地位を獲得したのです。

 

しかし、茶の文化を極めた地は日本でした。 日本人は六世紀頃からすでに茶を飲んでいましたが、茶の栽培と茶摘み、茶の入れ方や飲み方に関する本格的な知識が中国から入ってきたのは十二世紀のことです。伝えたのは、臨済宗の祖である栄西でした。彼は茶の健康効果を讃える書も著しており、茶はヘルシー・ドリンクとして認められたわけです。栄西は、自分で育てた茶によって源実朝の病を癒し、それ以降、実朝は茶を大変好むようになったとされています。そして、茶の人気は将軍家から日本全国へと広がってゆきます。十四世紀にはすでに、日本社会の全階層に浸透していました。日本の気候は茶の栽培によく適していたのでしょう。かなり貧しい家でさえ、茶の木を何本か育てていたといいます。必要なとき、葉を一、二枚摘んで、茶を入れるためにです。 

 

日本における茶の文化は、「茶道」として芸術の域にまで高められました。茶道は単に一定の作法で茶を点(た)て、それを一定の作法で飲むだけのものではありません。実際は、宗教や哲学、茶道具や茶室に置く美術品など、幅広い知識や感性が必要とされる非常に奥深い総合芸術なのです。
栄西が日本に茶を伝えた事実からも明らかなように、茶道はまず、禅と深い関わりがあります。禅宗は「今をどう生きるか」を説く仏教の一派ですが、茶道には禅の精神が随所に生きています。いや、むしろ禅の思想が茶道の根本にあると言ってもいいでしょう。

 

かの千利休をはじめとした偉大な茶人はすべて禅の修行者でもありました。人は茶室の静かな空間で茶を点てることに集中するとき、心が落ち着き、自分自身を見直すことができます。わたしは、禅を生んだ仏教という宗教と、茶という飲み物が、その本質においてよく似た存在であると思っています。特に、日本人の精神世界において、そのことが言えるのではないでしょうか。

 

茶室で茶を飲むと人は「平等」になります。廻し飲みというのも、平和を実現するとともに、すべての人を平等に扱っているわけです。そもそも茶室の中における主人と客人との関係は、主従関係を離れた対等の関係でした。そこでは、身分の差を超えて、あくまで個人対個人の関係だったのです。近代民主主義の時代ならともかく、身分制と主従関係を基本として構成されている前近代社会の中にあって、このような人間関係が茶室の中で実現したことは奇跡的でさえありました。 

 

さらに前衛芸術家としての利休は、偉大な心理学者であり、一流の空間プランナーでもありました。茶室には、露地、中門、飛石、蹲踞、躙口といった、利休が張りめぐらせたさまざまな仕掛けを見つけることができます。そこでは天下人も富豪も、他の人々と同じ歩幅で敷石を踏み、必ず頭を下げなければ中には入ることができなかった。中に入った後も、狭い空間ゆえに互いに正座して身を寄せ合わなければなりません。茶室では、すべての人間が平等となるのです。

 

もちろん、茶室の外でも茶は平等をもたらす飲み物でした。茶の平等性は貧富をも超えます。貧しい暮らしの人が冷えた食べ物を食べる場合でも、茶と一緒に取れば、温かい食事をしているような気になれました。どれほど多くの貧しく人生に絶望しているような人々が一杯の温かい茶によって、心やすらぐひとときを持つことができたことでしょう!それというのも、日本でも中国でもイギリスでも、茶は水の次に安い飲み物であり続けたからです。

 

さらに日本においては、茶は安いどころか無料で提供される水以外の唯一の飲み物です。寿司屋でも蕎麦屋でも日本料理店でも、店に入ると一杯の茶が出される。もちろん無料であり、いくらおかわりしてもタダ。
煎茶であれ番茶であれ、茶葉を購入するわけですから何かしらのコストがかかっているわけで、考えてみれば実に不思議な話です。このことについて、『茶ともてなしの文化』の著者である角山榮氏は、「すべてのモノやサービスが商品化される資本主義社会において、無償で提供されるこのお茶。商品の試供品であれば、話は別である。日本はお茶の国である、だからお代を頂くほどのものではない、というならば、ブラジルはコーヒーの国である。だからブラジルのレストランでは、コーヒーがタダで出てくるというのか」と書いています。

 

わたしは、この無料で万人に茶が出されるということこそ、茶の平等性および茶が仏教のシンボル・ドリンクであることの最大の証明であると思います。仏教の説く「慈悲」のごとく、茶は万人に与えられるのです。
このように茶ほど「平和」で「平等」な飲み物はありません。わたしは冠婚葬祭を業としていますが、2つの理念を掲げて、仕事をしています。1つは、「結婚は最高の平和である」であり、もう1つは「死は最大の平等である」です。
この2つをセレモニーとして形にしたものが結婚式であり、葬儀であると信じています。社員には、いつも1件1件の結婚式や葬儀が「世界平和」と「人類平等」という、この上なく崇高な理念に直結するものであると強調しています。

 

しかし、お茶を飲むというシンプルな行為がすでに「世界平和」「人類平等」につながっているのだと最近になって気づきました。いつの日か、アメリカ大統領やイスラエルパレスチナの政治的代表者、ローマ法王イスラム教の最高指導者などが一同に会し、みんなで蹲踞をくぐって茶室に入る。そして、一碗の茶を廻し飲みする・・・そんな夢のような光景を想像してしまいます。さらに茶は、21世紀における心ゆたかな社会、つまりハートフル・ソサエティの到来に深く関わっています。ハートフル・ソサエティとは人間の心が最大の価値をもつ社会ですが、そこでは「ホスピタリティ」が一番のキーワードになります。サービス業界を中心に「ホスピタリティ」の重要性がいたる所で叫ばれていますが、もともと茶道の世界はジャパニーズ・ホスピタリティとでも呼ぶべき密度の濃い究極の「もてなし」の文化だったのです。

 

茶をたのしむ ―ハートフルティーのすすめ (日本人の癒し)

茶をたのしむ ―ハートフルティーのすすめ (日本人の癒し)

 

 

2018年12月6日 一条真也

『このあと どうしちゃおう』

このあと どうしちゃおう

 

一条真也です。
4日は、異常なほど暖かかったですね。福岡では26度を超え、師走というのに夏のようでした。いま、新しい本を執筆しています。『グリーフケアの時代』という本で、上智大学グリーフケア研究所島薗進所長と鎌田東二副所長との共著です。わたしは「グリーフケアと読書」についても書くのですが、同書の担当編集者である弘文堂の外山千尋さんから1冊の絵本を紹介されました。『このあと どうしちゃおう』ヨシタケシンスケ著(ブロンズ新社)という絵本です。

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本書の帯 

 

外山さんからのメールには、こう書かれていました。
「一条さんはヨシタケシンスケというイラストレーターをご存じでしょうか? 人気の絵本作家でもいらっしゃるのですが、この方の『このあと どうしちゃおう』という絵本のテーマはグリーフケアです。明るく楽しく、けれど真剣に死と向き合うことを考えさせられます。2年前に出た本ですのですでにご存じかもしれませんが、まだでしたらぜひご一読ください。一条さんのご感想を楽しみにしております」

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本書の帯の裏 

 

いや、外山さんには申し訳ないですが、わたしはこの本を知りませんでした。アマゾンで見てみると、なんと100近いレビューが集まっているベストセラーではないですか。こんな有名な本を知らないとは、不覚でした。本書は、『リンゴかもしれない』『ぼくのニセモノをつくるには』に続く、発想えほん第3弾だそうです。アマゾンの「内容紹介」には、「ヨシタケシンスケが『死』をテーマに挑む。おじいちゃんは、しぬのがこわかったのかな? たのしみだったのかな? しんだおじいちゃんのノートをひらいてみると・・・。しんだらどうなる? どうしたい? しんだあとのこと、生きてる間に考えてみよう」

 

りんごかもしれない

りんごかもしれない

 

 

著者のヨシタケシンスケ氏は、1973年神奈川県生まれ。筑波大学大学院芸術研究科総合造形コース修了。日常のさりげないひとコマを独特の角度で切り取ったスケッチ集や、児童書の挿絵、装画、イラストエッセイなど、多岐にわたり作品を発表。絵本デビュー作『りんごかもしれない』で、第6回MOE絵本屋さん大賞1位、第61回産経児童出版文化賞美術賞、『りゆうがあります』で、第8回MOE絵本屋さん大賞1位など、数々の賞を受賞し、注目を集めているそうです。

 

ママがおばけになっちゃった! (講談社の創作絵本)

ママがおばけになっちゃった! (講談社の創作絵本)

 

 

 主人公の「ぼく」は、小学校低学年ぐらいでしょうか。彼のおじいちゃんが死んでしまいます。多くの子どもにとって、初めて経験する肉親の死は祖父であることが多いです。年齢の順からいって当然ですが、わたしもそうでした。わたしが小学生の間に、父方の祖父も母方の祖父も亡くなりました。子どもに「死」について教える絵本では、ブログ『ママがおばけになっちゃった!』で紹介した作品が有名です。
交通事故で死んでしまった若い母親と4歳になる息子の心の交流を描いた絵本です。ベストセラー&ロングセラーですが、同書には批判的な意見も多いです。たとえば、「どうか、内容を見てから購入を決めてください」(おはなママ)というアマゾンのレビューには、小さな子を持つ母親の正直な気持ちが述べられています。
「我が家では、朝起きたとき、保育園に送るとき、迎えに行ったとき、寝るとき・・・いつもぎゅっと抱きしめています。甘えるとき、まだたまに、おっぱいを触ります。さみしい時や不安なとき、ママがそばにいるのが当たり前なんです。そんなママがいなくなったら・・・この年齢の子どもは、架空のお化けや鬼を本気で恐がって泣くなど、とても想像力が豊かです。その子どもにママの死を想像させるのは・・・。ただの恐怖だと思いました。例えばひとりぼっちで知らない場所に置き去りにされるようなものかと思いました。かわいそうなことをさせてしまったと思いました。『うん、このお話はもうおしまいね。ママはずっといるから大丈夫よ。大丈夫』と声かけをしました」

 

おじいちゃんがおばけになったわけ

おじいちゃんがおばけになったわけ

 

 

小さな子どもにとって、おじいちゃんとの死別はよくあることでしょうが、母親との死別というのはなかなか体験しないことです。それだけに悲しみの大きさも桁違いに大きいと言えます。おじいちゃんが亡くなる絵本といえば、ブログ『おじいちゃんがおばけになったわけ』で紹介した作品を思い出します。
2005年の絵本ランキングで、海外翻訳絵本の第1位に輝いた名作です。著者のキム・フォップス・オーカソンは、アンデルセンを生んだ童話王国デンマークの出身で、現在は映画の脚本家としても活躍しています。画家のエヴァエリクソンスウェーデン生まれで、日本でも人気のイラストレターです。
主人公のエリックは小学校の低学年ですが、大好きなおじいちゃんが亡くなって悲しんでいます。おじいちゃんは何か大切な忘れものをして、おばけになって、この世に戻ってきます。でも、それが何なのか、なかなか思い出せません。エリックがいろんな写真を見せても、うまく思い出せません。しかし、ついに、おじいちゃんは大切なものを思い出します。そして、エリックに素敵なプレゼントをくれるのでした。

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おじいちゃんの残したノートを発見

 

本書『このあと どうしちゃおう』のおじいちゃんは、おばけにはなりません。亡くなったおじいちゃんの部屋をみんなで掃除していたら、ベッドの下からノートが出てきます。故人が残したノートといえば、『思い出ノート』や『人生の修活ノート』(ともに現代書林)などのエンディングノートを連想しますが、そうではありませんでした。そのノートの表紙には「このあと どうしちゃおう」と書かれ、ページを開くと、おじいちゃんの絵と文字で「自分が将来死んだら、どうなりたいか、どうしてほしいか」がいっぱい書かれていました。たとえば、「この後の予定」「天国に行くときの格好」「生まれ変わったら、なりたいもの」「こんな神様にいてほしい」「天国ってきっとこんなところ」「いじわるなアイツはきっとこんな地獄に行く」「こんなお墓をつくってほしい」「みんなを見守っていく方法」「みんなに作ってほしい記念品」などなど・・・・・・。おじいちゃんの書いた絵と文字を目で追っていくと、なんだか死ぬのが怖くなくなります。

f:id:shins2m:20181204204720j:plainみんなを見守っていく方法

 

特に、「みんなを見守っていく方法」の最初に紹介されているのは「月になって」でした。これを見て、わたしはとても嬉しくなりました。わたしは、「月への送魂」、「月面聖塔」、「月面葬」など、「月こそあの世」ということで、「月」をシンボルとした一連の新しい葬送文化を提唱してきたからです。それらはすべて、死のイメージを変えるための仕掛けです。
「月」と「死」と「葬」について言及した拙著『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)に書いたように、「死」だけでなく、「老い」にしても、不当にケガレのイメージを持たれているものに対しては、それらを美しいものに変えるイメージ・トレーニングが必要ではないでしょうか。

 

ロマンティック・デス―月を見よ、死を想え (幻冬舎文庫)

ロマンティック・デス―月を見よ、死を想え (幻冬舎文庫)

 

 

たとえば「老人」に関しては、拙著『老福論』(成甲書房)(成甲書房)に書いたように、「翁」というものをイメージしてみます。超高齢社会とは、老人が疎外される社会でもあります。現在、日本の老人の多くは、決して幸福とはいえない環境にあります。それは、「老い」を負のイメージとみなすところから、不幸ははじまっているのです。神への最短距離が「翁」です。翁は死んだら神様になるのですが、そうすると人生の中で一番神に近いのは老人ということになります。そして、神に近い人は当然、尊敬されるのです。神への最短距離にあるのが老人。老人の先に死があるから怖がる人々もいますが、その老人の先に神があったら、自然とケガレはなくなります。それにしても大事なのは、老人がある移行期間を経て神になる、あの世へ行くというプロセスのイメージです。やはり、死後どのようにして、自分はあの世に移行していくかというイメージ・トレーニングが必要になります。その場合、死後の世界を信じる者と信じない者、または、来世の信仰のある者とない者とでは、そのイメージ・トレーニングの成功の度合いが違ってくるでしょう。

 

老福論―人は老いるほど豊かになる

老福論―人は老いるほど豊かになる

 

 

老人が死んで「神」になるなら、子供は死んで「蝶」になります。「死」の研究者であったキューブラー=ロスは、肉体と霊魂はちょうど繭と蝶のような関係であると断言しています。これは一種のシンボル言語で、子供たちは死んでいくことをそういう形で表現するといいます。ロスが最初にこの事実に気づいたのは、ナチスユダヤ人を監禁、虐殺していた強制収容所の1つ、マイダネク強制収容所を訪れた時でした。そこでは9万6000人もの子供がガス室で殺されたのですが、その子たちが寝起きしていたバラック建ての小屋の壁に、おびただしい数の蝶の落書きがあったのです。壁を引っかいて描いた蝶の絵は至るところにありましたが、それはガス室に送られる子供たちが残した最後のメッセージでした。ロスはその後、今までどの医師もやったことのない画期的な仕事、すなわち死を正面から見つめる作業をはじめますが、子供の患者との接触で「蝶」の意味するところに気づいたといいます。

 

永遠の別れ―悲しみを癒す智恵の書

永遠の別れ―悲しみを癒す智恵の書

 

 

魂をデザインする』(国書刊行会)で宗教学者山折哲雄氏と対談をさせていただいたときに、山折氏から直接うかがった話ですが、現実にアメリカの子供たちは、死ぬ時に蝶のイメージを思い描いているといいます。チョウチョウになってお母さんのいるところへ飛んでくるとか、そういった類の蝶イメージが非常に多いのです。他の世界へ移行する、たとえば身体は単なる魂の抜け殼であるという考え方が、見事に印象深く入っているのです。蝶というのは、ギリシャ語で「プシュケー」であり、「魂」という意味もあります。ギリシャ人にとっては、魂すなわち蝶でした。そのことが西洋の近代社会では忘れ去られたけれども、子供たちの世界に復活してきているということでしょう。中国などでも、「胡蝶の夢」に代表されるように、蝶は魂そのものです。さらには日本にも、魂が蝶や白鳥になるという蝶伝説、白鳥伝説が存在します。蝶=魂のイメージは、われわれの脳の奥底に生まれながらにしてインプッ卜されているのかもしれません。そういった部分からも、蝶による死のイメージ・トレーニングの必要性が出てくるわけです。

 

 

そして、死後の世界に関しても、イメージ・トレーニングは必要です。世界中の臨死体験者の報告を調べてみると、彼らが見る光景は大きく2つの要素で成り立っていることがわかります。まず1つは、暗いトンネルの向こうに光が見えるというような、全世界の人類共通の光景。そしてもう1つは、キリストやブッダに出会う、お花畑や三途の川があるなど、臨死体験者個人が生前の宗教環境や文化環境に影響を受けたと思われる光景です。ここで考えられるのは、次のようなことです。すなわち、おそらくすべての人間は死後の世界に同じ光景を見ている。しかし、個人個人の受け取り方、つまり生前の価値観によって、その光景はそれぞれ違った世界に見えるということです。わたしは、キリストに出会ったとか、三途の川があったなどというのは、臨死体験者の無意識のイメージが投影された現象だと思います。

f:id:shins2m:20181204125852j:plainノートに書かれていた「このあとのよてい」 

 

その一方で一部の科学者たちは、臨死体験者が見たという死後の世界は、死の瞬間に脳の側頭葉が見せる幻覚であるなどと言います。側頭葉の奥に眠る潜在意識が投影されて、死後の世界そのもののイメージがつくられているというのです。どちらの考えが正しいにしろ、その人間のイメージ力が死後の世界を決定するということだけは言えます。だとすれば、生前に多くの美に接し、豊かな情操教育を受けていれば、体験する死後の世界も美しいものとなるはずです。生前に潜在意識を美しいイメージで埋め尽くしておけば、脳の中に美しいイメージしか存在しなければ、死後の世界は必然的に美しい世界でしかありえません。さらに極論を言えば、死後の世界は生前において、自由にデザインすることができるのです。すなわち、「死」とは人間が一生を通じてつくりあげる一種のイメージ・アートであると言えるでしょう。「美しい死」は「美しい人生」によって創られるのです。

f:id:shins2m:20181204162815j:plain生きているうちに、やりたいことがいっぱい! 

 

というわけで、おじいちゃんの荒唐無稽な「死後の世界」や「死後の生活」は、美しく、明るく、楽しいものでした。それはそのまま、おじいちゃんのイメージ・アートであったのです。また、おじいちゃんのノートは、エジプトやチベットの『死者の書』とか、源信の『往生要集』のような死後のガイドブックとしての「聖典」と呼んでもいいかもしれませんね。おじいちゃんにとってのプライベートな「聖典」です。
いずれにせよ、ぼくは、「おじいちゃんにもう会えないのは寂しい。でも、もし天国があって、おじいちゃんの想像通りだとしたら、ちょっと安心する。おじいちゃんのノートのおかげだ」と思うのでした。そして、ぼくは自分でも「このあと どうしちゃおう」のノートを作成しようとしますが、自分が死んだ後のことを考えおうとすると、「いま生きているうちにやりたいことがいっぱいあること」に気づくのでした。「死を考えることで生が輝く」というのはよく言われることですが、この真理を見事に表現した絵本であると思いました。この明るい「死」の絵本は、わが社のグリーフケアのコンセプト・ショップ「ムーンギャラリー」のブックコーナーに、ぜひ置きたいです!

ムーンギャラリー」のブックコーナー

 

素敵な絵本を教えていただいた外山さんに感謝!
なお、外山さんからは「じつは、もうひとつリクエストがございます。『一条真也の映画館』で『パパはわるものチャンピオン』がアップされるのをずっと待っています。ひょっとして棚橋がお嫌いなのでしょうか? ぜひよろしくお願いします」というメールも届きました。すみません、その映画も知りませんでした。
棚橋は別に嫌いではありませんが、どちらかというと最近のプロレスラーに興味は感じませんね。わたしは昭和のプロレスを愛する男ですので・・・・・・。
でも、「パパはわるものチャンピオン」は評価も高く面白そうなので観たいのですが、すでに上映期間を過ぎており、東京の大森でしか観れない状況です。ちょっとスケジュール的に無理ですので、DVD化されたら観たいと思います。外山さん、ごめんなさい。これから、映画は上映中に教えていただけると助かります!

 

このあと どうしちゃおう

このあと どうしちゃおう

 

 

2018年12月5日 一条真也

『孤独の科学』

孤独の科学 (河出文庫)

 

一条真也です。
『孤独の科学』ジョン・T・カシオポ/ウィリアム・パトリック著、柴田裕之訳(河出文庫)を読みました。サブタイトルは「人はなぜ寂しくなるのか」です。わたしは「グリーフケア」の研究と実践を行っていますが、「孤独」の問題はそれに深く関わっています。
著者のカシオポはシカゴ大学ティファニー・アンド・マーガレット・ブレイク殊勲教授。科学的心理学会元会長。認知・社会神経科学センター所長。「社会神経科学」の創始者の1人。全米科学アカデミー・トロウランド・リサーチ賞、アメリカ心理学会殊勲科学貢献賞ほか多数受賞。もう1人の著者パトリックは「ジャーナル・オブ・ライフ・サイエンス」誌の創刊者・編集人です。

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本書の帯

 

本書の帯には「脳と心のしくみから、進化のプロセス、社会・経済的背景、対処法まで・・・・・・現代人が知っておきたい、孤独感のすねて」「人間とは『つながり』を求める動物である」「そういうふうにできている」と書かれています。

 

また、カバー裏表紙には「内容紹介」があります。
「その孤独感には理由がある! 脳と心のしくみから、遺伝と環境、進化のプロセス、病との関係、社会・経済的背景まで……『つながり』を求める動物としての人間――第一人者がさまざまな角度からその本性に迫る。少子高齢化が進み、コミュニティーの重要性が見直されている現代社会において、よりいっそう示唆に富む一冊である」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。 

第一部 孤独な人たち 

第1章 対人関係の中で寂しさを覚える
第2章 遺伝の力、環境の力
第3章 事故制御力が失われていく
第4章 利己的な遺伝子と社会的な動物
第5章 普遍的な要素と個別的な要素
第6章 孤独感による心身の摩耗

第二部 人間という社会的な生き物

第7章 人と人を結ぶ交感の糸
第8章 断つべからざるつながり
第9章 誰よりも汝自身を知ること 
第10章 生まれ持った葛藤
第11章 起きて当然の葛藤

第三部 社会的つながりに意味を見出す

第12章 三種類の適応
第13章 適切な社会的つながりを築くために
第14章 社会的なつながりの力

「訳者あとがき」
「文庫版のための訳者あとがき」
「原注」

 

「はじめに」には、以下のように書かれています。
「20世紀後半に人間の心の科学的研究で使われた最も有力なメタファーは、大量の情報処理能力を持った単体の装置としてのコンピューターだった。しかし、孤独感を研究してみると、私たちはこのメタファーには満足できなくなった。今日のコンピューターは大々的に相互接続されていて、単体のコンピューターに内蔵されたハードウェアやソフトウェアをはるかに凌ぐ能力を備えている。そして、人間の脳の遠隔受容器(たとえば目や耳)が大昔から、いわば無線ブロードバンドの相互接続を人間に提供してきたことが、私たちには明らかになってきた。相互接続したコンピューターの能力やプログラムが、1台のコンピューターのそれをはるかに凌ぐのとちょうど同じで、人間の脳が進化の過程で発展させてきた社会的・文化的能力や処理能力は、単体の脳のそれをはるかに超える。人間の全能力を理解するには、脳の記憶力や演算力だけでなく、ほかの人間を表象する能力や理解する能力、彼らと関係を持つ能力も評価する必要がある。つまり、意味を生み出す強力な社会的脳を私たちが進化させてきたことを認めなければならないのだ」

 

第一部「孤独な人たち」の第1章「対人関係の中で寂しさを覚える」では、「人間である証拠」として、以下のように書かれています。
「人間は生まれつき社会的な生き物だ。何から得られる喜びが幸せに最もつながりやすいかと訊かれると、大多数の人が富や名声、さらには身体的な健康よりもなお、愛と親密さと社会的帰属を高く評価する。人間という種にとって社会的なつながりがどれほど重要かを考えるとなおさら悩ましいのだが、常時、人口のおよそ20パーセント(つまり、アメリカだけでも6000万人)が強い孤立感を覚え、それが人生での不幸せの大きな原因となっている。この数字は、社会的な孤立が高血圧や運動不足、肥満、喫煙に匹敵するほどの影響を健康に与えることを思えば、いっそう深刻だ」

 

また、孤立の痛みを感じるのはすべてネガティブだ、と決めつけることはないとして、以下のように述べられています。
「孤独にまつわる感覚は、人間という種が生き残るのに貢献したから進化したのだ。『愛着理論』の先駆者である発達心理学者のジョン・ボウルビーは、こう書いている。『群れから孤立すること、とりわけ、幼いころに自分の保護者から引き離されることは、途方もない危険を孕んでいる。したがって、どの動物も孤立を避け、仲間との近接を維持する本能的習性を持っていたとしても、驚くことがあろうか』」

 

続けて、以下のように述べられています。
「人間は身体的な痛みを感じるおかげで身体的な危険を避けることができる。社会的な痛み、すなわち孤立感も同じような理由で進化した。この痛みを感じるおかげで、孤立したままになる危険が避けられたのだ。私たちの祖先は社会的なつながりに頼って安全を維持し、子孫という形で自分の遺伝子を首尾良く複製し、その子孫もまた、生き延びてさらに遺伝子の複製を残すことができた。彼らは、個体を守っているそうした絆が危うくなったり不足したりすると、孤独感を覚えることでそれを悟った。たとえば熱いフライパンに触れたら指を引っ込めるように、身体的な痛みを感じれば行動を変えることが促されるのと同じで、孤独感は、人間が社会的なつながりにもっと注意を払い、他者を求め、ほつれたり切れたりした絆を修復するのを促す刺激として発達した」

 

続けて、以下のように述べられています。
「ところがこの痛みは私たちを、目前の個人的な自己利益にいつも結びつくとはかぎらないような行動にも走らせた。この痛みは、私たちに自分の殻を破らせ、その時々よりも先まで視野を広げさせた」
さらには、「私たちの種が健康で幸せであるには、他者とのつながりに満足し安心していること、つまり『孤独でない』状態がとりわけ求められる。この状態を表す良い言葉がないので、それを私たちは『社会的なつながり』と呼んでいる」と述べるのでした。

 

「全体像をつかむ」としては、著者は述べています。
「『ほかの人間』が私たちの神経経路に反映されるカテゴリーとして格別に重要であることを思えば、どこのコミュニティーでも最も基本的な慣習が、社会的文脈の重要さを反映しているのもうなずける。というのも、今に残る人類の痕跡を見るかぎり、生活の中でとりわけ強く情動を喚起される経験は、婚礼や出産や死といった、社会的な絆の成立あるいは消滅にかかわる出来事だからだ。この絆には生活をまとまりあるものにする求心力がある。私たちはこの絆のおかげで、他者を受け入れられているという特別な安心感が得られ、絆が結べなかったときには拒絶されたという独特の悩ましい痛みを覚える。これこそ、人間が社会的な評価にこれほど敏感になる原因だ。私たちは他者にどう思われているかをひどく気にする。だからこそ、恐怖症で医師にかかる人の10大要因のうち3つが対人不安(人前で話す恐怖、見知らぬ人に会う恐怖、人込みへの恐怖)なのだ」

 

また、「社会的なつながり」について、以下のようにも述べられています。
「社会的なつながりを求める私たち人間の衝動はとても根が深いので、孤立感を抱いていると明晰な判断がしだいにできなくなることもある。知性を育む上で社会的なつながりが果たす役割を思えば、これもそれなりに、もっともな話だ。現在おおかたの神経科学者が認める見解によると、何万年もの長きにわたって人類の大脳皮質の拡大と、その内部での相互接続の強化を促したのは、しだいに複雑化する社会的な手がかりを送受したり、読み取ったり、中継したりする必要性だったという。言い換えれば、現在の私たちを形作ったのはおもに、他人とかかわり合う必要性だったのだ。
というわけで、社会的なつながりは自分という存在にしっかりと織り込まれているのであり、そうした社会的なつながりを実感することに、生理的にも情動的にも安定を促す効果があるとしても不思議はないだろう」

 

さらに、社会的なつながりについて、著者は以下のように述べます。
「社会と結ばれている、あるいは社会と断絶しているという感覚は、こうした例をはじめとするさまざまな形で、人間の体や行動に絶大な影響を及ぼしている。私たちの肉体は遅かれ早かれ必ず衰えていくが、その下り坂の勾配は、孤独感によって急になりうる。反対に、健全な社会的つながりは衰えを緩やかにする一助になる。私たちはひとたび『大きな社会的幸せ』の域に達したなら(これは誰にでも可能だ)、健康を回復するポジティブな力を与えられ、より長く、より丈夫に生き続ける後押しをしてもらえるのだ」

 

「誰が孤独に感じるか」として、著者はこう述べます。
「1960年代のロックスター、ジャニス・ジョプリンは、歌っているときには他者と強いつながりを感じられたが、いったんステージを降りると逆にひどく孤独だった。その彼女が死の直前、『2万5000人と愛し合ったのに、帰るときは独り(I just made love to twenty-five thousand people,but I’m going home alone)』という曲に取り組んでいると語っている。また、偶像視される20世紀の女性として真っ先に思い出されるジュディ・ガーランドマリリン・モンロー、ダイアナ元イギリス皇太子妃の3人がいずれも孤独な人だったのは周知の事実だ。マーロン・ブランドらの伝説的な大物俳優についても同じことが言える」

 

「問題の三要因」として、著者は3つの複雑な要因の相互作用から孤独感の強大な影響力が生まれると訴えます。その三要因とは、(1)社会的な断絶に対する弱さ、(2)孤立感にまつわる情動を自己調整する能力、(3)他者についての心的表象、予期、推論。これらを踏まえて、著者はこう述べています。
「その人の感受性がどうあれ、社会的なつながりに対するそれぞれの欲求が満たされないときは、安らぎは得られない。初期の人類は集団でいたほうが生存の可能性が高かったため、他者とともにいる喜びを維持させつつ、意に反して独りになったときには不安感を生み出す遺伝子が選択されて、進化の過程で密接な結びつきを好む性向が強化された。さらに、これは本書の主題でもあるが、私たちは進化によって、社会と結びついているときに心地良さだけでなく安心感も得るようになった。ここできわめて重要なのは、進化の結果、人間は孤立すると居心地が悪いばかりか、身体的な脅威に直面したときのような不安感を抱く、という点だ。次に見るように、いったんこうした感覚が生まれると、社会的認知が危機感を帯び、やたらにその危機感を募らせる恐れがある」

 

「人生の主導権を握る」として、著者は述べます。
「社会的なつながりが体全体の機能を左右するのに対し、じつは自己調節(バランスを保とうとする各人の精神的・生理的努力の総和)の影響はほかの人々にも及ぶ。社会的なつながりに恵まれ、自己調節の利いた人ほど、周囲の環境に一致・同調した社会的シグナルを発している。それに呼応して受け取るシグナルもまた、なおさら一致・同調したものであるのも驚くにはあたらない。個人と周囲との間のやりとりから生じるこの相乗効果は、自己調節の当然の結果で、私たちはこれを『共調節(コ・レギュレーション)』と呼ぶ」

 

第2章「遺伝の力、環境の力」では、「孤独感の代償」として、以下のように述べられています。
「私たちは進化の作用によって、仲間といれば安全を感じ、心ならずも独りになったときは危機感を覚えるようにできているので、孤立の感覚と脅威の認識は互いに強め合い、警戒心を募らせて持続させる。生命や体が脅威にさらされたとき有効に対処できるように、自然は私たちに、『闘争・逃走反応』として知られる一連の生理反応とともに、極度に警戒する認知能力を授けてくれた。しかし、現在私たちが依存している神経回路網は、何百万年も前に私たちが直面した、いわば『当て逃げ型』のストレス要因に対応するために進化した。結果的に、このストレス反応(闘争・逃走反応)は、心臓血管系の抵抗をすばやく高め、私たちのエンジンを全開にするホルモンを体中にみなぎらせる。野良犬たちの攻撃をかわすのであれば、そのようなホルモンのおかげで私たちは命拾いするかもしれない。だが、孤立感や愛されていないという感覚がストレス要因のときには、こうした興奮性化学物質がひっきりなしに分泌され、老化を促進する有害な力として作用する」

 

また、「革紐(ただし伸縮自在)」として、以下のように述べられています。
「私たちの認知上の強みは、人類の最も近い親戚のチンパンジーやその近縁種のボノボにすでに見られる特性を組み合わせたり、増強したりしている点にある。大型哺乳類にとって、高い知能を持つことには自分の遺伝子を広める上で価値がある。食物を見つけたり捕まえたり、危険を避けたり、縄張りを移動したりするための、より良い方法が発見しやすくなるからだ。だが、そうした行動が必要とする複雑さも、社会的な生活の複雑さにはかなわない。人間は集団の中で生きるために、他者の精神状態を認識する能力、つまり、『心の理論』と呼ばれる能力を持つことが重要になった。しかし、心の理論もまた一種の社会的認知であり、孤独に感じることによって、たやすく歪められてしまう能力なのだ」

 

第3章「自己制御力が失われていく」では、「孤独感は注意力を奪う」として、こう述べられています。
「健康で幸せな人生を送るには脳の前頭葉が担っている統合知能が必要だ。この機能のことを、神経科学者や心理学者は『実行制御』と呼んでいる。この種の知能の調整や統合は、自分の名前を思い出すのには必要ない。簡単な計算もまた然り。ほかに、たとえば母国語を読んだりピアノで曲を弾いたりするように、いったん習得したらすぐに実行制御の手を離れる課題もある。だが、複雑な社会行動など、もっと込み入った認知機能には、生涯にわたる自己調節が必要とされる。私たちの帰属意識が損なわれたとき混乱を来すのは、こうした社会的な認知や行動だ」

 

第二部「人間という社会的な生き物」の第7章「人と人を結ぶ交感の糸」では、「行動は原因として伝わり、結果として返ってくる」として、こう述べられています。
「食事や睡眠といったごく基本的なプロセスでさえ、個別の化学反応以上の営みで、社会的慣習や社会的手がかりに対する応答でもあるのだ。
しかし、実験室での調査ではこのような社会的な影響を生体の体内深くまでたどることができる。神経生物学者スーザン・ヘイバーと社会学者パトリシア・バーカスは、オスのアカゲザルの群れにアンフェタミン覚醒剤)を投与し、個々のサルへの影響の現れ方が群れの中での地位によって非常に異なること(実際、正反対であること)を発見した。地位の高いオスは支配的な行動が強まったが、地位の低いオスは服従的な行動が増えた。別の状況では『純粋に』生理的な反応と考えられていたことが、社会的文脈によって決まったのだ」

 

第8章「断つべからざるつながり」では、「ハーロウの悪名高き実験」として、以下のように書かれています。
「1958年、ウィスコンシン大学の心理学者ハリー・ハーロウは、今や伝説の(というより、悪名高い、と言うべきだろうか)実験を行なった。彼はアカゲザルの赤ん坊を母親から引き離し、代わりに、一体はワイヤー、もう一体は布で作られた、二体の代理母を与えた。どちらの『母親』に哺乳瓶をとりつけてミルクが飲めるようにしてあっても、サルの赤ん坊は多くの時間を布でできたほうに抱きついて過ごし、驚いたり気が動転したりしたときにはそちらに飛びついた。ワイヤーでできた母親のほうに行くのは哺乳瓶がついていたときだけ、それもミルクを飲んでいる間だけだった。ハーロウは、触覚的な心地良さを奪われたサルが精神と情動の両面で発達が大幅に遅れることを発見した」

 

一方、「健全な絆」として、こう書かれています、
「半世紀ほど前、精神分析学者ジョン・ボウルビーは、個々の人間の成長過程における他者との絆のダイナミクスを解明しようとしているとき、オーストリアの科学者コンラート・ローレンツの研究結果からヒントを得た。行動学(動物行動学)の有名な研究者ローレンツは、本来、母親の姿を頭に『刷り込み』、本能的にその後について回るガンのヒナに、コンラート・ローレンツその人の姿を苦もなく刷り込み、自分の後を1列に並んでついて回るようにできることを明らかにした。このオーストリア人科学者の後を追いかけるガンのヒナの写真が世界中で紹介された。ボウルビーはローレンツの発見を発展させて1つの理論をまとめ、「愛着理論」と名づけた。親と子の間で生得的なシグナルが交わされることによって、両者の関係だけでなく、子供のその後の性質までも決まる、というものだ。ボウルビーの理論の最大の問題は、人間はガンではないという点にある」

 

第9章「誰よりも汝自身を知ること」では、「注意深く眺める」として、以下のように書かれています。
「ポジティブなものを楽しめないということは、主観的な孤立感を親しい間柄にまで持ち込む人には、さらに別の意味合いを持つ。人がポジティブな経験の後に自分のパートナーから支援や後押しを得ることを、心理学者は『社会的資本の利用』と言う。こうしたポジティブなものを心から楽しみ、最大限に利用することは、結婚生活などの親密な関係の健全性のためには、つらい時期に協力的であるよりもなおさら重要であることを、研究の結果が示している。パートナーの昇進を共に喜び合うのは、パートナーが昇進しそこなったときに気遣ってあげるよりも、じつは重要になりうるようだ。同様に、別の研究からは次のようなことが明らかになった。結婚生活での問題を解決するときには、2人の前途は愉快で楽しいという見通しを持ち続けていれば(たとえ、その陽気さに見合うほどのコミュニケーション技能がなくても)、不機嫌な顔でどうにか適切な言動を続けるよりも、パートナーを幸せにしてやれる可能性がはるかに高くなる」

 

第三部「社会的つながりに意味を見出す」の第12章「三種類の適応」では、「社会の基本原理」として、以下のように書かれています。
「わずかな骨が散らばって残っているだけの十数種のヒト科の類人猿が、どのような社会的行動をとっていたかを推定する手段はない。しかもホモ・サピエンスへとつながる系統については、より長い期間を視野に入れ、より大きく全体像を見据えることができたからこそ、社会的な協力を民族国家という形にまで最適化させられたのがわかっている。その最適化にどれだけ成功したかは、時代や場所によっても違うのは明らかだが、社会的調和が著しく乱され、暴力や貧困や経済不況へ転落した例を見れば、社会的な協力の重要性がわかるだろう。個人的な野心や個人利益への願望とは対照を成して働く「第三の適応」のより広い社会的な物の見方を、しっかりと受け入れたとき初めて、私たちは偏狭な私利私欲を超えた真に革新的な解決にたどり着ける。個人や家族や部族、そして最終的には種のためになる考え方こそ、最高のものだ」

 

続けて、以下のように書かれています。
「梃子や車輪、火を使ったテクノロジーは、いつの時代にも公共のものだった。ヘロドトスの知恵もヘーゲルの知恵も、誰もが利用できる。何十年にもわたって略奪と横領を繰り返す悪辣な実業家でさえ、改心して最後には巨大な財団を設立し、自分の富を使って社会の役に立とうとすることが多い。マザー・テレサは自分の一生をコルカトの貧民を救うことに捧げたが、ノーベル賞受賞を狙っていたわけではない。サー・ティム・バーナーズ=リーは人類を1つに結びつける手段としてワールドワイドウェブの基本的な構造を発明したのであって、営利目的の利用を考えてはいなかった。それにもかかわらず、有益な進歩にまつわる人類の歴史は、部族主義や不寛容、流血、残虐などを含む、『勝者総取り』や『私のやり方が嫌なら出ていけ』式の考え方にずっと傷つけられている」

 

第13章「適切な社会的つながりを築くために」では、「Eは最善を『expect(期待する)』のE」として、以下のように書かれています。
「ポジティブになって他者に善意を施そうとする人は、気がつくと、打ちのめされ、疲労困憊していることがある。つらい時を過ごしていて、もしかしたら鬱状態に陥っている可能性もある友人や配偶者と接していると、自分まで気持ちが落ち込む恐れがある。自分のエネルギー・レベルが落ちたら、それは、自分と友人あるいは配偶者には専門家の特別な助けが必要だという重要なシグナルかもしれない。また、自分が満たされるより、他者を満たすほうに熱を入れすぎてしまうことも考えられる。もしそうなったら、疲れ果ててしまわないうちに何か手を打って、互恵主義やバランスに注意を向け直すべきだ。人づき合いはいつも複雑だとはいえ、この複雑さを乗り越えることが、そもそも人間の大きな脳を進化させ、発達させてきた原動力だったと言っても過言ではない」

 

第14章「社会的なつながりの力」では、「もう寂しくはない」として、以下のように書かれています。
「イエスの教えを広める運動の初期に、グノーシス派のような神秘主義的で内部志向型の宗派は早々と姿を消した。やがて西洋の世界を構成する主要な要素となるタイプのキリスト教は自尊という単純なメッセージ(「神の国は汝の中にある」)に焦点を絞り、これを、食事を共にすることや、共同生活を送ることとさえ結びつけた。その合理化された神学はユダヤ教の複雑な清めの儀式を捨て去り、神秘主義的な意味でというより、他者に対する一個人の行動の問題として悪を提示した。生き残って繁栄した教会は、すでに社会的な支援の強力な源だったユダヤ教の伝統の基本的理論を個人の内面生活に明確に拡張し、怒りや憎しみ、誤った情欲といった、社会的つながりにとって有害な思いを心に抱くことさえ禁じる掟を定めた」

 

続けて、初期のキリスト教について、以下のように述べられています。
エルサレムの神殿を信仰生活の中心とすることはなくなったが、通常の人間生活の基本要素を神聖化するための儀式は残した。生殖には結婚、誕生にあたっては洗礼、病気になれば塗油、死に臨んでは、臨終の人に対する最後の秘蹟という具合だ。これらの儀式を通じて教会は人の生涯にわたって社会的なつながりの指針を与えた。こうして、この、すべてにかかわる教会は、実用的な社会慣習の担い手になった。人に自尊心を持たせ、死者を埋葬し、貧者を養った。ユダヤ教イスラム教、儒教、仏教と同じく、キリスト教は、夫婦や家族の関係から商取引を行なう際や隣人とつき合う際の基準まで、コミュニティー内のあらゆる関係ややりとりを調節した」

 

「生身の人間が集まる効果」として、著者は述べます。
「私たち人類は群居せざるをえない種として、たんに抽象的な意味で帰属するだけでなく、現実に集まる必要がある。宗教儀式と罹病率や死亡率の減少との間に関連性が見出される事実を踏まえると、生身の人間が集まることには、実際に有効な役割があるかもしれない。社会学者のリンダ・H・パウエル、リーラ・シャハビ、カール・E・トレセンは宗教と健康に関する広範な文献のメタ分析を行ない、ポジティブな影響とされるものの説明になるかもしれない9つの仮説を検討した。宗教心の強い人が健康で長生きするのは、宗教が促進する、より保守的で健康的なライフスタイルのおかげなのだろうか。それは祈りの力のおかげだろうか。それとも、信心そのものにまつわるものが細胞レベルで私たちに影響を与えているのだろうか」

 

また、著者は以下のようにも述べています。
ロータリークラブに毎週出席するのも良いかもしれないが、パウエルたちの調査結果によれば、宗教的な集会への定期的な出席には何か特別なものがあるかもしれないという。教会に行けば、家族の絆の強化や友人との信頼できる交遊というおまけまでつくことが多い。また、宗教は他者に助けてもらうことより他者を助けることに重点を置く傾向がある。この利他主義的な姿勢は自尊心や自制心を育て、その一方で憂鬱な気持ちを軽くする。礼拝に参加し、他者が祈りや瞑想だけでなく、思いやりのある援助に打ち込むのを目にすることで、社会的なお手本も得られ、より健康的なライフスタイルを含めて多種多様のポジティブな行為をさらに強めることができる。コミュニティー感覚、良い友人に囲まれて過ごす時間、夫婦や家族という親密な関係の強化はすべて、幸せの増大に貢献しているかもしれない。しかしそれでも、まだもっと強力なものが何か作用しているかもしれない」

 

さらに「孤立の経済学」として、こう述べるのでした。
「個人として、また社会として、人間的なつながりへの欲求に上手に対処できれば、得るものは大きく、対処の仕方が下手ならば、失うものは大きい。新しいパターンの移住によって世界中の既成の文化が変わっていくにつれ、部族主義を超えて共通基盤を見出すことの重要性は、かつてないほどに大きくなっている。私たちは、孤独感を抱くと必要以上に脅威を覚えるようになり、認知能力が減退することを肝に銘じるだけでなく、本物のつながりの温もりのおかげで心が自由になり、目の前にどんな難関があっても、集中して取り組めることも忘れてはならない。個人としても社会としても、社会的な孤立感を覚えると、私たちは創造力とエネルギーの広大な貯水池を失ってしまう。人間どうしのつながりは、私たち人間の可能性を育んでくれる井戸に水を加える」

 

「訳者あとがき」では、柴田裕之氏がこう述べます。
「孤独を感じるのは嫌なもの、つらいものとは思っていたが、これほど有害とは知らなかった。なにしろ社会とのつながりが乏しいと、集中力や判断力が損なわれ、睡眠の質が落ちて疲労感が増すばかり、老いが早まり、心臓病、脳血管や循環器の疾患、癌、さらには呼吸器や胃腸の疾患などで死ぬリスクが高まり、その危険度は高血圧や肥満、運動不足、喫煙に匹敵するというのだ」

 

続けて、柴田氏は次のように述べています。
「ただし孤独と言っても、著者が何度も指摘しているように、独りでいるのと孤独を感じるのとは違う。孤独感というのは、あくまで主観的なものだ。独りでいても孤独感を覚えない人もいれば、大勢に囲まれていても、孤独に感じる人もいる。
もう1つ大切なのは、孤独感自体が、けっして悪いものではないことだろう。誰もがときおり孤独を味わうのがあたりまえで、それは、孤独感が役に立つからだ。孤独感は、人間という種が生き残るのに貢献したから進化したのだ」

 

そして、柴田氏はこう述べるのでした。
「1つの契機となったのが、邦訳刊行から1年後の2011年に起こった東日本大震災ではないか? 人的・物的被害の甚大さや被災された方々が心に受けた傷は言うに及ばず、故郷を一時的あるいは長期的に離れざるをえなくなった方々の社会的つながりの途絶と寂しさにも、どれほど多くの人が胸を痛めたことか。その一方で、国民の間の連帯感や、被災者と支援活動者との絆など、育まれた社会的つながりもあった」

 

隣人の時代―有縁社会のつくり方

隣人の時代―有縁社会のつくり方

 

 

わたしは東日本大震災の直後に『隣人の時代』(三五館)を上梓しました。同書で、わたしは「なぜ、世界中の人々は隣人愛を発揮するのか」と読者に問いました。その答えは簡単です。それは、人類の本能だからです。「隣人愛」は「相互扶助」につながります。「助け合い」ということです。わが社は冠婚葬祭互助会ですが、互助会の「互助」とは「相互扶助」の略です。

 

 

よく、「人」という字は互いが支えあってできていると言われます。互いが支え合い、助け合うことは、じつは人類の本能なのです。チャールズ・ダーウインは1859年に『種の起源』を発表して有名な自然選択理論を唱えましたが、そこでは人類の問題はほとんど扱っていませんでした。進化論が広く知れわたった12年後の1871年、人間の進化を真正面から論じた『人間の由来』を発表します。この本でダーウインは、道徳感情の萌芽が動物にも見られること、しかもそのような利他性が社会性の高い生物でよく発達していることから、人間の道徳感情も祖先が高度に発達した社会を形成して暮らしていたことに由来するとしたのです。そのような環境下では、お互いに助け合うほうが適応的であり、相互の利他性を好むような感情、すなわち道徳感情が進化してきたのだというわけです。

 

〈新装〉増補修訂版 相互扶助論

〈新装〉増補修訂版 相互扶助論

 

 

 このダーウインの道徳起源論をさらに進めて人間社会を考察したのが、ピョートル・クロポトキンです。クロポトキンといえば、一般にはアナキストの革命家として知られています。しかし、ロシアでの革命家としての活動は1880年半ばで終わっています。その後、イギリスに亡命して当地で執筆し、1902年に発表したのが『相互扶助論』です。ダーウインの進化論の影響を強く受けながらも、それの「適者生存の原則」や「不断の闘争と生存競争」をクロポトキンが批判し、生命が「進化」する条件は「相互扶助」にあることを論証した本です。

 

 

この本は、トーマス・ハクスレーの随筆に刺激を受けて書かれたそうです。ハクスレーは、自然は利己的な生物同士の非情な闘争の舞台であると論じていました。この理論は、マルサスホッブスマキアヴェリ、そして聖アウグスティヌスからギリシャソフィスト哲学者にまでさかのぼる古い伝統的な考え方の流れをくみます。その考え方とは、文化によって飼い慣らされなければ、人間の本性は基本的に利己的で個人主義的であるという見解です。それに対して、クロポトキンは、プラトンやルソーらの思想の流れに沿う主張を展開しました。つまり、人間は高潔で博愛の精神を持ってこの世に生まれ落ちるが、社会によって堕落させられるという考え方です。平たく言えば、ハクスレーは「性悪説」、クロポトキンは「性善説」ということになります。

 

ゲーテとの対話(全3冊セット) (岩波文庫)

ゲーテとの対話(全3冊セット) (岩波文庫)

 

  

『相互扶助論』の序文には、ゲーテのエピソードが出てきます。博物学的天才として知られたゲーテは、相互扶助が進化の要素としてつとに重要なものであることを認めていました。1827年のことですが、ある日、『ゲーテとの対話』の著者として知られるエッカーマンが、ゲーテを訪ねました。そして、エッカーマンが飼っていた2羽のミソサザイのヒナが逃げ出して、翌日、コマドリの巣の中でそのヒナと一緒に養われていたという話をしました。ゲーテはこの事実に非常に感激して、彼の「神の愛はいたるところに行き渡っている」という汎神論的思想がそれによって確証されたものと思いました。

 

「もし縁もゆかりもない他者をこうして養うということが、自然界のどこにでも行なわれていて、その一般法則だということになれば、今まで解くことのできなかった多くの謎はたちどころに解けてしまう」とゲーテは言いました。さらに翌日もそのことを語りながら、必ず「無尽蔵の宝庫が得られる」と言って、動物学者だったエッカーマンに熱心にこの問題についての研究をすすめたといいます。

 

クロポトキンによれば、きわめて長い進化の流れの中で、動物と人類の社会には互いに助け合うという本能が発達してきました。近所に火事があったとき、私たちが手桶に水を汲んでその家に駆けつけるのは、隣人しかも往々まったく見も知らない人に対する愛からではありません。愛よりは漠然としていますが、しかしはるかに広い、相互扶助の本能が私たちを動かすというのです。クロポトキンは、ハクスレーが強調する「生存競争」の概念は、人間社会はもちろんのこと、自然界においても自分の観察とは一致しないと述べています。

 

生きることは血生臭い乱闘ではないし、ハクスレーが彼の随筆に引用したホッブスの言葉のように「万人の万人に対する戦い」でもなく、競争よりもむしろ協力によって特徴づけられている。現に、最も繁栄している動物は、最も協力的な動物であるように思われる。もし各個体が他者と戦うことによって進化していくというなら、相互利益が得られるような形にデザインされることによっても進化していくはずである。以上のように、クロポトキンは考えました。

 

クロポトキンは、利己性は動物の伝統であり、道徳は文明社会に住む人間の伝統であるという説を受け入れようとはしませんでした。彼は、協力こそが太古からの動物の伝統であり、人間もまた他の動物と同様にその伝統を受け継いでいるのだと考えたのです。「オウムは他の鳥たちよりも優秀である。なぜなら、彼らは他の鳥よりも社交的であるからだ。それはつまり、より知的であることを意味するのである」とクロポトキンは述べています。また人間社会においても、原始的部族も文明人に負けず劣らず協力しあいます。農村の共同牧草地から中世のギルドにいたるまで、人々が助けあえば助けあうほど、共同体は繁栄してきたのだと、クロポトキンは論じます。

 

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

 

 

古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「人間は社会的動物である」と言いました。近年の生物学的な証拠に照らし合わせてみると、この言葉はまったく正しかったことがわかります。結局、人間はどこまでも社会を必要とするのです。人間にとっての「相互扶助」とは生物的本能であるとともに、社会的本能でもあるのです。人間がお互いに助け合うこと。困っている人がいたら救ってあげること。これは、人間にとって、ごく当たり前の本能なのです。『隣人の時代』と本書『孤独の科学』のメッセージは明らかに通じ合っています。ともに「社会的つながりの力」について論じた本ですので、当然と言えば当然でしょう。本書を読みながら、わたしはずっと『隣人の時代』を執筆したときのことを思い出していました。

 

孤独の科学 (河出文庫)

孤独の科学 (河出文庫)

 

 

 2018年12月4日 一条真也

クリスマスの秘密

一条真也です。
WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第5回目がアップしました。タイトルは、「クリスマスの秘密」です。

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クリスマスの秘密

 

クリスマスはイエスの本当の誕生日ではありません。3世紀までのキリスト教徒は、12月25日をクリスマスとして祝ってはいませんでした。彼らは、後にキリスト教会の重要な祝日となるこの日に、集まって礼拝することもなく、キリストの誕生を話題にすることもなく、他の日と何の変わりもなく静かに過ごしていました。同じ頃、まだキリスト教を受け入れていなかったローマ帝国では、12月25日は太陽崇拝の特別な祝日とされていました。当時、太陽を崇拝するミトラス教が普及しており、その主祭日が「冬至」に当たる12月25日に祝われていたのです。 

 

また、真冬のクリスマスとは死者の祭でした。
冬至の時期、太陽はもっとも力を弱め、人の世界から遠くに去る。世界はすべてのバランスを失っていきます。そのとき、生者と死者の力関係のバランスの崩壊を利用して、生者の世界には、おびただしい死者の霊が出現します。生者はそこで、訪れた死者の霊を、心を込めてもてなし、贈り物を与えて、彼らが喜んで立ち去るようにしてあげます。その死者の霊の代理を生者の世界でつとめたのが、霊界に近い存在である子どもでした。子どもに贈り物を渡す仲間として、同じく霊界に近い存在、すなわち老人の存在が必要となりました。

 

昔のクリスマスでは、大人は子どもにお供物やお菓子を贈り、そのお返しに、子どもは大人たちの社会に対して来年の豊穣を約束しました。現在、大人はサンタクロースというファンタジーを通して、子どもにオモチャやお菓子のプレゼントをします。そしてそのお返しに、子どもは大人に幸福な感情を贈ります。クリスマスにおいて、生者と死者の霊の間には、贈り物を通して霊的なコミュニケーションが発生しているのです。このように日本のお盆にも似て、クリスマスとは死者をもてなす祭だったのです。

 

決定版 年中行事入門

決定版 年中行事入門

 

 

 2018年12月3日 一条真也

「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」

一条真也です。
今年も、ついに師走になりました。12月1日は朝からサンレー本社で総合朝礼、本部会議などが行われました。夜は、大ヒット中の映画「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」の3D吹き替え版を観ました。本当は「ヘレディタリー/継承」が観たかったのですが、北九州では上映されていませんでした。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「『ハリー・ポッター』シリーズの原作者J・K・ローリングが脚本を手掛け、エディ・レッドメイン演じる魔法動物学者を主人公にしたファンタジーシリーズの第2弾。パリの魔法界にやって来たニュート・スキャマンダーたちの戦いが展開する。敵役のジョニー・デップ、若き日のダンブルドア役のジュード・ロウらが共演。監督は、前作に引き続きデヴィッド・イェーツが務める。新たに登場する魔法動物も活躍」

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ヤフー映画「あらすじ」には、こう書かれています。
「ニュート・スキャマンダーエディ(エディ・レッドメイン)は、学者として魔法動物を守るため、不思議な空間が広がるトランクを手に世界中を旅している。ある日、捕まっていた“黒い魔法使い”グリンデルバルド(ジョニー・デップ)が逃亡する。ニュートは、人間界を転覆させようと画策するグリンデルバルドを追い、魔法動物たちと一緒にパリの魔法界へ向かう」



この映画は、J・ K・ローリングによる『ハリー・ポッター』シリーズのスピンオフ作品である『幻の動物とその生息地』を原作とした映画3部作の2作目です。1作目は、ブログ「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」で紹介した作品ですが、じつに2年の時間を経て2作目が作られました。ちょっと時間が空いたのと、わたしの記憶力が悪いせいで、登場人物たちの関係などがよく理解できず、ストーリーを追えなくなってしまいました。そのせいで、途中で眠たくなってしまいました。パリの見世物小屋の雰囲気などは素晴らしかったですが・・・・・・。

 

今回の「ファンタビ」で圧倒的な存在感を示しているのは、なんといっても“黒い魔法使い”を演じるジョニー・デップです。じつは、わたしは彼と同年齢ということもあって、密かに彼を応援しています。ちなみに、キアヌ・リーブスも同い年で、トム・クルーズは1つ上、ブラッド・ピッドは1つ下です。「それが、どうした!」と言われれば、「すみません、何でもありません」と謝るしかありませんが。(苦笑)
主人公ニュートの恩師ダンブルドアの若き日を演じたジュード・ロウも良かったです。デップとロウの2人を見ているだけで「元は取れた」感がありました。

 

さて、「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」の「黒い魔法使い」とは、いわゆる「黒魔術師」のことです。拙著『法則の法則』(三五館)で、わたしは「黒魔術」について書きました。
魔術とは何か。それは、人間の意識つまり心のエネルギーを活用して、現実の世界に変化を及ぼすことです。そして、魔術には二種類あります。心のエネルギーを邪悪な方向に向ける「黒魔術」と、善良な方向に向ける「白魔術」です。そして、「黒魔術」で使われる心のエネルギーは「呪い」と呼ばれ、「白魔術」で使われる心のエネルギーは「祈り」と呼ばれます。 

法則の法則』(三五館)

 

かつて流行した「引き寄せの法則」で使われる心のエネルギーは「呪い」に近いものであると思います。錬金術の先にある魔術とは、「黒魔術」だからです。なぜなら、それは自らの現状を否定し、宇宙に呪いをかける行為にほかならないからです。
「20世紀最大の黒魔術師」と呼ばれたアレイスター・クロウリーという非常に有名なオカルティストがいます。彼は、人間の心のエネルギーを利用して、セックスをはじめとしたあらゆる欲望を叶える魔術を開発しました。その主著の題名は『法の書』といいます。黒魔術師クロウリーも、「法則ハンター」だったのです。しかし、彼の使った心のエネルギーは「呪い」であるとして、後世の多くの人々から厳しい批判を受けました。

 

ある意味では、クロウリー以上に巨大な黒魔術師であったとされているのが、かのアドルフ・ヒトラーです。クロウリーをはじめ、神秘作家のW・B・イエイツ、アーサー・マッケン、アルジャナン・ブラックウッドなどのメンバーが集まっていた魔術結社「ゴールデン・ドーン(黄金の夜明け教団)」の隆盛によって、十九世紀末のヨーロッパでは魔術の復興が爆発的に流行しました。これを政治の世界で利用しようとしたのがヒトラーでした。

 

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」には、ジョニー・デップ扮する“黒い魔法使い”グリンデルバルドが多くの聴衆を前に演説するシーンが登場します。過激な主張によって人々がたやすく分断されていくさまからは、現在のアメリカ大統領であるドナルド・トランプを連想する人もいるかもしれません。原作者のJ・K・ローリングは、人が自由であること、多様であること、社会が寛容であることの重要性を訴えてきた人物であり、トランプ政権に批判的なのは間違いありません。

 

しかし、この映画の時代背景が1920年代という、第一次世界大戦第二次世界大戦の間の時期であることを考えれば、グリンデルバルドのモデルがアドルフ・ヒトラーであることが火を見るより明らかであると言えます。心理学者ユングは、「ヒトラーは真に神秘的な呪術師の範ちゅうに属する人間である。彼は予言者の目をしている。彼の力は政治的なものではない。それは魔術である」と述べました。ナチスとオカルティズムとの密接な関係については現在ではよく知られています。実際、ヒトラーの人生にはつねに魔術の影がつきまとっていました。

 

1889年、オーストリアの田舎町ブラウナウで下級税官吏の四番目の子どもとして産声をあげたヒトラーは、中学を中退して、ウィーンに出ます。そこで芸術に目ざめた彼は画家を志しますが、美術アカデミーの入試に失敗します。街頭の絵描きやペンキ画工として浮浪者に近い貧困生活を送りましたが、とめどのない知識欲を持つ彼の心は輝いていました。ウィーンは魔術的な教養と能力を身につけるためには最高の舞台だったからです。

 

ヒトラーは時間の許す限り、毎日図書館に通い、閉館まで読書をしたそうです。彼は、古代ローマ、東方の宗教、ヨーガ、オカルティズム、占星術、催眠術などに関する書物をむさぼり読みました。とくに熱中したのは、エジプトの『死者の書』、インドの古典である『リグ・ヴェーダ』と『ウパニシャッド』、ゾロアスター教聖典『ゼンド・アヴェスタ』、そして『聖書』などであったといいます。彼は、人類史の大いなる「隠された秘密」、ひいては宇宙の「法則」を読み取ろうとしていたのでしょう。

 

わが闘争(上下・続 3冊合本版) (角川文庫)

わが闘争(上下・続 3冊合本版) (角川文庫)

 

 

 ヒトラーの著書『わが闘争』(上下巻・平野一郎&将積茂訳、角川文庫)を読めば、人間の平等を否定し、弱肉強食を肯定することこそが宇宙の「法則」にしたがうものだと、ヒトラーが考えたことがよくわかります。その結果が、人類史に最大級の汚点を残すユダヤ人の大虐殺でした。アウシュビッツなどの強制収容所へ送られて虐殺されたユダヤ人犠牲者の総数は約600万人にのぼるといいます。ヒトラーは、ユダヤ人のみならず、人類そのものに対して「呪い」をかけたのです。

 

このヒトラー民族主義的世界観の基本には、優者が劣者を駆逐するという「優生思想」があります。その源流をたどれば、明らかにダーウィンの進化論における「適者生存の法則」や、メンデルの遺伝学における「優性の法則」にまで行き着くことは否定できません。もっとも、そこにヒトラーが独自の解釈を加えたのも事実ですが・・・・・・。

 

いずれにしても、「法則」というものが「確信」につながり、それが「信念」を生む。その「信念」は善悪に関わらず「実行」に移される。まさに「法則」とは、取り扱い厳重注意の危険物だということがわかりますね。そして、単なる一介の魔術師にすぎなかったクロウリーなどよりも、ヒトラーがはるかに巨大な力を持つ黒魔術師であったかを思わずにはいられません。

 

ヒトラーは、さまざまな自らの欲望を「引き寄せ」ました。権力の頂点に立つという権力欲しかり、他国の領土を侵略して奪うという所有欲しかり。何よりも、異常なまでに強く憎んだユダヤ民族を根絶やしにしたいという破壊欲に、彼の「呪い」は最大限に発動しました。ヒトラーはまさに、「一人でも多くのユダヤ人をこの世から消し去りたい」という願望を引き寄せたのです。人類史上、これほど巨大な「呪い」が実現したことがあったでしょうか。

 

21世紀におけるファンタジー界の大事件といえば、なんといっても『ハリー・ポッター』シリーズの登場です。この全世界で3億冊以上も読まれたという新時代のファンタジーはすでに古典の風格さえあり、宗教学者島田裕巳氏のように「現代の聖書」と呼ぶ人さえいます。この作品が歴史的ベストセラーになった原因について、わたしも色々と考えましたが、最大の要因として「ホグワーツ魔法魔術学校」の存在があると思います。「ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生」には、そのホグワーツがふんだんに登場して、ハリポタ・ファンを狂喜させました。


ホグワーツへのプラットフォーム

 

ブログ「ファンタジーの旅」に書いたように、わたしはかつてロンドンを訪れ、ハリー・ポッターゆかりの場所を回りました。キングス・クロス駅のホームにあるというホグワーツ魔法魔術学校へのプラットフォーム、ホグワーツのモデルとなったクライスト・チャーチにも行きました。ここは、かの『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルことチャールズ・ドジソンが数学の教授として勤務していたことでも有名です。改めて、イギリスがファンタジー王国であることを痛感します。


ホグワーツ」のモデルになったクライスト・チャーチで

 

ハリー・ポッター』シリーズが歴史的ベストセラーになった最大の要因として「ホグワーツ魔法魔術学校」の存在があると思います。魔女や魔法使いになるために教育を受けなければならないという設定は説得力があります。このシリーズが現れるまで、ファンタジー文学に登場する人物はふつうの人間と魔女・魔法使いとに二分されていました。


 

 

作者のローリングは、ふつうの人間でもいくばくかの才能があり、良い教育を受けることができれば、魔女や魔法使いになれるという設定を考案しました。まるで、スポーツ選手や芸術家になるのと同じように。これこそ、ファンタジー文学にとって大きな躍進でした。しっかりした教育を受けていない、あるいは訓練を怠った魔女・魔法使いは、ただの人間にすぎません。

 

星の王子さま (新潮文庫)

星の王子さま (新潮文庫)

 

 

じつは、わたしは常々、接客サービス業に携わる人間とは「魔法使い」をめざすべきだと言っています。サン=テグジュペリの『星の王子さま』には、「本当に大切なものは、目には見えない」という言葉が出てきます。本当に大切なものとは、思いやり・感謝・感動・癒し、といった「こころ」の働きだと思います。そして、接客サービス業とは、挨拶・お辞儀・笑顔・愛語などの魔法によって、それを目に見える形にできる仕事ではないかと思うのです。

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星の王子さま」から「ハリー・ポッター」へ

 

もちろん、それらのホスピタリティ・スキルを身につけるのには教育と自らの訓練が必要になります。『星の王子さま』で示された「本当に大切なもの」が、『ハリー・ポッター』の方法論で目に見える形になったわけです。21世紀において、魔法について書かれた本が世界中で読まれたこと自体が、最大の魔法ではないかと思います。そんな『ハリー・ポッター』の世界観をそのまま受けついだ『ファンタスティック・ビースト』シリーズも世界中の人々に愛されています。

 

2018年12月2日 一条真也

『やめるときも、すこやかなるときも』

一条真也です。
ついに師走となりました。今年も残すところ、あと1ヵ月なんて信じられませんね。
さて、125万部の発行部数を誇る「サンデー新聞」の最新号が出ました。連載中の「ハートフル・ブックス」の第128回が掲載されています。今回は、『やめるときも、すこやかなるときも』窪美澄著(集英社)を取り上げました。

f:id:shins2m:20181129183934j:plainサンデー新聞」2018年12月1日号

 

本書は、わたしにとってのメインテーマである「供養」「グリーフケア」「婚活」がすべて込められた奇跡のような小説でした。著者は1965年東京生まれ。フリーの編集ライターを経て、2009年に「ミクマリ」で女による女のためのR18文学賞大賞を受賞。受賞作を所収したデビュー作『ふがいない僕は空を見た』で山本周五郎賞を受賞。2012年には『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞を受賞。近著に『さよなら、ニルヴァーナ』『アカガミ』『すみなれたからだで』など。

 

本書の帯には「切なく不器用な恋の物語」として、「大切な人の死を忘れられない男と、恋の仕方を知らない女。他者と共に生きることの温かみに触れる長編小説」とあります。家具職人の壱晴は毎年12月の数日間、声が出なくなります。過去のトラウマによるものですが、原因は隠して生きてきました。
一方、印刷会社勤務の桜子は困窮する実家を経済的に支えていて、恋と縁遠い独身女性です。欠けた心を抱えながら不器用に生きる男女が出会う恋愛小説です。

 

トラウマを背負った男性と恋愛に奥手な女性の恋というストーリーですが、正直言って、恋愛小説としての新鮮さは感じませんでした。しかし、視点が一方からだけでなく、男女の思いが交互に時系列で描かれるので、単純な恋愛小説には終わっていません。文章の中に散りばめられた言葉から「人が人を愛すること」「愛する人を亡くすこと」「そこからまた前を向いて生きて行くこと」の本質が説かれています。

 

亡き恋人である真織のことを忘れられない壱晴は「その人が目の前にはいないのにその人のことを思い出して記憶を反芻する行為は、もうすでにその人が自分のどこかに住み着いてしまったことと同じなんじゃないだろうか」などと思います。しかし、新たに出会った桜子も彼の心に住み着くようになります。そんな壱晴は、真織を失った「あの場所」へ桜子とともに戻り、墓参りをし、真織の生家まで訪れるのですが、それは彼が背負った重い荷物の半分を桜子に背負わせることでした。

 

そんな壱晴に対して強い反発を抱きながらも、桜子の心は次のように動くのでした。「そのとき供養という言葉がふいに浮かんだ。そうか、墓参りをして、真織さんが過ごした家を見て、そして触れて、壱晴さんは今供養をしているんだと思ったら、この旅の意味が自分のなかにすとんと落ちた気がした」
この一文を読んだとき、わたしは「供養」と「グリーフケア」と「結婚」の意味を改めて知ったような気がしました。これから結婚をしたいと考えているすべての独身女性に本書を推薦いたします。

 

やめるときも、すこやかなるときも

やめるときも、すこやかなるときも

 

 

2018年12月1日 一条真也